薔薇と闇

aoiaoi

薔薇と闇

 ふと、薔薇を買いたくなった。

 深い紅色の薔薇を、一本買った。何本も買うほどの経済的余裕はない。


 人に贈るためじゃない。絵を描くためだ。

 部屋の隅に転がっていた酒の空き瓶を軽くゆすぎ、水を注いで花を挿した。

 狭い部屋は、殺伐として散らかり放題だ。けれど紅い薔薇が小さなテーブルに一輪やってきただけで、壁に雑に立て掛けたキャンバスたちも転がった酒瓶もどこか気取った顔になる。

 小さなキャンバスをイーゼルに置き、花を見つめた。


 複雑な丸みや尖りを主張しながら幾重にも重なる花弁。強く巻いた内側から、外側にいくに従い少しずつ解れるように開いた花の上部。花弁はあっけらかんと開いてしまうのではなく、花の上部からがくにかけてはふくよかな奥行きを持っている。たくさんの花びらが、艶やかな曲線を描きながら茎に向かいひとつに窄まっていく。 

 これから開こうという力を内包した、濃い紅色。

 見つめていると、音もなく佇んでいるはずのその花から放たれる波動に呑まれそうになる。

 

 普段、花は描かない。存在そのものが既に輝いている対象物を描くのは苦手だ。

 何故、薔薇を描きたくなったのか。自分でもよくわからない。

 一つだけ考えられる理由は——学生時代に好きだった人が、死んだ。

 数日前、友人から連絡をもらった。


 その人に何も告げられないまま、卒業した。

 どうしてるかと思いながら、連絡もしなかった。


「いい絵だね」

 あの日の懐かしい声が、耳に蘇る。



 鉛筆を持ち、キャンバスにおおまかな下書きをしていく。


 生きる。死ぬ。それはいつも密着するほどに隣り合っていて、いちいち騒ぐような特異な出来事ではないはずだ。

 それなのに、死という境を一度越えてしまえば、その人とはもう決して会うことはできない。いくら涙を流し、天を掻き毟ろうとも。

 俺たちは、なんとも奇妙奇天烈な世界で呼吸を繰り返し、飯を食い、排泄し、眠り、また起きる。なんで生きてるのか、その理由すらわからないまま。

 そして、二度と会えないひとのことを一生胸に抱きしめながら生きていく。

 生きる意味はわからないのに、大切なものを失う痛みだけはクソほど強烈なのだ。全く理不尽だ。


 ラフにスケッチしたキャンバスに、色を広げていく。

 紅い薔薇。

 描きたくない。こんなもの。

 描くのが、苦しい。


 君に似ている気がするんだ。

 目の前のこの薔薇が。





**


 



 四日後。

 仕上げた薔薇の絵を眺め、俺は歯軋りした。


 キャンバスの中の薔薇は、死んでいた。

 花の色も形も、観たままを全て過不足なく描けている。

 なのに。


 キャンバスに乗せた花弁の紅色が、沈み過ぎているのだろうか? それとも、部屋の明るさが足りないせいか。適当な酒瓶に挿しているのがいけないのか。

 どこにも欠落はないのに、何もかもが納得いかない。訳のわからない苛立ちに駆られながら、キャンバスを新しいものに取り替える。


 紅色を明るくしてみた。部屋のカーテンを思い切り開け、光を入れてみた。酒瓶ではなく、テーブルに直に花を置いてもみた。

 何を試しても、駄目だった。

 描きたい薔薇に、近づけない。


 さらに三日が経った。

 薔薇は萎れかけ、花弁が崩れそうになっている。


 冷たい汗を拭い、拳を握りしめた。

 何故、描き出してしまったのか。紅い薔薇の絵など。

 もうこの世にはいない君を、俺がもう一度殺してしまうような、そんな気がした。

 そして、そう思えば思うほど、キャンバスの薔薇は描きたいものから遠ざかった。




 一晩中筆を動かし続けた俺は、翌朝の夜明けの光が部屋に差し込む頃、枯れた薔薇をゴミ箱に捨てた。


 ——紅い薔薇には、もう、手が届かない。


 神様は、最初から決めていたんだろう。

 どんなに手を伸ばしても、君はやはり僕の手から零れていくのだと。





**





 あれから、一年が経った。

 俺の中には、あの紅い薔薇がまだ咲いていた。あの日のまま。


 毎夜目を閉じると、鮮やかにその色と形が浮かぶ。

 瑞々しいその花びらや葉は、手を伸ばせば触れられそうなほどだ。


 描きたい。

 どうしても、君の薔薇を。



 ガバリとベッドから起き上がった。

 部屋の小さな照明をつけ、イーゼルに新しいキャンバスを置いて猛然と筆を握った。

 白いキャンバスを、黒く塗りつぶしていく。筆を叩きつけるように。

 混じり気のない、美しい黒に澄み切った世界が目の前に出現した。


 ——そうか。

 色が、間違っていたんだ。


 漆黒の背景の上に、純白の花弁を一枚描いた。

 その花びらは、なんと生き生きと輝くことか。

 君の薔薇は、紅色じゃなかったんだね。

 俺の呟きに応えるように、白い薔薇は一層鮮やかに眼裏に咲き誇る。

 艶やかに輝く、白い花びら。その一枚一枚の形さえはっきりと目の前に見えている。

 筆から、命が迸る。堰を切ったように。

 ああ、やっとわかった。

 闇の中にあるからこそ、その花は眩しいほどの輝きを放つのだ。




 何時間、何日経ったのか。

 筆を置いた。


 漆黒の闇の中、凛と咲き誇る一輪の白い薔薇が、俺を照らしていた。



 とうとう、会えた。

 君の薔薇に。


 

 キャンバスが乾くまで、流石に少し眠ろうか。


 いい絵だろ?


 必ず届けるから。今度は、俺の気持ちも一緒に。


 だから、少しだけ、待っててくれ。



 這うようにして身体を横たえたベッドで、本当に久しぶりに、俺は少しだけ笑った。




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