音が戻る刻
衝撃の出来事から、二日ほど経って。
祥也は念の為にと一日追加で入院していたが、無事に退院が許され。一日の臨時休業を経て自鳴琴は普段通りに開店し、何時も通りお客が訪れる。
臨時休業ということで、調度訪れようとしていた可賀や時見は大層驚いたようだ。
一体何があったと心配され、事情を話すと更に驚いていた。
祥也の様子を大分気にしていたが、経緯を説明し、今は大丈夫なようだというと安心してくれる。
無理をさせないようにしっかり手綱を握れ、と笑って言われて詩織は苦笑しつつ頷いた。
祥也本人はそのまま仕事に戻るつもりだったらしいが、更なる念のためにと半ば強引に有休をとらされた。
いいから一回しっかり休んでこい、と厳命されたらしいが、隙あらばどうせなら……と店を手伝おうとする。
詩織は、病院の皆さんにくれぐれもと頼まれていると今までにない強さで凄んで止めた。
祥也は救いを求めるように奏を見たが、奏もいい笑顔で「お店が終わるまで待っていてくださいね」と言うばかり。
手持無沙汰な様子を見ていると、兄が若干仕事中毒の気があるような気がして心配になりもする。
今、祥也はカウンターの片隅に腰を下ろして、一つのファイルを無言のまま読んでいる。
この自鳴琴の前身である古民家の過去の持ち主についての情報をまとめたものらしい。
あれは、祥也が退院してきた直後、奏が渡してくれたものだ。何でも、時見から預かっていたという話である。
すぐに渡さなくて申し訳ないと奏は頭を下げていたが、無理もないと詩織達は苦笑していた。
オルゴールの来歴に関わるだろう古民家の過去については、詩織と祥也は意見を違えてしまっていた。言い出せる状態ではなかっただろうから。
申し訳なくて中を確認できなかったという奏からファイルを受け取って、詩織達は少しだけ中を覗いてみる。
『短期間で調べた、という割には詳しいな……』
『何か、函館の歴史に関して生き字引的に詳しい知り合いがいる、とか聞いたことはあるかも……』
短期間で調べたから大まかなものですまない、などという時見によるメモが封入されていたファイルを開いて、二人は目を丸くした。
時見のいう大まか、の基準とは一体と思わず顔を見合わせてしまう。
分かりやすく整理されて纏められた細かい情報に、祥也が思わずといった風に軽く唸る。
そういえば、と詩織はかつて時見が言っていたことを思い出して、二人で感心してしまったものだ。
祥也は今、真剣な面持ちでファイルをゆっくりとめくっている。
注文に対応して忙しく立ち働く合間に目に入る横顔がどこか苦しそう思えて、詩織としては気になって仕方なかった。奏も、時折祥也の様子を伺っているのを見かける。
切なそうで、哀しそうで。それでも必死に耐えながら、祥也は確かに読み進めている。
ファイルを読み終えた後、祥也は無言のままだった。もどかしげな表情のまま、唇を引き結んで閉じたファイルの表紙を見つめ続けていた。
賑わう店内も、やがては穏やかな静寂に包まれる時がやってくる。
無事にその日の営業を終え、手早く閉店作業を終わらせて。三人は、並んでカウンターに腰を下ろした。
祥也の手元には、あのファイルがある。
何が記されていたのか気になって仕方ないが、内容を急かすのは躊躇われて。結果として、詩織達は何か言いたげな視線で祥也を見つめることになってしまう。
詩織と奏、そして沈黙のまま佇むオルゴールに視線を向けてから。おもむろに祥也は口を開いた。
「この古民家を所有していたのは、明治時代に栄えた商家だったらしい」
静かな口調で語り始めた祥也に、期待と不安が入り交じる二つの眼差しが集まる。
努めて冷静に知った事実を告げようとしている祥也だが、表情にはどこか焦れたような感情が滲んでいる。
すぐそこにあるけれど触れられない何かをもどかしく思っている、そんな印象を抱かせる表情で祥也は更に続けた。
「名前は、
「深山家……」
我知らずのうちに詩織は聞いた名を呟いていた。
胸の奥の何かが跳ねた気がする。静かだった水面に波紋を呼ぶ一滴が落ちたような、そんな感覚。
奏の顔には、若干の戸惑いのようなものが生じていた。
それに祥也の声にも僅かに揺らぎが生じている気がして、詩織は軽く目を見張る。
同時に、胸のあたりを押さえてしまう。
苦しい、と心の中で呟いた。
息が出来ないというわけではなく、奥からこみ上げてくるものが胸を静かに満たしていく気がする。
長らく固く閉じられていたものが開かれようとしている感じに、詩織の表情が僅かに強張った。
その先を知りたいと思うのに、怖いとも感じる。この先に進めば、確実に戻れないと何かが告げる。
でも、と詩織は俯きかけた顔をあげて、先を促すように祥也を見つめた。
知りたいと願ったのだ。例え、その先に何があるとしても。自分の為に、祥也の為に、奏の為に。向き合いたいと、願ったのだ。
自分の内側に生じた葛藤を何とか押し隠して、詩織は続きを待ちながら沈黙を続ける。
詩織の眼差しと沈黙に背を押されるように、一瞬の逡巡の後に祥也は続きを語り始める。
「最後にこの家に住んでいたのは、当時の主の一人娘だ。どうやら、かなり身体が弱い少女だったらしい。落ち着いて暮らせるようにと、父親がかなり心を砕いて建てたとか」
本宅は人の出入りが激しく落ち着かない為、落ち着いて静養できるように。
娘はどうやら海が好きだったらしく、海を見ながら生活できる場所に、彼女の為の別邸は建てられた。
当時の技術の粋を尽くして、何事にも不自由なく過ごせるように心を尽くして。心を慰めるべく様々な美しいものを揃えて。
「あのオルゴールも、病がちな娘の為に。父親が異国から伝手を頼って手に入れたものだそうだ……」
祥也が語る声が、少しずつ弱弱しく、震えたものになっていく。
それと同時に、詩織の目の前にふわりと幻のような光景が浮かぶ。
過ぎ去りし時の向こう側にある温かな光景が、蘇ったような不思議な心地になる。
集められた国の技術の粋と、異国の香りが調和する部屋。
見事な調度類に飾り物。美しい着物に人形に、玩具。心を慰める甘い菓子。儚い少女を守る為、彼女へ尽くされた心が形となった様々な品の数々。
硝子窓からは船が行き交う海が、陽の光を受けて輝く様が見える。
そして、それを見守るようにてあのオルゴールがあって。円盤が、ゆるやかに回り続けていて……。
「一人娘の名は……」
「
現在と過去。現実と幻が入り交じる中で、ようやく問いを紡いだ声は、少しだけ掠れてしまっている。
口元を押さえたままそれ以上黙ってしまった祥也の様子を見つめながら問う詩織に、答えたのは奏だった。
驚いて奏の方を見ると、彼は静かに目を伏せて、微笑んでいた。
いつも穏やかに笑ってはいたけれど、どこか不安そうで、寄る辺ない感じが底にあった。知りたいと願いながら手を伸ばしても届かない哀しみがあった。
けれど、今の奏の顔はとても晴れやかで。今までみたことがないほどに『確か』であると感じる。
奏の様子に驚いたのは祥也も同じようで、目を軽く見張って続く言葉を失っている。
今までとは確かに違う青年の様子に。語られた、かつてこの場所にあった過去に。胸が騒めいて仕方ない。
何故、その名前を知っているのかと問いたいけれど出来ない。
過去を記されたファイルを持っていたのは奏だから、その時に見ていたのかとも思ったけれど。彼は言っていたではないか、見ることができなかったと。
どういうことなのだろうと思うと同時に、それは当然なのだという相反する思いが心の内にある。
初めて知らされたはずの事実が、何故かそう思えない。不思議なほどに確かな感覚を与える光景と共に、緩やかに詩織を取り巻き、心の奥の扉を開こうとする。
初めてきいたはずなのに、とても聞いたことがある。自分の中にある矛盾する感覚に、詩織は思わず息を飲んだ。
そう呼ばれていた。誰かがそう呼びかけてくれていた。大好きな自鳴琴が旋律を奏でるこの場所で、優しく笑いながら、呼びかけてくれていて――。
目を見張ったまま黙り込んでしまった詩織と祥也を交互に見つめて、奏は優しく笑いながら静かに続けた。
「芽依子には、従兄にあたる青年が居ました。名前は
芽依子と、彰俊。
奏がその名前を呟いた瞬間、堪らなく懐かしいと感じてしまう。
心に甘く優しく沁み込んでいく。とても大切で、愛しい響きを以て心の中に漣のように拡がっていく。
けれど、その響きは微かに痛みをも伴っている。
詩織の心の中にある『変わらないままここに居たい』という想い。祥也の中にある『何か』が欠けた自分への罪の意識にも似た自責。
その鍵を握るのは奏で、彼の口から紡がれた二つの名前は不思議な響きを帯びている。
詩織は祥也の方を見る。
愕然とした面もちで奏を見つめる祥也は、痛みに耐えるように辛そうな表情をしていた。
これ以上を聞くのを恐れている様子にも見える。それは、詩織も同じだった。
そして、二人とも。それでも奏を止めようとはしない。
痛みを伴う感覚を辛いと思っていても、これ以上を恐れるこころはあっても、二人の中にある真実と向き合いたいという意思は消えない。
二人の視線は静かに交錯し、やがて揃って真っ直ぐ奏へと向けられる。
決意のこもった眼差し二つを受け止めながら、奏は微笑みながら更に言葉を重ねていく。
「中々外に出られなかった芽依子は従兄が訪れるのを心待ちにして。彰俊が訪れるといつも、二人はこのオルゴールの前で過ごしていた」
目を細めながら、噛みしめるように語る奏の言葉は。詩織の心の奥底にある扉を静かに開いていく。
身体が弱くてすぐ病を得てしまうからといって、中々外に出してもらえなかった日々。
寂しいと思わなかったのは、彼が訪れてくれたから。
いつも、名を優しく呼びながら笑顔を見せてくれる彼が、一緒に居てくれたから。
少しずつ、少しずつ、詩織の魂の内側から『真実』が浮かび上がり。徐々に明確な形を為して、満ちていく。
『自分』は、ここに居た。
彼と一緒に、ここで。このオルゴールのある場所で、共に。
奏は静かに立ち上がると、ゆっくりと歩みを進めて。やがて、音を失い沈黙したオルゴールの前に至る。
手を伸ばし、そっとオルゴールに触れながら。奏は詩織と祥也の方を振り向いた。
そして、奏を見守り沈黙していた二人へ、笑いかけた。
「僕は、わかった気がします。自分が『何』なのか」
透き通るような笑みを浮かべて言う奏に、もう詩織も、祥也もどういうことだと問わなかった。
形を為しつつある記憶にもはや言葉を紡ぐことが出来ぬまま、ただ青年を見つめるしか出来ない。
そんな二人を見つめながら、微笑みに微かな切なさを滲ませて奏は告げる。
「オルゴールは、今ここに音を取り戻します。貴方がたが、向き合うことを選んでくれたから」
謳うように奏が告げた瞬間、一つ甲高く済んだ音が弾けた。
僅かに驚いて目を見張った詩織の耳に、二つ、三つと続けて。初めて聞くはずの、懐かしい音色が飛び込んでくる。
祥也も、ただ目を見開いたまま何も言えずに居る。
不思議な温かさを帯びた沈黙が満ちる空間に、ある旋律が緩やかに静かに、流れ始める。
詩織と祥也が、違う形でここに在った時に流れていた優しい旋律。
異国から来た楽器が一人でに奏でる、海の向こうの遠い世界を思わせる不思議な調べ。
かつて、詩織が芽依子と呼ばれ。祥也が彰俊と呼ばれていた頃。
時が巡り新たな命を得る前のこと。二人が共にあった懐かしき頃の記憶の中にいつも流れていた音色は、静かに紡ぎ始める。
懐かしく優しい時間の思い出と。そして言えなかった故に、気づけなかった故に訪れた哀しい離別と。
伝えられなかった言葉と果たされなかった約束故に、結末を迎えられないでいた二人の『物語』を――。
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