哀しみと後悔の理由
戻って来た懐かしい旋律が優しく響く空間に、詩織と祥也は言葉なく立ち尽くしていた。
呆然と互いを見つめ続ける二人を、奏が少しだけ切なそうな眼差しで見守っている。
オルゴールが紡ぐ音と共に脳裏に描かれた思い出の中で、詩織は芽依子であり、祥也は彰俊だった。
生まれ変わりなんて、それこそ物語の世界の中だけだと思っていた。祥也は非科学的だと溜息を吐くし、詩織も頷いて笑うであろう話だ。
けれど、芽依子の記憶と抱いていた想いはあまりに確かに詩織の中にあり、彰俊の記憶と想いが祥也の中にある。
この場所が一人の少女の為の住まいであった時の光景が、鮮やかに二人の脳裏に浮かんでいる。
美しいものに囲まれた温かな場所で、異国の旋律と共に重ね続けた時間は本当にあったのだと。
詩織が詩織として。祥也が祥也として生を受ける前、二人は確かにこの場所に生きていたのだと、もう心が認めている。
もう、疑えない。
信じられる。いや、信じる以外に出来ない。自分達が明治の時代に共にあり、そして離れ離れになった二人の生まれ変わりなのだと。
暫くの間、詩織は何も言えないでいた。
祥也も詩織を見つめたまま。何かを言おうとしては、音にならない吐息を零すばかりで。
やがて唇を引き結んでしまって。それでも詩織を必死に見つめる、何処か不器用な感じがある表情が記憶の中のものと重なる。
詩織は、目の前にいるのが確かに彼なのだと改めて思った瞬間、呟いていた。
「だから、私は、何処にも行きたくなかったんだ……」
深く複雑な想いが籠った言葉を耳にして、祥也が目を見開いて。その表情に、微かな驚きが滲む。
詩織の頬を、透明な雫が一つ伝って、床に落ちていく。
涙は次々に滲んでは溢れ。筋を描き、流れる。
それを拭うこともせず、詩織はまるで自分に言い聞かせるように一言、一言、静かに紡ぎ続けた。
「ここで、待ち続けたい、って思っていたから……。ここで、私が……」
何時か必ず帰ると約束した彼を、待っていると約束したから。
この場所で、彰俊を待ち続けられたなら、と芽依子は願った。
今は命が潰えるのだとしても。形が変わってしまったとしても。何時の日かこの場所で、叶うかぎり変わらぬ自分のまま、再び彰俊と巡り合えたならと強く祈るように願った。
そして、それ故にいつしか『変わらない自分』のままこの場所にいることを自分に課すようになっていた。
自分でも理由がわからない程に、強く自分を戒める何かがあった。
でも、それも今なら何故だったのかが分かる。
他の人間からの想いを受け入れるということは、彰俊への想いを捨てるに等しくて。
彰俊への想いを捨てたなら、それはもう自分ではないから。変わらぬ自分でありたいという想い故に、誰からの想いも受け入れられなかった。
他の何処にも行きたくないと思ったのも、理由の源は同じ。
オルゴールのない他の場所へ行ってしまったなら、約束を果たせないかもしれないから。
帰ってくると約束した人とすれ違ってしまうかもしれない。待っているという約束を果たせない。だから、ここを離れて何処へ行きたくないと願ってしまった。
強い願いは魂に刻まれ、転生しても彼女の中に在り続けた。
全く同じであることは叶わなくても、少しでも可能な限り、あの日彰俊を見送った芽依子のまま。
いつも共にあった自分のまま、いつか帰ると約束した人を出迎えたかったから。頑なに、詩織は『変わらぬまま、ここで居たい』と思い続けていた。
変わってはいけない。何処へいってもいけない。
けれど、それでは新しい生を生きる自分として先へ進めないということに、心の奥底では気付いていながら……。
「夢を叶えて帰ってきた兄様に、笑顔でお帰りなさい、って言うはずだったのに」
彰俊は、学びを終えたら函館の地に戻ってくるはずだった。
故郷に錦を飾る彼を笑顔で出迎えたかった。成長して戻って来た彼の晴れの日を、祝福したかった。
それなのに、芽依子は祝いを口にするどころか、出迎えることすら出来なかったのだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい、兄様……」
「もういい。……もう、いいんだ、芽依子……」
小さい子供のように泣きじゃくりながら、詩織は芽依子になっていた。
本当のことを伝えられなくて、手を離してしまった。彰俊が夢を追い続ける道に、翳りを作ってしまった。
帰ってきた彼が、出迎えるはずの芽依子がいないことを知ってどんな顔をしたのか。
自分の死を聞いた彰俊が何を思ったのか、芽依子には確かめる術がない。
前の世の終わりに胸をしめつけた後悔が、堰を切ったように溢れ始める。
出迎えたいという願いは、今ここに実現したはずなのに、哀しくて仕方がない。
帰って来た彰俊に、伝えたい言葉があった。
確かに芽依子は、彰俊に謝りたかった。けれど、本当に伝えたい言葉は、そうではなくて。願ったことは、そうではなくて。
でも、次から次に溢れる涙に続く言葉が紡げない。もっと伝えるべきことがあるのに、言葉にならない。
膨れ上がっていく罪の意識に、息が出来ないと思う程に苦しい。
自分でも、胸が様々な想いと記憶で綯交ぜになってしまっていて。それでも必死に、嗚咽交じりに続きを口にしようとした時。
「謝るべきはお前じゃない。謝るべきなのは、俺だ……」
弾かれたように顔をあげ見つめた先、祥也は酷く哀しそうな表情で詩織を見つめていた。
いや、今の彼は祥也であるが、祥也ではない。
彼の顔に浮かぶ深い罪悪感と後悔は、間違いなく過去の彼に由来するものだ。
今、彼は祥也であり彰俊なのだ。詩織が、詩織でありながら芽依子であるように。
時を越えて再会した愛しい男性は、何かを躊躇っている様子で唇を結び俯いてしまっている。
何故、と詩織は思う。
本当のことを言えなかったのも。約束を守れなかったのも自分だ。彼に、何を謝ることがあるのだろうか。
問いを抱いて涙に濡れた眼差しを向けると、祥也は僅かに視線を揺らした。
何かを告げることを酷く躊躇っている様子だ。そして、それにより深い罪の意識を感じている。
激しい痛みに耐えているような辛そうな表情の祥也に、詩織が問いかけようとした時だった。
「何故、そこで止めるんです? この期に及んで、また後悔を重ねるつもりですか?」
静かな声音で祥也に対して言葉を向けたのは、それまで黙して見守っていた奏だった。
異国から少女の為に求められた楽器が過去に繋がる音色を紡ぎ続ける中、口を開いた彼は真っ直ぐに祥也を見つめた。
詩織は、奏を見て気付いた。
奏は、不思議な程に彰俊に似た面差しを宿しているのだ。
彼がこの店を訪れてから、いつも何処か不安そうな影は消えず。寄る辺ないような頼りなさは、見え隠れしていた。
だが、今は違う。
在るべき形を取り戻したとでもいうように、感じる印象は確かだ。
そうだ、言っていたではないか。自分が『何』であったのか思い出した、と……。
奏の言葉に打たれたように祥也の肩が跳ねた。
祥也が奏を見る眼差しが一度大きく見開かれたと思えば、次いで何か納得したという風に深い息を吐き出す。
そうだったのか、と小さく呟いたのが聞こえた気がして、詩織は問うように奏を見る。
詩織へと僅かに哀しみを滲ませながら微笑んだ奏は、もう一度祥也に向き直る。
そして、清冽なまでに迷いのない眼差しを向けたまま、真実を口にした。
「僕は『貴方』です」
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