人間感
渡貫とゐち
第霊話
怒声が聞こえてくる。
広い車道を挟んで向こう側にいる男の声だった。
視線が引き寄せられ、つい、見てしまう。
声の主――彼の周りには誰もいない。
大声で叫んでいるから、皆が避けているのではなく、最初からそこには誰もいなかったのだ。イヤホンを付けて通話をしながら怒っているのかとも思ったが、そうでもないらしい。誰もいない空間に、彼は怒声を叩きつけているのだ。
「おい、人を馬鹿にすんのも大概にしろ、お前らの言いなりになる軟弱者と思われてんなら――やってやる。こっちも本気でテメエらと向き合うが、どうすんだ?」
男の視線は前ではなくやや上だった。
斜め上。目の前に人が立っていたとすれば、たとえば漫画内の吹き出しのセリフを読んでいるような視線だった。
顎を上げ、宙を見る男。そこには誰もいない。
周りに人がいたとしても、少なくともそこにはいないだろう。彼にはなにが見えているのか。
「うーん、自販機にきただけのつもりだったんだけど、あれ、気になるなあ……」
仕事中のちょっとした休憩時間だった。
昼休みほどガッツリではなく、運転に疲れたために取る小休憩だ。
自販機で缶コーヒーを買い、ぷしゅっと開けて喉を潤す。苦味が眠気を吹き飛ばしてくれた。炭酸でもよかったかもなー、と思いながら、気になってしまった怒声の男に視線を向ける。
やはり、怒声の男はやや上の宙を見ている……、僅かに左右に揺れているのだが、彼が見ている『なにか』が、左右に揺れているからこそ視線が移動しているのではないか。
こっち側からは確実になにも見えないけれど、でも、そこにはなにかがあるはず……電波でも見えているのでは?
聞いてみた方が早いとは言え、急に話しかけて怒りの矛先がこっちへ向いても嫌だった。解明する必要もないのに首を突っ込んでトラブルに巻き込まれたくはない。……しかし気になる。
気になってしまうとなかなか振り解けない欲だ。
たとえるなら……服のほつれ、靴の裏の穴、小さなささくれなど。それらに比べたら実害はないのだが、気になってしまうと思考が偏っていってしまう。
叫ぶように怒りをぶちまけて、なのに、周りには誰もいない――
と、考えるとかなり怖い状況だった。
他人事だからいいけど、当事者だったら……もしくは身内が同じような状況になっていたら……。怒声の男が危ない人なのか、それとも彼が見えているなにかが危ないものなのか。その差は、やはり大きいのではないか?
「う、急に肌寒くなってきたな……」
さっきまで気温が高かったのだが、日陰になったからか、冷えた風が吹いてきた。
冷たい缶コーヒーのせいもあるだろう、体内から冷えると一気に体温を奪われていく。
「隣、失礼するよ。……あれは、なにか揉め事なのかね」
「え? ……ああ、いや、分からないっす。俺もついさっき見つけたばかりで……地元の者じゃないんで」
「配達の人かい?」
「そんなもんですね。移動中の小休憩にこれ、飲んでたら――怒声が聞こえてきたって感じです。ええっと……あなたは地元の人ですか?」
気配もなかった。
気づけば隣には地元の人のような、部屋着と外着を兼用できるような私服を着る初老の男性が立っていた。温厚そうな男性が、向こう側にいる怒声の男をじっと観察している。
「地元民、みたいなものだよ」
みたいなもの?
その言い方は、生まれ育った故郷ではないものの、長年住んでいる町、と言いたいのだろう。
大人になってから慣れ親しんだ町のようだ。
「あの人とは知り合いで?」
「知らん若者だな。通りすがりなだけかもしれんよ。仮に、地元民だったところで全員の顔と名前が一致しているわけではないからなあ。……ここは島じゃない。都市部のど真ん中だ。いつ誰が流れてきてもおかしくはない」
「そうっすか。……あの人、なにが見えてるんすかねー……もしかして幽霊だったり……ま、そんなわけないですか」
「いいや? そうかもしれんよ。霊感がある人からすればくっきりと見えるものらしいからね。見えない側からすれば信じられない話だがね」
「あなたも霊感は……なさそうっすね。あるなら見えているわけですし。そうか、霊感ねえ……やっぱりどうも胡散臭いんすよねえ。まあ、霊感がない側からの意見ですからね、そりゃそうだって話なんすけど」
「見えなくても、幽霊は信じるのかね?」
「信じる信じない、で考えてないです。いてもいいんじゃないか、とは思っていますけど。いて困る存在ではないでしょう。悪霊は困りますけど」
とは言ったが、実害がなければ悪霊でも構わない、とも思っている。
「優しいのだね」
「いえ、そんなことは……。ところで、あなたは幽霊を――?」
信じるのか。
そう口に出す前に、気づいた。
……違和感があったのだ。
隣にいる、なのに、目で見えているのにそこに人がいるという気配という『重量感』が、なかった。まるで空間に喋っているように。煙に話しかけているように――――
「え?」
視線は下へ。
足下へ。
「おっと、気づくかね? やっぱり、段々と私の【存在感】も濃くなっていっているのかもしれんな。足だけは未だに薄いままだが」
初老の男の足下は薄く、足首から先が見えていない。
あるはずなのに見えていないのではなく、ない。
体重が。質量が。存在感が。そう……初老の男は…………
「あんた、幽霊なのか!?」
「ああ、残念なことに昔に死んでしまってね。未練があるわけでもないのだが、こうして残ってしまったよ。こうなったら、とことん世界を見送ってやろうではないかと長生き――じゃないか、幽霊生活を長く楽しもうと思っているわけだよ。そろそろスマホも巻物みたいに丸められるんじゃないかね?」
未来の科学の予想は今は置いておくとして、
「ゆ、幽霊だとして!! あんたが幽霊であることは認める……信じるしかないからな……。だけど、俺には霊感がない! なのにっ、どうして俺はあんたを見ることができているんだ!?」
知らぬ間に握り潰していた缶コーヒー。
中身は空だったが、少量だが垂れた茶色い液体が手の平を濡らしていた。
緊張感、そして信じられないものを見てしまったことによって噴き出してきた手汗と混ざって、体感ではびしょ濡れだ。
冷や汗も止まらない。霊感がない人間にも幽霊って見えるのか?
じゃあ霊感とは一体……?
「あなたの問題じゃない、私の問題だ」
「?」
「あなたに霊感があるのではなく、私に人間感があるのさ」
――人間感。
霊でありながら普通の人間のように姿を見せることができる。
つまり、普通の幽霊と違い、初老の男性のことはその場の全員が見えているのだ。
存在感は希薄だが、認識できる。
それが、幽霊からすれば人間感があるということなのだろう。
「私はこの姿が他人に見えるだけで人間のように行動できるわけではない。できることは幽霊の時から据え置きなのだ。それは良いのか悪いのか、だが……幽霊と同じことができると忘れてしまうことがある。周りに見えているのに、壁をすり抜けてしまうとマズイだろう?」
「……そう言えばあんた、どこかで……。……あ。なーんか見たことがあると思えば、もしかして、だけど……」
有名人ではないだろう。
生前の行いではない。死後の行動が、初老の彼を有名にさせたのだ。
「『すり抜けおじさん』として、都市伝説になっていた……っ?」
「知っていたのか……まだまだ他にもあるぞ。余罪はたんまりと、だ。……幽霊である自覚があるとついついやってしまうのだ……。私は、周りから見えていることを忘れてしまう。困ったものだ」
「そう言いながらも嬉しそうですね。注目されて、死後に新しく欲が出てるじゃないですか。子供じゃないんだから、注目されて嬉しいはもう終わりでいいでしょう……幽霊から真逆をいってますし……」
見えないのが幽霊なのに。
見えているのに、幽霊なのだ。
「いいや? 幽霊は幽霊でしかないのだよ、お兄さん」
「それは……そうでしょうけど……」
「では、私から、この言葉をお兄さんに分け与えよう――――
見えても見えなくても、幽霊は幽霊なのだよ」
・・・おわり
人間感 渡貫とゐち @josho
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