彼は願う
奏は店から少し歩いた場所にあるスーパーまで買いものに出かけていた。
最初の時は大分戸惑ったけれど、道はそこまで分かりにくいわけではなく。何度か詩織と一緒に行くうちに、一人で行けるようになっていた。
目当てのものを手早く買って、急ぎ足で店へと帰ろうとする。
今、自鳴琴にいるのは詩織だけだ。
出る前は客足が一時落ち着いたけれど、いつまた混雑し始めるか分からない、
あまり一人で居て欲しくないと、進む歩調は自然と早くなる。雪に覆われた道路をあまり早足で進むのは良くないとわかっているが、不思議に気が急いてしまって。
しかし、今の詩織をあまり一人にしておきたくないのだ、と思い至ると、我知らずのうちにふと足が止まった。
奏に関する意見を違えたことで、あれだけ仲の良かった兄妹はすれ違うようになってしまった。
罪悪感に心が痛んで。それと共に、祥也が自分を拒絶していることが、悲しくあり、不思議なもどかしさがある。
それではいけないのだ、と何かが言う。何もかもが消え去ってしまった自分の奥底から、このままではいけないと叫び続ける声がある。
祥也は、奏を警戒する故に拒絶しているわけではない。
奏が祥也から感じるのは、彼自身に対する怒りにも似た感情だ。
彼の中にある何かを激しく悔いる心が、幸せで穏やかな世界に奏があることを無意識に拒絶している。お前はここに居てはいけないのだと、奏を激しく拒み続けている……。
詩織が変わらぬままであることを望む故に、異分子である自分を排除しようという思いは、確かにあるだろう。
ただ、それだけとは思えなくて、奏は戸惑いを深くする。
そして、奏は祥也の心の煩悶が他人事とは思えない。
彼の心の葛藤を思うと、我が事のように胸が苦しく切ない。そして拒絶されると、千切れるかとおもうほどの痛みを感じる。
祥也には、詩織と共に笑っていて欲しい。
詩織には、祥也と共に笑っていて欲しい。
もう、お互いを離さないで欲しい。今度こそ、お互いの本当の心を、願いを、伝えて。だって、その為に僕は……
そこまで考えて、奏は緩く頭を振った。
まただ、と思う。
最近、頓にこうして不思議な思いが心を埋めつくして、意識がとらわれることがある。
過去を諦めて新たな自分を……戸籍を得ることを検討し始めたからか、とも思うけれど。何故か、違うという思いがある。
新しい道を歩き始めるよりも、自分にはしたいと願うことがあって。でも、それが自分でもわからないのが、酷くもどかしくて仕方ない。
奏は、俯いたまま立ち尽くしてしまい。
しかし、考えを打ち切るように再び頭を振って。歩き出そうとした瞬間だった。
「やあ、奏」
「え……。あ、時見さん! こんにちは!」
唐突に声をかけられて驚愕に目を見張った奏は、弾かれたようにそちらを振り向いた。
そしてそこに常連客の一人である男性の姿を見出せば、すぐに顔には笑顔が浮かび。一礼と共に明るい挨拶を口にする。
周囲を行く女性が、ちらちらとこちらを見ているのを感じる。
無理もないと思う。時見は、店に居る時でも女性客の目を集めることの多い、端整な顔立ちなのだ。
更にいうなら、いくつもの会社を経営する事業家であるという。あれは女性が放っておかないわ、と詩織達が笑っていたのを思い出す。
時見は周囲の視線などすっかり慣れた様子で意にも介せず、奏に向き合い笑顔を見せる。
「調度良いところで会った。店に届けにいこうか迷っていたのだが」
時見の言葉に、奏は思わず首を傾げてしまう。
どういうことかと問おうとした奏の前に、一冊のファイルが差し出された。
「これは……」
「あの古民家に関する情報だよ。君に渡しておく」
奏は思わず目を見張って、咄嗟に言葉を失ってしまう。
確かに、時見は自鳴琴の前身となった古民家のかつての所有者について調べる、と言ってくれていた。
だが、それは詩織と祥也の間で衝突めいたやり取りがあって、保留になっていたはずなのだ。時見は、それでも独自に調べていてくれていたのだろうか。
そしてそれを、詩織でも祥也でもなく、奏へと差し出している。
詩織に渡してくれということなのか、と思ったけれど。今、時見は『君に』と言った。
何故かその響きには、時見が最初からその情報を奏に渡すつもりだった、という意思があるような気がして。奏は、微かに震える声で問いかける。
「どうして僕に……」
「君からあの二人に渡すのが、一番あるべき形だと思ったからね」
何故、詩織でも祥也でもなく、自分に、そう思い口にすると、時見は悠然と微笑みながら、ごく自然な口調で答えた。
そうするのが一番正しいのだと言葉に依らず告げる時見に、奏は咄嗟に何も言えなくなってしまう。
どういう意味なのかを問いたい気持ちはある。
けれどそれと同時に、時見の言葉に頷く思いもある。
自分が、あの二人にこの情報を……真実に至る為の鍵を、齎す役割を負うべきなのだと。
だって、自分はそのために。
ふわりと何かが浮かび上がりかけたのを感じたと思った瞬間、時見はそれでは、と短く告げると踵を返した。
そのまま歩き出した時見に、奏は慌てて声をかける。
「あの! ……時見さんは、一体。何の為に」
「私は『物語』の結末を、見届けたいだけさ」
奏の問いを耳にした時見は立ち止まると、肩越しに振り返る。
意味ありげな言葉を紡ぐ男性の表情には、確かにくる何時の日かへの揺らがぬ期待に満ちた笑顔があった。
やがて、夜の帳が下りて白々とした光を湛える月が昇る夜が来た。
今日もお客さんが大勢で有難い、と心で呟きながら詩織は手際よく後片付けを進める。
店の中では掃除用具を手にした奏が、くるくると動き回って掃除をしてくれている。
これなら早く切り上げて夕飯にできそうだと思いながら、詩織は住居に繋がる扉を見る。
前までは、祥也がそこから顔を出して『夕食ができたぞ』と声をかけてくれていた。でも今は、扉は閉じたまま。祥也は、今日も戻ってこない。
このままではいけないと思う。
せめて、ちゃんと話したい。このまま向き合うことなく、目を背けあったままでいたくない。
けれど、なかなか手が伸ばせないことがもどかしくて仕方ない。
詩織が我知らずのうちに溜息を吐いた時、詩織のスマートフォンが着信音を響かせた。
一体誰だろうと思いつつ画面を覗き込むと、表示されているのは見慣れない番号だった。
局番からいって、市内の固定電話からである。
僅かに躊躇ったものの、ボタンを押して。緊張して少し固い声音で詩織に通話に出た。
『夜分遅くに恐れ入ります。こちら、結城詩織さんの携帯電話で間違いないでしょうか』
「……はい」
声の主は、女性だった。
確りとした口調ではあるが、電話口の向こうは少し慌ただしい気がする。
訝しく思いながら肯定を返すと、相手から続いたのは思わぬ言葉だった。
何と、電話口の向こうの女性は、祥也の務める病院の看護師であるという。
夜間外来の担当だという看護師は、何故このような時間に連絡してきたのか疑問を抱く詩織へと衝撃の事実を告げた。
――祥也が、職場で倒れて意識不明だと。
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