第3話 雪風に舞う肩掛け‐焦がれる思い‐

 初詣に賑わう、この地方で一番の大きさを誇る、とある神社の境内での出来事だった。

 朝から、少し風は強く、雪が舞っていた。

 拝殿の方へと、私が、人ごみの中を歩いていた時だった。

 

 ひときわ強い雪風が吹き抜け、私の目の前で、鉛を思わせる重たい冬の空の色を背に、さっと絵筆で緋の絵の具を一筆塗ったように、目が覚めるような緋色の何かが、雪風に舞った。

 とっさに私は手を差し伸べ、それが地面に落ちる前に手に取る事が出来た。

 手にしてみれば、それは、その手触りからだけでも、上質な素材と分かる、見事な緋色の肩掛けだった。


 「あら、お嬢さん。私の肩掛けを拾ってくださったのね。ありがとう」

 そんな、凛とした声が、私の耳に響く。

 はっとして、声の方向へ目を遣れば、そちらの方には、一人の、見目麗しい、「貴婦人」という呼称がぴったり似合いそうな、赤を基調とした着物の若いご婦人が立っていた。結い上げた綺麗な黒髪、そこに着けた髪飾りも、着物も、何ら違和感なく、彼女の容姿に調和していた。


 年端もいかぬ娘の私には、並ぶべくもない、その麗しさと、新年の境内に相応しい清冽な空気をまとった佇まいに、私は、文字通り一目で、心を奪われてしまった。

 言葉がすぐには発せず、私は、思わず無言のままで、両手で、宝物でも献上するかのような手つきで、緋の肩掛けを彼女に返した。

 この鼓動の理由が分からなかった。

 雪風が吹くような寒い日だというのに、急に私の体まで熱くさせたものの名前も、私の知らないものだった。

 「この肩掛け、お母様から譲り受けた大事なものなの。無くならなくてよかったわ」

 そう言って、着物の上に再び緋の肩掛けを羽織る、その仕草さえもが、私の目を奪った。

 そうして、彼女が微笑みをくれた時、私は、彼女の口元‐、薄く紅が引かれた、一対の艶やかな花びらが、この粉雪が舞う境内に綻んだようだと感じた。

 

 しかし、丁寧に礼を告げ、彼女が、誰かの方へ振り向くと、立派な家紋付きの和服姿の殿方が「おお、そこにおったか」と、人ごみから姿を見せた。

 「ええ、大事な肩掛けが飛ばされてしまったので、どうしようかと困っていたら、親切なお嬢さんが拾ってくれて。それでは行きましょう」

 そのような事を言いながら、彼女は、殿方の方へと歩いていく。


 -私にさっき、微笑みかけてくれた時とは比にならぬ程に、幸せそうに、嬉しそうに、その口元の、薄紅の花びらのような唇に笑みを浮かべながら。

 人ごみの途中にも関わらず、私はただ、立ち尽くすばかりだった。

 今しがた、殿方の隣を歩く、あのご婦人を見た時。

 空にも舞い上がるような気持ちから、急に地に叩きつけられたような、この心地も、何と形容すればよいのか、私はまだ知らなかった。

 何処までも私は、無知だった。


 -それから、また一年が過ぎ去った。

 また、私は、年に一度、初詣でしか訪れる機会のない、あの神社の境内に足を運んだ。

 奇しくも、あのご婦人に会った日と同じく、肌を切るような冷たい風の中、粉雪が舞っていた。

 あの時、僅かな、ご婦人と話した時間に心の中を過ぎ去っていった、気持ちの名は、まだ分からずにいた。

 

 そうして、何処か、彼女の事に思いを馳せながら、境内を歩いていた矢先の事。

 -見忘れる筈もなき、あの見事な緋の肩掛けを、着物に羽織った、彼女の姿を、私は見つけた。

 一年前から、私の脳裏に焼き付いていた姿と同じだった。

 -その横に、昨年はいた筈の、殿方がいなかったという、ただ一点を除いては。

 

 そして、もう少し、近づいてみて、こっそり、その横顔を伺った時、私は、息を呑んだ。

 彼女の頬を雫が伝っていた。

 雫を頬に残したままで、彼女は拝殿の前で、それでも優雅な仕草で、何事かを祈っていた。

 その雫の意味を知る術は私にはない。

 だが、今日のこの彼女の姿を見て‐、そして、殿方が横にいない事に安堵までしてしまった事で、私は一年前に分からなかった感情たちの名前もやっと分かってしまった。


 到底、彼女と釣り合わぬような私が、同じ女でありながら、彼女に不相応な恋心を抱いていたのだ。

 殿方がいない事に安堵など覚えた、この汚い感情の動きこそが、何よりもそれを証明していた。 

 更には、殿方との悲しい別れを思い出し、一人身になった事を嘆いているようにも見える、あの横顔を伝う雫を密かに、喜ぶような汚い感情さえ、生まれていた。


 嗚呼、斯くも醜い形で、「初恋」なる、世間の少女らの憧れてやまない感情を知りたくはなかったのに。

 殿方がもういない彼女の傷心に近づきたい、というような、見たくもない感情が私の中にあるのが忌まわしく、しかし、その感情をどうしようもなかった。

 

 緋色の肩掛けを羽織ったまま、彼女は拝殿を後にして、一歩ずつ石段を下りて、参道へと引き返し始めた。

 言葉をかけようなどとした自分を、私は急いで制し、その場で足を留めた。

 彼女のような、高貴で優雅な花に、私のような醜い感情を秘めた女が触れる事など、許される筈がないのだから。

 

 緋色の肩掛けは、私に、自分の知らなかった汚い私を知らしめた。

 そして、この私の醜き初恋は、何も始まる事なく、終わったのだった。


 (了)

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百合掌編集-三編の百合の言の葉- わだつみ @scarletlily1125

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