3

 いつの間にか寝てしまっていた。顔に引っ掛かる参考書を外すと、真昼の光が容赦無く襲い掛かる。じっとりと乾いた汗が纏わりつく。夏の午後だとどうにか理解できた。

 こんな日はいっそ、死んでしまった方が楽だと思う。

 毎日毎日、学校で英単語や年号を何度も何度も暗記して、何度も何度も繰り返す先生の話を延々と聞き続ける。延々と最先端の発見・発明は続き、延々と政治家は汚職を続け、延々とメディアは喚くばかり。何時まで経っても国際情勢は解決しないし、何時まで経っても宇宙計画を諦めないし、何時まで経っても超能力や魔法はフィクションのままだ。

 生きていたってしょうがないんだ。安定した将来のための恐ろしい日常生活。他の人達はこんな生き地獄で気が変にならないのか。もしかしたら気が変になった奴を大人と呼ぶのか。


 ドンと壁を叩く音が響く。壁の向こう側から智也の罵声が聞こえる。スピーカーにしているらしい、誰かと通話しているのか。

 ーー父親アイツだ。

 番号を知っているのか、智也だけに連絡するのか、智也だけと話をするのか!?

 俺は番号を知らない、連絡がきたことなんかない、もちろん通話なんて!

 違うのか、何が違うのか、双子だろう!? 同じ顔で同じ声で同じ物食べて……。

 窓を開ける。生温い風と共に会話が部屋に流れ込んでくる。

 スピーカーを通して割れた父親の声が聞こえる。それに被せるように智也の声が響く。

「あの女はただ現実に耐えられなかった。だから逃げた、現実から。そのくせ罪を償おうとして、奴まで自殺に追い込んだ。追い込ませたんだ」

「……お前も仁也無しでは生きていけないらしい。似たな、アイツに」

 喉の奥で笑う父親の声に、不機嫌で苦しそうに智也が答える。

「俺はあの馬鹿な女のように弱くない。独りで生きていける」

「だがお前はその馬鹿な女の腹から産まれてきたのだぞ」

 智也が怒鳴る。

「一体何の用だ、そんなことを言うために電話してきたのかよ!?」

 喉の奥で笑いながら父親は答えた。

「仁也を連れて行く。私の手元に置こうと思ってな」

「な……」

 智也の声が震えた。

「お前を救った恩を返そうとせずに、お前はいつか私を殺すだろう、お前の本当の両親を殺したようにな。何も知らない仁也は良い人質となって、何も知らないまま私の良い片腕になるだろうよ」

 喘ぐような低い声で智也は言った。

「俺は、どうなる?」

 父親の返事は無慈悲だった。

 智也は背筋が凍るような声で吠えると同時に激しく物を壊す音が響いた。

 智也の部屋に飛び込むと、智也は仁也を見て蒼白しーー仁也の表情で硬直した。

 そして歓喜の声を上げた。

「どうだ、驚いただろ!」

「本当、なのか」

 息が吸えず喘ぐ声で仁也は言った。智也の声も喘いでいた。

「なあ本当なのか、母さんが狂って窓から飛び降りたのも、叔父さんが首吊ったのもーー」

 智也が吠える。

「俺達は不義密通の子さ、知らなかったろ!」

 智也の目はぎらぎらと獲物を狙っていた。

「知らなかったろ、俺は八歳のときにあの女の口から聞いた。あの女が死ぬまでの二年間、俺はあの女に嬲りものにされていたんだ。お前は言われたことないだろ、お前なんか居なければ良かったなんて。俺は言われ続けたんだ、二年間もだ。父親アイツのせいで殺されかけたけど、あれがなければ俺は自殺していた。あのお陰で俺は生き延びたんだ」

 智也は一気に喋ると仁也に顔を近付けた。お互いの息が混じり合う。

「あの女を突き落としたのは俺とお前だ、奴が首を吊ったのも俺とお前が俺達をなぜ助けなかったと責めたからだ」

 視線を逸らせず、瞬きもできず、見つめ合う。

「俺はお前が大嫌いだ。何も知らず幸せに今まで生きてきて、一体俺の何が、お前とのこの差は何なんだ!? 俺と同じ顔で俺と同じ声で、なぜお前だけが愛されるんだ、なぜお前だけが笑ってられるんだ!? 畜生、俺が狂っているからお前はまともでいられるのに!」

 意識が絡む。鏡合わせだ。そして双子は笑う。

「そうか、お前を殺せば俺はまともになれるのか」

 その途端、片割れを柱に思い切り打ちつけた。なおも襲いかかる片割れに蹴り込むと、相手と共に空っぽの鳥籠が酷い音を立てて倒れ転がった。双子共に獣のような叫び声で組み合う。頰を掻き血がしぶく。鉄錆の味がする。痛みを感じる度に次の一撃を与える。

 ーー自分が智也か仁也か分からなくなってきた。目の前にいる狂った自分から血が出る度に、歓喜が湧いてきた。

 衝撃と同時にドアが開いて、片割れの俺は倒れ込んだ。その隙に俺は片割れを窓際に寄せ付けた。狂った双子の母親が落ちた窓に。

「死ねよ」

 片割れが言った。

「お前もな」

 もう片割れが言った。

 お互い力を振り絞って相手を窓から突き落とそうとする。

「愛してるぜ」

 片割れが罵声のように叫んだ。もう片割れは夏の眩しい光の中に飛び下りていった。

 雷が落ちた音がした。


 静寂が訪れた。どこかで蝉が鳴いている。

「ああ可哀想なーー」

 は呟いた。

「ーー智也」

 はゆっくりと立ち上がる。鼻血はまだ止まらない。

「父さんに伝えなきゃ。誰かと電話で話ししていた後に、自殺したって。止めたの振り払って窓から飛び降りたって。」

 よろめき、階段を転げ落ちる。空が、青い。

「俺はーー仁也だ」







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