何も

 池山神主が死んでいる。

 その一報を受けまず動いたのが上田先生だった。彼は僕にこう告げた。

「飯田くんはここにいて!」

 それはおそらく、僕という学生を監督する身としての発言だったのだろう。が、素直にそれを聞き入れるほど僕はいい子じゃなかった。「笑み」をたたえた大人たち。彼らが混乱しているのに乗じて僕は上田先生を追いかけることにした。上田先生は先導者に案内されていったが、僕にはそれがいないので一計を講じた。

「神主さんはどこで見つかりましたか」

 どさくさに紛れて「笑顔」のおじさんにそう訊ねる。すると彼は「裏山の小屋だよ」と返してきた。裏山の小屋。一人で行けるか、一瞬迷ったが、先生の消えた方向に歩いていけばどうにかなるだろうと考えて走り出すことにした。

 暗闇の中を駆ける。道中、街灯はあったがほぼ真っ暗闇。しかも裏山、明かりはどんどんなくなっていった。スマホのライトを点ける。それでも切り裂ける闇は僅かだった。とりあえず、走る。いつか向こうに光が見えてくることを信じて。

 意外にも、道は一本だった。駆けて駆けて駆け抜けると、やがてそれは見えてきた。

 上田先生の、背中。

 先生は神社裏手の一本道の行き止まり、駐車場みたいな広場の端にいた。僕は彼に近寄った。

「先生」

 声をかける。先生は一瞬困ったような顔をした。「どうしてここに」と訊いてきたが、僕は真剣な顔で先生を見つめた。

 この沈黙にどんな意味があったのか、僕自身も分からない。

 分からないが、先生は黙って僕を見つめた後すぐに「覚悟はできてるんだね」と念を押してきた。

 僕は頷いた。

 そうして先生が体を退けた先。

 沢があった。山肌、岩と岩の隙間から漏れ出た水がちょろちょろと小さな流れを作っていた。

 そして、その流れをき止めるかのように……。

 死体があった。

 清らかな水の流れは、死体の足元から一転、赤く染まっていた。

 僕は一瞬、目を疑った。

 死体の口が、耳元まで裂けているのかと。

 しかしよく見ると違った。

 それは紅だった。祭りで、男衆が使っている。

 真っ赤な口紅が、耳元まで塗られて。

 不気味な笑顔が作られた死体が、そこにあった。



 駐在さんの仕事は早かった。

 やってくるなり即座に現場を封鎖。証拠の保全、現場の管理をしっかりと行い、続く青梅警察署の捜査の基盤を綺麗に作った。よくある因習村のミステリーらしい、無能な警官あるいは地元権力者の息のかかった警官という様式美を見事に打ち砕いてくれた。警視庁も捨てたもんじゃない。

 駐在さんはそのまま村の医師を呼んで簡単に検死報告をさせた。その内容は本来ならば秘匿されるべきものだったのだが……村唯一の医師、柏崎かしわざき老はおしゃべり好きだった。曰く。

「背後からの一撃だぁね」

 そして自身の後頭部をこん、と叩く。

「パックリいっとったよ。顔の化粧は死んだ後にしたんだろうね。血の上から紅が塗られとった。凶器も分かりやすかったのう。近くに拳大の石が一つ。血に濡れて」

 なるほど。殺し方はシンプル。だが表現が複雑。

 記憶の中。僕は死体の顔を思い出す。

 無。

 何もない。その目に光はない。ただ……。

 耳元まで引かれた紅。

 笑っているように、見える。

 僕はため息をついた。同様に、上田先生もついた。だが先生のは悲しそうだった。悲しそうだったし、震えていた。僕は先生に告げた。

「行きましょうか」

 先生は静かに頷いた。それから、二人で夜の闇の中を歩き始めた。

 沢を下る。途中、神社の建物に阻まれたので迂回しながら歩いた。

 道はどんどん、祭囃子から遠のいていった。代わりに沢の音が強くなっていった。僕はこの時ようやく気づいたのだが、ここまで一本道に見えた通路は途中、小さな脇道があった。沢はそちらに流れているようだった。どちらも何もしゃべらなかった。虫の声さえ死んだ冬の闇。僕たちの息遣いだけが、聞こえていた。



 少年は、神社の鳥居の傍にいた。

 地面に刺さる緋色の柱。

 その下に影法師みたいに立ち尽くしていた。

 鳥居のそばには小さな街灯があった。木製の柱にLEDライトだけつけましたみたいな、とても簡素なものだ。少年はそれに照らされて立っていた。影がにゅっと伸びていて、夜の闇と少年とを結びつけていた。すぐそこで沢の流れる音がしていた。

「菊永くん」

 上田先生が、静かに告げた。

「どうしたのかな」

 少年の手には何もなかった。が、手首についたそれを、僕も先生も見逃さなかった。

 血痕――しかしそれは、拭った跡があった。

 隠蔽しようとした形跡があったのだ。

 街灯。頭上から降り注ぐ光は、菊永少年の顔にのっぺりとした仮面を被せていた。少年の顔は無表情だった。何も読み取れない顔をしていた。

「ぼ、僕……」

 そう、狼狽えてみせる少年。

「ぼ、僕、見ました」

 上田先生も、そして僕も沈黙していると、少年は重みに耐えきれなくなったようにしゃべり始めた。そういうところはまだ幼いのだなと、僕は学生の分際でそう思った。

「池山さんが血だらけだった……池山さんが」

 しかし上田先生は何もしゃべらない。

「池山さんが死んでた! 僕、僕……」

 それでも先生はしゃべらない。

「怖かった……!」

 少年は泣き出した。

「せ、先生、僕、僕とても……」

 それでもなお、しゃべらない。

「先生……!」

 菊永少年が悲痛な声を上げた。が、先生の表情は崩れなかった。

「……私は、悲しいよ」

 数十秒、いや数秒空気を吸った後、上田先生は口を開いた。

「この期に及んでまだ、私に嘘をつくんだね」

 菊永少年が硬直した。先生は続けた。

「いいかい、ここは福笑ふっしょう祭りの通り道から外れた場所にある。私たちがここに来る途中、祭囃子はどんどん遠ざかっていった。村の男衆が池山さんを見つけるのはある種必然なんだ。池山さんを探して祭りの通り道から神社へ行くのはほぼ一本道だからね。脇道はここ、鳥居を通る道しかない。でも村の人間がわざわざこの、神社の正門を通る理由なんてないんだよ。お祭りでみんな福笑踊りを見に行くんだから。こんな不自然な場所にいる君に、我々が容疑をかけるのは当然だろう? しかもここは沢の下流だ。人を殺して血だらけになった人間が、体の汚れを落とすのにちょうどいい場所だ。君は上手くやったね。沢で殺せば、証拠も何もかも水が流してくれる。如何に現場を保存しようとも、どんどん手がかりは流れていく」

「ぼ、僕がここにいるのは」

 少年は懸命に言い訳をした。

「池山さんに言われたからです。祭りに必要な、その、何とかって言う楽器を取ってこいって! それを取りに僕はこれから……」

「これから?」

 上田先生は追及した。

「これから行くところだったって言うのかい? 思い出してほしいんだが、君はさっき池山さんが死んでいるところを見たと言ったね。その後に悠長に楽器を取りに行くのだとでも?」

 空気が、止まった。

 風が凪いで、流れる沢の音さえ小さくなった気がした。僕たちの、三人の息遣いが聞こえた。が、やがてそれは聞こえてきた。震える吐息だった。

「ふ、はふ、ふ」

 菊永少年だった。

「ふふふ、はは、ふふ」

 上田先生の気配が固くなった。

「あは。あはは」

「可笑しいかね」

 上田先生は淡白だった。

「私は真面目なんだけどな」

「うふ。ふふ。んふ」

「君の気持ちを聞かせてほしい」

「ふひゅ。んふふ。んふ」

「菊永瑛一!」

 上田先生が一喝した。

「答えなさい。何を思って殺人を犯した」

 少年の笑顔が一瞬で萎えた。

 街灯の下、のっぺりとした白い仮面を被った彼は、ただ一言、つまらなさそうに述べた。

「何も」

 先生の気配が、一瞬崩れた。

「何も?」

 そう、訊ねる。

「何も? 何も思わずに人を殺したと?」

「ええ」

 菊永少年は真顔だった。

「何も思っていません。理由なんかない」

 それから少年は、またもつまらなさそうにため息をついた。

「例えば、ハンバーガーが食べたいとするでしょう?」

 少年は語った。

「その時ハンバーガーが食べたい論理的な理由なんてあります? 肉が食いたいならハンバーグを食べればいいし、トマトを食べたいならサラダを、パンを食べたいならそうすればいいじゃないですか。なのにハンバーガーを食べたい。これに理由、つけられます?」

 少年はすっと姿勢を正した。そこに迷いはなかった。

「殺したかったから殺したんですよ」

 あっけらかんと、続ける。

「そこに理由なんてない」

 黙った。

 何も言えないのを感じた。

 ふふ、ふひゅ。

 少年は笑っている。

 破顔している。

 やがて、僕たちの背後から大人たちがやってくる音が聞こえた。そうして僕たちの真後ろに来た誰かが、ポツリと「やっぱりな」とつぶやいた。その言葉を合図に男たちが菊永少年を捕まえにいった。少年は抵抗することなく捕まった。

 いつの間にか彼の顔は元通りだった。無表情な……相変わらず、冷たい表情をした彼は。

 白塗りの、紅を耳元まで引いた笑顔の男たちに、囲まれていた。



 警察の事情聴取は思ったよりも長く、夜を徹した。東の端が明るくなってきた頃、帰りのバスがあることを確認して、僕たちは荷物をまとめた。頭の芯が眠気で痺れていて、何だか昨夜のことが悪い冗談のように感じられた。

 お互い、何も言わずにバスに乗る。

 乗客はまばらだった。しばらく、ちょうどバス停二つ分くらい揺られた頃。青梅駅が近くなってきた頃に先生が口を開いた。それは静かな言葉だった。

「人は、嘘をつく」

 まるで何かの懺悔のように聞こえた。でもそれは僕に向けられた言葉だった。

「何故嘘をつくのか考えなさい。上っ面を看破しなさい。まず疑ってかかりなさい。そして笑顔に騙されないようにしなさい。敵は笑顔で近寄ってきます。騙されないようにしなさい。惑わされないようにしなさい。考えるようにしなさい。心を読んで。今あなたが学んでいる学問はそれを助けます。でも全員を、全てを見破ることはできないと知りなさい。それでも見破りなさい。考えなさい」

 僕は静かに答えた。

「はい」

 それから、考えた。

 福笑……フッショウさま。それを祀るお祭りで起こった事件。あの神様が僕たちに与えたものは何だったか。あのお祭りで僕たちが見たものは何だったか。

 笑顔S.M.I.L.E.

 ――人生というのは厄介でね。美しい反面、時折ものすごい残虐性を見せる。見るに耐えないような、ね。

 先生の言葉だ。

 美しいかどうかはまだ分からないが、後半の部分には賛成だ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

S.M.I.L.E. 飯田太朗 @taroIda

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ