過ぎし優しき日々

 ――芽依子は、海を見るのが好きだった。


 舶来の硝子を通した向こう側。遠くに見えるのは、降り注ぐ日の光を受け煌めく深い蒼。

 港から左程遠いわけではないが、喧騒が伝わる程近いわけではない場所に、芽依子の暮らす別邸はあった。

 深山家の屋敷は家業故に人の出入りが多く、いつも賑わっている。ただ、その分些か騒々しい。

 そのような状況では落ち着いて静養できまい、と芽依子の父が、海が見えるこの場所に家を建ててくれたのだ。

 横浜で建築を学んだ職人達を招き、細部に至るまでこわだって建てられた家を見て。人々は、深山の旦那様は本当にお嬢様を大事にされていると頷き合う。

 亡き母に似て身体の弱い芽依子は、そうそう外に出かけることもできない。

 たまに庭に出ることもあるけれど、良い顔はされない。少しでも冷たい風に当たれば、次の日にすぐ熱を出すからだ。

 だから芽依子は日がな一日様々な美しい物、珍しいものに囲まれた部屋で過ごしている。

 父が国内の名人に頼み作らせた美しい調度品や道具類、小物や玩具といったものばかりではない。

 深山家は異国との取引を主としていた為、異国の珍しい品々が至るところに飾られていた。

 鮮やかな絵の具で描かれた風景画に、麗しい女性を象ったと思しき彫刻。蒼い硝子の目の人形に、熊のぬいぐるみ。

 色硝子の傘を持つ卓上の洋灯の隣には、ねじまきで時刻む置時計。砂糖菓子の入った、硝子材工の小箱……。

 中でも、芽依子の一番のお気に入りは今も高く済んだ音色を響かせる異国の楽器だ。

 オルゴールという名前だそうだ。日本の名前としては、自鳴琴というらしい。

 遠目から見た人間は、柱時計と間違えることもある。

 芽依子の背丈ほどもあるしっかりと木製の確りとしたつくりの楽器の細部には、花を意匠とした装飾が施されている。

 時計でいうなら文字盤があるところには、鈍い金属の光沢を放つ大きな円盤。

 これがくるりくるりと回ると、とても美しい旋律を奏でてくれる。

 かつてお呼ばれした異国人の家にて見かけて感激した芽依子の為に、父が伝手を駆使し海の外から取り寄せてくれたのだ。

 父と共に暮らせないことを寂しいと思う時はある。でも、一つ一つの品に籠った父の思いを感じる度に、芽依子の心は慰められる。

 きっと自分世界は他人に比べるととても狭くて、閉じているのだろうとは思う。でも、それを哀しいとは思わない。

 芽依子はけして一人ではない。傍には、乳母や女中達が居てくれる。父も、忙しいというのに時間の許す限り芽依子の顔を見に来てくれる。

 それに……。

 足音がしてそちらを見たら、笑顔の乳母がいる。そして、今日もその人物が訪れたことを知らせてくれる。

 今日は来てくれるだろうか、と気になっていた頃合いで齎された報せに、芽依子の顔が途端に輝く。

 待ちわびる、という程時間は立っていない。その人が前に訪れたのは三日前だ。けれど、芽依子にとっては次の訪れはまだかと待ち遠しくてならなくて。

 芽依子が目を輝かせながら振り向いた先、廊下を歩いて来た背の高い人影が姿を現した。

 手に小さな何かの包みを持ったその人物は、芽依子が自鳴琴の前にいるのを見て優しく笑う。


『芽依子、またオルゴールを聴いていたのか?』

『彰俊兄様!』


 駆け寄ろうとする芽依子を、走ってはいけないというように手で制して。彰俊は、芽依子と自鳴琴に交互に視線を向けた。

 彰俊の言葉の通り、彼が訪れる時は大体芽依子は自鳴琴の前にいる。

 異国の楽器に魅せられて多くの時をその前で過ごしている芽依子に、彰俊は共感するように微笑む。

 彰俊は、叔父の次男だ。

 年は芽依子より幾つか上である。幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた、芽依子にとっては兄のようにも思う従兄である。

 語学に長けている叔父は、異人相手の通訳の仕事で大層信頼を得ているとか。

 叔父の才は息子に確かに受け継がれているようで、彰俊もまた複数の国の言葉に通じている。それ故に、未だ学生の身の上であっても折に触れて重用されることがあるという。

 彰俊は手にしていた本と包みを芽依子に見せながら、嬉しそうに言った。


『英国の方が焼き菓子を下さったんだ。芽依子にと思って』

『これは、彰俊兄様が頑張ったから頂いたものでしょう?』


 彰俊の気持ちは嬉しいけれど、これは彰俊の功績によるものだ。それを、何もしていないのに芽依子がもらうなど。

 申し訳ない気がして小さくなってしまっている芽依子に、彰俊は微笑んだまま続ける。


『俺が芽依子に食べてもらいたいって思ったんだ。一緒に食べよう』


 小さな包みを芽依子の手にのせて、彰俊は心から楽しそうに言ってくれる。

 彼の様子を見て芽依子も嬉しくなって笑顔を見せて。傍にいた乳母に、お茶を用意して欲しいと弾んだ声で頼んだ。

 やがて、父が英国の取引相手から頂いたというお茶が良い香りを漂わせる中、二人は焼き菓子と茶に相好を崩していた。

 異国の香りの漂う美しい空間には、緩やかな旋律と満ち足りた空気が流れている。

 彰俊は菓子を貰うまでに何があったのか、どんな褒め言葉をもらったのかを少し誇らしげに語り。

 芽依子は相槌を打ちながら、従兄の語る逸話の一つ一つに小さな歓声をあげ、我が事のように嬉しそうに笑う。

 二人を見守るように、自鳴琴は佇み。円盤が巡ると共に、澄んだ音色が響き続けている。

 芽依子と彰俊は、何時も一緒だった。

 身体が弱くて外出もなかなか出来ない芽依子の元に、彰俊は足繁く訪れてくれている。

 何時からそうして過ごしていたのか、もう覚えていない。記憶が確かになる頃には、もう彰俊と共に在ることが芽依子にとっての日常となっていた。

 異国の楽器が奏でる妙なる音の連なりを、二人は共に聴き続けていた。

 話に花を咲かせながら。或いは、言葉など要らぬとただ寄り添って座りながら。

 幼い頃からそうして二人は時を重ねてきた。幸せな思い出と、温かな想いと共に。

 芽依子は、彰俊が時折硝子窓の向こうに強い光を宿した眼差しを向けていることに気づいていた。

 彰俊が見つめる先には、陽光を弾いて輝く海が。そして、その向こうには遥かな異郷がある。

 彼が自鳴琴の旋律を聴きながら海を見つめる瞳には、遠い異国への憧れがある。

 彰俊はそんな瞳で、時として熱っぽく海の向こうの国についての話を語って聞かせてくれるのだ。

 芽依子は、彰俊の語る異国の話を聞くのが好きだった。彼の横顔に、果てしない夢をみるのがとても嬉しかった。

 けれど少しだけ。ほんの少しだけ、寂しかった……。




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