自鳴琴は眠る
時は、異国にて青年が悲しい報せを受け取る、少し前のこと。
深山家の一人娘が重い病の床についた、という報せは街を巡った。
元々身体が弱いことで知られていた少女ではあったがついに、と人々は顔を曇らせる。
彼女を妹のように可愛がっていた従兄の青年の晴れがましい門出から、一年程たったある日。芽依子はついに倒れ、病の床についた。
父は、医者に薬にとあらゆる手を尽くして、娘の病を治そうとした。だが、周囲の献身も虚しく、芽依子の病は坂道を転げ落ちるように悪化していく。
自鳴琴が変わらぬ音色を奏でる中で、芽依子は緩やかに死に向かいつつあった。
もはや芽依子が長くないことを受け入れざるを得なかった父達は、それなら叶う限り安楽に残りの日々を過ごせるようにと。
せめてもの心の慰めに、彼女が愛した楽器の側に。彼女が好んでいた窓越しの海を臨める場所に、特別に床を設える。
言葉を紡ぐことすら辛くなりつつあった芽依子は、日がな一日窓から海を眺めながら過ごしていた。
芽依子が従兄を慕っていたことを知る乳母たちは、せめて彰俊様が御戻りになってくださればと嘆く。
だが、彼は今遠い異国の地にある。例え報せを送ったとしても、彰俊が戻る前に芽依子の命は尽きるだろう。
だから、芽依子は彰俊に報せを送ろうとする父へ首を横に振った。
もう、彼が旅立つ前から覚悟していたことだった。
病の兆しは、一年前から見えていた。彰俊が旅立つ前に、既に知らされていたのだ。
それが、恐らくもう治らないだろうということも。もって、あと一年程だということも。
命の刻限は、少しばかり早足で来てしまった。そう遠くないうちに、芽依子は母の元に旅立つことになる。
一人になりたいと乳母達を下がらせて。少しばかりぼんやりとした眼差しで、芽依子は黙したまま遠くに見える海の蒼を見る。
芽依子は、海を見るのが好きだった。
でも、本当に好きだったのは、海の向こうを見つめる時の瞳だ。
遥かな異国への憧れと見果てぬ夢を負い続ける、輝く眼差しがとても好きだった。
けれど、少しだけ寂しかった。
多分、自分はその夢の先へ共にいけないのを、心のどこかで知っていたから……。
――夢を追い続けるあのひとの、重荷になりたくない。
重い病に蝕まれていることを、留学が決まったことを喜んでいた彼にはついに言えなかった。
いずれ来る死への不安よりも、彰俊の夢を邪魔したくないと言う思いが。彼の重荷になりたくないという思いが勝った。
だって、あの人は夢を追う為に本当に懸命に走り続けていた。
芽依子が重い闇だと知ったら、彰俊は留学を諦めてしまっただろう。それだけは、させたくなかった。
漸く夢に手が届いたという矢先に、それを台無しになんてしたくなかったのだ。
――どうか。あなたには夢を追って欲しい。私は、大丈夫だから。
これで良かったのだと自分に言い聞かせる。
間違っていなかったと、思う。それなのに、身を切られるように寂しくて、哀しくてたまらない。
――でも、わたし、本当は……!
『本当は、……って言いたかった……。私と、ずっと……って……』
芽依子は、掠れた声で誰に聞かせるでもなく呟いた。
物心ついた頃から、芽依子と彰俊はいつも一緒に居た。
兄のように慕っていた人と、この家で共に時を重ねて。年頃になり、その想いはやがて恋慕となって。
何時の日かを願うことが叶えば、とどれだけ思っただろう。彼の見る眼差しの先へ、共に夢を追うことが出来たなら、と。
けれどもう、芽依子と彰俊の手は離れてしまった。どれだけ願っても、もう彼の手に触れることは出来ない。芽依子には、もうその時間は残されていない。
今更何をと自分の弱さを苦く思うけれど、辛くて、辛くてたまらない。
彰俊に会いたい。
一目で良いから、顔を見たい。
彼の夢の邪魔をしたくなかったという思いは、誓って本当のことだ。彼が夢を叶えられると思えば、耐えられると思えた。けれど。
芽依子は激しく咳込んだ。
もう本当に時間がない。だから、伝えられなかったばかりか、守ることもできないのだ。
『待っている、っていったのに……。必ず帰ってくると言った兄様を、私は、ここで待っているって……』
――大丈夫。私は、いつまでもここで……
必ず芽依子の元に帰ってきてくれると言ってくれた彰俊を、ここで待つと。
いつか必ず戻るあの人を、ここで出迎えると約束したのに。もう、それは果たせない。
彰俊は、何というだろうか。
哀しい顔などさせたくないのに。夢を叶えて戻ってきた彰俊を、他の誰でもない芽依子が笑顔で出迎えたいのに。
伝えることができなかった後悔は、約束を果たせずに逝くことへの哀しみに転じて、芽依子の心を締め付ける。
芽依子の命の砂時計は、止まることなく落ち続けている。
いつか帰るあの人を待ち続けるという約束を、守りたかった。もう一度、彰俊に会いたかった。彼の声を聞きたかった。
彼を送り出したいと願った心に偽りはなかったけれど、叶うならばせめてもう一度。
灼けるような想いが芽依子の心の内を埋めつくした、その時だった。
『それなら、君がこの場所で彼を待つことが出来るように力を貸そう』
聞こえたのは、馴染みのない男性の声だった。
父ではない。仕えている下男の誰でもない。芽依子の周囲にいる誰でもない声。
見知らぬ誰かがそこにいるのだと気付いて身体を強ばらせた芽依子は、恐る恐る視線をそちらに向けた。
静けさの中に響き渡る自鳴琴の音色。音を紡ぎ続ける異国の楽器の前に、一人の男が立っている。
見目はかなり整っていると思う。恐らく、女達が放ってはおかないだろう伊達男だ。
だが、普段周囲にあるどころか、深山家に連なる者にも見た事がない顔である。芽依子の顔に、目に見えて警戒の色が見える。
『あなた、は……』
『無断で立ち入った非礼は詫びよう。だが、どうにも時間がないと思ったのでね』
芽依子は、震えかけた声で誰何する。
苦笑いをしつつ謝罪を口にする男の手には、複雑な装飾が目を引く古びた杖があった。
軽やかに杖を操る様子を無言見ていた芽依子に、男は優雅に一礼をして見せる。
『私は、魔術師、とでも呼んでくれれば良い。名前はいくつかあるので、それが一番わかりやすい』
魔術師とは、確か魔法使いのことだ、と思い出す。そう、この世ならざる不思議の術に通じた者達のことだ。彰俊が語ってくれた異国の物語に出て来た気がする。
なるほど、確かにおとぎ話の魔法使いは、杖を持っていた。
それを思えば、杖を手にする男が魔術師と名乗ったのは妙にしっくり来る気がする。
だが、男が本当にその魔術師であるとして。何の為に死にゆく芽依子の前に現れたのだろうか。
魔術師を見ているうちに、不思議と警戒する気持ちが消えていく。それもまた、不思議の力によるものなのだろうか。
人を呼ぼうとしていたことも忘れて、芽依子は魔術師の目的を知りたいと思った。
『君の願いを、叶えてあげたいと思ったのだよ。このままでは、あまりに哀しい結末に過ぎるからね』
緩やかに軽やかに、装飾施された杖を手で遊ばせながら、魔術師は謳うように言葉を紡いだ。
芽依子は思わず目を見張った。
だって、この願いは誰にも聞かせていない。今この時になって、ようやく口に出した。それを何故に知り得たのかと思ってしまう。
そんな芽依子の心にある問いを感じ取ったらしい魔術師は、優しい苦笑いを浮かべながら首を緩く傾けた。
『この地を訪れてすぐ、君の切ない祈りにも似た強い想いが聞こえてね。それで、こうして君の前に姿を現した』
知己を尋ねてきたという男性が、嘘を口にしている様子は感じられない。そもそも、不可思議と共に姿を現したのだ。声ならぬ声を聞いたとしても、おかしいとは思わない。
静かに自分を見つめる眼差しを正面から受け止め、魔術師は朗々とした声で続ける。
『今の君が死を迎えるのは、私を以てしても変えられない』
如何にこの世ならざる神秘に通じた存在であろうとも、芽依子に訪れる絶対的な事実は覆せない。
それを知って、芽依子の心に翳りが生じる。
避けられない運命であると覚悟してはいたが、改めてそれを突きつけられ俯いてしまう。どのような力を以てしても、自分はもう、と諦めが再び胸を満たし始める。
しかし、魔術師は確りとした声音で続きを紡いだ。
『けれど、再び生を受けた君が、また彼と巡り合えるように。……このオルゴールの元で、彼を待ち続けられるようにすることは出来る』
諦めの言葉を紡ごうとした気がするが、一瞬にしてそれは霧のように散って消え失せた。
再び生を受ける……輪廻を経た先のことだろうか。
例え生まれ変わることが叶ったとしても、今生の記憶も想いも全て消え去ってしまうと聞いている。
そんなことが叶うはずがない、無理だ。芽依子はそう告げようとしたけれど、出来なかった。
魔術師の声音には不思議な確かさがある。芽依子の心は、不思議な騒めきに揺れている。
今、芽依子の命が潰えたとしても。今のままの芽依子ではなく、今とは違う形だったとしても。
それでも、何時の日かを、信じられるなら。長い時が過ぎたとしても尚、その先があることを願えるなら。
いつかこの場所で、再び彰俊と巡り会うことが叶うならば。出来る限り、変わらぬまま。彼をこの場所で待つことが叶うのであれば。
それは危うい誘惑だった。平静であれば、けして頷かないものだったかもしれない。
だが、今の芽依子にとって、あまりにも抗いがたい望みを提示する言葉だった。
心が揺れ動きすぎて言葉が紡げずに居る芽依子へ、魔術師は杖で静かに澄んだ音色を紡ぎ続ける自鳴琴を示して告げる。
『必ず帰ると約束した彼を、いつか君が迎えられるように。このオルゴールに、君達の約束と、伝えられなかった言の葉を眠らせよう』
芽依子と彰俊の優しく温かな時間。夢を語る彰俊の眼差しと共に在り続けた異国の音色。
重ねてきた想いと温かな時間の象徴とも言える楽器を緩やかに集った光が取り巻き、くるりくるりと巡り、やがて吸い込まれるようにして消えていく。
視界が少しずつおぼろげなものに転じていく。身体が酷く重くて、手足が冷たくなっていくのを感じる。
来るべき時がきたのだと思った。でも、芽依子は不思議に恐ろしいと思わない。
確かに、そこに芽依子の想いが在る。
死を迎えた恐怖から逃れようとしている心故かもしれない。
けれど、心の中には確かに何時の日かを信じる心が有る。そして、緩やかに眠りに就いた異国の楽器の中には、確かに約束が有る。
いつか再びここに二人が戻るその日を、待ち続けながら眠る約束がそこにあるのを感じることが出来たから。芽依子は、涙が滲む瞳を、静かにゆっくりと閉じた。
薄れていく意識の向こう側で、魔術師が優しく呟いたのが聞こえた気がした。
――願わくは、私に君達の『物語』の幸せな結末を見せて欲しい。
やってきた夜明けと共に。深山芽依子は、短い生涯を終えた。
あまりにも早すぎる死を人々が悼む中で、彼女が愛した自鳴琴は、その日以来まるで眠りにつくように音を失った……。
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