どうか、あなたの夢を・2

 それから数日して、可賀が注文していた陶器を持参して自鳴琴を訪れた。

 調度他の客が帰ったばかりで、店には詩織達と可賀だけとなった。

 その日は休みだった祥也も店にいて、連絡をくれれば受け取りにいったのに、と言うものの。可賀は、大した手間でもないと笑うばかり。

 まだまだ路面は雪に覆われているのだ。両手を塞がった状態で歩くなんて、と慌てながら詩織がいっても、やはり可賀は笑っている。

 奏は、深みのある色合いで作られた新たな器を手にして、目を輝かせた。


「どうやれば、こんな風に素敵なものが作れるのでしょうか」

「お? 奏君は陶芸に興味を持ったのか? それなら、今度ろくろを回してみるか?」


 心からの称賛をこめて紡がれた言葉に、まんざらでもなさそうに笑いながら。可賀は、時間があるなら教えてやるぞ、と嬉しそうに続ける。

 目を瞬いた後にそわそわと詩織を見る奏が、まるで尻尾を振って様子を伺う大型犬に見えて。笑いを噛み殺しながら、やりたいなら、と頷いて見せた。

 色々なことに興味を持つのは良いことだ。それに、色々と経験していけば、奏の無くした記憶に繋がるものがあるかもしれない。

 詩織が許可しことに、奏の顔には満面の笑みが浮かぶ。

 そんな奏を楽しそうに見つめながら、可賀は彼のいつもの……珈琲とホットケーキの組み合わせを注文する。

 可賀は、自鳴琴を訪れるとまずこの二つを注文する。

 たまに軽食を頼んだりすることもあるが、大体がこれである。

 飽きないのかな、と思いもするけれど。美味しそうに食べてもらえているので、言及せずにこれまで来ている。

 本当にホットケーキが好きなのだな、と思った詩織の頭に、そういえば何故なのだろうと改めて疑問が浮かんだ時。風が少し強くなって、窓がやや揺れた。

 硝子窓の向こうが白くなりつつあることに気付いたらしい祥也が、可賀へと向き直る。


「帰りは送らせて下さい。何だか空模様が怪しくなってきた」

「いやいや、そこまでしてもらえんよ。そう距離があるわけでもない。祥也君は、詩織ちゃんを手伝ってあげてくれ」


 軋んだ音とベルが軽やかになる音が同時に聞こえて、新たな来訪者があることを告げる。

 歓迎の言葉と共にそちらを向いた詩織は、思わず笑顔のままで凍り付いていた。

 あら、私疲れているのかしら、などと何処か虚しい独白を心にしてしまう。

 どうした、と祥也が言ったのが聞こえたが、すぐに彼もまた動きを止めた気配を感じる。

 奏が不思議そうに詩織と祥也の間で視線を行き来させる。何が起きたのかを察せていない様子である。

 彫像になったように動きをとめて立ち尽くしてしまっている二人を不審に思ったらしい可賀が、何事かとつられるように入口を見て。

 そこに立っている一人の女性を見て、一瞬目を見張って。信じられないといった様子で、やはり可賀も固まってしまう。

 奏は、もう何が起きているのか分からない様子で、狼狽えた奏の視線はぐるぐると三人の間を回り続けている。

 足を踏み入れたのは、温和な感じの老婦人だった。

 実に楽しそうに笑いながら、可賀のほうを見つめている。親しみの籠った様子から、可賀との面識があると想像するのは容易い。

 そう、面識があるに決まっている。

 だって、見間違いようがないではないか。この女性は、可賀の……。


清美きよみ、なのか……?」

「他の誰に見えるの? いやね、まさかもう妻の顔を忘れたなんて言わないわよね」


 呻くように問いを絞り出した可賀へ、清美と呼ばれた女性は軽やかに笑いながら答える。

 え、と奏が声をあげてしまったのが聞こえる。

 有り得るはずのない出来事が、また起きたのを知る。

 清美は…‥数年前に亡くなった、可賀の妻だ。過ぎし日に去ってしまった人だ。

 それが、まるで生きている人のように笑い、そこに立っている。

 あの日に起きた奇跡と同じ様に、悔いを抱える人の前に姿を現している……。

 皆が絶句して次なる言葉など出ない中で、清美は失礼するわね、と勝手知ったるといった様子で店内を進み。可賀の隣の席へと静かに腰を下した。


「詩織ちゃん、綺麗になったわね。祥也君も、随分男前になって」

「お、お久しぶりです、清美さん……」


 挨拶としては適当なのかどうか分からないが、朗らかに声をかけてくれる顔見知りだった女性に、詩織は震えないように必死だったが言葉を返した。

 恐ろしいとは思わない。ただ、事態に理解がついていけていないだけだ。

 祥也も同じ様子であり、かけられた言葉に何とか応えようとしている。


「私に、珈琲を頂けるかしら。飲めないけれど、香りは楽しめるから。ああ、支払いはこの人持ちで」


 ああ、可賀さんの奥さんだ、と詩織は思わず心で呟いた。

 この明るく朗らかで、かつしっかり者な感じは、間違いなく数年前に旅立ってしまった、かつての常連客の女性だ。

 詩織は頷いて、手際よく準備をして。少しして、清美の前には可賀の手によるカップに注がれた、香ばしい珈琲が出される。

 妻が目を細めて芳香を楽しんでいる間も、可賀は俯いて無言のままだった。

 そんな可賀の前にホットケーキの皿があることに気付いた清美は、あら、と声をあげた。


「貴方がホットケーキを食べるのを見るなんて。だって、一緒に喫茶店に行って、一口どう? っていっても食べなかったのに」

「……あの店のは、美味そうに見えなかったんだ」


 心底意外そうにいう清美に、可賀はぶっきらぼうにも思える声音で答える。

 それを聞いて、詩織は先程抱いた疑問を深めることとなってしまう。

 どうやら、可賀はもともとホットケーキが好きではなかったようだ。それなのに、今はこうして来るたびに頼んでくれている。

 それはどうして、と詩織が思っていた時。可賀が俯いたまま、言葉を続けた。


「お前が、この店のホットケーキが好きだと言っていたから、食べてみようと思った。食べたら美味かった、それだけだ」


 一見素っ気ない声音で紡がれた言葉を聞いて、詩織はそういうことかと納得する。

 可賀がいつもホットケーキを頼んでいた理由。それは、亡き妻がこの店の味を愛してくれていたから。

 妻を失った後、やってきたこの店で。妻の生きていた軌跡を辿る為に、彼女の好んでいたものを自分も体験しようと思ったから。

 そして、彼女が愛したものを好ましいと思ってくれた。だから、いつも頼んでくれていた。

 抱いていた問いに答えを得られて納得する詩織の前で、清美は首を傾げている。


「それは嬉しいのだけど。本業のほうはどうなっているのかしら? 貴方、工房を閉じているのでしょう? 私、知っているんだから」


 清美の視線は、カウンターに並べられた新しい器に向けられている。

 深みのある色合いが美しい、味わいのあるカップ達。

 だが妻は、それが夫の長年追い求めるものではないと。思うものを突き詰め、持てる全てを注いで作り上げたものではないことに気付いている。

 可賀が、それを求めて進むことを止めてしまったことを、知っている。

 詩織が息を飲んで見つめる先で、清美は溜息をついて肩を竦めた。


「こうして、詩織ちゃんたちに喜んでもらえるのも嬉しいけど。貴方の夢を、ちゃんと追って欲しいのよ」


 頬に手を当てて困ったように首を傾げながら言う清美に、俯いたままの可賀は大きく頭を左右に振る。


「儂は、もう追えない。お前が病気なのにも気づけず、看取ってもやれなくて。自分のことばかりで、死なせてしまった儂には……」

「それは、やめて頂戴」


 深い後悔の滲む声音で可賀が言葉を続けかけたのを、確りとした意思の籠った清美の言葉が遮った。

 弾かれたように顔をあげた可賀は妻を見つめる。

 彼が見つめる先にある妻の顔には、優しい微笑があるではないか。


「貴方の夢はね、私の夢でもあったの。貴方が最高傑作を作った時、私はそれを支えたのよって自慢したかったの」


 その言葉を聞いて詩織は思い出す。

 店に来るたびに、私のことなんて目に入らないのよね、と苦笑する清美の声音はいつも優しかった。

 愚痴にも思える言葉を口にする彼女は、いつも嬉しそうに笑っていた。夫が夢に向かって迷いなく進んでくれていることを、彼女はいつも喜んでいた……。

 戸惑った様子で言葉を失ってしまった夫に対して、妻は更に言葉を重ねる。


「だから、悪かった……なんて言って、手を止めているのだとしたら」

「止めて、いたら……?」


 恐る恐るといった感じで問う可賀に、清美はにっこりと笑って見せながらはっきりと告げた。


「思いっきり引っぱたきますからね。往復で」


 満面の笑みを浮かべて言い切った妻に、可賀は若干蒼褪めて絶句している。

 ああ、やっぱり可賀さんの奥さんだ、と詩織は思ったものの口には勿論出さなかった。

 確かに可賀の妻は昔の女性によくあるタイプの、夫をたてる控えめな女性だった。

 だが、けして耐えるばかりではなかった。時には、腹が立って夫を引っぱたいてきたわ、と笑っていたのを思い出した。

 皆がそれぞれの感情により言葉を失っている中、清美は僅かに苦笑いを浮かべる。


「自分が理由で夢を諦めた、なんて。そちらのほうが、私にとってはずっと辛いのよ」


 それを聞いた瞬間、詩織の心の奥で何かが跳ねる。

 胸が途端に騒めき始める。魂の奥底から、湧き上がるようにして生じる想いがある。


 ――どうか。あなたには夢を追って欲しい。私は、大丈夫だから。


 そう、夢を諦めて欲しくなかった。

 瞳に将来への希望を輝かせて語るひとの、重荷になどなりたくなかった。

 だから、心の中にあるものを押し隠して、微笑んだ。


 ――大丈夫。私は、いつまでもここで……。


 そこで、不意に意識が現実に戻って来る。

 また、一瞬とはいえ物思いに耽ってしまっていた。目の前には、可賀と清美が並んでいて。それを見守るようにして奏が立ち尽くしていて。

 それに、祥也が。


「兄さん……?」

「あ、いや……。何でもない。……何でもないんだ……」


 見れば、祥也も僅かに強張った表情で目を見張っている。

 まるで祥也の中にある深い傷に、目の前の光景が触れてしまったと言う様子で。蘇った後悔に、苛まれているような、辛そうな様子で。

 何もないとは思えず、詩織は祥也に言葉をかけようとした。

 だが、言葉が出ない。何故か、詩織の中にそれを言ってはいけないと自分を戒めるものがある。

 兄と妹がそれぞれに内に抱えた何かにより困惑し言葉を紡げずにいる前で、清美は夫に向かって笑いかける。


「私に会いにくるのは、最高傑作を作ったっていう報せと一緒にして頂戴。そうじゃなきゃ、追い返してやるから」


 例え、本当に到達できなかったとしても。それを追い続けたという思い出話と共に、自分に会いに来て欲しい。

 夢を追う人を支え続けた日々を振り返り、懐かしむように。過ぎし日への愛しみをこめて、清美は夫への願いを口にする。

 今にも泣き出しそうな、戸惑いに満ちた表情で凝視する夫を見て、次いで清美は悪戯っぽく笑う。


「あと、私はね。この店のメニューは全部好きなのよ。だから、話題に困らない為にも、全メニューを制覇しておいてね」

「ああ……。わかった、よ……」


 楽しそうに笑う妻に、可賀はかろうじて笑みを浮かべて、それだけを返した。

 何に対しての『わかった』なのかは、確かに清美に伝わったようだ。

 清美はそれまでで一番優しく、嬉しそうな笑みを浮かべて夫の手に己の手を添えて想いを紡いだ。


 私は、待っているから。

 だから、夢を追い続けた貴方の沢山の思い出をかかえて、いつか逢いに来て――。


 そして、紡がれた言葉の余韻が消えた時……微笑む老婦人の姿は、可賀の隣から静かに消えていた。

 残ったのは、彼が作ったカップに注がれた、少し冷めてしまった珈琲だけ。

 誰も、何も言えなかった。

 妻がいた場所を見つめ続ける可賀に、詩織も祥也も奏も、かける言葉がみつからなくて。

 ノスタルジックな音楽が流れる店内には、暫くの間沈黙が満ちた。

 だが。


「まったく……。注文の多い女房をもったものだなあ……」


 ややあって、口を開いた可賀はしみじみと噛みしめるように呟いた。

 その声には、今に至るまでの想いと、これからへの想いが。彼のうちにある数多の想いがこめられているのを感じた。

 詩織は、優しい苦笑いを浮かべながら、思った。

 彼は、妻がこの店のホットケーキを好きだということしか知らなかった、だから、ホットケーキを注文し続けていた。

 まるで亡き人の想いを弔うように、ただ一つだけを。

 けれど。

 可賀は、次に来るときにはきっと違うメニューを。そしてその次は、また違うものを。

 これから訪れる度に注文してくれるのだろうな、と確信をこめて、心の中で呟いた……。

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