祈りと願い
崩れそうになる詩織は、奏に支えられながら何とか兄の勤務する病院へと向かった。
時間外の入口から救急外来へ案内されると、祥也の同僚だという医師達が迎えてくれる。
話によると、退勤時間を過ぎても残っていた祥也は考え事をしていて、深く何かを思い悩んでいる様子だった。
見かねた同僚が声をかけると、苦笑いを浮かべつつ、それでも祥也は仕事を切り上げようとしたそうだ。
けれど、その直後に突然倒れた。
驚いた皆が駆け寄り声をかけても意識はなく。呼吸や脈こそ異常はないものの、深い昏睡状態にある。
現在、原因を探る為に各種検査をしている最中ではあるが、それでも覚醒の兆しはないという。
妹さんはこちらで待っていてくれと、待合室の長椅子を示された。
呆然と立ち尽くす詩織が、必死に促す奏の声に従うように緩慢に動き出した時だった。
「詩織ちゃん! 奏君!」
「あ……狭山さん……」
蒼褪めたままの詩織がぎこちない仕草でそちらを向くと、ユニフォーム姿の狭山が向こうから足早に近づいて来るのが見えた。
横にいる奏も、見知った顔の出現に少し張り詰めていた空気が和らいだのを感じる。
狭山は二人に声をかけて座らせると、自身も並んで腰を下ろし、大きく息を吐く。
「うちの病棟まで連絡がきて、皆ざわついているわよ。とりあえず、私が代表して様子を見に来たってわけ」
狭山は今日仕事が立て込み、残業だったようだ。
それも一段落し、さてそろそろ帰ろうかといった頃に、所用で他の病棟に行っていた人間が情報をもって戻ってきたという。
軽く混乱する夜勤者達を宥めて、様子を見に来てくれたらしい。
日常で訪れることのない場所で強張っていた身体から、日常でみかける顔の出現で少しだけ力が抜けた気がする。
けれどまだ心はまだ状況を受け入れきれていない。現実から剥離したような感覚があって、何とか笑みを見せたくても表情は固まってしまったまま。
そんな詩織を心配そうに見ていた狭山が、溜息交じりに口を開く。
「最近、何かから逃避するみたいに仕事に没頭しているな、とは思っていたけど……」
様子があまりに切羽詰まっているように見えて、同僚も狭山達現場スタッフも、折に触れて祥也に声をかけていた。
だが、曖昧に笑って頷くばかりで。祥也は止まろうとせず、家に帰ろうともしない。
憔悴しているのが気がかりで、狭山が一度ちゃんと詩織に話をしようとしていた矢先のことだったらしい。
狭山は申し訳なさそうに表情を曇らせ、詩織へ頭を下げた。
「ごめんなさい。現場のスタッフで祥也先生を支えるから、なんて言っておいて……」
「いえ! 皆さんは何も悪くないです! 悪いのは、むしろ……」
「詩織さん……」
詩織は慌てながら、必死に頭を左右に振って狭山の言葉を否定する。
そう、悪いのは狭山達ではない。悪いのは、祥也と対峙するのを先延ばしにし続けた詩織だ。
もっと早く詩織が祥也ときちんと話し合っていれば、祥也は無理をすることもなかったし、結果として周囲を心配させることもなかった。
向き合うのが怖いと、手を伸ばせなかったから。そう自分を責める詩織に、奏が気遣わしげな眼差しを向けている。
ただ不安で、怖くて、申し訳なくて。詩織は、唇を噛みしめたまま俯いてしまう。
そんな詩織を少しの間黙って見つめていた狭山は、やがて語り始めた。
「もともと、祥也先生ってどこか影があるというか。人当たりは悪くなかったけれど、一定以上自分に近づけないところがあって」
思わぬ言葉に目を軽く見張って顔をあげた詩織は、過去に思いを馳せるように目を細める狭山の横顔を見る。
目で軽く笑って見せながら、狭山は静かに続ける。
「最初は人嫌いなのかな、とも思ったけど。接しているうちに、この人は、他人が嫌いなのじゃなくて、もしかしたら自分が嫌いなのかもしれない、って思ったのよね」
詩織が黙ったまま見つめている先で、一つ息を吐いた狭山は少し考え込んだ。
「なんていうのかしら。自分で自分を許せていない、みたいに思う時があったの。何かを自分に戒めているような感じで、それで少し危ういな、って」
ベテランの看護師の観察能力は怖いぞ、と兄が言っていたのを、詩織は思い出していた。
あの人たちに誤魔化しは効かん、としみじみと祥也は言っていた。
そしてその一人である狭山は、祥也の中に強い自責と自戒の念を感じたのだという。
自分を許せず、自分に対して何かを戒めていた。自分は、それをしてはならないのだと、何かから目を背けているようだった。
本人にその自覚は無かったかもしれないけど、と祥也を近くで見続けてきた看護師は複雑な声音で呟いた。
「祥也さんが、前に言っていました。自分には『何か』が欠けている。だから、自分達は『違う形』になるわけにいかないって」
狭山の言葉を聞いて、奏が俯いたまま呟く。
驚いて詩織が見つめた先で、奏の顔には複雑な哀しみがある。
兄が奏とそのような話をしていたことにも驚いたが、兄の心にあったものを改めて知って言葉を失う。
祥也が自分には何かが欠けているからと、向けられる好意を断り続けているのは知っていた。詩織が、変わりたくないと好意を伝えられても受け入れられないように。
何故かそれに纏わる罪悪感を抱いていることも感じていた。だが、自身の安定を無自覚に欠く程に自分を責め続けているとは思わなかった。
一番近くにいたはずなのに、気づけていなかったことを哀しく思う。
傍にいたはずなのに。誰よりも近しい位置にいたはずなのに自分は気づけていなかった。
違う、と詩織の中にふわりと浮かび上がるように否定が生じる。
気付いてしまえば、詩織の中でも何かが変わってしまう。詩織が、変わらないでいられなくなってしまう。
だから、無意識の内に目を逸らし続けてきたのだ。詩織が、変わらないままあの場所に居たいと頑なに思っていたから。
自分を欠けた人間だといい、何処かで自分を責め続けていた祥也。今ある形と違うものへなることを、戒めていた兄。
だが、そんな彼に変化が生じた。
祥也の様子が変わり始めたのは、調度奏が自鳴琴の一員となった頃だという。
「雰囲気が何か柔らかくなったというか。以前より落ち着いた気がするって、皆が話していたのだけど……」
言葉では、奏という存在を警戒して一線引くような素振りがあったが。突然現れた青年を突き放しきれていない様子に、皆が若干驚いていた。
強く自分を責める悲痛さが徐々に和らいで、ふと見せる表情が穏やかなものになって。
欠けていた何かが満ちていくような、不思議な安定感を周囲が感じるようになっていっていたらしい。
けれど。
「でも、少し前……それこそ、家にあまり帰らなくなってから、何か焦っているような、不安定な感じに見えていて……」
詩織の表情が、少し強張った。
祥也と詩織が奏に関して意見を違え、すれ違うようになってから。
満ちかけたものが再び欠けた。それも、無理にそれを拒絶した。
そんな印象を与えながら、祥也は焦燥感を伴う不安定さを見せるようになっていた。
目を向けることから、先へ進むことから逃れようというように、祥也は自分を追い込み続けた。
狭山は、祥也が頑なに家に戻ろうとしない様子から、詩織との間に何かあったのだとすぐ気付いた。
図らずもプラスに働いていた奏という存在が、マイナスに転じてしまったのかもしれない。だが、それを問いたくても。祥也は言葉に依らず、それを拒んでいる。
無理に問いただすこともできずにいる間に、今回の出来事が起きてしまった。
少し悔しそうに眉を寄せて狭山が言葉を途切れさせた時、彼女を呼ぶ声がした。
見れば救急外来の看護師が、病棟から狭山に戻ってほしいと連絡があったと声をかけている。
もう、と溜息交じりに立ち上がりながら、狭山は詩織に何とか笑みを向けて言った。
「うちの先生も看護師も優秀よ。だから、祥也先生は大丈夫」
「……はい。ありがとうございます」
元気づけようとしてくれているのだろ。努めて明るく言う狭山に、詩織の顔に僅かに笑みが戻る。
名残惜しそうな様子を見せつつも、狭山は足早に元来た道へと消えて行った。
救急外来の待合室に残されたのは、詩織と奏の二人だけ。
当番指定日ではないので救急車が来ている様子はなく、夜間の受診に来た人の姿も見られない。
扉の向こうで人が絶え間なく動き、声をかけあっているのが聞こえるけれど。詩織達の居る場所は、ただただ沈黙が満ちている。
先程まで少しあった笑みも、すぐに消え失せてしまう。
奏が何か言いたげに自分を見ているのを感じるが、今の詩織には何か言葉を返す余裕がない。
指先が震えないように必死に握りしめた拳を膝の上に置いたまま、唇を噛みしめる詩織の顔は目に見えて蒼い。
詩織は、救急外来という場所が苦手だった。
好きだとか得意だという人の方が少ないだろうが、居ると思い出してしまうのだ。両親が事故で亡くなった日のことを。
突然の報せを信じきれずに駆け付けた先で、忙しく走り回る人々が居て、慌ただしい叫び声が聞こえて。沈痛な面もちの医師から、哀しい報せを聞かされた。
打ちのめされ崩れ落ちそうだった詩織の手を、あの日祥也は無言のまま握り続けてくれていた。
自分だって不安と悲しみで押しつぶされそうだっただろうに、砕けかけた詩織の心を必死に繋ぎ止め、守ろうとしてくれていた。
祥也が居てくれたから、詩織は絶望の淵で留まり。こうして、今に至るまでまた歩いて来られたのだ。
けれど、その祥也が今、扉の向こうにいる。
もしかしたら、このまま祥也まで失うのかもしれない。その可能性が過ぎっただけで、もう身体の震えが止まらない。
兄さん、と詩織は必死に声にならない声で呼び続ける。
大切なただ一人の家族で、詩織を守り支えてくれたかけがえのないひと。
時々口うるさいけれど、優しくて頼りになる、詩織の大切な、大切なひと。
灼けるように強く願う自分の中に、不思議な感情がある。
祥也を失いたくないという理由の中に、今まで気づかないできたものがある。
違う、気づかなかったのではない。
心の中に自分が見ないようにしていたことがあることに、詩織は気付いた。
そして、それと響き合うように詩織の中に拡がりゆく、強い想いがあることに。
音にできぬ叫びを、詩織はあげ続けていた。
もう、同じことを繰り返したくない。
居なくならないで、傍にいて。私を置いていかないでと叫びたい。
今度こそ伝えたい。もう二度と……。ずっと……――!
「祥也さんは、大丈夫です」
不意に聞こえた優しい声に、詩織は思わず目を見開いた。
いつの間にか俯いてしまっていた顔を恐る恐るあげて見た先で、奏の顔には優しい笑顔があった。
何処か切なさを滲ませた笑みを浮かべたまま、奏は詩織を静かに見つめたまま、言った。
「祥也さんは、もう詩織さんを置いていったりしません」
奏の言葉に気になるものを感じて、詩織は問いかけようと口を開きかけた。
その次の瞬間ドアが開く音がして、弾かれたように立ち上がりそちらを見てしまう。
中から出てきた看護師が足早に詩織達の元に歩み寄ると、安堵の笑みを浮かべながら祥也の意識が戻ったと告げる。
詩織は一瞬、目を見張ったまま言葉を失って。
こみあげる涙と嗚咽を抑えきれずに口元を押さえ、崩れるようにして椅子に座り込んでしまった……。
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