どうか、あなたの夢を・1
過去と現在が不思議な交錯をして、未来に繋がる出来事から、また少し時間が流れた。
その日の自鳴琴には、数組の観光客の姿と。カウンターには、常連客の可賀の姿がある。
ゆったりと寛いだ様子で珈琲とホットケーキを堪能していた可賀は、ふと呟く。
「ここしばらく、狭山さんの顔を見ていないな」
可賀は、休みの度に自鳴琴に顔を出していた看護師の女性としばらく会っていないと首を傾げる。
忙しいのだろうか、とやや心配そうな可賀へ、詩織はゆるく首を振って見せる。
「狭山さんは、亡くなった恋人の墓参りです」
「ああ、漸く行ったか。大分長い事行けなかったからなあ……」
狭山は、二年前に亡くなった恋人の墓参りに、一度も行くことが出来ずに居た。
だが、先日の出来事にて踏ん切りがついた、として休みをとって遠方にある恋人の墓参へと向かった。
お土産を買ってくる、と出立前立ち寄り、晴れやかな笑顔で言ってくれていたのを思い出す。
そんな詩織に、可賀は感慨深そうに息を吐きながら頷いた。
その言葉からして、どうやら可賀は狭山の過去について知っていたようだ。
狭山が恋人と死別していたことも、その墓参りに行けないままであったことも。そして、それを乗り越えたことも。
良かった、と頷きながら呟く可賀の顔には、心からの安堵のようなものと。少しばかりの複雑な哀しみがあった。
まるで、先に進み始めたものを見送り、取り残されたような寂しさがあった。
「お土産を買ってきてくれる、って言っていましたから。その内またいつもみたいに顔を出してくれると思います」
「そうか。なら儂もそれを楽しみに待つとするか」
詩織が言うと、可賀の顔から複雑な色は消え。何を買ってくるだろうか、と純粋な期待が見えるようになる。
可賀が楽しそうに笑う様子を見て一度は安堵した詩織だったが、すぐにあることを思い出して表情を曇らせた。
そして、申し訳なさそうにしながら、可賀へと改めて向き直る。
「あの、可賀さん。パフェのカップを、新しく幾つかお願いできないでしょうか……」
言いながら頭を下げる詩織を見て、可賀がきょとんとした顔をする。
詩織に続いて、気まずそうな表情をした奏が肩を落しながら口を開いた。
「僕が、うっかり割ってしまって……」
一昨日のことだった。
お客が帰った後の後片付けをして、食器類をのせたトレイを手に奏が戻ってこようとした時である。
ふいに奏が何かに気を取られたように注意を他に向けた瞬間、足元が不確かになり。結果として、体勢を崩して持っていたトレイからカップが滑り落ちた。
呼ばれたような気がして、と力なく呟く奏に怪我はなかったが、パフェ用の陶器カップは粉々に。
元々ぎりぎりの数で回していたけれど、さすがに心もとない残数になってしまったのだ。
詩織と奏が身体を縮めこめて申し訳なさげに言う様子を見て、可賀はそんなことか、といった様子で笑う。
「儂は、特段忙しいわけではないからな。追加ぐらい、何時でも作ってやるさ」
豪快に笑って見せながら、何のことはないと可賀は言う。
何を隠そう、自鳴琴で使われているカップなどの陶器は全て可賀の手によるものである。
この老人は、かつてかなり名を馳せた陶芸家であるのだ。
母が市販の器では今一つ雰囲気が出ないと悩んでいたところ、それでは作ってやろうと申し出てくれたらしい。
それ以来、味わい深い色味の器も、自鳴琴の名物の一つとなっている。
「器とは使うもの。使えばそのうち壊れる。それは仕方ないことだ、あんまり気にするな」
特段気にした風もなく、それが真理だと言う様子で可賀は笑っている。
それを見て詩織と奏はようやく安堵した風に頷きあって、揃って可賀に礼を述べる。
だが、安心した風に笑う奏の顔に、続いて僅かに疑問の色が浮かんだのを、詩織は見逃さなかった。
奏に、可賀が陶芸家であることを知らせた時に詩織が教えたことが原因だろうと思う。
自鳴琴の器を作ってくれている可賀は、実はおいそれと注文するのを躊躇う程の経歴を持つのだ。
だが、可賀が工房の扉を開けるのは、こうして詩織や知り合いが注文した時だけ。
可賀を先生と呼ぶもの達が、どれだけ新しい作品をと願っても。こうした、ささやかな注文の品以外を作ろうとはしない。
実は偉大なこの老人は、頑なに自分の作りたいものを作ろうとはしないのだ。
日頃は工房を閉じたままにして何も作らず。用向きが出来た時だけ開くだけ。
それを聞いた奏は、何故だろうと疑問を抱いていた様子だった。
詩織も、直接可賀から理由を聞いたわけではない。ただ、可賀が工房を閉じた時期に何があったのかを知っていているだけ。
ただの推測であるから、おいそれと口にはできなくて。奏には、思い当たる理由については言っていない。
奏は、それが気になってしかたないようだった。
「どうした、奏君」
可賀も、奏が何か問いを抱いているのを察した様子だ。首を傾げて、促すように言葉を投げかける。
少し躊躇っていた奏であるが、やがて真っ直ぐに可賀を見つめて口を開いた。
「あの……何で工房を普段閉じているのかなって……」
これ以上なく直球! と詩織は思わず絶句する。
あまりにひねりも誤魔化しもなく、一直線に真相へと突き進んでいくような真っ直ぐな問いである。
詩織もまた気になってはいたが、そこまで問えなかったところなので、思わず言葉を失くしたまま事の成り行きを見守ってしまう。
一瞬呆気にとられたように目を瞬いた可賀だったが、やがて吹き出すように笑いだした。
「奏君は、率直だなあ」
「す、すいません」
豪快に笑い続ける可賀に、奏はまたも身体を小さくして弾かれたように頭を下げる。
いい、と言いながら手を振って。可賀は過去に思いを馳せるように少しだけ目を細めた。
「まあ、詩織ちゃんは察しているかもしれんが。女房が死んでから、儂は工房を閉じた」
やはり、と詩織は心の中で呟く。
可賀の妻が亡くなったのは、まだ両親が生きていた頃の話である。
その頃は、自鳴琴の常連だったのは可賀ではなく、可賀の妻の方だった。
店を訪れては詩織の成長に目を細めてくれていた老婦人は、夫は今日も工房にこもりきりだとどこか嬉しそうに零していた。
だがある日、その訃報を聞くことになる。
病を患っていたという可賀の妻は、買い物に出た先で倒れ。病院に運ばれたものの、そのまま帰らぬ人となってしまった。
可賀の妻が亡くなった時、詩織と祥也も葬儀に参列した。
切れ切れな後悔を口にしながら咽び泣く可賀の姿は、今でも忘れられない。
可賀が工房を閉じて、自分の意思による作品を作らなくなったのはその後のことで。それ以来、老人は自鳴琴の常連客となった。
「儂は、自分の最高傑作を作り上げる。その夢に取りつかれて、他のものが何も見えていなかった」
創作の道にあるものとして、己の持てる全てを注ぎ込んだ最高の作品を。ただ、それだけを見据え、突き進んだ。
進めども進めども、求めるものには辿り着けず。更に脇目もふらず突き進み、それへと手を伸ばし続けた。
他の全てを置き去りにしていることにも気づけないほどに、ただひたすらに最高傑作を作り上げることだけを求めていた。
そう、取返しがつかないことが起きていることにも、全く気付けないほどに……。
「夢を追い続けるあまりに、儂は女房を看取ってやることが出来なかった。病気で、調子を崩していることすらきづいてやれなかった」
妻が病院に運ばれて、物言わぬ妻と対面して。その時に初めて、彼は妻が重い病であったことを知らされた。
可賀は愕然とした。日々、自分が邁進するのを支え続けてくれていた妻は、何も言わなかった。ただ笑いながら、頑張ってと励まし続けてくれていた。
それに甘えて振り返ることなく進み続けて、結果として妻を失った。
辿り着きたい場所には辿り着けず。支えてくれていた大地に等しいものを失い、彼は進むことも戻ることもできなくなってしまった……。
「見果てぬ夢を求めた結果がそれだ。儂には、もう最高傑作は追えない。妻に、申し訳が立たない」
過去の過ちを自嘲するように顔を歪め、苦い声音で呟く加賀に、奏も詩織も言葉をかけることができなかった。
二人が言葉を失ってしまっているのを見て、可賀は湿っぽい話をしてすまないな、と努めて明るく笑って見せる。
その笑顔がかえって悲しく思えたが、詩織達はぎこちなくなってしまったけれど何とか笑みを返した。
やがて、詩織から希望する器の詳細を聞いて控えた可賀は、いつものようにまた来るといって店から去っていった。
「何だか、哀しいです」
老人が消えた入口の扉を見つめながら、ぽつりと奏が呟いた。
それは詩織とて同じだった。
可賀の妻は、夫が自分の道を邁進していることを嬉しそうにしていた。その人が、今の可賀の姿を望むだろうか。
けれど、確かめる術はない。答えは、亡き人の心の中にしかないのだから。
唇を噛みしめた詩織が視線を向けた先で奏は切ないまでの祈りの表情を浮かべ、続ける。
「可賀さんにも、奇跡が起きればいいのに……」
先日、哀しみを抱え続けていた女性に、この店で起きた奇跡。
触れ合うはずのない過去と現在が。亡き人と、生きる人が交錯するという刹那の出来事。
今でも夢だったのかと思う不思議な時間が、また起きたなら。
それが可賀にとって幸せなことになるか。更に追い詰めることになるのかはわからない。
だから、詩織はその言葉に答えを返せなかった。
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