ビスケットホール
崇期
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わたしはビスケットホールにおいて、他の客と積極的なコミュニケーションは取らずにきたと思う。ビスケットホールは何ていうか、特別な場所で、絶妙におかしな
暇な土曜の夜、レイト・ショーを観た帰り道に、わたしはその店に寄った。ミルクホールというものがかつてあったそうで、そのミルクがビスケットにすげ替わったというだけではないだろうか。大の大人が、ビスケットの箱やクッキーが何種類も詰まったかんかん(缶のこと)を店にキープしておき、ホット・ミルクやコーヒー、ときにカクテルを傾けながらちびちび齧る、そういう流儀だ。
それでもその日、カウンター席で隣り合わせた女性の話に付き合うことになった。女性は、自分がキープしていたクッキーの缶をマスターから受け取ると、中身を覗いて、「わたし、ホワイトチョコってあんまり好きじゃないのよね」とつぶやいた。
「じゃあ、わたしがいただきましょうか? わたしのクッキーと交換します?」とわたしは申し出た。
わたしとその五十後半くらいの女性が持っているクッキーの缶は、形は違えど同じメーカーの品に相違なかった。女性が同意したので、わたしは刻んだナッツが散りばめられたクッキーとホワイトチョコレートのクッキーをすべて交換した。
その流れで、多少の世間話、身の上話を交わした。ほとんど向こうがしゃべったのだったが。
「わたしの夫は八歳年上なんだけど、学者肌で理路整然と話すタイプの人で、ケンカとなるといつも言い負かされたわ。ある日、あんまり頭にきたもんで、『あなたの正しさなんて理解できなくて良いと思ってる』って言ってやったの。そしたら夫は、『それなら外を歩いてきなさい』ってドアを指さした。『その考えがなくなるまで、戻ってきてはだめだ』って。冬だったわ。低温注意報まで出てたのによ。わたしは言われたとおりに家を出てやったけど、そのとき、結婚前のことを思い出したの。仕事が長引いて帰りが深夜になったことがあったのよね。当時、両親と一緒に住んでたから、『嫁入り前の女の子がこんな遅くまで……こんな時間に歩いて帰ってくるなんて』ってすごく心配されたのに、夫はわたしが夜遅く表をぶらついてもいいと思ってるんだって、心配じゃないんだって、悲しくなったわけ。まあ、その後すぐ、そんな厚かましいこと言える年齢でもないかって思い直して、何だか可笑しくなっちゃって、そのときに通りをぶらぶら歩いていて、この店を見つけたのよ」
「今日ももしかして、ケンカなさったとか?」わたしが訊くと女性は微笑んで、「いいえ、夫は去年亡くなったわ」と言った。
わたしの飲み物はホットチョコレートで、そのぬくもりを両手で包んでいた。女性からもらったホワイトチョコレートのクッキーには手をつけず、別のクッキーを齧った。女性はというと、ウイスキーのロックを傾けている。
わたしは自分の丸い缶に目をやって、クッキーの残りを確認し、前回来たときのこと、そして今夜食べた量──主に自分自身の人生の歩みを確認し、分厚いカップに口をつけた。亡くなった、と聞いて、それに対する気まずさ、哀傷も表さない自分の神経の図太さ、個人的領域に対する頑固な基準が可笑しいと言えば可笑しかった。女性の旦那さんがここに居たら、「君も間違っている」とか叱られそうだったし、叱られてみたかった。「わたしも結婚したら、そういうケンカがしてみたいな」そう思っただけで、口にはしなかった。
こういう場所なので、過去にもいろいろな客がいた。亡くなった客が遺していった非常食用の乾パンをそのとき居た人たちで分けて食べたこともある。その故人の友人と名乗る人が「食べてほしい」と言って強引に皆に配りはじめたのだ。缶の中身を食べ尽くして、空になったら何を入れるかとか、そういう話題が挙がったこともある。かつて缶に「娘の遺骨を入れる」と話した客がいたらしい。
「人生がおかしいのよね」
女性の話がまだ続いていたんだとはっとなって、わたしは我に返った。
「はい?」
「人生がね……。どんな魂があったとしても、人生という枠組みに入れられると、どうにもならなくなるんじゃないかしら?」
「魂の力をもってしてもクリアできない問題が多すぎるってことですか?」とわたしは訊いた。「人間社会のややこしさ、みたいな……」
「うまく言えないわ」女性はグラスをコースターに戻して、曖昧に微笑んだ。「今度来るときまでに、考えておくわね」
女性は、もっと違う人生を歩みたかったとか、そういうことだろうか。女性はわたしとの交換で手に入れたクッキーを二、三枚口に運んだだけで、蓋を閉じて、マスターに缶を預けて、席を立った。わたしは次に来店するときの予定を立てる。ホワイトチョコレートのクッキーを片づけるとしたら、甘い飲み物ではなくコーヒーなんかがいいだろうな。
ビスケットホール 崇期 @suuki-shu
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