詩織と祥也

 暫くの間談笑していた常連達は、それぞれに店を後にした。

 狭山達が帰った後も、雪から一時逃れる為にと客は続き。結果として、その日の自鳴琴はなかなかの賑わいを見せることとなった。

 立て看板を中に入れ、閉店の札をかけてから、詩織はおもむろに片づけを始めた。

 祥也も手伝ってくれていたのだが、ある程度目途がついたところで引き上げてもらう。

 ただでさえ日頃激務で疲れているのに、休みの日に用事を頼んだ挙句、更に手伝わせるなど気が引けてしまう。

 詩織がそれ以上はと譲らない構えを見せると、祥也は苦笑して夕食の支度をしておく、と言って住居へと戻っていった。

 それはそれで申し訳ないと思ったが、何か言う前に兄の姿はもう消えている。

 いいから少しは頼りにしろ、それが兄の口癖だ。少し以上に頼ってしまっているけれど、兄はもっと頼ってもいいという。

 だが、さすがに少し甘やかしすぎではと思う時もある。一方的に世話を焼かれるのではなく、詩織だって少しは兄の支えになりたいと思うが、実際はこの通りだ。

 助け合って生きて行きたいと思う。だって、詩織と祥也は、二人きりの家族なのだから。

 二人の父母が亡くなったのは、三年前だった。

 詩織は高校を卒業してから、母の開いたこのカフェを手伝っていて。祥也は既に市内の病院で働いていた。

 そんなある日、二人の乗った車は大型トラックとの事故に遭い。二人は、そのまま帰らぬ人となってしまう。

 今でも、忘れられない。

 病院の救急外来にて。立ち尽くす詩織には、目の前で起きていることがまるで遠い世界で起きている出来事のように思えた。

受け入れたくないと心が拒否して呆然としていた詩織の手を、自身も必死にこみあげるものに耐えながら、祥也はずっと握り続けてくれていて。

 その温かな感触が、詩織の心を現実に留めてくれた。

 自鳴琴は、母が故郷である函館に戻って開いた店だった。

 伝手で手に入れた函館によく見られる和洋折衷の古民家を気に入った母は、なるべくその雰囲気を残したままにカフェに作り変えた。

 流行を追うのではなく、懐かしくてほっとする店でありたい。母がそう願い開いた店は幸いにも多くの客に恵まれ、常連客も得ることができた。

 皆は、母達の早すぎる死を悼んでくれ。店の行く先を親身に心配してくれていた。

 最初は、母が亡くなって閉店することも考えた。

 店内に立っていると、両親が今でも「ただいま」と笑顔で戻ってきそうな気がして。突然奪われた日常を思い知らされるようで、あまりに辛くて。

 けれど、母が夢と想いを託した場所を終わりにしたくなかった。

 母が笑い、それを見た父が嬉しそうにして。馴染み客たちが満ち足りた表情を見せてくれる。そんな優しい空間を、失ってしまうことが悲しかった。

 その為に自分が出来ることをよくよく考えて、詩織はこの店を継ぐという結論を出した。

 手伝っていた頃と、主となるということは違う。

 詩織がやらなければいけないこと、見ていなければならないことは比べものにならない程多くなる。責任を負い、自分なりの道を模索し、見定め進んで行かなくてはいけない。

 この優しく温かな場所を守っていくために、詩織の肩にあるものはなかなかに重い。それをしっかりと考え、悩み。その上で出した結論である。

 大変ではある。だが、詩織は一人ではないと、日々実感している。

 祥也は詩織が店を継ぎたいと言った時、最初はあまり良い顔をしなかった。確かに店を大切に思う気持ちはわかるけれど、と若干渋い顔をしていた。

 兄は元々、詩織が頑ななまでに家を、そしてこの店を離れようとしないことを心配してくれていたから。

 だが、詩織の決意が固いと知るともう反対はせず。今では、休みの日や仕事を終えた後に、疲れているだろうに手伝ってくれている。

 変わらず訪れてくれる常連達は、確かに母の遺したものを受け継いでいると折に触れては褒めてくれ、詩織が照れてしまうことがある。

 自分は恵まれている、と心の中で噛みしめるように呟いた詩織は、掃除用具を片づけて改めて店内を見回す。

 客に賑わう明るい雰囲気も勿論好きだが、詩織は閉店後の店内も好きだった。

 旅立つ人を送り出し終えた不思議な充足感のようなものが満ちる静かな空間にいると、我知らずのうちに笑みが浮かんでいる。

 かつていち早く外国に開かれた頃の空気をそのまま残しているような気がする、歴史の風合いすら感じるような空間にいることがとても落ち着く。

 だが同時に、胸の奥に何かが騒めく。後悔にも似た、哀しい感情が過ぎる気がする。

 何を悔いているのか、自分にも分からない。哀しいのだとしたら、何を悲しんでいるのかが分からない。

 両親の死であるのか。それとも、他の何かなのだろうか。それすらもわからないぐらい、心の深くにそれは存在している。

 詩織は、考えをきりかえようと軽く頭を左右に振る。

 そして次なる作業に移ろうとして踵を返した瞬間、視界の端に絶妙な艶をもつ深い茶色が映った。

 一部の隙も無い見事な造形と、随所に施された瀟洒な細工が見事なオルゴール。実は、カフェの名の由来は、このオルゴールなのである。

 店名である『自鳴琴』とは、オルゴールを日本語で表したものだ。

 聞いた話によると、母がこの店の前身となる古民家を手に入れた時、このオルゴールは既にそこにあったらしい。

 どうみても海外製のアンティークの逸品とわかる品も込みで売りに出されていたのだという。

 値段が加算されなかったのは、多分鳴らないとわかっていたからね、と母はかつて残念そうに語っていた。

 カフェを開こうと古民家を手に入れた母は、何とかオルゴールももう一度鳴らせてみたいと手を尽くしたらしい。

 問題と思しき部品を取り換えるなど職人が色々と試してみたが。ついぞオルゴールに音は戻らなかった。

 だが、時を経て来た重みある風情を殊の外愛した母は、店の名をオルゴールからとったのである。

 そして、この音を失ったオルゴールは店を見守り続ける、自鳴琴という店の象徴となったのだった。

 詩織は、そっと静かに店の一角に佇むオルゴールの前に立つ。

 思い出の多くは、このオルゴールと共にある。

 傍にいると、懐かしくて安堵する気持ちがする。切ない程に愛しくて、優しい気持ちが胸を満たしていく。

 共に育ってきた思い出だけではなくて、説明できない想いをこのオルゴールに感じることがある。

 詩織は、滑らかな木の面に手を添えながら、一つ息を吐く。

 何故と問われても、説明できない。自分だって、何故かを理解していない。

 けれど詩織は、堪らなく……このオルゴールのある場所に、変わらぬ自分のままで居たい、と思っている――。


「おーい、詩織?」

「え⁉ あ、ああ……兄さん……」


 遠くから祥也の声が聞こえて、詩織は弾かれたようにそちらを向いた。

 狼狽えながら見れば、住居への扉から顔を覗かせた祥也が、詩織へと心配そうな視線を向けている。


「夕飯が出来たぞ。まだかかりそうか?」

「ううん。もう終わったから、今いく」


 首を緩く振って否定すると、詩織は駆け足気味に祥也の方へ歩み寄る。

 今日は何、と明るく問いかける詩織に、祥也は笑いながら早く来いと促して。やがて、二人は住まいへと消えていく。

 温もり残る店内に静寂と、音を失くした自鳴琴だけが残された……。

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