向き合いたい

 少しして、詩織達は祥也と対面することが許された。

 病棟の一室に移された祥也は顔色こそまだ少し良くないものの、表情は明確であり。枕元には、泣き腫らした表情の詩織が座っている。

 意識を取り戻した祥也はもう大丈夫だと言った。確かに検査の結果ではどこにも異常は見出せなかったらしい。

 だが、診察してくれた医師達の判断により、念の為に今晩は入院ということになった。

 お前はそもそも働きすぎた、と説教のように言われて気まずそうにする祥也を見て、周囲のスタッフは優しい苦笑いを浮かべている。

 職場で兄がそれなりに愛されているのだと知って、詩織は思わず少し笑顔になった。

 けれど、笑っているはずなのにまた涙が滲んで。目に滲んだ涙が雫となり零れそうになった時、詩織はふと目のあたりに優しい感触を覚えた。


「……もう、泣くなって」

「誰のせいだと思っているの」


 祥也を覗き込みながらまた泣き出しかけた詩織の涙を、緩やかに伸ばされた指が拭う。

 かすかに苦笑いと共に呟かれた言葉に、詩織は泣き笑いにも似た表情を浮かべながら。僅かに不貞腐れたような言葉を返す。

 奏は、そんな二人を静かに見守っている。

 ここのところすれ違い続けた眼差しは、今、確かにお互いを捉えている。

 見つめた先に見つめ返してくれる瞳があることが、たまらなく嬉しくて。またも涙が滲みそうになるけれど、それを宥めるように祥也の手が詩織の頬を包む。

 その手にそっと手を伸ばすと、確かな温もりを感じる。

 祥也が確かにここに居てくれるのだということを感じて、気が付くと思わず大きな掌に頬を摺り寄せていた。


「このまま……お前に、会えないままかと思ったら。たまらなく、辛かった」


 ぽつりと呟かれた言葉に、詩織は思わず目を瞬いた。

 涙の滲む眼差しを受けて、何かを思い出すように深く思案し、目を伏せた祥也は続ける。


「必死に、呼んでいた気がする。名前は違った気がするのに、俺は、確かにお前を呼んでいた気がする……」


 祥也自身も微かな戸惑いがあるようで口調が僅かに揺れているけれど。ゆっくりと、静かに言葉を紡いでいく。

 意識を失っていた間、祥也は不思議な感覚の中にあったらしい。

 誰かを必死に呼んでいた。その名前は詩織ではなかったけれど、祥也には自分が呼びかけていた相手が、確かに詩織であるという確信があるという。

 どういうことなのだろう、と首を傾げてしまった詩織を見ていた祥也は一度目を伏せた。


「俺の中の誰かが叫んでいたんだ。また、同じことを繰り返すつもりか、って……」


 手を伸ばしても届かない哀しみを。もう、手を伸ばすことすらできない後悔を、再び繰り返すのか。

 そう思った瞬間、祥也の中に強い想いが生じたという。このままで終わりたくない。詩織を残して、もうどこにも行きたくないと。

 聞いていた詩織は、何の言葉も返せずに居た。

 詩織の中にも、同じ想いを感じるからだ。また、同じことを繰り返したくないと。今度こそ伝えたい、と。

 偶然や気のせいと片づけるには、あまりに不思議な強い想い。

 今、自分達は向き合う時が来たのだという確信がある。

 過ぎ去りし時の中で向き合えなかった事実に。過去の中に置き去りにしてしまった、哀しい後悔に。

 言葉にせずとも、多分今二人は同じ思いを抱いている。

 そして、その為に何が必要であるのかも、もう気付いている。


「鍵は、多分お前なんだと思う……奏」


 祥也に名を呼ばれて、黙したまま見守っていた奏の肩が僅かに揺れた。

 そんな奏を見て、祥也は口元に僅かに苦い笑みを滲ませる。


「俺は、お前が苦手だと言った。でも、苦手、というのは正しくない。心のどこかでお前が俺達を変える決定的な何かになる、きっとそんな予感がしていたんだ」


 突然、二人の世界に飛び込んできた青年。

 変わらぬことを頑なに求める詩織の世界に不思議なほど自然に受け入れられ、一部となった過去を持たない奏。

 奏が現われたことで満ちて行きつつあった、祥也の中の欠けた何か。

 きっと、この青年によって自分達は大きな変化を迎える。それも、もう戻れない程に大きなものを。

 だから、拒絶しようとした。知ることを、恐れてしまった。

 真剣な表情のままそこに佇む青年を見つめながら、祥也は続く言葉を紡いだ。


「科学的な根拠は何も無い。ただ、奏とあのオルゴールが、俺達にとって重要な意味がある気がする」


 詩織が変わらぬまま居たいと願う、自鳴琴という場所。

 その由来となった、過去から今に至るまでそこにあり続けた音を失ったオルゴール。

 それを探して、奏は二人の元に辿り着いた。

 何もかもを失っていた鍵を握る青年の中に唯一あった、オルゴールを求める心。

 恐らくオルゴールに関して知ることは、奏が何者かであることに繋がっている。そして、奏が過去を取り戻すことこそが、きっと。


「それが私の、変わらないでいたいという想いに関わるなら。兄さんの中の欠けた『何か』に関わるというなら」


 頬を包む手に添えた手にそっと力をこめて、詩織は静かに口を開いた。

 そして視線は真っ直ぐに祥也へと向けたまま、確かな声音で静か今心の中に抱く願いを口にした。


「私は、過去を知りたい」


 すれ違い、避け続けてきた時間を終わりにして。今度こそ向き合いたいと、詩織は祥也と、寄り添うようにして立つ奏へ言った。

 そこにどんな事実が待つのかは、わからない。

 ただ、深い哀しみがあったことだけは、何故か感じる。

 それを思えば知るのはまだ怖いという思いがある。でも、もう目を背けて、見ない振りをしていたくない。

 もう戻れなくなるとしても、このまま知らずに居たくない。理由の分からない後悔を抱えたまま、頑なに変化を拒み続けたくない。

 祥也にも、理由のわからない罪の意識に自分を責め続けて欲しくない。

 そして、奏が自分達の居る場所に辿り着いてくれたことを、無駄にしたくない。

 揺らがぬ眼差しで告げる詩織を、迷いを捨てた眼差しで祥也は見つめ返して。

 二人を見守り続けた奏は、万感の思いをこめた表情で一度、確かに頷いて見せた……。


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