拾い物は何?
「え……?」
詩織は、思わず間の抜けた声をあげてしまう。
冗談としか思えない言葉である。このタイミングで何を、と思いもする。
だが、それが口から出るのを封じる程に青年の顔にある戸惑いは強すぎて。次第に狼狽を露わにするのを見れば、冗談でしょうと笑うことも出来ない。
自分が誰かわからない、というのは物語の中でならある状況かもしれない。
だが、ここは確かに現実である。そんなこと、あるわけが。
「何も、分からないのです……。自分が誰なのか、何処からきたのか。このオルゴールを探していたこと以外、何も……」
詩織の困惑はますます深くなり、返す言葉が消失してしまう。
冗談ですよねと言いたいが、それを封じる程に青年の表情は深刻で。切ない程に悲痛な表情は、演技であれば名優になれるという程だ。
記憶喪失、という言葉が脳裏を過ぎった。
まさか、という言葉が頭の中を埋めつくす。
物語の中でなら聞く話であるが、現実に記憶を無くしてしまった人間になど、今までお目にかかったことがない。
本気で青年は自分が誰かわからないというのか。何処からきたのかも、過去が全く彼の中には存在しないというのか。
それなのに『オルゴールを探していた』ということだけは残っている……?
謎は謎しか呼ばず、困惑は更に深まるばかり。冗談と笑い飛ばせたらどれだけいいだろうと思うけれど、何かが心の中でこれはほんとうだ、と叫んでいる。
どうして、どうすればいい。
詩織の中では幾つもの問いが渦巻いて鬩ぎ合っていて、一つとして青年に対する言葉を口に出来ない。
本当に記憶喪失だとして、それなら詩織は彼に対してどう対応すれば良いのか。
狼狽えて青年の動向を見守るだけになってしまっていた詩織の前で、青年の身体が更に傾いだ。
まるでオルゴールに縋りつくように、詩織の目の前で青年の身体から力が抜けて崩れ落ちる。
「え……? ち、ちょっと⁉ お客さん? どうしました⁉」
もうお客かどうかもわからないけど、詩織にとって彼の呼び方は今の処それしかない。
もしやと蒼褪めておそるおそる様子を確かめたところ、寝息とも思える吐息が聞こえ、まずは安堵する。
表情は先程の悲痛で切羽詰まった様子はなく、どこか無邪気であどけなくすらあって。詩織はますますもって、戸惑いと疑問を深くする。
閉店間際に訪れた不思議な青年は、ただひたすらにこの音を失くしたオルゴールを探してきた。それ以外の記憶も何もかもが無い。
どうすればいい、と青年を凝視したまま固まってしまっていた詩織の耳に、不意に聞きなれた声が飛び込んでくる。
「詩織? どうした?」
弾かれたようにそちらを見たならば、勤めを終えて帰宅した祥也がドアの合間から顔を覗かせていた。
思いの外早い兄の帰宅に、僅かに驚く。
今日は早めに仕事を切り上げることが出来たらしい。
祥也は怪訝そうに詩織を見ている。兄の居る場所からはカウンターが調度死角になって、青年の姿が見えていないのだろう。
どう説明してよいか分からず、戸惑いの表情で詩織は何とか口を開いた。
「あ……お、お兄様」
内心の狼狽が表れた為に、おかしな呼び方になってしまった。
すると、祥也の表情が目に見えて強張る。
そして息を吸ったかと思えば大きく溜息を吐いて、半眼で詩織を見据えてくる。
一体どうしたの、と詩織が問いかける前に、祥也は殊更重々しく告げた。
「詩織、今度は何を拾ってきた」
「え?」
問われて、詩織は思わず目を瞬き、首を傾げてしまう。
突然の質問の意図が理解出来ずにきょとんとした表情で自分を見つめる妹に向かって、兄は渋い顔で更に言葉を続ける。
「お前が、その呼び方をする時は。大概、猫か犬か、何か拾ってきた時だ。毎度里親探しに突き合わされていれば、否が応でも察する」
痛いところを突かれて、思わず呻いてしまう。
確かに、と心の中で呟いていた。
詩織は、何故か捨て猫や犬に遭遇する率が高い。そして、見かけてしまえばそれを放っておくことなど出来ない。
震える動物を見捨てられず、結果として保護してしまう。そして、里親探しに奔走することとなるのだ。
そして、その後里親探しに奔走するのは詩織だけではない。毎回、祥也もあちこちに声をかけて、伝手を頼って。新たな里親探しに付き合わされている。
思えば、動物を保護してきた時、確かに不思議な呼び方をしてしまっていた気がする。
なら、咄嗟に微妙な呼び方が出てしまった詩織に、祥也がまた何か拾ってきたのかと思うのも無理はない。
しかし、違うのだ。拾ってきてなどいない、むしろ、あちらから来た。
オルゴールに縋りついて眠ってしまった、自称記憶喪失の青年のことをどう説明すればよいのか。
詩織が狼狽えながら言葉を探している間にも、祥也は真顔で詰めるようにして言葉を重ねてくる。
「さあ、言え。今度は猫か、犬か、それとも他の何か」
腕を組んで畳みかけるようにして言ってくる祥也の圧に、詩織は強張った顔で思わず冷や汗を流す。
後ろめたいことはない、だが、どうして良いのか本当にまったくわからない。
やがて、漸く絞り出すようにして口にしたのは、こんな言葉だった。
「に……人間……」
「はあ?」
祥也の顔に、ありありと怪訝な色が浮かぶ。詩織の言葉が理解できない、と言葉に依らずに思い切り主張している。
それはそうだ、と詩織は思う。
人間を拾う、いや保護するなど普通は有り得ない。そもそも保護しているわけではない。
このすっかり安堵した様子でオルゴールに縋り眠る青年をどうしてよいか、全くもって分からない。
狼狽えて次の言葉が続かない様子の詩織を見て、祥也は再び息を吸い込んだかと思えば。
「そんなものを拾ってくるな! 元の場所に返してこい!」
「違うの! 拾ってきたんじゃないもの! この人から来たんだもの!」
眉間の縦皺を増やして叫ぶ兄に対して、詩織は思わず叫び返してしまう。
断固として拾ってきたという事実は否定したい。日頃の行動からしてそう思われるのは仕方ないが、今回ばかりは違うと主張したい。
オルゴール前の青年を示しながら必死で訴える詩織に、祥也は怪訝そうな顔をしながらドアの向こうから店内へと足を踏み入れる。
溜息交じりにカウンターから出てきて、訝しげに問いかけようとして。
「この人? 迷子でも居……?」
そして青年の姿を認識して、目を見開いて絶句してしまう。
こいつは何だ、と視線で訴えるように問いかけてくる兄に、少し躊躇った後に詩織は先程あった出来事の全てを隠さず話した。
閉店間際にふらりと訪れた不思議な青年が、オルゴールを探してこの店にやってきたこと。
けれども、それ以外のこと……自分が誰であるのか、何処からきたのか。過去につながる全てを無いと訴えたこと。
祥也は、最初こそ隠すことなく疑惑の眼差しを向けていたが。詩織が必死に訴え続けると、やがてその言葉が真実であると認めたらしい。
祥也は、深い眠りの中にあるらしい青年の傍に近づき。意識や呼吸など、判断に必要な材料を一つ一つ確かめ。今どのような状態にあるのか、探るようにして様子を見ていた。
やがて祥也は、ポケットからスマートフォンを取り出して。狼狽えて、兄の次なる言葉を待つばかりの詩織の前で、真剣な表情で何処かへ電話を駆け始めた。
恐らく救急車の要請をしている。的確に情報を伝えていく。
次いで、違う通話を始める。今度は、切れ切れに何かを指示しているのが聞き取れる。何かの準備と、連絡を頼んでいるだけは分かる。
通話を終えると、不安で思わず両手を握りしめてしまっている詩織へとまたも深い溜息を吐いて兄は告げた。
「とりあえず、うちの病院の夜間外来に連絡をつけた。運んでもらって一通り調べて……あとは、警察だ」
詩織は、ただ頷いた。それ以外に、今とれる手段はない。こういう時に、冷静に対応できる兄の存在は、本当に頼もしい。
祥也が声をかけながら抱え起こし、安楽な姿勢をとらせても。青年は目覚めない。
表情には安堵にも似た穏やかな表情があるばかりで、吐息も安らかで本当にただ眠っているようにしか見えない。
呼吸はあっても意識はない。見た目こそ穏やかでも、呼びかけても刺激にも反応らしい反応がないのであれば、と兄は判断したようだ。
祥也は、何処か複雑な表情で眠る青年を見つめている。
警戒でもあり、困惑でもあり。どこか焦りや苛立ちを滲ませる、形容しがたい表情で。
ただ、それは詩織も同じだった。
この青年を見ていると、何故か胸が騒めく。
あまりに日常からかけ離れた事態に動揺しているだけなのかもしれない。
けれど、何故か……『懐かしい』という言葉が胸を過ぎった気がした。
二人は、それぞれに何も言わず。店内にはただ不思議な沈黙が流れて。
それを破ったのは、やがて遠くに聞こえ始めたサイレンの音だった……。
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