想いの在処

 奏に戸籍を取得させるか。それとも諦めずに過去を探し続けるか。その答えが出ないまま、時間だけが流れた。

 自鳴琴と結城家には、ある変化が生じていた。祥也が、家を空けるようになったのだ。

 当直などで空けることは元々あったが、それ以外でも当直室を借りて帰らないことが増えていた。友人の家や、ビジネスホテルに滞在していることもあるようだ。

着替えなどの荷物を取りに来るのも最低限であり、それも詩織達が店に居る間に来て、気付いた時には病院に戻っている。

 何とか言葉を交わしたいと思って出て行く背中に声をかけても、聞こえないふりをしてそのまま出て行ってしまう。

 置き去りにされたように立ち尽くす詩織を、奏が申し訳なさそうに見つめていて。詩織は、何とか笑顔を作って首を振る。

 祥也が店に姿を見せなくなっただけではなく、家にも戻らなくなったことに気付いた人間は居た。


「祥也先生、最近ちょっと煮詰まっているような気がするわ」


 勉強の合間の息抜きと自鳴琴を訪れた狭山は、珈琲のカップを手に溜息交じりに告げた。

 祥也の勤務先の看護師である彼女は、祥也がどうやら当直室の住人状態であることを知っているようだ。

 看護師は概して院内の情報に通じていることが多いらしいが、中でも狭山の情報網は驚くべきものがある、と以前兄が言っていたのを思い出す。


「仕事に支障が出てないのは流石なんだけど。見ていて、ちょっと危ういというか」


 危うい、っていっても仕事ぶりがという意味ではないと苦笑する狭山を見て、詩織は複雑な表情で沈黙している。

 多分、あれだけ止められても詩織を手伝っていた祥也が店に姿を見せず。それどころか、家すら空けているということに、詩織との間に何かあったと察しているだろう。

 だが、狭山はそれを問おうとはしなかった。

 詩織から言わないのであれば、触れない。その心遣いが、素直に有難くもあり。同時に、少し心苦しくもあった。

 事情を全て明らかにしてしまって、どうしたらいいのかと吐露してしまいたい気持ちはある。自分の中で、行く場のない心と問いが渦巻いていて、どうにもならない。

 けれど、自分の中でも整理がつくどころかわからないことだらけで。何をどう打ち明けていいのかすらわからない。

 俯いて口を閉ざしてしまっている詩織を見て、狭山は優しく苦笑する。


「現場のスタッフで、出来る限りのサポートはしていくから。詩織ちゃんは詩織ちゃんで、ね?」

「ありがとうございます……」


 安心して欲しいという風に胸を手のひらで軽く叩いて明るい笑みを見せながら言う狭山に、詩織はただそれしか言えなかった。

 職場での祥也のことは、狭山達が居てくれると思える。

 でも、それ以上は。今直面している問題には、詩織達が向き合っていく以外に解決に至る道がないのだ。

 やがて狭山は店を去り、客足は一時落ち着いて。店内には詩織と奏だけになる。

 今の内に片づけと次に備えての準備をと思った時。詩織はあることに気付いてしまった。


「しまった……」


 またやってしまった、と詩織は呻く。

 店の営業に必要ないくつかの品の在庫がないのだ。買い物にいく必要があったのに、それをすっかり忘れてしまっていたことに漸く気付いた。

 いくら祥也のことで頭が一杯だったとはいえ、店に必要なものをまた切らしてしまうなんて、と詩織は頭を抱える。


「今、調度お客さんも落ち着いていますから。僕、ちょっと買い物に行ってきます」

「うん……そうしてもらえると助かる。ごめんね、奏」


 エプロンを外しながら言う奏に、両手を合わせつつ申し訳なさそうに頭を下げる詩織。

 奏はゆるく頭を左右に振りながら外へ出る準備をして、詩織は買ってきてほしいものリストアップする。

 メモと代金を渡された奏が出ていくのを見送って、店内には詩織一人となる。

 時計が時を刻む音と、優しい音楽が流れる穏やかな空間に一人佇んで。詩織はふと思う。

 少し前まで、こうだったのだと。

 お客さんが入れ替わり立ち代わり来て、忙しい時は多かったけれど。少し前までは、これが詩織の世界の普通だった。

 詩織の世界は、過去から現在に至るまでの年月を刻んだこの場所と、祥也だった。

 穏やかで優しくて、どこか切ない気持ちになる場所から離れたいと思わなかった。

 手を伸ばせば届くところに祥也がいてくれることが、時々たまらなく嬉しくて、何故か泣きたい程に幸せだと思うことがあった。

 そんな兄が笑ってくれて、笑みを返せる自分から変わりたいと思わなかった。

 祥也は、詩織が『変わらないまま、ここに居たい』という想いに不思議なほどにとらわれているのに気づいていて。叶う限りそうあるように心を砕いてくれていた。

 だが、そんな世界に飛び込んできたのは奏だった。


『おかしいのは、お前だろう。あんなに、変わらないでここに居たい、って言っていたのに。すっかり、奏を受け入れて、奏のいる暮らしに慣れた』


 祥也の言うことは、確かにその通りだと思う。

 自分はどうしても取り巻く世界を、そして自分を変えたくないとずっと想い続けてきた。

 何かが頑なにそうさせてきた。変わらないまま、ずっとこの場所に居たいと魂の内側から、何かが訴え続けている。

 その想いに従うならば、奏を拒絶しているはずなのに。詩織は、奏に関しては自分でも驚く程すんなりと受け入れた。

 世界に大きな変化を齎す異分子であるはずの彼を、改めて考えれば不思議な程自然に。

 寄る辺ない奏を放っておけないと思ったのは確かだ。

 だが、いくら日頃犬や猫を保護することが多いといっても、奏は人間で。犬猫を保護するのとは訳が違う。

 信用できるかどうかわからない、変化でしかない存在。

 本来であれば、祥也の言うように行政に任せよう、となっていただろうと思う。それなのに、詩織は奏を受け入れることを選んだ。

 奏は確かに気立てが良い素直な好青年だ。だが、外からきたものであるのは変わらない。

 だが、何故か奏のことを、世界に存在しなかった異分子と感じなかったのだ。 

 元々、詩織の世界にあって然るべき存在……いうならば、祥也のような近しいもののようにすら思えることがあって。

 だからこそ、元々世界にあったかのように、詩織を取り巻く世界に一部として自然に馴染んだ。

 詩織は、カウンターを出て静かに店の一角へと足を向ける。

 辿り着いたのは、古めかしい艶を湛えるオルゴールの前だ。

 詩織は、そっと鈍い色合いの円盤が垣間見える、透明な硝子の板にそっと触れる。

 この場所にずっとあり続けた、音を無くしてしまったオルゴール。

 奏が探していたもの。過去の何もかもを失った彼が、唯一持っていたものは、このオルゴールを求める思い。

 オルゴールは沈黙したまま、ただそこにある。

 詩織は、一つ溜息を吐く。

 自分の心が、わからない。

 何故、自分の中に灼け付くような『変わらないままここに居たい』という想いがあるのだろう。何故、それなのに自分は奏という存在を自然に受け入れたのだろう。

 そして、自分にとって、祥也という人はどんな意味を持つ存在なのだろう……。

 祥也が詩織を避け、家を空けるようになって、酷く胸が痛くて堪らない。

 胸が、というより。胸よりも深いところにある何かが、痛みに泣いている。

 また、手が届かないところに行ってしまうのか。また、何も言えないまま、私達は離れてしまうのかと。

 もう、同じことを繰り返したくないのだと、詩織の中で誰かが嘆き悲しむのだ。

 それが誰であり、何のことを言っているかなんてわからない。自分の中にある理由の説明できない感情は、戸惑いしか生まない。

 でも、それが確かに詩織の心であることだけはわかる。

 このまま、詩織の世界から祥也が消えてしまうのだけは。それだけは絶対に嫌だと思う。

 祥也に、傍に居て欲しい。

 祥也と、離れたくない。

 強い祈りにも似た想いは、詩織の中で強くなると共に問いを紡ぐ。

 祥也は、両親亡き後残されたただ一人の家族だ。大切な、たった一人の兄だ。

 けれど、いずれ祥也だって誰かを選ぶ日がくる。自分達の道は確かに分かれる日がくる。

 でも、その可能性を思い描くだけで形容しがたい暗い感情が湧き上がってくる。

 兄離れが出来ていないと苦々しく思いもしたけれど、それだけなのかと今は思うのだ。

 このオルゴールのある懐かしい空間から祥也が消えてしまうことが、引き裂かれるように辛くてたまらない。

 祥也が自分以外の手をとることを考えるだけで、何故こんなにも苦しいのだろう。

 それを問う度に、心の内側からわきあがってくる声がある。


 ――だって、漸く。ようやく、ここで、わたしたちは。


 どういうことなのか、問いかけても答えは返らない。それが、あまりにもどかしい。

 答えはそこにあるのに、辿り着けないでいて。やっと、必要なものがもどってきて。これで歩き出せるはずなのに、辿り着けるはずなのに。

 わからない。どういうことなのか。でも、確かに誰かが囁いている。

 自分でも理解できない自分の中にある心に。詩織はただ、唇を噛みしめて俯いてしまう。

 沈黙したままの自鳴琴は、彼女を見守るようにして、静かにそこに佇み続けていた……。

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