旅立つ者と送る者
自鳴琴の音色と共に、芽依子と彰俊は年を重ねた。
芽依子は、嫁いでも良い年頃になっていた。
同じ年ごろの少女達の中には、既に嫁いでいる者もいる。けれど、芽依子には未だ縁談が定まっていない。
大きな商家の一人娘である芽依子の婿にと名乗り出る男性は多いが、父は中々首を縦に降らない。
純粋に父の厳しいお眼鏡に適う相手がいないというのもあるが、大概の相手には下心が透けて見えるのだという。
身体の弱い妻など左程経たないうちにあの世へ行く。そうしたら、あとは主として好きに振舞えばいい。そんな風に影で囁く声が少なからずあることを知っているからだ。
いくら良いお家のお嬢様でも縁組が決まらないのでは、と人々は噂しているらしい。
だが、芽依子はそんなこと少しも気にならなかった。
父にとって不本意であり、自分にとっても意に染まらない結婚をするぐらいなら、このままで居たほうが余程ましだと思う。
少しの不安は滲み始めていたけれど、芽依子にとって今の暮らしに何の不満もない。むしろ、出来るならばこのままでいたいとすら思う。
どうやら、父としては、彰俊を婿に迎えたいと思っているらしい。
信頼できる弟の子であり、幼い頃より何かと目をかけてきた甥。人柄も申し分ないことは十二分に良く知っているし、これからが期待できる伸びしろがある。
芽依子としても、心の中ではそうなってくれれば、と何時しか仄かに明かりのような想いが灯るようになっていた。
優しくて真面目で向学心の強い彰俊は、一人娘の芽依子にとって確かに実の兄のように慕わしい存在だった。
けれど、何時の頃からだったか。芽依子は、自分が彰俊を一人の男性として想っていることに気付く。
当然、そんなことを女から口に出来るはずがない。はしたない、と顔を曇らせてしまう。
心に素直になるには、女性としての教えが身に沁みすぎていて。芽依子は、彰俊が自分をどう思っているのかを問うことが出来ずにいた。
それだけではない。
もし本当に彰俊が芽依子の婿になるとしたら。それが、彼から夢を奪うことになってしまうことだと気付いていたから。芽依子は、何も言えずに居た。
二人で、変わらぬ日々を重ねていければと芽依子が願っていたある日、その報せは齎された。
『留学……?』
芽依子は、震えかけた声を必死に抑えたが。声はやや呆然としてしまっていた。
けれど、興奮に心が沸き立つ様子の彰俊は芽依子の変化に気づけぬまま、大きく頷いて応えるように語り始めた。
『叔父上の取引相手の方が、あちらでの身元を引き受けて下さると仰ったんだ。俺のことを認めてくれて、是非とも我が国で学んでほしいって』
頬を紅潮させて語る彰俊は、本当に嬉しそうに微笑んでいる。
無理もないと思う。だって、それは彰俊がずっと追い続けた唯一つの夢だったのだから。
幼い頃から父親の仕事故に異国の人間と接することの多かった彰俊は、自然と異国への憧れを募らせながら育った。
何時か海の外へと飛び出してみたい。遥かな異国に足を踏み入れて、彼の地で学んでみたい。そう熱のこもった声音で語りながら、いつも海を見つめていた。
その為に彰俊がどれだけ研鑽を重ねてきたのか。傍にいた芽依子は痛い程に知っている。
彰俊の悲願が叶おうとしているのだから、芽依子とて嬉しくないはずがない。
なのに、気を抜いたなら顔が強張ってしまいそうなのを必死で堪えている。
芽依子は少し前に、ある事実を告げられたばかりだった。その衝撃に心の整理がつかぬうちに聞かされたのが、彰俊の留学が決まったという報せだった。
表情を曇らせてはいけないと必死に自分を叱咤する。だって、彰俊はこんなにも喜んでいるのに。
あんなに努力してきたのが漸く報われる日が来たことは、芽依子だって嬉しい。目を輝かせていの一番に知らせてくれたことも、嬉しい。
それなのに今、芽依子は必死に微笑みを作らなければならないのだ。
『あちらでは、どれくらい学ぶのですか……?』
『二年……あるいは、許可が出たなら三年か』
少し考え込むように目を細めた後、何かを思い出すようにして小さく唸りつつ目を閉じながら言われた言葉に、芽依子は目を見張った。
『三年、も……』
『どうした? 芽依子』
呆然とした様子の芽依子に気付いた彰俊は、小さく首を傾げた。
顔色が悪い、と心配する彰俊の言葉に、すぐに応えることも出来ずに芽依子は俯いてしまう。
笑顔を見せていなければならないのに。こんな状態では、せっかく夢を追えることになった彰俊の門出に水を差してしまうのに。
芽依子は必死に顔をあげて微笑もうとした。
けれど、それを芽依子の内に巣食う何かが止める。
容赦なく時を進み続ける自分を喰らうものの存在を感じて、芽依子は言葉を紡げない。
胸にある全てを。今、芽依子が抱えている想いも真実も全て打ち明けて、伝えたい言葉がある。
ただただ、縋りつきたいという思いに駆られる。
けれど、それを止めたのは脳裏に過った海を見つめる彰俊の眼差しの輝きだった。
そう、彰俊が海を見つめる瞳には、いつも遠い異国への憧れがあった。
芽依子は、彰俊の語る異国の話を聞くのが好きだった。彼の横顔に、果てしない夢をみるのがとても嬉しかった。
彰俊は僅かに怪訝そうな様子で、沈黙して俯いてしまった芽依子を見つめている。
言えない、と芽依子は心の中で呟いた。
彰俊に伝えたい言葉がある。知らせたい真実がある。
でも、もしそれを告げてしまったなら。
優しいこの人は、あれ程焦がれていた夢すら捨ててしまうだろう。他ならぬ、芽依子の為に。
その為に必死で努力を重ねてきた努力が無駄になるとしても、一生懸命に追い続けた長年の夢であっても。
だから、それだけは。
様々な想いに綯交ぜになった芽依子の心が、一つの想いで満ちた。
やがて芽依子は静かに顔をあげる。
その顔には……晴れやかな笑顔があった。
『ううん、何でもないの。それよりも、兄様おめでとう!』
『ああ……。ありがとう、芽依子』
先程までの憂いを晴らすような笑みで祝福を口にした芽依子に、彰俊は安堵の表情を見せた後。すぐに、心からの喜びをこめて頷いた。
そして、しみじみと噛みしめるように言葉を紡ぐ。
『芽依子に祝福してもらえるのが一番嬉しい。俺の夢をずっと聞いてくれていたのは、芽依子だから』
心底嬉しそうにはにかむ彰俊を見て、芽依子も微笑み続ける。
ずっと一緒に居た。共に居て、彼が夢を抱く様を傍で見て来た。必死に走り続けていたのを、見て来た。
だからこそ、芽依子は笑う。彼の喜びを、けして曇らせないように。
『あちらのお国を気に入って、兄様が帰ってこなかったらどうしましょう』
少しだけおどけた様子で演技めいた仕草で首を傾げる芽依子に、彰俊は思わずと言った感じで吹き出した。
そして、優しい手をそっと芽依子の頭にのせた。
『心配しないでも大丈夫だ。必ずここに……お前のもとに、帰ってくるから』
頭を優しく撫でながら、芽依子の顔を覗き込み、彰俊ははっきりとした声音で告げた。
夢に輝き熱く燃える眼差しを感じながら、宣誓のように強い思いをこめて紡がれた言葉に芽依子は一度目を見張り。
そして、一瞬泣き出しそうになりながらも。心からの笑顔を見せた。
『うん。私、ここで兄様を待っているから。だから』
心の内にある全てを超えて輝くような笑顔を浮かべた芽依子は、一度頷いて。
少しだけ泣き出しそうな雰囲気を滲ませながらも、彰俊を真っ直ぐに見つめながら全ての想いをその言の葉にのせた。
『行ってらっしゃい、にいさま』
そして、準備は恙無く進み。彰俊は、勇んで異国へと旅だって行った。
彰俊が旅立つ日、芽依子は港にて彼が乗った船を見送った。
船がやがて見えなくなっても、いつまでも、いつまでも彼が進んで行った方角を見つめ佇んでいた……。
彰俊は、異国の地にて学び続けた。
日本人が海の外で学ぶことには困難が伴ったけれど、胸に抱いた夢と、ある想いを力に変えて進み続けた。
けれど、彰俊が異国の地を踏んでから一年後。
励みにしていた芽依子からの手紙が途切れたことを彰俊が訝しんでいた頃。
彼の元に届いたのは、芽依子の訃報だった――。
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