『ここに居たい』と欠けた『何か』
月はもう弥生が見え始めた頃ではあるが、元々春の訪れ遅い北の大地。雪解けの片鱗もまだ遠い。
外の雪が吹きすさぶとも、自鳴琴の店内はいつも温かで穏やかな空気に満ちていた。
奏という変化も、元々ごく自然にそこにあったもののように受け入れ、取り込んで。何時か何処かで訪れたことがあるような、懐かしく優しい時間が流れ続けていた。
その日も、自鳴琴は古い客と新しい客とで、大いににぎわっていた。
「狭山さん、ひざ掛けをどうぞ」
「有難う、奏君! もう、すっかり私のいつもの、を覚えちゃったわね」
「奏! あっちのテーブルの注文揃ったから運んでー!」
「はい!」
注文を運ぶ合間に、訪れた狭山の元へ奏がひざ掛けを運び。
礼をいって狭山が受け取った次の瞬間には、詩織から注文が出来たと声がかかる。
笑顔で応じた奏がもうすっかり慣れた手付きでトレイに出来上がった品々をのせて、軽やかなまでの身のこなしでテーブルの女性客のもとへ運んでいく。
「何だか、貫禄すら感じる慣れ方だな」
「そうですね。手伝い始めて半月程度とは、思う人は少ないでしょうね」
何時ものように、常連達はカウンターに並んで座っている。
可賀が感心したように呟けば、珈琲のカップを手にした時見が同意して頷く。
手を休めることなく次々と注文の品を用意しながら、確かにと詩織も心で同意していた。
正直、今日は本当に奏が居てくれて助かったと思う。
祥也が手伝ってくれることが増えたとはいえ、兄の本業はあくまで医者だ。当然ではあるが、勤務日は店にいられない。
それに、いくら祥也がタフだといっても、やはり休みや帰宅後は休んで欲しい。好意に甘えすぎることはしたくない。
今日のように開店時間中もなかなかに目の回る忙しさであり、閉店後も後片付けに奔走しそうな日は、奏の有難さをしみじみと感じる。
常連達が感心したように、奏はもうすっかり身のこなしも受け答えも熟練の店員の様相だ。
今の奏を見て、誰が働き始めて一月ほどであり、更に言えば身元すらわからない記憶喪失の青年であると想像するだろうか。
奏の記憶は、まだ戻らぬままであり。警察の手をもってしても、詩織や祥也の知る限りの手を尽くしても、身元に繋がる手がかりすら掴めない状態だった。
気付いた時には、何も覚えていなかった。ただ、この店にある、あの鳴らないオルゴールを探して彷徨っていたという。
何故オルゴールを探していたのかもわからない。けれど、オルゴールを前にした時、ようやくここに来られた、という思いが心の中に満ちたという。
しかし、そこから奏が誰であるのかに繋がるものは、終ぞ呼び起こされてくれなかった。
不発に終わる調査の報せを聞く度に、詩織達には見せないようにしながら、不安そうな表情を浮かべているのを知っている。
きっと、心の中では様々な不安や葛藤があるだろうと思う。
今に至るまでの自分を構成するものから切り離されて、信じてもなかなか信じてもらえない状態のまま。手探りで当て所ない旅をしているような状態で。
だが、奏はそれでも笑顔を絶やさない。
自鳴琴に辿り着けたこと、詩織や祥也、常連達と出逢えたことを幸運と思って日々頑張っていきたいと言っていた。
奏があまりに健気で、目頭が熱くなることがある。彼が望む答えが早くみつかりますようにと、願う……。
「詩織さん?」
「あ、おかえり。ありがとう」
物思いに沈んでいた詩織は、不意に近くで聞こえた呼びかけに思わず目を瞬く。
気が付いたら、頼んだ品を全て届け終えた奏が戻ってきていた。不思議そうにこちらを見る奏に、笑みを浮かべて感謝を告げて、詩織は店内を見回した。
談笑する人々の前には、滞りなく間違いなく、注文の品がある。
手前テーブルの男性の前には香ばしい匂いの珈琲と共に、自鳴琴の特製サンドイッチ。
朝に近所のパン屋から焼きたてパンを買ってきて作るサンドイッチの具は、ふわふわの卵焼きと照り焼きチキン。これは、詩織が小さいころから大好きだった組み合わせ。
男性と向かって座る女性の前には、青みが買った緑が綺麗なクリームソーダ。
胸が透き通るように爽やかな風味の父直伝ソーダに自家製アイスを乗せたグラスを前にした女性は、何だか贅沢な気分と笑っている。
少し離れて数人の女性客。
観光途中に寄ったという女性達の前には、少し離れたところにある工房で作られた陶器のカップに盛りつけられたパフェがある。
中身はスポンジ、アイスとチョコレートアイス。それに、フルーツと小さなクッキーといった、とりたて特別なものではないけれど。何だか不思議に懐かしい感じ、という声が聞こえる。
あちらのテーブルの男性にはまろやか風味にこだわった昔ながらのナポリタン。こちらのテーブルの老夫婦には、これも昔ながらの固めのプリンに生クリームを添えて。
そして、常連の三人もまた、それぞれ「いつもの」組み合わせを前に、美味しそうに食べてくれている。
押し寄せるようにきた注文を見事に捌き切った達成感に浸りながら、詩織はそれぞれのテーブルに満ちる笑顔と会話を見つめていた。
「詩織さん、嬉しそうですね」
「それはもう。皆さんが美味しそうに食べてくれているし」
軽く伸びをしながら楽しそうに笑っていう詩織を見て、奏は更に笑みを深めた。
それがあまりに嬉しそうで、詩織は思わず軽く首を傾げてしまう。
「どうしたの?」
「いえ、詩織さんは本当にこのお店が好きなんだなって」
きょとんとした表情で言う詩織へと、奏は嬉しそうに頷きながら答えた。
まるで目があって尻尾を揺らす大きな犬のような、どこか可愛らしくすら思える様子で言われて、詩織は若干照れてしまう。
視線を少し揺らしつつ、何と答えたものかと迷っていると、奏が続けた。
「高校を卒業してすぐ、お店を手伝い始めたって聞いたのですが……」
「うん、そうなの。一応、進学も勧められてはいたけど、特にこれという希望の進路もなかったし……」
もう、あれから何年になるのだろうと目を細めつつ、詩織は頷いた。
まだ自鳴琴に母の姿があった頃。高校三年生の詩織は、進路の選択という人生の一大事に直面していた。
進学するか、就職するか。どうするかを問われて、詩織が選んだのはこの店を手伝いたいという答えだった。
「最初は、一度ぐらい他で就職するか。進学するかしなさい、って言われたけどね」
「そうだな。千佳子さんもかなり戸惑っていたものなあ」
困り顔で言う詩織の言葉を聞いて、可賀が当時を思い出すように言い。それに倣うように狭山達も頷いている。
母は最初、高校卒業後に店を手伝いたいと言った時、あまり良い顔をしなかった。
当時はまだ兄が研修医として働き始めた頃だったから、家計を心配してのことだと思ったらしい。
自慢をするわけではないが、詩織は高校の成績がかなり良いほうだった。教師からも、市外の有名大学への進学を勧められていた。
母も、仕送りなら何とでもするからと言ってくれたが、詩織が断り続けたのだ。
どうして、と問うような奏の眼差しを感じながら、詩織は軽く苦笑いする。
「どうしても、ここから離れたくなかったというか。何処にも、行きたくなかったの」
父も兄も、心配して言葉を尽くしてくれた。けれど、詩織は頑ななまでに首を横に振り続けた。
何処にも行きたくないと思ったのだ。この場所を離れて、他のどこにも行きたくないと。
ここを離れるのも嫌だし、知らない土地にいって知らない自分になってしまうかもしれないと思うだけでも怖かった。
たまらなく嫌で、怖くて。しまいには涙しながら、どこにも行きたくない、変わらないままでここに居たいと訴える詩織に、両親も兄も大分困惑していた。
函館の外に居た頃のことは覚えていない。
詩織は、ここで育った。鳴らないオルゴールのあるこの店の、通り過ぎた時の何処かにあったような懐かしい時間が満ちる場所が、大好きだった。
変わらないままで、ここに居たい。この場所に。あのオルゴールのあるこの店に、ずっと、ずっと――。
「まあ、詩織さんの人生は詩織さんのものだ。最終的に本人が選び、周囲も納得したならそれでいいさ」
時見が締めくくるように言うのを聞いて、ふっと意識が現実に戻って来る。
いけない、と自分を戒めた。また物思いに耽りすぎて、目の前にいる奏のことも、和やかな談笑が満ちる店内のことも一瞬意識から消えかけた。
詩織は、やや心配そうに自分を見ている奏に笑って見せながら。肩を竦めて、話題を切り替える。
「私は、むしろ兄さんの方が気になるかな。実はけっこうもてるのだけど、全く浮いた話がないから」
困ったことだ、と笑う詩織は自分では気付いていなかった。
兄の恋愛について触れる時に、ほんの僅かだけ顔がつらそうに歪んでいたことに。気付いていたのは、それを間近で見ていた奏だけだった。
「そうなのよね。バレンタインには、病棟からのチョコの他に、個人的にアタックしにいく人もいるのだけど。今までみんな玉砕しているわ」
狭山が過去を振り返りつつ、溜息交じりに言う。
勤め先の病院では、看護師一同からということで、病棟から医師へとバレンタインにチョコレートを送るらしい。
もらってきたチョコレートのご相伴には詩織も預かるし、ホワイトデーに各病棟へのお返しだという大量の菓子を抱えて出勤していくのは毎年恒例の光景だ。
狭山によると、個人的に兄に想いと共に贈り物をしようとするスタッフもいるらしい。しかし、兄は禍根とならないように最大限言葉に注意し、けして受け取らないのだという。
かなりもてるというのに、浮いた噂の一つもないことに逆に不安を覚えはするのだ。
「まあ、何となく察してはいるけれど……」
「何か、自分は欠けているから。誰にも応えられないって言っていて。確かに時々すごく口うるさいことはあるけど、優しいし頼りになるし。見た目だってあの通りで、一体何が足りないんだろうなって」
狭山が何か言いたげな様子で見ていることにも気づけず、口元に手を当てて難しい顔をしながら詩織はつらつらと述べる。
祥也がかつて言っていたのだ。自分には決定的に『何か』が欠けていると。だから、誰にも応えられないし、応えたくないと。
その時、詩織が兄の横顔に見たのは……強い罪悪感だった。
理由の分からない罪悪感を伴う欠損故に、自分は人間としては不確かであるからと一歩踏み出せずにいる。かつて、兄がそう語ったのを詩織は覚えている。
「焦らなくてもいいと思うさ。いつか、時は巡って来る。祥也さんにも、詩織さんにも、きっとね」
すっかり考えこんでしまった詩織へ、時見が穏やかに笑いかけながら言った。
まるで年長の男性に諭されたような感じを覚えながらも、詩織は黙って一度だけ頷く。
それを見ていた奏は、ふと先日のことを思い出していた。
詩織の中には、頑ななまでに『変わらぬままで此処に居たい』という思いがある。
祥也は自分の中に欠けた『何か』があることを感じ、それ故に他を受け入れることを自分に許さない。
そして、二つの思いにふれると、奏は不思議なまでに胸が騒めくのを感じる。失ったはずの過去の向こうに、手が届きかけるような何とも言い難い感覚がある。
思うけれど、それぞれに抱えるもの故に『違う形』になれない。満ちることのなかった何かゆえに、歩き出せない。
包みこむような懐かしさ満ちる空間の中で、何故だか詩織も奏も、不思議な切なさともどかしさを覚えていた……。
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