鳴らないオルゴール

 しみじみと心の中で感謝と喜びを噛みしめていた時。カウンター横にある扉が、少し錆びついた音を立てて開いた。

 新たな人物の登場に、詩織は驚くことなくそちらを向いた。

 カフェの入口から入ってくるのは新たな客であるが、カウンター横の扉を開けて店内に入ってくる人物は限られている。

 スーパーの買い物袋を軽く掲げて見せながら、その人物は言った。


「詩織、帰ったぞ。ほら」

「兄さん、お帰りなさい。ありがとう」


 姿を現したのは、眉間の縦皺が不機嫌そうな印象を与える、精悍な顔立ちの男性だった。

 本当に不機嫌なわけではないと分かっているが、頼み事をしてしまった手前引け目がある詩織は、少し控えめな苦笑いをしながら出迎える。

 男性は、まったく、と言った風に肩を竦めつつ袋を差し出し。詩織は彼を兄と呼び、礼を言いながら袋を受け取る。

 現れた新たな人物にカウンターに座っていた客たちが次々に反応を示した。


「お、祥也しょうやさん」

「おや、祥也さん。こんにちは」

「どうも。いらっしゃい、可賀さん、時見さん」


 詩織に兄と呼ばれた男性――祥也は声をかけられると軽く会釈をしながら、言葉を返す。

 可賀と時見に続いて、狭山が笑みを浮かべながら祥也に呼びかけた。


「お帰りなさい、祥也先生。お邪魔しています」

「ああ、狭山さん。今日は休みか」


 祥也は市内の病院にて、医師として勤務している。

 その合間にこうして、買い物など、詩織の手伝いをしてくれることがあるのだ。

 そして、狭山は兄が勤務する病院の看護師なのだ。当然、日頃顔を合わせている。

 なお、下の名前で呼ぶのは特に深い意味はない。たまたま、結城という苗字の医師が他にも居て、紛らわしいので下の名前で呼ぶのを統一した結果である。

 狭山は、そういえば、と呟きながら首を軽く傾ける。


「先生も、確か……今日はお休みよね」

「その貴重な休みに、買い物を頼む妹がいるもので」

「兄さん、ごめん……」


 彼女はある程度、業務に関わる範囲で医師のスケジュールを把握している様子である。祥也が、今日は忙しい勤務の合間に訪れた休みであると気付いた様子だ。

 狭山の言葉に頷きながらも、じろりと詩織を一瞥しながら祥也は溜息交じりに答え。それを聞いた詩織は、思わず身体を小さくしてしまう。

 本来であれば、祥也は今日特に出歩かずに家でゆったりと過ごせるはずだった。

 だが、慌ただしく店の準備をあれこれとしていた詩織が、うっかりと無くなりかけていたものがあるのに開店後に気付いてしまう。

 今は、詩織一人でカフェを回している状態である。申し訳ないと思いながらも、祥也に頭を下げて行ってきてもらった次第である。


「お前が、ついうっかり、をやらかすのは今に始まったことじゃないからな」

「か、返す言葉もございません……」 


 詩織は一生懸命に行動していると、勢いあまってついドジを踏んでしまうことがある。

気を付けてと自分を戒めて、あれこれ色々と対策をとってみるものの。なかなか、思う用にはいかないのが悩みの種である。

 そして、詩織がついうっかり、をやってしまった場合に、とばっちりを食らうのは、大概の場合祥也だった。

 本当に申し訳なく思い、更に身を縮める詩織を見て、祥也は少しだけ表情を和らげて、優しい苦笑を浮かべる。


「まあ、営業中にお前が店を空ける訳にもいかないからな。もういいから、ほら、お客さんの前だぞ」

「祥也先生って、何だかんだで詩織ちゃんに優しいのよね」


 身の置き場がない、といった感じになってしまっていた詩織の頭を軽く何度か軽くはたくようにして言う祥也を見て、常連の看護師はしみじみと呟いた。

 その通りだと、詩織は心の中で呟く。

 眉間の皺がもはや特徴と呼ばれる程気苦労が多い兄は、口うるさいところもあるけれど、いつも優しく頼もしい。

 祥也の手の感触が残る頭を無意識のうちにそっと撫でながら、詩織は胸に湧き上がる温かいものに、少しだけ唇を噛みしめてしまう。

 兄妹の様子を見守る常連達の顔には、優しい笑みがある。


「詩織ちゃんも忙しそうだからな」


 ホットケーキを綺麗に食べ終え、陶器のカップを手にしながら、可賀は一つ息を吐く。

 現在、この店を切り盛りするのは店主である詩織だけだ。それは、客足が落ち着いていても、いなくても、変わらない。

 今この場にある人数程度であれば、左程苦労はないかもしれない。

 だが、このカフェがあるのは観光地。常連客以外にも、観光地巡り合間の休憩にと通りすがりの客も多く訪れる。


由香ゆかちゃんが辞めた後、なかなか次の人が見つからなくて」


 かつては、一人アルバイトの高校生を雇っていた。

 由香という少女は非常に明るくはきはきとした物腰であり、機転も効く逸材だった。詩織も、彼女にはおおいに助けられたものである。

 だが、由香は高校三年生。本格的に受験シーズン入りする前に、アルバイトを辞めたいという申し出があったのだ。


「さすがに、受験に本腰を入れるって言うのを引き留められないからなあ」

「合格したら、知らせに来てくれるって言っていました」


 時見が苦笑しつついう言葉に、詩織もまた少し苦笑いして頷く。

 詩織としては本心では引き留めたい気持ちはあったし、本人も出来るなら辞めたくないと言ってくれていた。

 だが、事は由香の人生に関わる大事なことである。それを曲げてまで頼む権利は、詩織にはない。

 惜しみながらも最後の勤務を終えた由香は、合格したらいの一番に知らせにくるといって去っていった。

 今は、その報せを楽しみに待っているところである。


「まあ、私達に今出来るのは。少しでも詩織ちゃんの手を煩わせないことかしら」

「い、いいです! 申し訳ないです!」


 立ち上がり、三人の前にあった空いた皿やカップを手際よくまとめてはカウンターにあげてくれる狭山に、詩織は恐縮してしまう。

 しかし狭山は、いいから、と笑って手を止めることはないし。残る二人も、積極的にそれに協力している。

 ますます申し訳なくなって慌てる詩織だったが、更に祥也がそれを手にして洗い物を始めるに至っては狼狽えてしまってもう言葉が出てこない。


「人の好意は有難く受けておけ。雪が強くなってきたから、凌ぐのに多分お客さんが入ってくるぞ」


 お前はその準備をしろ、と暗に言いながら汚れた皿を手際よく綺麗にしていく祥也の言葉にまるで合わせるかのように、入口のベルが鳴る。

 扉を開けて寒さに頬を赤くして入ってきたのは、観光客と思しき女性達だった。

 雪をはらいながら寒かったと口々にいう女性達の元へと、タオルを手にした詩織がかけよる。

 どうやら吹雪いてきたようで、雪が弱まるまで何処かで、と思っていたところにこの店を見つけたらしい。

 彼女達を暖房に一番近い暖かい席に案内して、お冷がわりの白湯とメニューを運んでいくと。女性の一人が店の一角を見ながら歓声をあげた。


「わあ、凄い立派なオルゴール! あれ、アンティークですよね」


 女性の言葉につられて、詩織もそちらに視線を向ける。

 幾つもの視線の先にあるのは――歴史を感じさせる、一台のディスクオルゴールだった。

 長い年付を経て、時に磨かれた木材が放つ独特の光沢が美しい。詩織と同じぐらいの高さを持つ、一見すると柱時計にも見えるもの。

 しかし、時計にあるはずの文字盤はなく。代わりにあるのは、大きな金属の円盤である。

 各所に施された彫刻もまた美麗なもので、美術品としての価値もあると推測できる品である。


「そうなんです。よくわかりましたね」

「今日、調度明治館のオルゴールを聴けたんです。あれと似ているなって」


 一見しただけでオルゴールを判断できる人はそう多くないので、詩織が軽く驚きつつ言うと。女性は連れと頷きあいながら、その日の出来事を話してくれる。

 自鳴琴から少し離れた場所に、明治館と呼ばれる場所があった。

 赤レンガが特徴であるかつては郵便局であった建物は、今はショッピングモールとして多くの観光客で賑わっている。

 その一階には百年前のオルゴールが置かれていて、一日に二度オルゴールコンサートが開かれる。この女性達は、それを聴く機会に恵まれたのだろう。

 確かに、明治館にあるディスクオルゴールと、自鳴琴の店内にあるオルゴールは風情が似ている。それで気付いたらしい。

 あの風格ある深い茶色の佇まいをそうであると気付いた人は、大抵の場合次に同じことを口にする。

 そして、女性もまた予想通りの言葉を詩織に告げた。


「聴いてみたいんですけど、駄目ですか?」


 無邪気に問いかけてくる女性に、カウンターで聞いていた常連達と兄が少し表情を曇らせたのが見えた。

 彼らは、この後詩織が何と答えなければいけないか知っているから。

 出来るならば、詩織もその願いには頷いてあげたい。だが、それが出来ないのはもう痛い程知っている。

 詩織は、少しだけ寂しそうな表情をすると、申し訳ありませんと頭を下げた。


「あれは、鳴らないんです。壊れてはいないのですが、何故かもう鳴らなくて」


 詩織は、あのオルゴールについて丁寧に説明する。

 何度も職人に依頼して修理を試みたが、もうどこも壊れていないという状態になったのに。どれ程試みても、オルゴールが音を奏でることはなくて。

 ついには、職人もおてあげという状態になってしまったこと。それ以来、悲しいことではあるが、置物状態であること。

 申し訳なさそうにいう詩織の言葉を聞いて残念そうにしていた女性は、仕方ないと呟いて受け取ったメニューを開いた。

 そしてすぐにオルゴールのことは諦めた様子で、連れ達と何にしようかと明るい顔で楽しい悩みに興じ始める。

 やがて、彼女達の前にもそれぞれが注文した品が揃い、心からの笑みで歓声をあげ。カウンターにいる人々は、明るく賑わう様子に目を細める。

 硝子窓の外では勢いを強めた雪が舞う中で、温かな空間が店の中にはあった。

 そんな穏やかな場所を、古びたオルゴールが見守るように佇んでいた……。

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