チョコレートに弱い恋人

黒本聖南

◆◆◆

 扉が開け放たれていた時点で、だろうな、とは思っていた。


 用事を済ませて帰ってきたノクターナル・スタフォードが、恋人と共に暮らす家の中に入ってみれば、そこに愛しい恋人の姿はない。チョコの甘い香りだけが場に残っている。

 恋人と作った丸い木製のテーブル、そこには包装紙の剥がされた板チョコが大量に放置され、チョコがこびりついたカップが四つ置かれていた。その中から、恋人がいつも使っているカップを手に取ってみると、どろりと溶けたチョコが少しだけ残っている。

 おそらく、ホットチョコレートを作って飲んだんだろう。恋人はホットチョコレートを好んでよく飲んでいる。飲みすぎるとまずいことになるから、一日一杯だけだと約束させているが、ノクターナルの帰りが遅いとこうして大量に摂取する。

 恋人がこの場にいないことの原因だ。

 カップの中のチョコを口に含む。甘い。甘くて美味しいが、ノクターナルが帰って早々に口を付けたかったのはこれではない。空になったカップをテーブルに置くと、真っ赤な長い髪を苛立たしげに掻き乱し、彼は外に出た。


「ベネディクト!」


 恋人の名前を呼ぶ。そこは森の奥深く、いくら夜の深い時間とはいえ、近所迷惑を考えずに叫べることは利点であった。そして同時に欠点でもある。森は広い。恋人を探すのは少々骨が折れそうだ。


「ベネディクト! 帰ってきたぞ!」


 もう一度恋人の名前を呼び、耳を澄ませる。ノクターナルの耳は良い。愛しい恋人が奏でる音を聞き漏らすような器官は持ち合わせていない。目当ての音を、耳はすぐに拾う。ノクターナルは音の発生源に向けて走り出した。

 彼が恋人と別れて一日が経つ。

 会いたくて会いたくて堪らなかった。

 他人と話している間は、これが恋人であったならと妄想し、買い物をしている時は、恋人の喜ぶ顔を想像し、道をただ歩いているだけでも、恋人と歩いていた時のことを回想する。

 ノクターナルは恋人にぞっこんなのだ。──たとえ、同胞に叱咤されることになるとしても。


「ベネディクト!」


 木々の間を目にも止まらぬ早さで走り抜け、ノクターナルはようやく愛しい恋人の姿をその目に映す。

 恋人は──ベネディクト・グラトニーは躍り狂っていた。


「よっ、はっ、あそーれよっと」


 赤ら顔で、いかにも適当に、手足を振り回しているノクターナルの恋人。

 その頭部には柔らかな毛に包まれた赤い獣耳がぴょんと立ち、臀部からはフサフサの赤い尻尾が生えている。

 人の姿をしながら、獣の──狼の特徴をその身に宿したベネディクト。

 彼は人狼だ。

 完全に人の姿を取ることもできれば、今のような半人半獣の姿にも、狼の姿になることも可能だ。ノクターナルが彼と最初に会った時も、ベネディクトは赤毛の狼の姿をしており、野良犬と勘違いしたノクターナルが家に連れ帰ったのをきっかけに、彼らは共に暮らすようになった。


「べんべんべんべん、よっとっと」

「……ベネディクト」


 笑みを浮かべて吐息混じりに恋人の名前を口にし、ノクターナルは彼に近付く。

 ベネディクトは酔っているようだった。ノクターナルが目の前まで来ても踊ることをやめない。ノクターナルはそんな彼に構わず、優しく抱擁した。


「あ、れ」

「ただいま、俺のベネディクト」


 愛しくて、愛しくて、堪らない。

 聞く者が聞けば、吐血をして失神してしまうんじゃないかという、そんな甘い甘い声でベネディクトの獣耳に囁くと、彼は身体を震わせた。


「……ノク、タ……」

「そう、お前のノクターナルだよ」

「……えへぇ」


 嬉しそうに破顔すると、ベネディクトはノクターナルの胸板に頬擦りをする。


「帰ってきたんだー。待ってたよー」

「お家でいい子に待っててほしかったな」

「だってねー、気分が良くなっちゃってー」

「ホットチョコレートは一日一杯だろう? それ以上は酔っ払うんだから」

「僕はチョコに強いもん」

「いや、弱いだろう」

「つーよーいーもーん!」


 ノクターナルは微笑みながら吐息を溢し、ベネディクトの身体をそっと離す。

 不思議そうにノクターナルを見つめるベネディクト。その首筋へ、ノクターナルは顔を寄せていく。

 染み一つない、ベネディクトの綺麗な肌。それを間近に見ながら、ノクターナルは残念そうに呟いた。


「……お前の肌は、痕が残りにくいな」

「ごめ……んっ」


 ベネディクトの首に歯を──鋭く尖った牙を突き立てたノクターナル。彼の喉が動くたびに、静かな夜の森に何かを啜る音が響く。


「ノク、タ」


 ベネディクトの息が徐々に荒くなり、がくがくと震え出す足が、その内、力を失ったように彼の身体を地面へと近付ける。すぐにノクターナルが彼の身体を支えていなければ、尻餅をついていたことだろう。

 大事に、大切そうにベネディクトを抱き締めながら──彼の血を貪るノクターナル。

 吸血鬼。

 他者の血を好んで啜る者、それがノクターナル・スタフォード。


「……僕の血、美味しい?」


 そんな言葉を残して、ベネディクトは瞼を閉じる。やがて、小さな寝息が聞こえてきた。

 ノクターナルはベネディクトの首から牙を抜き、彼の短い赤髪を優しく撫でる。


「お前ほど美味しい血はないよ」


◆◆◆


 赤い髪の吸血鬼と、赤い毛並みの人狼。


 本来であれば吸血鬼と人狼など、出会ってしまえばすぐさま殺し合う関係になるはずだが、彼と彼はそうはならず、人里離れた森の奥で、日夜、愛し合っていた。

 ノクターナルが犬を好きな吸血鬼で、ベネディクトがそこまで吸血鬼に忌避感を持たない人狼だったからこそ、殺し合わずに済んでいるんだろうか。

 互いの同胞がこのことを知ればどうなるか。

 共にいるべきではないと思っていても、彼と彼は別れることを良しとしない。


 死が、彼らを分かつまで、彼と彼は共にいる。


◆◆◆


 ベネディクト・グラトニーが目を覚ますと、その身体は柔らかな場所に横たわり、誰かの腕の中にいるようだった。

 まあ、誰かなど、においですぐ分かるのだけれど。

 相手の胸板に頬を寄せ、温もりを感じながら囁いた。


「おかえりなさい、ノクターナル」

「ただいま」


 ベネディクトは青い瞳を見開いた。自分を腕の中に閉じ込めている恋人は、既に起きていたらしい。


「あ、えっと……その、喉は渇いていますか?」

「昨日飲んだから、今はいい」

「……どなたの血を飲んだんですか」

「お前のだよ。もう噛み痕は残っていないが」


 咄嗟に首筋を擦るベネディクト。いつもノクターナルが噛みつく辺りだ。確かに、肌触りに違和感はない。


「いつの間に吸ったんですか」

「帰ってすぐに、いなくなったお前を探して、酔っ払ってるお前を抱き締めて、そのままな」

「……」


 それまで引っ込んでいたベネディクトの獣耳と尻尾が勢い良く生えてきて、彼の顔が羞恥に赤く染まる。恋人たるノクターナルは笑い声を上げながら、ベネディクトの獣耳に触れた。

 その手付きが気持ちいいのか、そもそも触れられることが嬉しいのか、ベネディクトの尻尾が激しく揺れる。


「相変わらず、チョコに酔ってる時の記憶が残らないし、雰囲気が全然違うな」

「僕はどんな醜態を晒したんですか……忘れてください……」

「嫌だね。どんなお前も俺のものなんだから、一つ残らず記憶してやる」

「……うぐぅ」


 悔しそうな声を上げつつ、ベネディクトの顔は笑みの形に歪んでいく。

 会いたかった。

 ノクターナルに負けず劣らず、彼に会いたくて堪らなかった。

 一日だって本当は離れたくないが、日々を生きていく為にはどうしても、ノクターナルが森の外に出ていかないといけない。

 ノクターナルは吸血鬼、特別な吸血鬼。

 彼の流す涙は、涙の形をした赤い結晶であり、それには魔力が込められ、人間が口に含むと魔法を行使することができる。だからこそ、人間は吸血鬼の涙を欲し、富める者はいくらでも金を出す。

 ノクターナルはたまに森の外に出ては、人間に涙を売り、得た金で暮らしに必要なものを買っていく。自給自足にだって限界はあるし、何より、


「今回も美味しいチョコ、たくさん買ってきたからな」


 チョコは、森の中にはない。

 吸血鬼が血を好むように、人狼はチョコを好む。目の前にあれば一も二もなく飛び付いた。我慢するなど拷問である。

 貪るように食べて食べて、個体によっては、酒を飲んだ時のように酔っ払う。ベネディクトはチョコに弱い人狼だった。性格が変わるくらい酔っ払うと分かっていても、食べずにはいられない。──だってそこに、チョコがあるから。


「ありがとうございます、一緒に食べましょうね」

「もちろん。でも、酔うほど食べるんじゃないぞ」

「……わ、分かってますよ」

「まあ、酔ったお前も可愛いからいいんだけど」

「……絶対、気を付けます」


 チョコは好きだが、醜態を晒すのは恥ずかしい。

 個数に気を付けて食べようと心に誓うベネディクトだが──あまりの美味しさについつい食べすぎて、いつも通り酔っ払うのだった。


◆◆◆


 彼と彼の、穏やかな日常。

 この一年後に、小さな可愛い狼達が彼らの間に生まれるが、それはまた別の話。

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