不思議な来訪者
詩織は、心地よい疲れを感じながら店内を見回した。
その日も、自鳴琴はなかなかの賑わいだった。
常連の客も顔を見せてくれたし、冬の函館観光と洒落込んだ観光客も多く訪れてくれた。
一人ではなかなか大変だったけれど、何とか閉店まで滞りなく回すことが出来たのは幸いだったと思う。
やはりそろそろ、一人でもいいので人手が欲しい。
そう思ってアルバイトの募集をかけているのだが、時期が悪いのか、巡り合わせが悪いのか、今のところご縁がない。
休みの日や勤務から帰った後に兄が手伝ってくれるが、いつまでも気遣いに甘えているわけにはいかない。
何せ、勤務医というのは過酷である。
詳細は守秘義務に違反するからけして口にしないが、傍で見ていればどれだけ重く大変な仕事であるかなど自然と察する。
医者は高給取りだからいい、と単純に言う人達には思うところがある詩織である。
出来る限りの強さで祥也には休んでもらうように言うのだが、お前の方が心配だといって押し切られてしまう事多々で。
買いだしに、洗い物。閉店後は掃除だったり、もしくは夕食の用意だったり。祥也に日頃助けられていることは、枚挙に暇がない。
せめて、うっかり何かやらかしてしまって祥也を奔走させることを減らしたいとは思う……のだが、一生懸命に何か頑張ると、勢い余ることは多い。
そこが詩織らしいと常連達は笑ってくれるけれど、詩織としては非常に申し訳なくて、穴があったら入りたい。いや、埋まりたい。
母が遺した店を守りたいと、一生懸命に切り盛りしてきた。そのおかげで、店は変わることなく愛され、賑わっている。
だが、それはけして一人で為し得たものではない。
叶うならば少しでも、時々口うるさいけれど、普段は過保護と思うぐらいに優しい兄に迷惑をかけたくないと思う。
日頃激務で疲れているはずなのに、詩織を気遣って手を貸してくれる兄の負担になりたくない。
あのひとの、道の妨げになりたくない……――。
「……あれ?」
詩織はそこで、思わず目を瞬きながら我知らずのうちに呟いていた。
どうにも、また考え事をした挙句にぼんやりしかけていたようだ。一際強く吹いた風が窓を揺らした音で我に返り、目を見張る。
いくらお客がいないからといって、営業時間内に何をしているのだ。詩織は心の中で苦く呟きながら溜息を吐いて、時計を見る。
気が付けば、閉店時間まであと僅か。そろそろ、準備を始めなければいけない頃合いだ。
片づけの後にはやる事があるのだから、と気合を入れ直すように、詩織は両の手で自分の頬を軽く叩く。
今日は後片付けの後、珈琲豆の焙煎をする予定である。
自鳴琴の珈琲は、オリジナルブレンドである。母が配分を決めて、焙煎の度合も相当研究してこれと決めたもの。それを受け継ぐべく、詩織はかなり努力した。
通称『
かといって、他の飲み物が全くでないということはない。
暖かい室内で、冷たい甘い物をとるというのも北海道ならではの楽しみだと人は言う。
身体が温もったら、喉が渇いたからとクリームソーダを注文する客も少なくない。
真冬の雪景色を窓の外に見ながらアイスクリームののった冷たい飲み物を堪能していくお客もそれなりに居る為、その準備も欠かせない。
エメラルドのような青みがかった翠が綺麗なソーダの元になるシロップは、実は父の直伝だった。
クリームソーダにはこだわりがあるという父は、何と自分でオリジナルのシロップを作り出してしまったのだ。
そしてそれを気に入った母は、自鳴琴のクリームソーダとして採用。夏には特に人気の一品となっている。
メニューにも、店のそこかしこにも、父と母の仲が良かった証を見出せる。
それを思えば少しばかり感傷に涙が滲みかけるけれど、如何に今店内に客の姿がないとしても、店が開いている時間に店主が涙を見せるわけにはいかない。
用事をこなしている内に、時計の針は更に進む。
では、そろそろ閉店作業に移ろうと、詩織がカウンターから出た瞬間だった。
不意を突くようにしてベルが鳴り、入口の扉が軋んだ音をたてて静かに開いた。
驚いてそちらを見れば、頭やコートに雪を積もらせた細身の男性の姿がある。
もう閉店ではあるが、この雪の中訪れてくれた人を追い返すことなど出来ない。
詩織は慌ててタオルを手に駆け寄り男性へと声をかけるが、少し何かが違うとすぐに感じる。
青年は、店内に入ると立ち尽くしていた。
他の客のように寒かったと声をあげることもなく、冷たそうに入口で雪を払うこともなく、ただ呆然としている様子である。
どうしたのだろうと不思議に思いながらも、一瞬の逡巡の後に詩織は断りの言葉を告げてから、青年の肩などの雪を払いタオルを手渡す。
暖かい室内で癖のない髪についた雪はすぐに溶けて水滴となっているが、青年はタオルを手にしたまま動かない。
あまりに寒かったせいで言葉も出ないのだろうか、と詩織は訝しく思いながら改めて青年を見る。
少し古めかしい雰囲気のあるコートをまとった長身。背の高さは、恐らく祥也と同じぐらいだろうか。筋肉質というわけではなく線の細い印象を与える身体つきである。
顔立ちは整っていると思う。繊細な雰囲気を感じさせる端整な造作の顔に浮かんでいるのは、困惑とも不安ともつかない表情。
寒さを逃れる為に入店したようにも見えないし、飲み物などを楽しみにきたようにも見えない。むしろ、何故ここに来たのか戸惑っているようにすら見える。
さすがに、このままというわけにはいかない。詩織が、自分を叱咤して声をかけようとした時だった。
か細くすら感じる声で、青年は言葉を紡いだ。
「ここに……オルゴールがあると……」
印象は随分違うというのに、詩織は何故か青年の声を聞いて祥也の声に似ているとまず感じた。
だが、言葉の意味を理解すると、僅かに戸惑いを滲ませながら問いを口にする。
「アンティークのディスクオルゴールのことでしたら、確かにありますけど……」
詩織は内心非常に困惑していた。
視界の端に捉えた時計では、もう閉店時間となってしまった。本来であれば、閉店作業を始めなければいけない。
だが、この状態でそれが出来るはずもない。少なくとも、この青年が何を目的に店を訪れたのか明らかにしなければ、お帰り頂くわけにもいかない。
詩織は、店の奥まった一角にある、深みのある木の光沢を湛え佇むオルゴールを手で示した。
古き良き時代のまま時を留めたような作りの店内の空気と絶妙に調和して存在する、音を失くしたオルゴール。
店の名の由来となったそれの前へと、青年はふらふらと頼りない足取りで引寄せられるようにして進んでいく。
更に困惑を深めながら足早にそれを追った詩織の前で、青年の身体が不意に揺らいだ。
倒れたのか、と一瞬慌てたが、青年は膝をついただけだった。
「あの……? このオルゴールが何か……?」
「僕は、このオルゴールを探していました……」
そのまま泣き出すのではないかと思う程感極まった表情の青年は、食い入るように鳴らないオルゴールを見つめている。
青年の様子があまりに不思議で仕方なくて。警戒よりも先に疑問が先だって、少しの躊躇いの後詩織は青年を覗き込んだ。
自分を落ち着ける為に一度息を吐いて、そしてやや固い声で問いかける。
「どうして、わざわざこれを? 失礼ですが、貴方は一体……」
確かに、この店にアンティークのオルゴールがある、というのは事前に調べたら分かる情報ではある。
だが、今までオルゴールを目的として訪れた人間は居なかった。しかも、これ程に理由がわからない執着のようなものを見せる人間など。
怪訝に思ってしまい、問う声に若干警戒が混じるのは仕方ないことだと思う。
跪くようにしてオルゴールを見上げていた青年は問われて、視線をゆっくりと詩織へと移した。
そのまま、何かを必死に探るような表情で考え込んで、暫くの間、葛藤めいた色が青年の表情に見え隠れして。
詩織が青年の様子を固い表情で見守る中、長い時間が流れたようにも思えた。
やがて青年は、切れ長の瞳にあまりに純粋な困惑を宿して口を開く。
「僕は、一体誰、なのでしょうか」
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