いつかもう一度・1

 自鳴琴にすっかり奏の存在が定着してから、また時間が過ぎた。

 今は、詩織と奏、そして祥也で開店準備をしていた。

 詩織の視線の先では、最終確認と言った様子で奏が各テーブルの様子を見て回っている。

 相変わらず奏の身元についての手がかりはなく、奏の記憶は戻らない。

 検査をしてもやはり異常なしで、祥也も同僚の意志も首を傾げている。

 当面の間、という条件をつけていた祥也だが、先の見通しが全くつかない状態であっても、もう諦めろとは言い出さない。

 やはり奏に対してどこか一線を引こうとしている様子こそあるものの、追い出せとは絶対に言わないだろうと、詩織は思っている。

 何だかんだで懐に入れたものに対しては優しいし、そうそう簡単に突き離せない。自覚があるか無いかはわからないが、人が良いのだ。

 そんなことを考えながら、準備を手伝ってくれている兄の横顔を見上げていると、視線を感じたらしい兄と目があった。


「……何だ」

「いや、何でもない」


 問いを口にする兄を見て、詩織はすぐに首を左右に振って答える。

 だが、自然と表情がとても嬉しそうなものになっていたから、兄はわずかに怪訝そうな様子で何か言いたげだ。

 詩織は、自然に話題を逸らそうと未だ開かぬままの扉へと視線を向ける。


「今日あたり、狭山さんが顔を出してくれるかな」

「そういえば、最近いらっしゃいませんね」

「どうだろうな。ここのところ、病棟は入院でごった返し状態だから」


 そろそろ開店時間であるとしてカウンターから出ながら、詩織が常連の女性の名前をあげると、奏が頷きながら答えた。

 本日のケーキは彼女が特に好むガトーショコラなのだが。ここ最近姿を見せない彼女は、今日来てくれるだろうか。

 看護師として病棟務めをしている狭山の休みはカレンダーに準拠しない。休みはなるべく規則的に取りたいらしいが、そうそう願い通りにはならないと以前零していた。

 先日訪れてから少し日数が経過しているし、そろそろまた顔を見せてくれるだろうか。そんなことを考えながら詩織が軽い希望をこめて言うと、応えるように祥也が呟く。

 ここに来る気力もないかもしれない、と溜息を吐く兄を見て、どういうことだと詩織は首を傾げてしまう。


「ここ最近路面凍結が著しいせいで。救急指定日は、転倒による骨折の行列。それにより整形患者が多い病棟は修羅の園だ」

「……なるほど」

「大変なんですね……」


 つまり、あちこちで転倒して身動きがとれなくなり、救急車で運ばれる人間が多いということで。骨折が明らかになれば、そのまま即日入院となるようで。

 そして、狭山が勤務しているのは整形外科の患者の入院先となる病棟である。

 それは確かに修羅場確定に違いない、と詩織と奏は思わず何とも言えない表情になってしまう。


「そこに加えて、院長がなあ……」


 ぼやくようにして言う祥也に、詩織は言葉に困ってしまう。

 祥也の勤務先の院長は、経歴はかなり立派なものであるし、研究者としてはそれなりに有能であるらしい。

 ただ、問題なのは。


「院長は思いつきで行動するからな……。回診の度にそれに振り回される病棟スタッフの方が大変だろうさ」


 けして悪い人間ではないし、スタッフに対しても人当たりが良い。だが、その時良かれと思った行動をそのまま実行に移そうとするのが玉に瑕らしい。

 事前の手回しなどなく、思いついたその場であれこれと指示を出す。

 院長の指示である以上後回しにもできなくて。ただでさえ日々の業務に追われ忙しい行頭にとっては大変だろう。

 振り回されるのは病棟スタッフだけではなく、祥也達も同様なようであり、時折こうして愚痴を零している。


「まあ、看護師さん達もなかなかなもので。そう言い出すだろうなって思っていました、って予測して既に対策済みなんだが」


 だから自分は彼女達に頭が上がらない、と感心したように言う祥也。

 改善策をその場で指示し始めるトップに、現場はすっかり慣れたもの。傾向と対策はばっちりであり、既に言動を予測して事前対応しているという。

 ベテランは凄いのだな、と詩織も感心していると、祥也は更に続ける。


「狭山さん程のエース級ともなると、先手を打って誘導しているし」


 狭山は、病棟においても主戦力であるという。

 彼女がその日のリーダーを務める日は、病棟がスムーズに回っていると、祥也は感心した風に頷きながら言う。

 気さくな常連客の女性は、看護師としても大層有能であるとか。

 院長への対応も慣れたものであり、必要な指示だけもらい、他の行動を一切カットして、余計なことを言い出す前に次へと行かせるらしい。

 言葉にはしないものの、詩織は心の中で孫悟空とお釈迦様みたいと思う。

 人物的にも裏表のない気配り上手、上からは一目置かれ、下からは慕われていると聞いて、狭山らしいなと頷いた。

 だが、そこで祥也の表情に僅かに翳りが生じる。


「まあ、時期的にそれだけじゃ無いとは思うが」


 祥也の視線の先には、カレンダーがある。

 今の時期だったな、と独白のように呟く祥也の横顔を見つめながら、詩織はふとあることを思い出す。

 そういえば、毎年狭山はこのぐらいの時期に姿を見せなくなっていた気がする。

 何かあるのだろうか、と思って兄を見るけれど、祥也はそれ以上言及しようとはしない。

 気にはなるけれど、祥也が口を閉ざしてしまったのなら、詩織から問うことはできない。

 少しだけ重いものとなりかけた空気を打ち消そうと、努めて明るく詩織はそろそろ開店、と言いながら入口へと駆け寄った。

 僅かに軋んだ音とベルの音と共に扉を押し開けたなら、外に積もっていた雪がはらはらと落ちる。

 札を開店中にかえて、立て看板を表に出した時、不意に声をかけられた。


「もう、入って大丈夫かな?」

「はい、どうぞ!」


 店が開くのを待っていたのか、入口の傍には一人の男性が居た。

 温和で理知的な雰囲気の男性だった。

 不思議に渋い感じの印象を与えるが、顔立ち自体は若い。多分、年齢としては祥也と同じぐらいか、少し上くらいではなかろうか。

 寒い中を待たせてしまったことに慌てながら、詩織は扉を開いて男性を招きいれる。

 礼を言いながら中へと入った男性に、お好きな席にと声をかけた瞬間、何かを落としたような鈍い音がした。

 一体何事だとそちらを見れば、祥也が愕然とした面もちでこちらを見ている。その横では、白湯と用意しようとした奏が祥也の様子に驚いて、手を止めてしまっている。

 足元には洗いかけと思しきポットが転がっている。多分、驚いて取り落としてしまったのだろう。

 手を、ポットを持っていた時のままの形にしたまま、祥也は完全に凍り付いたように動きを止めてしまっている。

 兄が日頃見せることのない驚愕ぶりに、僅かに顔色をかえて詩織が問いかけようとした時。祥也は、喉奥から絞り出すように、掠れた問いを口にした。


「お前、まさか。……坂出さかいで……?」

「お久しぶりです、祥也先生」


 兄の顔からは、完全に色が失せてしまっている。掠れた声はかすかに震えていて、兄がどれだけ動揺しているのかを伝えてくる。

 対して、坂出と呼ばれた男性は変わらぬ落ち着いた様子で、祥也に対して頭を下げた。

 言葉を失ったまま男性を凝視する祥也へ、詩織は怪訝そうな視線を向ける。


「兄さん、どうしたの?」

「そんなはずがない……」

「祥也さん……?」


 恐る恐る問いかけてみるけれど、それすらも聞こえていない様子の兄は呆然としたまま呟いている。

 兄の動揺は詩織にも伝わり、徐々に詩織の顔にも戸惑いが浮かび始める。

 この男性は一体何者なのだろうか。祥也の知り合いということは医師なのかもしれない。

 けれど、兄はこの坂出という人がここにいることを『有り得ない』と思っている。自分の目の前に現れたことに対して、日頃見せたことのない程に動揺している。

 奏の戸惑いの滲む呟きも、聞こえていない様子だ。

 坂出は、静けさを湛えた瞳で祥也を見つめている。

 詩織が、意を決して坂出に向けて問いを口にしようとした瞬間。祥也の呻くような呟きが聞こえる。


「俺が知っている坂出は……。二年前に、病気で死んだ……」

「え……?」


 今度は、詩織達が凍り付く番だった。

 今、兄は何と言ったのだろうか? 知っている坂出という人物が、二年前に亡くなっていると……既に故人であると、言ったような気がする。

 まさか、と笑いたい。何を言っているの、と冗談めかして言いたい。でも、あまりに真剣に驚愕している祥也を見れば、言えるはずがない。

 祥也の知っている坂出という人物は既に死んでいる。

 それなら、この人は誰なのか。確かに兄がその人物であると認識し、本人もまたそれを認めたこの人は。

 詩織と奏もまた、坂出を凝視してしまう。

 三人分の驚愕の眼差しが自分に集まっていることを感じた坂出は、かすかに苦笑いを浮かべながら口を開いた。


智子ともこに、会いたくて」


 え、という詩織と奏の驚きの呟きが綺麗に唱和した。

 智子、という名前を詩織は何処かで聞いたことがあった気がする。混乱して平衡を失っている脳裏を必死に探って、探って。

 そして、狭山の下の名前が智子であったことを思い出す。


「あの、もしかして……狭山さん、のことですか……?」

「ああ、狭山智子で間違いない」


 震える声で問いかけると、坂出はゆっくりと頷きながら肯定する。

 智子、が狭山であることはこれで分かった。だが、次は新たな疑問が生じる。


「あなたは、狭山さんの……」

「恋人、というやつだ。いや、だった、かな。自然消滅みたいになってしまったから……」


 今度は、違う驚きに詩織達は目を瞬いた。

 以前、祥也に浮いた噂がないと言ったことがあるが、それは実は狭山も同じことだった。

 少しきつい印象を与えるが、実際は気さくで面倒見がよくて。そして、凛とした感じの美人である狭山には、恋人の影が全くなかった。

 恋人の話になると苦笑いをしながら、仕事が恋人と冗談めかしていう彼女は、どこかその話題を避けている印象があって。だから、あまり深く問うことはなかった。

 けれど、狭山にはこの坂出という男性がいた。

 そして、その男性は二年前に亡くなっている……。

 その場の人間がそれぞれに凍り付いてしまったように立ち尽くす中、満ちかけた沈黙を破って言葉を発したのは祥也だった。


「坂出。二年前のこの時期に死んだはずのお前が、今更なんで現れた。お前が死んだ時、狭山さんがどれだけ」

「伝え損ねてしまった事があって心残りだったけれど。今、機会をもらえたから」


 やや低く、相手を探るような声音で言う祥也を見つめて困ったように笑いながら坂出は言う。

 声にはやや哀しげな色が滲み、そこには未練があった。

 けれど、未練故に怨霊になって彷徨い出たという様子には見えなくて。そもそも、本当に亡くなっているようにも見えなくて。

 機会をもらったという言葉の意味はわからないが、悪意を以てこの店に足を踏み入れたとは思えない。

 それ以上何を言えば良いのか。何をどう問えばいいのかわからずに、三人が再び言葉を失ってしまっていた、その時だった。


「こんにちはー! いつものお願い!」


 聞きなれた声がして、景気の良いベルの音と共に勢いよく扉が開いて、女性が店内へと足を踏み入れた。

 寒かった、と呟きながら頬を赤くして。詩織達へと笑顔を向けたのは、紛れもなく狭山だった。

 まさしく今話題の主となっていた女性が現れたことに詩織達は更に絶句してしまい、咄嗟に何時ものように歓迎の声をかけるとも、それどころか動くことすらできない。

 呆然と新たな人影を凝視してしまっている詩織達を見て、普段とは何かが違うことに気付いたのだろう。

 狭山は怪訝そうにしていたが、やがてカウンター前の先客に気付く。

 その人物へと視線を向けて、一度はそのまま視線を詩織達へ戻しかけて。一呼吸後に、弾かれたようにもう一度その人物を見据えた。

 そして、信じられないといった様子で目を見開いて、呆然と立ち尽くす。

 空気を求めるように喘ぎながら、いつもの朗らかな感じは何処かへ消えてしまっている。


祐二ゆうじ、なの……?」

「久しぶり、智子」


 狭山の顔色は見てわかるほどに見る見る内に蒼褪めていく。恐怖ではなく、驚愕に震えながら、絞り出すようにして問いを口にする。

 そんな彼女の様子を喜びと哀しみとを同時に宿した瞳で見つめながら、坂出は久々に再会した、といった風に言葉をかけた。


「あなた、生きて……? 死んだなんて、嘘だった……?」

「ごめんな。死んだのは本当だ。……今は、ほんの少しだけ機会をもらっただけなんだ」


 すっかり蒼褪めて。呻き声ともつかない言葉をようやく口にする狭山は、今にも倒れてしまいそうな様子で。

 詩織はどうしていいか分からず立ち尽くしていた。それは祥也も同様で、現れた亡き同僚と、狭山の様子を見守るしか出来なくて。

 けれど。


「あの! ひとまず、お二人ともこちらにどうぞ!」


 強張った空気を破ったのは、奏の一生懸命な叫び声だった。

 勇気を振り絞っていったという様子の奏は、狭山の定位置とも言える席と、その隣の席を示して息を切らせている。

 肩で息をするほどに必死に声をかけた奏に、一瞬目を瞬いた狭山と坂出だったが。やがて、二人は無言のまま動き出して。

 ……少し後、カウンターには並んで腰を下ろす、かつての恋人達の姿があった。

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