大魔術師の誕生

涼風紫音

大魔術師の誕生

 街頭で突然「ああ、久ぶり」と見覚えのない人物に声をかけられ、私は肩越しにちらりと声の主を見やった。たしかに一人の人影があり、面影を確かめるべくゆっくりと振り返った。

 今日は夜にも関わらず、珍しくも単身であった。いつもであれば弟子のエドワード・タルボットなども連れて歩くというのに。

 ロンドンの夜の街中は危険と隣り合わせだ。教会は裕福な金貸しを非難こそすれ、貧者の殺人には同情的でさえあるからなおさらだ。それでも振り返ったのは、その声が名状しがたい蠱惑的な響きを含んでいたからだ。

「さて、貴公には会ったことはないはずだが、久しぶりとはどういうわけかね」

 声色はとんと聞き覚えがなかったため、できるだけ威厳を込め、ゆっくりと問い質すようにに応えた。薄暗く、右手に持つランタンの僅かな明かりではしかとはわからないが、濃緑色のダブレットのスリットから白い裏地がのぞき、プールポワンの長袖には見たこともない文様が編み込まれ、袖は不規則にでこぼこしたフリルで飾られていることが見て取れた。

 服装からは相応に身分の高い貴族の男のようでもあり、なにより威圧的ではないものの引き込まれるような存在感を放っていた。メアリ一世に投獄されて以来、宮廷とはいささか離れてしまったとはいえ、このような男を一度見たら覚えていないということなどあるだろうか。しかし如何に記憶を探ろうにも心当たりがない。そして貴族であればこのような時間に一人出歩くわけもない。私が一人で夜に出歩くこと自体、稀なことだった。

 なにより不可解なのは、どう目を凝らしてもその顔が窺い知れないことだった。ランタンを掲げ上げても、モヤでもかかっているのか、見定めようとすればするほど、ぼんやりとして判別できない。これは夜霧の影響だろうか。いや、そんなことはあるまい。

「久しぶり、とは人間が時間を経て再会するときの挨拶ではなかったかな」

 その男らしき者は心外とでも言うように応えるた。私は声が耳に届いているのではなく、頭の中に直接響いているのだということに、迂闊ながらいまさらに気が付いた。なんとも気味悪く、さりととても面妖で興味をそそられる。

 一寸どう答えたものか思案しながら、無意識に白い顎鬚に手をやっていた。考え込むときに自然と出てしまう癖である。この癖のこともエドワードに指摘されて気が付いたものだ。エドワードの観察眼の鋭さにはしばしば驚嘆させられる。

「しかし我は貴公を知らぬし、とんと覚えもないのだ。非礼は詫びるが、名をなんと申すかの」

 今度はいかにも申し訳なさそうに、特に「非礼」の言葉を強調して名を聞いた。この言葉に嘘はないが、心から申し訳ないと思っているわけでもない。それにしても、このような不可思議な相手であれば、なおさら一度会えば覚えていないはずはないというものだ。

「そうさな。久しぶりといっても覚えていないのも仕方あるまい。人間の赤子とはいろいろと忘れていくものだからな。そなたに会ったのは五十年前か六十年前か。ともかくそなたに会ったのはまだ赤子の頃のことではある」

 思いがけない言葉に思わず目を丸くする。不可解極まる。仮に生まれた直後に会ったとして、私の容貌は歳相応に変わっているし、それを夜霧のロンドンでそれと見定めることなど並大抵のことではない。月明りとランタンが頼りの真夜中に、そのようなことを一体誰が、いや何者ができようか。ましてこの者の手にはランタン一つない。どこを取っても得心のいく話ではなかった。

「それと名前だが、好きに呼んでくれて構わないさ。人間というのは私を見たいように見て、呼びたいように呼ぶものだ。神とか悪魔とか天使とか霊とか、まあいろいろと、だ」

 その者、あるいはそれはいかにも退屈そうにそう付け加えた。人ではない何者なのか、あるいは何物なのか。長く生きていてこれほど奇妙な名乗りに出くわすとは、長く生きた甲斐もあるというものだ。もっともその言を信じれば、だが。

「しかし貴公、我に会ったのは赤子の頃と申したが、それでは歳はいかほどか。神とも悪魔とも呼ばれるとは、なんともけったいなことではあるが」

 好奇心に急かされ、やや早口で再び問う。奇怪なことだらけではあるが、ケンブリッジ大学で研鑽した身なれば、知識への探求はいまだ衰えることのない性分でもあった。顎鬚を弄る手もそわそわして落ち着くことを知らない。

「そう急くではない。この姿とて仮初に過ぎぬ。そなたに才覚があれば、再び会うこともあろう」

 話は終わりとばかりに一方的に話を切り上げると、今まで意識を惹きつけてやまなかった存在感は気が付けば消え失せていた。改めてランタンを掲げなおしてみても、面前にのそりと立っていたのは、人の身の丈ほどもある顔がのっぺらぼうのただの人形だった。そもそもそこに顔など無かったのだ。そしてこれでは話などできるはずもない。

 私はしばし放心して立ち尽くしていたが、ようやく長い深い深呼吸をして、天を見上げると、ロンドン塔の先に煌々と明るく月が満ち、その傍で火星が不気味な赤黒い鈍い明かりを放っていた。


 奇怪な夜を過ごした翌日から、私は自宅に引きこもり、あの夜に出会った何者かの正体を知るべく猛然と調べものに没頭していた。

 ロンドンからテムズ川沿いを西に少しばかり離れたモートレイクに、白と黒の羽目板で彩られたハーフティンバーのカントリーハウスの、後世にチューダー様式と呼ばれるようになる当世風の自宅はあった。書斎は錬金術や占星術に用いる道具が所狭しと置かれ、画廊と図書室は大学の研究室をも凌駕するほどの新旧の様々な書物で溢れかえっていた。数々の奇書や希少書を目当てん訪れるものもかつては多かったものだが、メアリ一世から受けた仕打ちのお陰でいまはほとんど訪ねてくるものとて無い有り様ではあったが、それでも自慢の邸宅である。

 弟子のエドワードに一か月の暇を出し、星見の時間以外はすっかり引きこもって書物の山と格闘する様子を、妻のジェインは呆れ顔ですっかり見慣れた光景とばかりに諦め半分で眺めていたが、それを気にするでもなく寝食を惜しんでメモを取り、あるいは様々な魔術の様式を書き写していった。

 しかし何にしても手掛かりがなさすぎ、いたずらに時間ばかりが過ぎていく。数多の魔術書、歴史書、神学書をかたっぱしから開き、どこかにとっかかりがないものかと、書棚をひっくり返しては散らかしていた。


 赤子の頃、声を発せず頭に響く声、人形を傀儡として扱ったか憑依したか……それらのヒントだけではちっとも先に進まず苛立つ反面、そうでありながらふつふつと高揚感を感じてもいた。これは今までにない、新しい何事かへの入り口に違いない。その確信が私を突き動かしていた。古びた羊皮紙の匂いに包まれる時間はどれほど長くとも気にもならない。未知への探求に時間を費やすことも慣れたものだ。そして未知とは長く遠い道の奥、なかなか開かない扉の先にあるものだ。

 大海の渦潮のように思索が巡る中で、ふと私はあることに思い至った。赤子の頃に何かの手掛かりがあるとするならば、降霊術で父母の霊を呼んでみるのはどうだろうか。

 これは我ながらなかなか良いアイデアに思えた。そう、エドワードがいるではないか。彼は常々降霊術に精通していると公言して憚らなかったし、どこまで信頼したものかはさておき、実際に降霊術の場を見たこともある。そう考えると暇を出したことに猛烈な後悔が荒波のごとく押し寄せたが、後悔してもどうなるものでもない。ともかく暇を解いて呼び戻すのだ。


 使者を走らせエドワードを呼び戻すのはさほど難しいことではなかった。幸いなことに、彼もまたロンドンの自宅に籠っていたからだ。何事かに没頭していたようだが、それはこの際どうでも良いことだった。

 エドワードは普段と変わらない装いで、時を置かずにやってきたので、逸る気持ちを落ち着かせつつ書斎へと誘った。

 黒い正方形帽子のモルタルボードを被り、床を引きずるほど長いマント状のワインレッドのカッパクラウサを身にまとい、私に勝るとも劣らない豊かな顎鬚を蓄えている。エドワードは三十歳ほどは年下とのことだが、眉間の皺は私よりも深く、そのためかだいぶ老け込んで見える。私と違いオックスフォード大学で学んだとのことだったが、卒業はしなかったらしい。しかしその学のほどはさておき、水晶透視の降霊術者としてロンドンではすっかり名を馳せていた。それは私にはないスキルだ。怪訝に思いつつも慕ってくるので近くに置いていたが、まさか役に立つ日が来ようとは。

 私は仔細を伏せたまま、エドワードにはただ父母の霊を呼びたいとだけ伝えた。仔細を伝えなかったのは、あまりに奇妙な出来事で説明することが憚られたのはもちろんのこと、予断なく取り組んでもらうことが肝要だと思えたからだ。降霊術のことは門外漢の私があれこれ言うものでもあるまいというちょっとした気後れもあった。

「師匠、お父様とお母様の霊をお呼びする。それでよろしいですか」

 錬金術と占星術の道具に囲まれた書斎の真ん中で、頑丈ながら小ぶりのウォールナットの木目の美しさが際立つ机に向かい、エドワードは水晶やヘルメティックカバラの描かれた巻物を広げ、準備に余念がない。四隅に置く燭台などを手際よく整えていく様は、なるほど手慣れたものだった。

 本当に話がしたいのはあの奇妙な夜に出会った何者かであることはおくびにも出さず、神妙な顔をこしらえてその様子を遠巻きに眺める。

「ああ、頼むよエドワード。もしかしたら父母ではないかもしれないが、なんらかの霊の類いが我を呼んでいるようで、それと話がしたいのだ」未知への逸る心を抑えつつ、声を整え、慎重に言葉を選ぶ。

「そうですか。それでは師匠、準備はすっかり整いました。そこから動かないで少々お待ちください」

 すっかり儀式の準備が整った様子に改めて感心する。机の四隅に置かれた燭台は火が灯され、中央にはカバラの描かれた巻物を下敷きにして見事な装飾の施された銀の皿を台座にして真球の水晶球が据えられ、その周囲には鷹の羽、猫の爪、ぺラドンナの花などが配され、さらにそれを囲うように円状に塩が撒かれていた。今日に限っては何一つ見逃すまいと、その一つ一つを眼に刻み込んだ。燭台の蝋燭から漂う甘く苦い香りが次第に部屋を満たしていく。

 エドワードは仰ぐように両の手を広げると、やがてゆっくり包むようにその掌を水晶球へと下ろしていく。左右から水晶球を挟み込むと、詠唱が始まった。ラテン語だ。ラテン語は私にも理解できる。しかし今まで見聞きしてきた様々な魔術や呪術、あるいは聖書や神学の文言ともずいぶんと異なる、聞いたこともない詠唱文だった。


 一時一刻が惜しいと背中に羽が生えて今にも舞い上がりたいほどの期待と、何事も見逃さず聞き洩らすまいと冷静に努めようとする探求心が胸中で交錯し、水皿に落としたインクのように交じり合う。詠唱文はそれほど長いものではなかったが、その詠唱は時の流れがせき止められたかのように長く感じられた。ジリジリと心を焦がす。

「師匠。水晶球の中に何やら白いモヤのようなものが……」

 エドワードの声は低くくぐもり、すっかり雰囲気が変わって別人のようだった。まるで感情が失せたかのような無機質な表情で、鋭い刺すような視線で私を見ると、ゆっくりと手招きする。その雰囲気に、室温が何度か下がったかのような悪寒を覚えながらも、それに打ち勝つ好奇心が私の背中を押し、ゆっくりと水晶球に吸い込まれるように進んでいく。

「ああ、久しぶり。そうでもないかな」

 聞き間違えるはずもない、あの夜に聞いた声がした。それから一体どれだけの時間が経ったろうか。私はそれが告げる話をひたすらに聞いた。時が逆流し、あるいは急流となって進み、時間の感覚が失われていく。話が進むにつれ次第に心臓を刺すような痛みと、血も凍らんばかりの恐怖を覚え、まるで人形にでもなったかのように微動だにせず立ち尽くしていた。それが話す内容は、途方もなく現実離れしたもので、果てしなく壮大で、掛け値なしに恐ろしい、世界の真実の一端。幾万年の歴史、幾億年の記憶が奔流となって身を貫いていった。

 言語を絶する内容に意識を失うまいと必死に耐え続けたが、それは唐突に終わりを告げた。四隅の蝋燭の火は一瞬揺らめくと一斉に消えて煤焦げた匂いだけが残り、それに間を合わせたかのように水晶球の中のモヤはきれいさっぱり無くなって、すっかりその本来の透明さを取り戻していた。

「師匠……いかが……でしたか?なにやら聞いたことのない言葉が聞こえましたが」

 エドワードは相変わらず無機質無表情な面で私を見つめている。まるで平然と、何が起こるかを知っていたかのように、驚きもせず泰然と、そこに居た。

「弟子よ。我は大天使ウリエルと交感していたのだよ。世界の真実に近づいたのだ」

 真っ赤な嘘である。それは知りうる限り、天使でもましてキリストや神の使いでもなければ、教会が貴族や農民を脅すためにせっせと流布する悪魔などでもなかった。なにより内容を明かしてしまえば、メアリ一世から受けた投獄の仕打ちどころでなく、気が触れた狂人として処刑すらされかねない。私はまだ世界の秘密を解き明かしたい、そのためには俗人にかかわっている暇はないし、死んでいる暇などもちろんあるはずもない。

「そうでしたか。何であれ師匠の求めているものに出会えたなら何よりです」

 エドワードは心なしか不敵な笑みを浮かべていた。私は初めてこの男に底知れぬ怖気を感じ、急いで追い出すように退散させると、再び書斎へと戻り、内鍵をかけた。

 この時、まだ私は知ることがなかった。エドワード・タルボットと名乗るこの男の名はエドワード・ケリーであることを。そして最初から今日この日この夜に私を誘うように図って弟子入りし、ついに機会を見つけてあの奇妙な夜を演出し、今日また降霊術を装ってそれを呼ぶように、どこまでも仕込んでいたことを。

 世界の理から外れた存在に引き合わせるようにすべて作為していたのだということは、数年後にエドワードがプラハで獄死する間際に私に送ってくる手紙を待たねばならなかった。

 私の名はジョン・ディー。これはエリザベス一世の宮廷で並ぶ者なき魔術師として寵愛される、きっかけの出来事に過ぎない。大天使ウリエルの言葉と称して白いモヤが語る言葉をエノク語と命名して書き記し、果てには最凶の魔導書とされる悪名高いネクロノミコンの英訳に着手し、遠い昔に眠りについた畏怖すべき存在に導かれることになる。

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