奏
慌ただしく時間は過ぎて。夜更けて、詩織たちの姿は祥也の勤務先の病院にあった。
結果として、青年はまごう事無き記憶喪失だった。
祥也の勤務先の病院に運ばれた青年は、まず検査を受けた。
検査の過程で意識を取り戻したものの、主張する内容は変わらない。自分が誰か、何もわからないと必死に訴え続ける。
一通り検査をしたものの、目立った外傷や異変はない。
身元の分かる手がかりがないかと所持品を改めたが、繋がるようなものは一切なかった。ほぼ、着の身着のままと言っていい状態である。
顔写真を警察のデータベースに照合してみたものの、該当する捜索願もなければ、犯罪歴もなく。全く、何の手掛かりも得られない。
病院関係者も警察も困惑を深めたが、青年が何者であるのかは全くわからない。
意識を明確にした青年は繰り返される質問に何の答えを持たない事に惑いつつ、当面の問題に直面することとなる。
すなわち、これからどうするか、である。
何処からきたのか分からない以上、行く当てがない。継続して自分の素性を探っていくにしても、それまで何処でどうやって暮らしていけば良いのか。
祥也は厳しい顔で、あとは役所に任せろとだけ言った。
確かに、こういう場合はそれが正しいのだと思うものの、詩織の表情は晴れない。
不安そうに周囲の人間を見つめる青年を置いて去ることに、どうしても頷けない。
そんな妹の様子を見た兄は、ますます顔を険しくて、深い溜息を吐く。
「まさか、うちに置く、とか言い出さないだろうな」
「放っておけないし……」
眉間の皺を更に増やしながら厳しい口調で言う祥也を見て、詩織は唇を噛みしめて俯いてしまう。
そう、放っておけない。そして、何故かこのまま離れてはいけないと思ってしまうのだ。
あのオルゴールを探してやってきた不思議な青年。
店を訪れたのも縁あってのことだと、このまま面倒ごとのようにして切り捨ててしまうのが何故か躊躇われる。
「せめて、身元がわかるまででもいいから、置いてあげたいと思う……」
青年の当面の住居を提供し、暫しであっても身元引受先となることを望む言葉に、祥也は一瞬軽く絶句した。
寄る辺ない様子で椅子に座る青年は、詩織と祥也を交互に見つめ、困惑の表情でやり取りを見守っている。
この先自分がどうなるかに対しても、二人が深刻な様子であることに対しても、何と言葉をかけて良いのか分からない様子だ。
祥也は、苛立たしげに息を吐くと、髪を苛立った様子でかき上げる。
「人が良すぎだぞ。このご時世、こいつが実はどんな悪人かもわからないのに、本気か?」
息を飲んだ表情のまま、一度だけ頷く。
祥也の言葉は正しい。確かに、不用心に過ぎる決断である。
だが、兄の刺すような眼差しを受けながらも、詩織は何故か不思議に思う。
言葉では、兄は確かに青年の身元を引き受けることを拒絶している。
けれど、ただ言葉の通りに警戒しているからでもないと感じ取ってしまって。
兄の中に、二つの感情がある気がする。
青年の存在を否定したいという心と、青年を受け入れたいという心。
面倒ごとを回避したいという感じではなくて、ただ青年の存在に心が騒めいて仕方ないといった、兄らしからぬ焦り。何処か青年が気になってしかたないという思いがある……。
無言のまま、兄と妹は正面からお互いを見つめ合う。真っ向から視線はぶつかり、怯むことなく、そして逸らされることもなく。
どれほど、二人の間に沈黙が流れただろうか。
「……少しの間だけだ。ある程度様子を見て目途が立たないなら、あとは行政に任せる」
「ありがとう!」
逡巡と葛藤に暫くの間唇を噛みしめていたが、やがて祥也は盛大に溜息を吐き出しながら苦い声音で告げた。
好きにしろ、といった様子で天を仰いで祥也が言った瞬間、詩織の表情が一気に明るさを取り戻す。
兄へと礼を言った後、詩織は改めて青年へと向き直る。
年の頃は兄に近いように見えるが、不安そうにしている表情からはどこか詩織よりも幼く見える感じがあって。
行く先が分からぬことや、この先自分はどうなるか。分からないことだらけに戸惑っている青年へと、詩織は声をかけた。
「貴方が誰かわかるまで。うちに、どうぞ」
「いいのですか……?」
青年は、恐る恐るといった様子で答える。
わからないことだらけであっても、詩織の申し出が俄かに信じがたいものであるのだけは察したようだ。
素性も分からない人間を家に留めてくれるという、当面の、身元を引き受けてくれるという。それが、詩織達にとってリスクが高い行動であると気付いている。
だから、本当にそれでいいのか、と揺れる眼差しで問いを口にする。
自分でも、兄のいったように確かに人が良すぎると思うけれど、と詩織は心の中で苦笑しながらも頷いて見せる。
そして、努めて明るい笑みを浮かべて続けた。
「その代わり、と言いますか。うちにいる間、お店を手伝ってもらえないでしょうか?」
二人のやり取りを見守っていた兄が、軽く目を瞬いた気配を感じる。
勿論、住居を提供する代わりにやってもらいたいことはある。
自鳴琴は今、詩織が一人で切り盛りしている状況で。その影響を受けて、兄にも常連達にも気を使わせてしまっているのだ。
青年が手伝いの手となってくれれば素直に有難い。それが申し出た理由の一つである。
本当のところは、頼るものがなく不安そうな青年に、理由を与えたいというのがあった。
自分が確かにそこに居ても良いのだという、一先ず納得のいく理由を。
詩織を見つめて、目を見張っていた青年は、一度俯き暫くの間考え込んでいたが。
やがて。
「喜んで、お手伝いさせて下さい」
顔をあげて真っ直ぐに詩織を、そして祥也を見つめて。姿勢を正すと、深々と頭を下げて答えた。
心から嬉しそうな、輝くような無邪気な笑顔で。
それを見た祥也は、どこかばつ悪そうな表情をした後に、視線を逸らしつつ口を開く。
「……名前はどうする? 呼ぶのに困るだろう?」
「そういえば……」
彼は、何もかもを失っている。当然ながら、名前もない。
かといって、名前がないままでは何かと不便である。
それなら……と詩織は少しの間考え込んでいたが、やがて思いついた、といった様子で言う。
「
音色を奏でることのなくなってしまったオルゴールを探してやってきた不思議な青年。
それを思い出したら、何故かその名前が浮かんできた。
祥也は、お前はどう思う、と言った様子で青年へと視線を向け。青年は、提案された名を何度か繰り返し唇にのせて。
やがて、青年は微笑みと共に新しい名を受け入れた……。
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