2章 春風に振り回される竜と蟲
1.離婚してください
窓の外では鳥の鳴き声がしていた。重たい瞼を押し開ければ、眩しい光に視界が白くなる。それだけでも辟易して二度寝を決め込もうと掛布の端を掴んだが、それどころではないことを思い出した。
リスイに、言わなければならないことがひとつある。そもそもマガネは昨晩それを彼に伝えるつもりだったというのに、それを言う暇は与えて貰えなかった。罵詈雑言はいくらでも浮かんで消えるが、どうせ言ったところでリスイは笑顔で聞き流すだけだ。言うだけ時間の無駄なのは分かっている。
「おはようございます、マガネ様」
相変わらず、顔は好みだ。
白状しておこう。マガネはリスイやニネミアのような、少しつんとした冷たい美形に弱い。なのでイフェイオンやコーウェルの顔は好みではない。テオやリンザールは論外だ。なおネリネは背筋が凍る思いをするので好みとかそれ以前に論外と言っておく。
それにしても、ひとり涼しい顔をしているのは腹立たしい。爽やかな朝ですねと言い出しそうな顔でいるのも腹立たしい。今フォルモントの北方で何が起きているのか知っているだろうに、それを口にもしないところが尚のこと腹立たしい。
頭まで風が吹いてるのか春風王。と、昨日叫んだのはマガネだ。そこから即座にテオとニネミアに連絡を取って根回しをして、後はリスイから許可を得るだけ。そのはずだったのに、この男はその計画をすべてぶち壊してくれた。
だからといって、今更方針を変えたりはしない。
「おはようございます、リスイ。話があるのですよ」
「ああ、そういえば昨晩もそんなことを仰っていましたね」
しゃあしゃあと「忘れていました」と言ってのける男の顔面を攻撃してやりたい。とはいえ今は攻撃できるようなものが手元にはない。殴りかかったところで、非力なマガネでは返り討ちになるのが目に見えている。
もっとも、リスイがマガネに暴力を振るうことはない。返り討ちは、また別の方法だ。
「分かっていたのなら、どうして話を聞かなかったのです」
「これは失礼を。何せマガネ様不足が深刻でして」
確かに顔を合わせたのは数日ぶりだったかもしれない。別段マガネはそれでも悠々自適に暮らしていたわけだが、リスイの方はそうではなかったらしい。
「リスイが帰れなかったのは、北方で起きている大問題の件でしょう」
「ご存知でしたか」
「この国で私が知らないことなど、ほぼないのです」
フォルモントの北方で、問題が起きている。その報告はテオと、それからようやく帰ってきたイフェイオンの子飼いから受けていた。一体どこの阿呆がそんなことを始めたのかと思っていたが、裏で糸を引いているのはおそらくあの男だろう。
それが分かっているのに、イフェイオンは即座に小競り合いを止めようとはしなかった。未だに初恋を引きずっているらしいあの王は、オルキデが関わるとなると判断力が鈍る。
「小競り合いですよ、小競り合い。マガネ様が介入するようなことではありません」
「そういう問題ではないのです」
それならばリスイがイフェイオンの頭を殴りつけてでも正気に戻してくれれば良かったのに。それをしなかった時点で、リスイもまた同罪だとマガネは言いたい。
「大でも小でも、私はこの国が揺らぐことは認めないのです。そのための、蟲です」
何のために地下に引きこもったのか。何のために全員から忌まれるように仕向けたのか。
「といっても先の諸々で目立ち過ぎましたから。裏方に徹するつもりなのですよ」
ミゼリィの失墜に関わるもので、マガネはいささか目立ち過ぎた。蟲が目立ったとて、評価されたとて、百害あって一利なし。だから今回はひっそりと動くつもりでいた。
「そうですか。それならば安心です」
「そうでしょう」
ベッドの上で居住まいを正して、リスイを手招きした。彼は何を疑うこともなく、それに従ってマガネの目の前にやってくる。
「それで、安心ついでにお願いがひとつ」
「何です」
「リスイ。貴方、私のお願いが聞けます?」
正直なところ彼がどこまで聞いてくれるのかは分からない。この男の手綱を、マガネはうまく握れない。
「聞ける範囲でしたら」
「聞けない範囲は?」
「さて、どう思いますか?」
分からないから聞いているのに、返答は疑問形だった。
「……質問に質問で返さないで欲しいのですよ」
「答えたら貴女はそのギリギリを責めてくるような気がしまして」
ものの見事に、読まれている。
武闘派のくせに、どうしてこういうところだけは聡いのか。どうせ本人に聞いても「マガネ様のことですから」と笑顔で言われるだけなのは分かっている。
「聞くだけは聞きますよ。受け容れるかはさておいて」
後半の部分がどうにも不穏だが、言わなければ始まらない。
「分かりました。では」
咳払いを、ひとつ。
マガネが秘密裏に北方へ行くには、これしかない。そもそも聖フリュイテが面倒な教義を作っていなければこんなことをしなくても良いというのに、それからあの時目立っていなければこんなことをわざわざ取引しなくとも良かったのに。
このために、わざわざテオを巻き込んだ。と言っても彼も「リスイが何て言うかだけどね」と、首を縦には振ってくれなかったけれど。
「離婚してください」
「はい?」
「ですから、離婚してください」
そうでなければ、身動きが取れない。どうしてそういう結論に至ったのか説明をしようとして顔を上げ、マガネはこきんとそこで固まった。
「――は」
リスイが、笑っている。それも、とてもとても美しい笑顔で。
「あの、リスイ。聞いていたのですか!」
「聞こえてる」
笑顔なのに、声は低かった。その目はちっとも笑っていなくて、マガネの背を冷たいものが駆け抜ける。
「ああ、聞こえているとも。で?」
「はい?」
「もう一度、言ってくれるか?」
ふっとマガネの上に影が落ちた。身長差も体格差もある上に、今はマガネが座っていてリスイは立っている。言うなれば、ずおんとリスイの影がマガネに覆い被さっている状態、となるだろう。
「ですから、離婚してくださいと……わぷっ」
背中から盛大にベッドへ落ちた。折角起き上がったというのに、リスイのせいだ。
「ああ分かった。何が不満だ? 何が不服だ? それとも誰か、貴女の心を奪ったと?」
ぎしりと、リスイが膝でベッドへと上がる。その体重で軋んだ寝台に、「これはまずい」とマガネの脳内で警鐘が鳴った。
分かっている。多分、分かっていた。そう簡単にリスイが納得しないということくらい。
「だから話を聞きなさいと言っているのです!」
「嫌だ」
逃げられない。リスイにマガネを逃がす気がない。
「俺にそんなことを言ったら、こうなると分かっていただろう?」
「だから!」
ともかくリスイを止めなければと、マガネは声を張り上げた。
「だから! とにかく! 話を聞きなさい、この暴走男――!」
冥夜の竜と策謀の蟲 千崎 翔鶴 @tsuruumedo
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