いつかもう一度・2
二人の前には、芳香を漂わせる珈琲のカップがある。
坂出は実際に飲むことは叶わないが、香りは楽しめるという。久方ぶりの珈琲だといって、嬉しそうに目を細めている。
「ケーキはいいのか? 太るぞって言っても止めないぐらい好きなのに」
「……今、食べられるような状況だと思うの?」
狭山も珈琲に口をつける様子はない。俯いて珈琲カップを見つめたまま、かけられた言葉にそっけない言葉で返すだけ。
坂出は、同じ様に珈琲を見つめながら、懐かしむように続ける。
「ガトーショコラが好きだったな。買っていくと一番喜んでいた」
「ケーキに罪はないもの」
詩織達は、もはや言葉のないまま二人のやり取りを見守るしか出来ていない。
聞きたいことなら山ほどあるが、口にすることなどできはしない。唇を噛みしめて強張った表情のまま、ぼつり、ぽつりと会話を続ける二人を見るばかり。
店内に他の客の姿はない。現在と過去が交錯する有り得ない空間が広がる店に、新たな客は一人として訪れていない。
不可思議の中で会話を続けていた狭山の顔に、一瞬皮肉な笑みが浮かぶ。
「それで、何でここに? 化けてでた、ってわけ?」
「智子に、伝えたいことがあったから、かな」
坂出からその言葉が告げられた瞬間、狭山の顔に瞬時に燃えるような怒りが生じた。
弾かれたように坂出の方を向くと、テーブルを叩きつける。カップが音を立てて揺れ、一瞬漆黒の水面が跳ねた。
「伝えたいことなんて、何があるのよ! 私がどれだけ理由を聞いても、教えてくれなかったのに……!」
驚いた詩織が見た先で、頬を赤くした狭山の瞳には涙が浮かんでいた。
坂出は、それを哀しげに見つめたまま、返す言葉を紡げないでいる様子だ。
狭山は、誰に聞かせるでもなく語り始める。
坂出とは、職場で出会った。
惚れたのは、どうやら坂出からだったらしい。
最初こそ、医者との恋愛など面倒だと気乗りがしなかったが。やんわり断っても、坂出はアプローチをやめず。はっきり断っても、坂出はめげず。
ついには狭山が折れて、まずはお試しでということで二人の交際はスタートした。
お互い忙しいけれど、徐々に二人は距離を近づけていき。やがて、本当に心が通じ合い、いずれは結婚をと意識するようになる。
将来を見据えた話が出始めた頃、坂出は突然辞職した。
そして、そのまま故郷に戻るという坂出を狭山は驚いて問い詰めたが、彼は頑として口を割らない。
狭山は、何故理由を説明してくれないのかを責めて。やがて、頑なに口を閉ざす坂出に背を向けて、去ってしまった。
自分から連絡を取ろうとせず、あちらからの連絡もあまりに腹立たしくて拒絶した。
けれどある日、彼女のもとに届いたのは――恋人の訃報だった。
「亡くなった、とだけ聞かされて。どれだけ、私が、私が……!」
狭山の頬を、次々に涙の雫が伝って、テーブルへと落ちていく。
時間がたって落ち着けば、そのうち話してくれるかもしれないと思っていた。けれど『そのうち』は二度とこなかった。
意固地になっている間に、永遠に聞く機会を逃してしまった。
それが、今日に至るまでの狭山の心に消えない傷となり、影を落し続けている。
「智子」
「聞けない」
狭山は俯いて首を左右に振る。拒絶の言葉を紡ぐ声は先程までとは違って弱弱しく。嗚咽交じりに、彼女は亡き恋人の言葉を聞きたくないというように頭を振り続けた。
「だって、私、ちゃんと向き合おうとしなかった。意地になって、そっぽ向いて。そのせいで何も聞けないで終わってしまったのに。私のせいで」
もし、自分が少しでも彼の言葉を聞く姿勢を見せていれば。意地を張らずに何かを伝えようとする彼と向き合って居れば。
残された時間を共に過ごせたかもしれない。彼に後悔を抱かせたまま逝かせることなく、自分だって共に過ごした思い出を哀しいものと思わずに済んだかもしれない。
涙交じりの声でそう言いながら泣き続ける狭山を、坂出は暫くの間沈黙したまま見つめていた。
見守る者達も、かける言葉がない。いや、今のこの二人の空間に、言葉を挟める者などいない。
満ちた、痛い程の沈黙を破ったのは坂出だった。
「それでも、俺は聞いて欲しい」
あまりに静かで穏やかで。それに優しい言葉に、弾かれたように狭山は坂出を見つめた。
「智子のせいじゃない。俺が、勇気を出して伝えられていれば良かったんだ」
心に残った悔いを口にする坂出の声音は苦く、未練が滲んでいる。
透明な雫を幾つも零しながら目を見張る恋人へ、坂出は苦く笑いながら続けた。
「何回も言おうと思ったけど、言えなかった。今思えば。自分自身が、癌だって認めたくなかったのもあると思う」
病は、音もなく恋人との未来を信じていた坂出を蝕んでいた。
若ければ若い程、癌の進行は早くて。気が付いた時には既に手遅れだったという。
坂出は自分の残された時間が少ないと知ると、病院を辞する決意をした。
だが、何故病院を辞めるのかを、狭山に言えなかった。
言えば、自分も辞めると言い出し始めるのが見えていたから。これから先を生きて行く彼女のキャリアを、ふいにさせることはしたくなかった。
本当のことを話せば、狭山は彼に残された時間の為に、自分の持つ全てを費やそうとする。それだけは、させたくなかった。
「智子はこれからも生きて行く。やりたいことがある。それなら、早く俺のことは忘れたほうがいいと思って何も言えなかった。……本当は、聞いて欲しいことが沢山あったのに」
事情を伏せたまま、坂出医師は病院を辞めた。
そして故郷に戻り、病で没した。
恋人に伝えたい言葉を、終ぞ伝えられないまま。
詩織は二人を見つめながら、胸が痛い程に苦しいと感じていた。
相手のことを考えるあまり、本当の事をいえなかったという事実。
それは逝こうとするものの心残りとなり、残されたものにとって消えぬ傷となった。
その事実が、何故か詩織の胸に不思議な程に突き刺さり、心の奥底を揺らす。
――夢を追い続けるあのひとの、重荷になりたくない。
心の奥底で、誰かが寂しげに呟いている。
胸が痛くて苦しい。息が出来ないと思う程に、詩織の中に哀しみが満ちている。
――でも、わたし、本当は……!
魂の奥底で、誰かが灼け付くような祈りを、叫んでいる……。
「詩織さん?」
「奏……。ごめん、大丈夫……」
呼びかけられて、詩織は我に返る。
気が付いたなら、心配そうな表情をした奏に覗き込まれていた。
今、自分は一体何を考えていたのかと思い、思わず息を吐く。
心の内の戸惑いを落ち着けるように息を整えている詩織の横で、祥也が重々しく口を開いた。
「坂出、一つだけいいか」
「なんでしょう、祥也先生」
険しい表情で見据えながら言う祥也に坂出は一つ頷いて見せ、大きく溜息をついた祥也は深い溜息と共に告げた。
「お前は、超をいくつ付けていいかわからない大馬鹿野郎だ、以上」
そして、祥也はそれきり固く唇を引き結び、沈黙してしまう。
祥也を見て優しく苦笑していた坂出は、再び俯き、静かに涙を零していた狭山へと視線を戻す。
「智子」
「……何よ」
狭山の顔に、先程までの怒りはなかった。
あるのはただ哀しみと、切なさと。伝う透明な雫は途切れることなく、素っ気なく応える彼女の頬を次々と伝って落ちる。
俯いてしまっていた恋人をのぞきこみながら、坂出は一瞬だけ躊躇って、やがて静かに一つの願いを口にした。
「都合がいいと言われるかもしれないが。お前の夢を諦めないでくれないか? 認定をとるのも、止めてしまっているだろう?」
「もう、一緒に進んでくれる貴方がいないのに?」
二人は、どうやら将来はある方向にて共に道を歩もうとしていたらしい。その為に、狭山はより専門的な知識や技術を求めようとしていたという。
だが、それは止まってしまっていた。何故なら、共に歩もうとした人が居なくなってしまったから。取得を他から勧められても、頑なに断り続けているらしい。
けれど、亡き人は諦めないでくれと狭山に願うのだ。
「それと」
「まだあるの?」
都合よすぎ、と不貞腐れたように呟く狭山を見つめながら。一瞬おいて、坂出はもう一つの願いを静かに口にした。
「生まれ変わったら、また会ってくれるか?」
坂出の声には、隠しようもない変わらぬ想いがあった。
嫌いあって別れたわけではなくて。心からいがみあって別れたわけではなくて。
お互い想いあって、それでも離れてしまった手。
それは、今は繋がらない。けれど、いつかを信じることはできるだろうか。
それを、彼女は望んでくれるだろうか。そんな想いが、見守る者達にも伝わってきて。
沈黙したまま、狭山は俯き続けていた。
二年の時を経て伝えられた、亡き人の想い。
どれぐらい、彼女はそうしていただろう。どれほど、心のうちの葛藤と向き合い、今までの自分に想いを巡らせていたのだろう。
もう、彼女は口を開かないのではないかと、詩織が思いかけたその時だった。
狭山は、顔をあげて。そして、まっすぐに坂出を見つめた。
「仕方ないから、また会ってあげるわよ」
彼女の顔には、少し不貞腐れたような、照れたような。けれど、どこか嬉しそうな表情があった。
目にした坂出の顔に、弾けるような笑みが浮かんだ。
一瞬泣き出しそうな程に喜び満ちる表情で、坂出は告げた。
また、いつか出会おう。
そうして、もう一度恋をしよう――。
呟きの余韻が消えた時、既に坂出の姿はそこになかった。
残されたのは、少しだけ湯気をあげる珈琲カップだけ。
先程までそこに誰かが居たなどとは到底信じられないほど、何も残されていなかった。
詩織も、祥也も奏も、無言のまま狭山を見つめていた。
狭山の眼差しは、暫くの間亡き人が存在した場所に据えられていた。
だが、やがて。
「詩織ちゃん、ケーキも貰える?」
「あ……。は、はい!」
詩織へと眼差しを向けた時には、狭山の顔にはいつもの朗らかさが戻っていた。
零れ続けた涙を勢いよく拭って、詩織達へと笑って見せている。
驚いて一瞬反応が遅れたが、すぐに頷いて用意し始める詩織を見ながら、狭山は少し悪戯っぽく呟いた。
「あいつ、本当は自分もケーキが大好きなのよ。ここの美味しいやつ、食べられなくて悔しがるといいのよ」
やーい、と冗談めかして呟きながら、狭山は残されたカップを見つめている。
その眼差しには、過去を悔いる光はもうなかった。
少しだけ寂しげではあったけれど。それでも、過ぎし日を確かに懐かしむ優しさがあった……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます