血で汚れてもよろしくて?

 ◆―1―

 灯りの無い部屋に月光が満ちる月夜、流麗な刃が弧を描く。その軌跡はまるで氷の塊のように、冷たい光を纏いながら男の脇腹へ伸びていく。

 風が鳴る。男が短い悲鳴を上げた。

 刹那、鮮血が花を咲かせる。その斜め下から振り抜かれた刃は、腹部に容易に侵入し肺を突き破る。肺に蓄えられた空気が抜け、弦の切れたバイオリンのようにもう彼が声を発することは出来ないだろう。

 傍らに立つ女は、高く上げていた脚を下ろす。

 軽快な金属音が鳴り、ハイヒールから生えるように付けられていた刃が収納される。そして、黒い手袋を嵌めた両の手で持ち上げていた深紅のドレスのスカートを下ろし、すらりと伸びた初雪のような脚を、そのヴェールに秘匿させた。

 鬱屈さごと吐き出すように、女は嘆息を漏らす。

 その美貌は、まさに傾国の美女と言ってもいい。

 シンメトリーの双眸は切れ長で冷たく、整った鼻立ちの下には薄い桃色の唇が実っている。透明感のある肌はまるで新雪のようで、凹凸の一つすらも見当たらない。

 美女ではあるが華やか、と言うような美しさでは無い。一言で表すならば耽美。それは氷の彫像を幻視させるような、近寄り難い美しさであった。

 その豊満な双丘が上下し、金糸雀のような明るい金の糸が、風に摘ままれたように揺れる。

 生命活動を停止させた身体が、力無く膝を突き床に倒れ伏す。貴族しか着用を許されない華美な礼服が、どくどくと脈打つ暗褐色に染まっていった。

 広がる血溜まりは高価なカーペットを汚し、大理石を赤く染め上げる。女はそれを避けるように数歩下がると、その手に嵌めた手袋を口を用いて外した。

 冷たい月光に照らされ、唾液が糸を引く。その細く、白く、しなやかな指が外気に晒され、血のように紅いネイルが光を浴び鈍く光った。

 黒い手袋を、顕になっている胸の谷間へ仕舞い込む。

 そうして暫く部屋の惨状を眺めていた女だったが、満足したのか部屋の隅のドアノブを捻り、コツコツと軽快な靴音を鳴らしながら部屋を後にする。

 廊下の灯りがドアの隙間から部屋に飛び込む。部屋と廊下のその輝度の差に、暗闇に慣れていた女の紺碧の瞳孔は一瞬だけ収縮し、女は手で目元に影を作り眉を顰めた。


「どうだ?」


 ドアを開けた正面、廊下の壁に腕を組みながらもたれ掛かっていた男が、含みのあるアルトで訊ねた。

 棘のようなプラチナブロンドの隙間から覗くナイフのような鋭い視線は、その声も相まり並の者なら睨まれるだけで怯んでしまうだろう。

 長身で引き締まった肉体に燕尾服に身を包み、その左胸に光る金色のバッジはこの屋敷の主であるとある貴族に仕える証だ。その服装と併せて見れば、この男が屋敷に勤める使用人の一人であることは容易に理解できるだろう。

 その正体が、本当に使用人であるかは別として。

 そんな男の問いに何か反応を示す訳でも無く、女は不機嫌そうに鼻を鳴らして廊下を歩き出す。

 ハイヒールの軽快な足音に、革靴の確かな足音が続いた。


「滞り無し、証拠も無し、造作も無し。私の事、初心者だと思ってる?」

「…まぁ心配はしてない、確認だ」


 男が肩を竦める。女はそんな男の様子に一瞥だけをくれると、冷たい声で訊ねた。


「このまま正面玄関でいいのよね?」

「……あぁ。他の参加者に紛れる形になる」


 女はその言葉に、歩きながら男の方へ怪訝そうな瞳を向ける。その咎めるような目線すら、世の男性は見惚れて時は静止し、思考は沸騰し、息も出来ないだろう。

 しかし男は反応を示さず、女の続く言葉を待つ。


「正気? 私目立つわよ」

「それを俺が知らないとでも思ったか? 大勢の視認情報を作りたい。そんなことをせずとも、かの赤百合がまさか殺人の容疑者として疑われることは無いだろうが、念の為だ」

「そのまま歩いていいの? 殺した部屋から特に移動してないわよ?」

「ロウル侯爵はメイドに自室へ戻ると言って会場を出ている。こことは全くの逆方向だ。後は分かるな」

「なるほど。アリバイは完璧って事ね。」


 納得したように喉を鳴らし、女は続けて問う事はしなかった。

 赤いカーペットが敷かれ、壁には名も知らぬ絵画が飾られている廊下を、二人は言葉を交わさず歩いていく。

 やがて二人は廊下の最奥、巨大な黄金の扉に突き当る。事前に示し合わせたかのように女が立ち止まり、男がエスコートするように黄金の薔薇が巻き付くような装飾の大扉を開いた。飛び込むのは、巨大なシャンデリアによる宝石のような七色の光と、管弦楽団によって奏でられる豪華な音楽。

 シャンデリアの下で蠢く色はよく見れば、全てドレスを着込んだ淑女と礼服に身を包んだ青年だ。

 ワイングラスを片手に談笑に花開かせる者、音楽に合わせ優雅に踊りを披露する者。どれも往々にして整った容姿を持ち合わせているが、それもホールの端で傍観する女に比べれば、足元にも及ばない。

 所謂ダンスパーティーの場でその女は、胸を持ち上げるように腕を組んだ。


「ほんと、何が楽しいんだか」

「俺は戻る」


 呆れたように吐き捨てる女を諫めると、男は人波に消えていく。何ら特徴的な点も無い使用人の装いだ。男はその背景に自然に溶け込み、女はすぐにその姿を見失った。

 女も、その背中を追おうとはしない。そのままどこか遠くを見つめるように、ぼうっと立ち尽くしていた。

 難しい表情をしながら、彼女は顎にそのしなやかな指を沿わせる。まるで名高い画家が描いた絵画のようなその姿に、覗き見るように彼女の様子を窺っていた者達から、感嘆の息が漏れた事を女は知らない。否、そんなことは彼女にとって、歩けば前に進む程度の至極当然の原理に過ぎない。脳が適宜情報を取捨選択したのだ。

 ふと、そんな女に近寄る影が幾つか。女は警戒からか、誰にも視認されない身体の陰で小さなダガーナイフの刃を露わにした。


「あら! リリー様、どちらに行かれてたんですか!?」


 談笑の最中その絶世の美貌が視界に映り込んだらしく、部屋の隅に佇む、リリーと呼ばれた女に数人の女が近付く。

 どの者も若々しく、この社交会に舞い上がっているようであった。

 貴族社会において社交会とは即ち、選ばれた者しか参加できぬ秘匿された会合。普段は関わり合いが無い高貴な身分の者とも、談笑することが出来る稀有な機会だ。それも、今回の主催者は社交界の貴人とも称されるロウル侯爵。舞い上がるのも無理は無い。

 それにこうして、王国でも赤百合と称されるリリーとも会えたのだから、彼女たちが高揚するのも無理は無いだろう。

 リリーはそんな者達の無垢な笑顔に合わせるように、その表情に絢爛な華を咲かせる。と同時に、彼女等に敵意が無いことを察し素早く刃を隠す。

 リリーの破顔は同性すらも魅了したようで、話し掛けた少女たちの内数名が蕩けるようなだらしない顔を晒していた。


「少し夜風を。今宵は特に沢山のお誘いを受けてしまったものですから、少し疲れてしまいまして」

「わぁ……! やっぱりリリー様は違いますね! 私今日は二回ほどしか…」

「私なんて一回もよ。あぁ…でも、リリー様の笑顔で癒されますぅ…」

「あら、嬉しいことを言ってくれますわね。しかし――……」


 魔性の微笑みを湛えながら、リリーはそう漏らす少女の顎を持ち上げる。

 まさに魅了の最中。少女が息の仕方を忘れているのが分かる。網膜は美しいリリーの顔を焼き付けようと必死に見開かれ、緊張と興奮により早まる鼓動がリリーの耳にまで届く。頬は林檎のように赤くなり、うっとりと表情が解けた。


「――……私なんかに感けていると、売れ残ってしまいますわよ?」

「あわ…あわわわわっ!!」

「ず、ずるい! リリー様のお顔をそんなに近くで見れるなんて!」

「私にも!! 私にもお願いしますリリー様ぁ!」

「あぁ……私、もう死んでもいいかも……」

「ふふっ、御冗談も程々にねお嬢様方。では、お先に失礼致しますわね」


 薔薇のような背景を幻視させ騒ぐ少女達を横目に、リリーはその場を去る。

 すり抜けるように人の流れを掻い潜り、鼻の下を伸ばす男共のダンスの誘いを笑いながら断り、屋敷が放つ光から逃げる影のように、開け放たれたその正面玄関へ向かう。

 社交会とは表向きには、歓談とダンスを愉しむ穏やかなパーティー。しかし、その実は有力なコネクション、権力関係の維持、更なる富と名誉を得るための腹の探り合いだ。

 その点男性陣にとっても、女性陣にとっても、王国でも名高い美女でありながら、決して小さくない発言力を持つスカーレット侯爵家の長女、リリー・オウル・スカーレットと言うのは魅力的に映るのだろう。

 とは言え、話し掛けられる理由はそれだけではない。

 周辺国家どころか、大陸中に轟くその美貌。美の女神とも称されるそれは、特に彼女の生家スカーレット侯爵家の領地であるヴィル・スカレアでは、狂信的とも言える非公式のファンクラブが結成されているという。そんな、生物として一ランク上の存在。

 正しく絶世の美女。赤百合リリーだからだろう。

 周囲から感嘆の声が漏れるのを聞きながら、ホールを抜け玄関へ。しかし社交会より立ち去る麗人に玄関で待機する使用人たちが気付く筈も無く、使用人服に身を包んだ一人の少女が、主人を見付けた犬のようにリリーに駆け寄る。

 ミルクブラウンのショートボブには緩やかなパーマが掛かっており、そのくりくりとした大きなヘーゼルの瞳は、まさに無垢な子供のように輝いている。


「リリー様! もうお帰りで!?」

「えぇプラム。仕事も終わったし、もう疲れたわ。人の目気にするって、私嫌いなの。ドレスも嫌いだし」


 リリーが声を潜めて言う。その言動に先程のような麗しさは感じられず、まるで愚痴を零す相応の少女のよう。

 そんなリリーにプラムと呼ばれた少女は人差し指を立て、大袈裟な動作で高説を垂れるように口を開いた。


「いえリリー様! 奥様も、その身を飾らずして何が女かと仰っていましたよ? その言葉、私も同意です。リリー様程お美しい方が、着飾らないのはもったいないですよ! それが武器となるのですから、尚更です!」

「フーアなんかはそれを愉しんでそうじゃない? 私は着せ替え人形じゃないのだけれどね。はぁ、……この話はいいわ。馬車の用意をして頂戴」


 話に夢中だったのか、プラムは目を丸くする。リリーはそんな彼女の背に、沿うようにピンと持ち上がる尻尾を幻視した。


「おぉ! これは失礼致しました! 暫しお待ちください!」


 そう告げ、外へ駆け出す少女。それを見届けたリリーは腕を組み、退屈そうに玄関で立ち尽くす。

 腰に手を当て、右脚に体重を預けるその佇まいに周囲の者の視線が集まる。リリーはそんな視線に気付かぬふりをしながら、磨いた爪の様子を確認していた。そうしている内に馬車は、すぐに正面玄関に訪れる。

 御者台に乗ったプラムが、吠える犬のように叫ぶ。


「リリー様、只今!」

「ありがとう」


 御者台から飛び降り、扉を開くプラムに促されるまま馬車に乗り込むリリー。

 手早く御者台に戻ったプラムが手綱をしならせると、いななきと共に馬車が動き出した。

 馬車はゆっくりと貴族屋敷の中庭を抜け、街道を走る。そうして馬車を走らせる最中、プラムが端無くリリーに言葉を投げる。


「して、アイビー様は?」

「死体発見を遅らせる為の誘導と、偽物の犯人作り。まぁいつものね。今回は新人の使用人だから、離脱にそこまで時間は掛からないと思うわ」


 窓を開き、外に誰の姿も無いことを確認した彼女は、社交会での優雅さなど感じさせぬよう乱雑に脚を組み、どこからともなく取り出したパイプで紫煙をくゆらせる。

 否、リリーがするだけで全ての所作は優雅ではあるのだが。

 月明かりに煙が反射し、まるで霧が彼女を隠すように漂った。


「以前は軍の幹部とお聞きしました! 相当苦労されたとも!」

「えぇ。これはジェーンのせいもあるんだけど、その為に私は無駄なもう一仕事を……。はぁ、貴女と一緒だと、柄にも無くなくお喋りになってしまうわ。それより、依頼人より連絡は?」

「まだです。予定の連絡はしてあるので、恐らくもうすぐ……――」


 プラムの言葉が不意に途切れる。直後、リリーは確かに馬の蹄鉄の音と車輪が回る音の他に、鳥の羽ばたきの音を聞いた。

 その音は次第に、徐行する馬車に近付いてくる。


「噂をすれば、ですねっ!」


 開けていた窓に白い鳩が飛び込み、その中に満ちる煙を嫌がるように甲高く鳴いた。その鱗が剥き出しになった脚には、丸められた一枚の紙が縛り付けられている。

 伝書鳩に用いられる鳩は一般的に、帰巣本能が高いが鳩舎間での行き来しか出来ない。

 しかしこの鳩はただの鳩では無く、訓練を積ませた魔物の一種であり、特定の人物とはいかずとも目的の馬車を探すことも出来るのだ。

 リリーはその脚に括られた紐を解き手紙を手に取ると、鳩を窓外へ逃がし、手紙を広げて読み始める。

 暫らく無言で手紙を読み進めていた彼女だったが、やがて溜息を漏らしながらその手紙を畳んだ。


「全く、人気者は辛いわね」


 魔法の行使。指先に小さな炎を灯し手紙に火を移すと、リリーはその炎が広がる紙切れを窓外へ放り投げる。


「暫らく休みは無さそうだわ、プラム」




 ◆―2―

 ファインスト王国。イルカディア大陸でも古い歴史を持つ王政国家であり、広大な領地と軍事力を誇る大国だ。

 大陸三大国にも数えられる巨大な国家だが、栄華の光には必ずどす黒い影というものが纏わりつくもの。それは世界に昼と夜があるように、表裏一体で然るべきなのだ。

 ある所に、辺境の地図にも無いような村を焼いて回り、村民を片っ端から奴隷として売り捌く商人がいた。

 王国においての奴隷は、その者のステータスを表す。奴隷の数は即ち無償の労働力。その数が多ければ多いほど、手掛ける産業の規模の大きさを。即ち、富を生み出す力を示しているからだ。だからこそ奴隷と言うものは、目を見張る程高値で売れる。それに、生娘は味わう事も出来る故に。

 しかしその商人はある日、屋敷の廊下内で身体中を滅多刺しにされ殺された。そしてその亡骸の傍らには、割れた皿の破片が落ちていたという。

 誰もが思った。「彼は、自らが攫った奴隷に復讐されたのだ」と。結果、奴隷として囚われていた村民は解放されることとなり、実行犯である奴隷も正体が判明せぬまま暗に見逃されることとなった。

 ある所に、王国の軍事機密を裏で他国に漏洩し、不当な賄賂を得ていた者がいた。

 その者は元々王国の出身では無いらしく、しかし武官でも高位の地位に上り詰めた彼は軍事情報という商品に目を付け、これ幸いと商売を始めたのだ。

 この漏洩による影響は大きく、ファインスト王国の軍事力を知った周辺国家はこぞって王国の領地を狙い始め、戦争の色は徐々に強まっていった。そんな状態で、むやみやたらに武官を解雇させる訳にも行かず、王国は軍に下ろす情報を制限しながら、他国との情報的な侵攻を食い止める羽目に陥ったのだ。

 しかしその武官はある日、執務室で一刀の下に両断された状態で発見された。

 犯行現場の調査の結果、愛国心溢れる軍の将校の犯行であることが判明した。彼は武官の裏のビジネスを知ってしまい、愛国心と正義感に身を委ね剣を振るってしまったのだ、と。

 王国としては僥倖であったが、表向きに武官を殺傷した将校を見逃せる筈も無く、彼は秘匿されつつの死刑が決行された。翌日、王宮前に晒されたその首は、大層満ち足りた表情であったという。

 ただ、ほぼ同時期にその武官から情報を受け取っていた各国の貴族が怪死を遂げたのは、果たして偶然だろうか。

 ある所に、王宮の正式な文書を改竄することで不当な富を得ている文官がいた。

 その者は侯爵家の出身であると同時に社交界でも広く知られており、それ故に処刑を断行してしまえばその他の貴族の反感を買い、王国のパワーバランスが崩れ兼ねない。しかしながら早く対処しなければ、王国の財政状態は危機にさらされることとなってしまう。そんな危機の中、その文官は大きなパーティーを開催した。

 パーティーは招かれた賓客の豪華さも相まって大いに盛り上がり、騒がしい夜だったという。

 しかしその夜、文官は横腹を一突きにされた状態で使用人によって発見される。そしてその傍らには、返り血に染まったメイドが慌てふためいた状態で佇んでいたという。

 そのメイドによると、彼は表向きでは貴族の鑑のような振る舞いを示してはいたが、屋敷の使用人に対しては乱暴であり、女性に対しては夜伽を強制することもあったという。

 メイドは捕らえられ、この事件は収束した。

 このパーティーの場に偶然居合わせていた赤百合、リリー・オウル・スカーレットは侯爵のことを「女を道具としか思っていない貴族の名折れ」と誹り、その卑劣さに眉を顰めたという。

 知らぬ者は、これらの事件を偶然だと言い、気にも留める事はしない。だが、知る者は慄いた。

 曰く、その者は必ず月の輝く夜に現れる。

 曰く、その者から逃げられることは無い。

 曰く、その者の正体は誰にも分からない。

 曰く、その者にとっては夜こそが生きる世界。

 曰く、これらの事件は全て王国に潜む影なる刃、「梟」によって行われたものだ。と。


「はわぁ…」


 揺れる馬車の中、鳥の羽でさえ置いた途端に沈んでしまうような柔らかな藍色の座席に座る女が、その熟れた果実のような口腔を晒し欠伸を漏らす。

 絶世の美女、等と言う言葉でも足りない程の美貌を持ち合わせたその女は、その紺碧の瞳に浮かんだ雫を初雪のように白く、細い指で拭い取る。

 たわわに実った双丘が上下し、直後女は甘える猫のような情けない声を漏らした。

 その、世界のどの音楽にも勝る鈴のような声を聞くだけで、世の男が悶絶するのを彼女は知っている。だからこそ、彼女は欠伸を衆目に晒したことは無い。

 しかしここは走る馬車の中。この場にいる彼女の声を聞くことが出来るのは、その向かいに座するプラチナブロンドの髪の男と、御者台に座る少女だけなのだから。


「寝不足か?」


 男が不機嫌そうな低音で訊ねる。その言葉に女は、少し思案顔を浮かべたままで応えた。


「私の欠伸を聞いて、見て、出てくるのがそれ? 生殖機能死んでるんじゃない?」

「心配は杞憂だったようだな。元気そうなようで何よりだ」

「はっ、貴方男色だものね」

「違う」


 リリー・オウル・スカーレットが手に持っている本に視線を落としたまま、面倒そうに漏らした。

 王国でも古くから存在する格式ある侯爵家、スカーレット家の令嬢であり、その美貌は国内外問わず謳われ「赤百合」とも称されることもある。

 しかしスカーレット侯爵家はその実、諜報活動や工作を主とする、王国の表沙汰には出来ぬいわば闇であることを知る者は数少ない。スカーレット家にはそれぞれ役割があるが、リリーはその中でも、王命や、他貴族の依頼により秘密裏に依頼された人物を闇に葬る、詰まる所暗殺を担当している。これまでも幾つもの仕事をこなし、王国の為に陰で尽くして来た。

 表向きの評価は、絶世の美女にして全ての淑女の鑑。しかしその裏は、月夜に躍る孤高の猛禽、梟。

 それが、リリー・オウル・スカーレットという女である。


「確か、ハインドル伯爵だったか」


 アイビー・ベスコートが腕を組みながら、又しても脅す様なアルトを奏でた。

 リリーの仕事の補佐を担当する彼は、変装や偽装工作の達人だ。

 いくらリリーが優秀な暗殺者とは言え、たった一人で任務を遂行することは難しい。そこで、彼が一役買う事になる。

 彼は事前に得た情報を元に根回しをし、現場に予め潜入しその情報をリリーに横流しすることで、彼女の任務がスムーズに行われることをサポートする。そして彼女が仕事をこなしたその後、偽物の犯人を用意しつつ描いていたシナリオ通りに現場を整えるのだ。

 故に二人は一蓮托生。彼が仕損じれば、その分リリーに負担が掛かる。リリーが仕損じれば、その分彼の仕事が増える。だからこそリリーにとっての面倒事とは、彼にとっての面倒事でもあるのだ。

 リリーはぱたんと音を立て、愛読の本を閉じる。それは、人体の構造についての最近の研究がまとめられた論文であった。


「えぇ、私達と是非お茶会がしたいそうよ」

「裏は?」

「それは私の担当じゃないわ。プラム?」


 リリーはその最後の名の語気を強め、御者台に投げかける。アイビーもその様子に釣られるように、御者台の影に視線を向けた。御者台に座し手綱を操るプラムと呼ばれた少女は、リリーの言葉に答えるようにその頭頂部に生えたミルクブラウンの犬のものにも似た耳をぴくぴくと動かし振り向く。


「はいリリー様! お呼びでしょうか」


 客車に付けられた小さな窓を開き、くりくりとした大きなヘーゼルの瞳が覗く。緩やかなパーマが掛かったレッドブラウンのボブが、風に激しく揺られていた。

 それは、世俗では獣人と呼ばれる種族だ。頭頂部に生える大きな犬の如き耳はぴくぴくと、風に反応するように小刻みに動いている。

 プラム。姓は無く、ただのプラムだ。

 表向きはリリー・オウル・スカーレット専属の侍女。リリーだけに仕え、着替えや茶会の準備は勿論、御者や護衛としての役目も果たしている。ただ、リリーの梟としての顔を知っていることは即ち、その素性が普通とは大きく逸れていることと同義だ。

 スカーレット侯爵家が隠し持ち、王国全土に根を広げる特殊工作部隊。通称「娘たちドーターズ」、その第二隊の副長。それが彼女の正体である。


「侯爵へ送る品はどう?」

「ラグナー侯爵ですね!? はい! 上等な葡萄酒に希少な肉、今回は美しい絵画もご用意しようかと! 侯爵はさぞお喜びになるでしょう!」

「ありがとう。その調子で頼むわね」

「お役に立てたようで何よりです! では!」


 小さな窓が閉じられ、プラムが進行方向へ向き直る。そうして再び客車の内部は、リリーとアイビーの密室となったのだ。

 つまりこの走る馬車の中、誰もこの会話を盗み聞くことは叶わない。


「なるほど、ただのボンクラ貴族ではないという訳か」

「そうみたいね。結果待ちだけれどもしかして、仕事かもしれないわ」


 何処からともなく取り出したパイプを吹かしながら、リリーが零す。

 紫煙が漂い、虚空に溶けた。指一つ分ほど開いた窓より煙が流れ、糸を引くように馬車より漏れ出る。

 そうして馬車に揺られる事暫く。馬車は無事、目的地へと辿り着く。


「お待ちしておりました。リリー・オウル・スカーレット様」


 使用人に扮したアイビーが馬車の扉を開く。同時に、絵本を広げるように目の前に色彩豊かな光景が広がった。

 それは庭園だ。

 今回の目的地はハインドル・ウェン・ラグナー侯爵領地。目的は茶会だ。だからこそ、ラグナー侯爵自慢の大庭園である。

 先にアイビーが下り、続けて降りるリリーをエスコートする。彼女の姿が馬車から出ると同時に、並び立つラグナー侯爵のメイドたちが一斉に頭を下げた。


「御機嫌よう。ラグナー伯はどちらにいらっしゃるのかしら」

「只今ご案内いたします。こちらへ」


 庭園内を歩くメイドの一人を、リリーとアイビーは追行する。

 小鳥は楽し気に歌うように囀りを響かせ、空にはちりばめたような疎らな雲が浮かんでいる。庭園の赤い薔薇は絢爛に咲き誇りその「情熱」を示し、白きクレチマスは深紅の隙間を彩るようであり「精神の美」を悟らせる。

 美しい庭園だ。さぞ庭師にも、多くの金を掛けているのだろう。

 しばらく行くと、パラソルによって日陰となった白いテーブルと二つの椅子が二人の目に映る。白い、大理石のような模様が刻まれた丸机。そしてその上には、白磁に黄金で意匠が施されたティーポットとカップ。

 席の側には幾人もの使用人が侍っており、向かいに座るのは貴族礼服に身を包んだ男。彼はこちらに気付くと同時に大仰な動作で腕を開く。貴族の男はいつもその動作をするな、とリリーがふと思ったのと同時に彼が声を発した。


「おぉ、これはこれは気高き赤百合よ。このハインドル、お待ち申しておりましたぞ」

「ふふっ、お待たせして大変申し訳ございません。改めまして、私がリリー・オウル・スカーレット。お気軽にリリーとお呼びくださいませ」


 純度百パーセントの社交辞令である。


「では私の事はハインドルとお呼びください。私がハインドル・ウェン・ラグナーでございます。ささ、まずはお席に」


 王国貴族の茶会は、最初は定型文のような挨拶から始まる。

 曰く、このような自然な流れで挨拶を交わす一連の所作に、劇を演じるような楽しさがあるそうだ。無論と言うべきか、リリーには一切その楽しみを見出だせてはいないが。そして、それらが終わってようやく本題に入る。


「――ハハハ、まさか赤百合とも称されるかのリリー嬢と、こうして茶を呑み合う日が来ようとは! いやはや、お噂以上に美しい。まさに貴女様は、このファインスト王国の生ける至宝ですな!」

「世辞はよして下さいハインドル卿。王国の真の宝とは私などと言う矮小な存在ではなく、国を支えてくれる民、そして彼らを纏め上げるハインドル卿のような尊き身の方々です。私如きが宝などと、重圧に耐えられる気がしませんわ」


 リリーは注がれていた紅茶に口を付けた。

 ハインドル・ウェン・ラグナー侯爵。由緒正しきラグナー侯爵家が当主だ。

 娘たちの調査結果によると、選民思想が強く高慢。男性の使用人からはその我儘で女好きの性格により、好感を抱く者はいない。女性の使用人からの評価は無論、そのさらに下だ。民からの信頼も同じだ。過去には馬車で民を轢き殺した事や、村娘を強引に攫ったこともあるようで、良い感情など無いに等しいと言っていいだろう。

 総評すれば、ファインスト王国で長く続く貴族制度に毒された、典型的で量産型の貴き身分の者、だろうか。


「流石ですな。外見だけでなく、その内面までも美しい。真の美女とは、リリー嬢のような方の事を示すのでしょうな」

「また……ふふっ、世辞がお上手ですね。あぁ、そう言えば、ほんの気持ちですが贈り物を用意していたのです。ねぇ?」

「畏まりました。お嬢様」


 応えたのは、リリーの側に侍るその小さなミルクブラウンの髪の少女。

 彼女は声を出さず、どこかへ指示を飛ばすように手で印を作ると、いつのまにやら現れたもう一人のメイド服の少女から、絢爛な飾り付けがされた小さな箱を受け取る。

 そしてリリーは少女からその箱を受け取り、そのままハインドルへと差し出した。


「どうぞ、ハインドル卿」

「おぉ! これはこれは……ほぉ、……茶葉ですか」


 彼は新たな玩具に胸を膨らませる子供のように、楽し気に箱を開く。出てきたのは、黒い下地に細やかな金の装飾が為された、金属製の円柱の箱である。

 記されている文字は、「夕日の涙」。ファインスト王国、そして他国でも非常に人気が高い、スカーレット侯爵領が誇る紅茶である。


「えぇ、我がスカーレット侯爵領にて採れた「夕日の涙」です。きっとお喜びになられると思いますわ」


 クスリと微笑むその美貌に中てられたように、ハインドルのその眼には下心が差し、頬は紅潮している。

 女は目線に敏感。とはよくある話であり事実だが、リリーの場合はそれが顕著だ。

 彼女は世界一とも称される美貌故に、様々な感情を向けられて育ってきた。その為彼女は表情から、自分に向けられた感情を読み取ることが出来る。


「あの有名な高級茶葉を頂けるとは……。これは私めの返礼も、弾ませねばなりませんな。お前達、アレを」


 ハインドルが手を数度叩くと、彼の下に現れたのは長細い箱を持った女性の使用人だ。厭らしい手付きでそれを受け取ったハインドルは一度その箱の中を確認し、そしてリリーへと手渡した。


「これは?」


 リリーはそれを受け取り、箱を受け取る。

 入っていたのは一本のワイン。だが、只のワインでは無かった。印字された文字を見て、リリーの目は少しだけ見開かれる。


「まさか」

「先日伝手で偶然、手に入れることが出来ましてね」

「ヴィエルジュ・ルージュを、ですか……。手に入れるには苦労されたでしょう……。本当に、頂いても?」


 ヴィエルジュ・ルージュの名は、世界に数十本ほどしか流れていないとされる葡萄酒である。

 曰く、その味はうら若き処女の血のように濃く。曰く、その香りは神話に登場する世界樹の実を連想させる。曰く、その色は幻獣の血の如き深き暗褐色であると。

 少しでも葡萄酒に詳しい人間ならば、その希少性はもはやただの葡萄酒の範疇を超え、芸術品の域へまで昇華されていると語るだろう。例え一国の王族ですらも入手が困難であるという、まさに幻の逸品だ。

 こんなものを所持しているとは。鷹揚に頷くハインドルへリリーは微笑みを向けつつ、しかしその瞳は鋭さを増す。

 同時に彼女は机の下で誰にも見られぬよう、指でサインを形作った。


「プラム、お願いね」

「はい」


 葡萄酒の収まった箱を受け取りプラムは去る。

 その姿を横目でリリーは眺め、紅茶を口に含み白磁を打ち鳴らす。


「それにしても、先日は大変な騒ぎでしたなぁリリー嬢」

「騒ぎ、ですか?」


 不思議そうに表情を曇らせるリリーに、ハインドルは机の上で腕を組むように前のめりになる。


「ハハハッ、例の舞踏会の事件ですよ。ほら、同じ場所に居合わせたというじゃないですか」

「あぁ、それですか……」


 例の舞踏会。それが示すことなど一つしか無い。

 尚、ここで嫌な事を思い出している、といった顔を忘れないのがリリーという女の抜かりなさ。


「やはり、どうでしたか? 舞踏会の貴人とも称される、ロウル侯爵の裏の顔は」

「どう……ですか。その言葉に含まれた意味は測りかねますが……――」


 彼女の後ろに、ワインを手に持ち去っていったプラムが戻り、アイビーのすぐ横に侍った。

 リリーが唇を開く。


「全く気付くことが出来ませんでした。やはり人間、面の皮というのは厚いものですね」


 ロウル侯爵は表向きはハインドルの言葉の通り、舞踏会の貴人とも称された社交界の顔であった。

 しかしその裏では王宮の正式な書物を書き換えることにより不当な富を得ていたからこそ、彼はこの手により死を迎えることになったのだ。等とは、口が裂けても言える筈が無い。それは梟が知り得た情報であり、リリー・スカーレットは何も知らないのだから。


「ハッハッハッ! その通りですなぁ! 私も、リリー嬢も、その内には表に出さぬ思いを秘めている。という事が彼により分かった訳です」

「あら、ふふふっ……。ハインドル卿は一体、私に何を隠されているのかしら?」


 それはもう。その言葉の先までをハインドルは言うことは無い。しかし、言わずともその意味はリリーには見え透いたものだ。

 ふと、会話の合間を縫うように、彼女の背後に侍っていた金髪の男がリリーに耳打ちした。その言葉を聞いたリリーの瞳の色が変わる。そして、その様子を言葉を出さずに眺めるハインドルの瞳の色も。


「ふむ……。新たなご予定ですかな?」

「申し訳ございませんラグナー侯爵。本当は頂いたヴィエルジュ・ルージュを卿と共に楽しみたいと思っていましたが、残念です。どうでしょう、この辺りでお開きと致しませんか?」

「ハッハッハッ! 構いませんよ。リリー嬢はかの赤百合。私一人が独占できるような方ではありますまい。お前達、リリー嬢を送って差し上げろ」


 数人の使用人に誘われ、リリーが席を立つ。彼女の背後に侍っていた金髪の執事、そして小さな侍女も続き、大理石の通路を優雅に、音を立てて闊歩していく。


「リリー様、アイビー様、馬車の用意は出来ております」

「ありがとうプラム」

「うむ」


 馬車に乗り込む二人。そして間もなく小さな侍女がその御者台に飛び乗り、嘶きの後その馬車は走り出した。

 彼女たちを送迎する使用人たちが深々と頭を下げる。それを一瞥し、窓がしっかりと閉ざされていることを確認したアイビーが、馬車に揺られながら口を開いた。


「ワインの中に手紙が入っていた。お前の予想通りだな」

「あら、別に予想なんてしてないわよ。で、内容は?」


 問われたアイビーは低く唸りながら頷き、そして重々しく口を開いた。


「それが、少し変わっている。詳しくは後で無そう」


 リリーの眼光が鋭さを増す。それは、スカーレット侯爵家令嬢、リリー・オウル・スカーレットから、王国の梟であるリリーへと、変容する瞬間であった。

 場面は変わらず再び馬車。しかし、場所は変わっている。

 ラグナー侯爵領を出た馬車はそのまま南下。いくつかの都市を通り、王国の南側へを突き進んでいた。


「で」


 リリーはパイプをこつんと馬車の扉に当てる。身動ぎをして当たったのではなく、音を立てる為に敢えて当てたのだ。

 へイエス・ルイエルド辺境伯。王国南西、広大な領地を持つルイエルドの領主。王国でも数人しかいない、辺境伯の地位に立つ人間だ。その殺害。

 ヴィエルジュ・ルージュの中に隠されていた手紙に記されていた情報はそれだけだ。ただ、神話の世界でさえ、最も重い罪として扱われる殺人。それを依頼されるだけの理由があるというもの。だが。


「依頼者は?」


 リリーの苛立ったような声に、御者台のプラムは答えに困った時の唸り声を上げる。時折高さの変わるそれは、どうやら未だにリリーに答える言葉を探しているらしい。ただ、それに見かねてアイビーが口を挟む。


「ルイエルドだ」

「依頼は暗殺よ? 標的が依頼人って、挑戦状のつもり?」


 溜め息の代わりにリリーから漏れるのは紫煙。吹いたそれを天井に溜めながら、彼女はトントンと爪先を揺らし音を鳴らす。

 梟への依頼方法は二種類。

 一つは手紙。これが最も一般的な方法であり、王家からの勅命の際もリリーは王家が育てている伝書鳩により手紙を受け取る。これは互いに互いを追求しないという信頼の証にもなり、抑止力にもなるものだ。

 もう一つは、直接彼女に伝える方法。ただこの場合それだけでは済まず、裏で一度王家を挟み正式な書類を作成する必要がある。結局は書類を作成する必要な点だけ考えると、彼女へ依頼を出すには手紙を出す他無いという考え方も出来るだろう。

 今回のヴィエルジュ・ルージュも、無論手紙。内容はルイエルド辺境伯の暗殺。そして依頼人も、ルイエルド辺境伯の暗殺だ。その点が、彼女たちの頭を悩ませている。


「プラム、ヴィエルジュ・ルージュの調査は?」

「……難航しています。どうやらあのワインは、複数の所有者を経由しているようですね。現時点では、ルイエルド辺境伯が持っていたという情報はありません」

「ヴィエルジュ・ルージュが複数の持ち主を経由? それも、ルイエルドが手にしてない? はぁ、ますます意味分かんない」


 ヴィエルジュ・ルージュは幻のワイン。どのように手にしたかは分からないが、例えるならばそれは隕石にも等しい希少性を持っている。それを手にしておいて、わざわざ手放すのもやはり不自然だ。

 また、かのワインは希少性の高さ故に場所、味、正確な本数等の情報がほぼ全ての所有者により秘匿されている。情報を軽はずみに明かせば、単純な金銭的価値ににより襲われる事も珍しくない為である。スカーレット家の依頼の裏取りは娘たちの仕事。だがそれらの理由もあり、彼女たちの調査も難航している。


「ルイエルド辺境伯については?」

「それに関しては殆ど完了しています! 先行させたグレイプに連絡を取りますか?」

「……いいわ。着いてからで」


 リリーは冷たく言い放ちカーテンを開き、窓を下ろす。吹き抜ける風に当たりながら紫煙を吹き、彼女は脳内で問題を列挙する。

 現時点での謎は二つで、そのどちらもが娘たちによる調査中だ。

 まずは、依頼の手紙についての謎。

 依頼の手紙の内容はルイエルド辺境伯の暗殺。しかし依頼人は、同じくルイエルド辺境伯によるものだ。

 裏社会ににおいて梟への依頼は、確実に為されるものである。それはリリーのプライドではなく、統計的事実に基づいた事実だ。それを、梟が実際に受けるかは別として。そしてこの依頼は、自分で自分を殺すように依頼したもの。梟を知る人間であれば、このような依頼は有り得ないと言ってもいい。

 となると、依頼人の考え方は梟を知らず誰かに唆されたのか、名を騙っているのか、もしくは梟へ挑むつもりか。

 現時点ではこの謎は解けそうも無い。

 二つ目の謎。ヴィエルジュ・ルージュの謎。

 ルイエルド辺境伯は力を持つ貴族だが、王都においてその権力は無いに等しい。王都近郊のラグナー侯爵領でも同じくだ。しかしことルイエルド辺境伯領においては、彼は王に等しい。二つ目の謎はそこにはある。ルイエルド辺境伯は、どのようにしてヴィエルジュ・ルージュに手紙を混ぜた。

 かのワインがルイエルドを経由していない可能性がある以上、彼は誰かが持っていたヴィエルジュ・ルージュに手紙を混ぜないといけないが、そのような隙はない筈だ。

 それにルイエルド辺境伯は帝国国境との防衛の為に置かれた都市であり、帝国を含む他国との取引により利益を生み出す交易都市だ。確かに他の貴族よりも珍しいものが手に入りやすい立場ではあるが、ヴィエルジュ・ルージュ程ではない。

 そうなるとルイエルドだけでは難しい。この依頼には、協力者がいる可能性が濃厚だろう。

 だが、一体何の為に。


「梟を知らない、もしくは梟が邪魔。あー……梟を脅威だと感じてる可能性。革命でも起こす気?」

「憶測はやめておけ。先入観に囚われると面倒だ」

「そうね」


 現時点で分かるのは、ルイエルド辺境伯。彼が自分で自分を殺す依頼をしていること。

 窓の外に吹きかけた煙が尾を引いて消えていく。その様子を眺めながら、リリーは移ろう景色に想いを寄せていた。

 夜の梟と、その仲間たちを乗せた馬車はラグナー伯爵領を離れ数日が経過している。そしてたった今この豪華な客車は、ルイエルド辺境伯領に入り込んだところであった。




 ◆―3―

 ルイエルド辺境伯領北東、ロンデイル。

 その街に、からからと乾いた音を響かせながら入ろうとする荷馬車があった。

 栗色の毛の馬が規則的に蹄鉄を鳴らし、鬣を揺らしている。解れた鬣には所々にゴミが付いており、手入れはあまりされていないようだ。

 荷馬車の御者台に座るのは、古ぼけた服を着て帽子を目深に被った中年の男。彼は力の抜けた人形のように、気怠げに手綱を握る。そして、時折その綱を跳ねさせた。

 荷台にあるのはいくつかの大きな瓶と、盛り上がった布。瓶の内部には荷馬車の動きと共に、揺れている白濁した液体がある。盛り上がった布の隙間から僅かに見えるのは、さらに何かを何重にかくるんだ布だった。

 しかし、載せられているのは荷だけではない。


「もうすぐだからね」

「うん、お姉ちゃん」


 身を寄せ合い、そう呟く少女が二人。どうやら姉妹のようだ。どちらもフードを被っている。姉の金糸雀の翼のような黄金は腰まで届くほどに長い。そして妹の方は、肩に掛かる程度の短さの飴色だ。どちらの方も乱れ、手入れはされていない。

 然程珍しくない光景だ。

 道往く馬車に、積荷と共に相乗りしているだけ。乗り心地は最悪だが、駄賃は限り無く少なくて済む。


「……」


 手綱が跳ね、馬が停止する。ロンデイルへ入る為の白い門に差し掛かったからだ。

 甲冑を身に着けた騎士が兜を脱ぎ脇に担ぐと、その手に持つ槍の石突を自身の存在を示すように地面に叩き付けた。

 騎士は男と、荷馬車に乗る二人の女の風貌を一瞥すると、途端に厭そうな表情を浮かべる。


「……何しに」

「牛の乳を売りに」


 男の言葉を聞いた騎士は面倒そうに溜息を零すと、馬車の横手に回り込み荷馬車に積まれた瓶を覗き込む。そして、睨むようにして女二人に目線を映した。


「お前らは」


 態度が悪いのは、王国の格差社会が原因だ。

 騎士はルイエルドの直下の兵士であり、帝国国境を防衛する戦力だ。対して男は馬車を引いているからまだいいものの、女二人に関しては完全に浮浪者の風貌。その為、態度が悪くなるのも仕方のない事。これを責めるならば、王国の身分制度から話を始める必要があるだろう。だから、女二人は気分を害さない。


「親が死んだので、働きに」

「当ては?」

「ないです。でも、お金は少しあるので、通行税は払えます」


 姉がハキハキと受け答えするのを、妹は怯えた眼で見つめていた。

 騎士の表情が少しだけ和らぐ。優しい表情、ではない。例えるならばそれは、自分に利益があると判断した時の利己的なもの。


「そうか。なら一人銀貨四枚だ」

「え、二枚じゃ……!」

「お前らみたいな汚い奴を通すと街が汚れる。だからだ。」

「で、でもそんなにお金は」

「あるんだろ!? 早く、出せ」


 今にも剣を抜かんとする騎士の語気の強さに、姉の悩みは短かった。だが、懐をまさぐり取り出した小さな革袋を、騎士が手早く奪い取る。騎士はそのまま革袋の紐を緩めて中を確認。そして、その中でも輝きが際立つ者を選んで抜き取ると、革袋の紐を締める事はせずに女に投げ返す。

 慌てて姉が革袋を確認すると、血の気が引いたような表情を浮かべた。当たり前だ。抜かれたのは銀貨八枚ではなく、十枚だったのだから。


「そんな……!」

「迷惑料だ。おい、お前は銀貨二枚だ」


 男から差し出された銀貨を奪うようにして受け取ると、騎士はようやく道を開けた。

 手綱が波打つ。栗色の毛の馬が嘶きと共に歩き出し、カラカラと車輪が鳴った。

 ロンデイルに入った馬車は数十メートル進むと、男は馬車を街道の端に寄せて再び馬車を止める。


「ありがとうございます」

「……ありがとうございます」


 少女たちが覚束無い足取りで降り、男に対し深く頭を下げた。男はやはり口を開くことは無い。さも何も無かったかのように少女たちの礼を無視し、再び馬車を走らせた。広い街道に消えていく荷馬車をどこか遠い瞳で眺め、少女たちは歩みを進めた。煤で汚れたスカートを地面に擦らせ、路地裏へと歩みを。

 もし、馬車がロンデイルに入ってから一切目を離す事無く彼女等を監視する者がいたとしても、その行動は不思議ではなかった。

 荷馬車に乗せてもらう貧しい村娘の姉妹。少女たちは生きる為だけに、この大都会ロンデイルに訪れたのだろう。と。少女たちは歩みを進める。大通りから外れ、次第に人通りの少ない路地へと進んでいく。やがて立ち止まったのは。


「……もしかして、お客さんかな? お嬢さんたち」


 店先の土埃を箒で掃いていたバーテンの格好の青年が、その手を止めて不思議そうに尋ねた。

 普通は思うものだ。店の前で止まるということは、その店に興味があるという事だと。ただ、素直に青年がそう思わなかったのには二つ理由がある。

 一つ。その店が、酒類を専門に扱うバーであるということ。

 王国の法では、酒による健康への被害を憂慮し十五歳未満の飲酒は禁じられている。それを知らぬものは少ない。尚、守っている者も少なくはあるのだが。とは言え上の少女はともかく、妹だろう少女の背格好は十歳前後のそれだ。そんな少女を連れて、このようなバーに来ることは考え辛かった。


「はい」

「……そうですか。どうぞ」


 不思議そうな表情はそのままに、青年は店の中へと少女たちを促す。

 朽ちかけた茶色い扉。外れかけた鉄のドアノブ、割れた窓、転がる古い酒瓶、蜘蛛の巣は大きい。

 踏むたびに異音が軋む階段を上がり、少女たちが扉を開ける。

 この酒場はロンデイルでも有名、という訳ではない。佩いて捨てるほどある酒場の一つ。だが、この酒場には裏の顔があった。そう。青年が少女たちを客かどうか決めあぐねた理由、そのもう一つは即ち。


「おう嬢ちゃん! こんなクソみてぇな酒場に何の用……。あぁ、別の仕事相手かよ、血腥い猛禽サンよ」


 少女たちは既に、フードを下していた。

 金の髪を手櫛で搔き上げ、その端正な顔を見せつけるように酒場の最奥の大男と目を合わせる。


「あら、随分嫌そうね。ここにいるのは傾国の美人よ?」

「自分で言うか、厚化粧」

「事実だもの。言葉で、宝石で、嘘で、男で、知性で、化粧で、恋で、着飾るのが女って生き物なの」


 艶めかしい薄桃色の唇を、彼女はその白い指でなぞる。

 大男は無視するようにして店の奥、従業員用の休憩室へ。それに続くのは、最早正体を明かしたリリー。それと、プラムだ。

 休憩室にて大きな木の机を囲むと、紫煙がとぐろを巻き始める。リリーもだが、大男も愛煙家だ。


「で、何の用だ?」


 大男は机に脚を載せながら煙を吐き出す。脚を組んで煙を味わっていたリリーは、その言葉に面倒くさそうに告げる。


「何って、仕事よ」

「んなことここに来た時点で知ってるわ。俺が知りてェのは、お前が俺に何を依頼しに来たのかってことだよ」

「少なくとも……――」


 いつの間にやら、プラムが淹れた紅茶を一口啜る。

 手に持っていた湯気の立つティーカップを、彼女は静かに置いた。そして、取り出したパイプに口を付けると、口を尖らせて大気汚染に加担する。


「貴方を訪ねた時点で仕事の種類としては分かっているのではなくて? ルイエルド辺境伯領一の情報通、ラリクス・ケンプファリ様?」


 絶世の美女の唇の動きに、大男ことラリクスは、まるで黒板を爪で引っ掻いた音を聞いたように身を縮こまらせた。

 リリー・オウル・スカーレットによる暗殺は緻密な計画の下行われる、いわば精密なボトルシップのようなもの。故に、下準備は欠かせない。

 彼は、元黄金等級という確かな実力を持つ冒険者にして、現在は冒険者時代の伝手を駆使して手に入れた情報を金銭を対価に提供する情報屋だ。リリーとは、裏社会を通じて顧客として繋がった。

 因みに冒険者とは、いわゆる何でも屋である。街の掃除から傭兵、魔物退治までこなす。冒険者はギルドにより実力に応じた等級により管理されており、ラリクスのそれは上から数えた方が早い等級だ。

 誰もが羨む立ち位置だ。情報を教えるだけで巨額の金が手に入り、尚且つ王国どころか大陸随一の美女であるリリーと会話が出来るのだから。

 ただ、その美しい仮面の下を知っている彼は、彼女に鼻の下を伸ばすことは無い。

 どれだけ美しい薔薇であろうと棘の鋭さを知ってしまえば、触れる事を躊躇ってしまうもの。月は、遠くに在るからこそ美しい。


「カッ、名前で呼ぶなよ。鳥肌が立つ」

「あら、私に名前で呼んでもらう権利は、宝石と同じ値段で取引されているのよ。光栄に思うことね」


 闇オークションでは、何者かの出品によりリリー・オウル・スカーレットの落とし物が幾度も競売にかけられている。毎度、最終金額は高級帆船や巨大な宝石と並ぶことも珍しくは無い。

 落とし物を手にすれば、届けに行くという口実が生まれる。そしてリリーの優しさは貧民であれど尊き生まれであろうと、貴賤は無い――。


「御託はいい」


 ラリクスのその言葉を合図にしてか、今まで美味しそうに煙を味わっていたリリーの表情が変わる。


「……へイエス・ルイエルド辺境伯に関する情報が欲しいわ。所持している軍事力、資金力、最近の言動に、寝る前のルーティーン。使用人の身体の黒子の数まで」

「高く付くぞ。お前も知ってんだろ。ルイエルド家は表社会では重鎮だ。それを探ろうってんだから、お値段は張るぜ?」

「報酬はいつもので構わないわよね。私という絶世の美女の情報が、どれだけの黄金に姿を変えるかは貴方もよく知っているでしょう?」


 この怪しい女に絆されない男が、この世界に一体何人いるのだろうか。確かに彼女ならば、吐いた唾にすら値段が付きそうだ。

 ラリクスは紫煙をくゆらせるリリーを眺め、漠然とそう思った。

 ロンデイル、麦の脚亭。

 スカーレット家はその稼業故、王国内外問わず多くの拠点が存在している。この酒場も彼女等の手が及んだ、ロンデイルでの活動拠点になる場所だ。


「……成程。プラム?」

「はい。娘たちの情報と一致します。間違いはないかと」


 買った情報を聞き入れたプラムが、激しく頷きながらリリーに告げる。その一連の様子を眺め、不満げにするのはラリクスだ。


「俺としては、何でお前らが俺と同じ程度情報を集められてんのかが気になるね」

「だって」

「優秀な部下のお陰です!」


 笑顔でそう告げるプラムに、ラリクスもこれ以上追及するようなことはしない。パイプの煙を消し去り、おもむろに立ち上がる。


「部屋は二階を使え。居住空間になってる」

「貴方は?」

「心配しなくても別に家があるよ」

「あら、その逆よ。抱かせた程度で一生無料で情報を提供してくれるなら、全然構わないのに」


 ラリクスはその言葉に一瞬だけ立ち止まり、そして部屋から去った。


「俺はお前の犬は御免だね」

「フフッ、大事に撫でてあげるのに」


 悪戯っぽく告げるリリーから逃げるように、ラリクスは従業員用の休憩室から消えていく。残ったのはリリーとプラムの二人だけだ。


「結局、ヴィエルジュ・ルージュと依頼に関しての謎は分からず仕舞いね」


 ラリクスから齎された情報は基本的な情報だ。ルイエルドの行動パターンに、彼の部下について。屋敷の構造や、街の人間からの心象。確かに暗殺には役立つ情報だが、リリーが欲しかった情報ではない。


「あとはアイビー様が……」

「あら、あいつはもう来ないわよ」

「へ?」

「……言ってなかったっけ。彼、今はルイエルドの執事よ」


 ファインスト王国には古くから伝わる義賊集団がいる。その名も、蔦の劇団スウィ・ル・ギィ

 その構成員はさも木々に生い茂る葉の如き数を誇り、それは王国の至る所に蔦を伸ばしている。全員が全員演技と変装の名人であり、ある者は王国軍の将校。ある者はメイド。ある者はパン屋。商人、傭兵、騎士、浮浪者の中にも。富める者から奪い取り、貧しき者に渡す為に。

 そしてその蔦は無論、ルイエルド辺境伯領にも伸びている。

 牛乳を運んでいた荷馬車はリリー等と二人と別れたその足で、馬車を手繰りある場所へ向かう。

 ロンデイルは交易都市だ。その街道は広く長く、馬車同士が並んですれ違う事も容易い。その中、男は迷いなく進んでいき、やがて街道の橋によって止まる。

 馬を落ち着けて馬車を降りる。


「やぁアイビー」


 雑踏の中。誰か一人が立ち止まろうと、不自然に思う者はいない。その為、アイビーに話しかける女を怪しむ人間もいない。


「お仕事ご苦労様だね」

「リエール、御託はいい」

「おいおい。折角迎えに来た私に、随分と薄情な言いようじゃないかね。まぁいいけどね」


 艶のあるキャラメルのような髪の女。長い前髪は左側に片寄っており、群青色の瞳を隠している。顔立ちは穏やかで、その美しさは神秘的と表現するのが最も似合う。服装は、農家の娘と言った出で立ちだ。長袖と長ズボン。頑丈そうなつなぎに、つばのある帽子は正直に言って彼女には似合わない。


「お嬢様の所はどうかね?」

「悪くない。良くも無いが」

「あはー楽しい癖に、相変わらず素直じゃないねー。さてさて、私が交代するね」


 彼女が前髪を掻き上げると途端に、雰囲気が変わった。ミステリアスな美女から、明るく元気な少女に。

 これならば、彼女の服装も似合う。彼女は髪を帽子の中へ入れる。

 服装が変わったところで彼女は折り畳んだ一枚の葉をアイビーに手渡すと、入れ替わるように御者台に乗る。アイビーも、特にそれを咎めようとする様子はない。それが当たり前と言わんばかりに。渡された髪を懐に突っ込む。


「では失礼するね」

「庭師は?」


 蔦の劇団は義賊とは言え、直接的な盗みを働く集団ではなく。各地に忍ばせた団員により得た情報を売る、大規模な情報屋集団だ。

 彼らは何処にでもいる。例えば、ルイエルドの執事の中にも。

 アイビーの問いに、女は少し面倒そうな顔を浮かべる。


「……読んだんだよね?」

「いや」

「読んでから聞いてよね、せっかちさん。材料を先に並べて置くタイプ? 洗い物増えて面倒じゃないかね?」

「作ってる最中に無いと困る。それまで作ったものはどうするんだ? 棄てるのか?」

「そこはほら、臨機応変な対応。って奴だよね。……君皮肉だとよく喋るよね。詳しくは読んでよね。私はもう行くからね」


 手綱を手繰り、馬車が発車する。アイビーはそれを暫くの間眺めていたが、やがて雑踏に紛れるようにして歩き始める。歩きながら紙片を開き、内容を確認。そして、目的地を定めたアイビーは歩幅を広める。

 目的地は、ルイエルド邸。




 ◆―4―

 アイビーとリリーらが別れ一日と少しの時間が経過した。

 場所は、麦の脚亭の二階。集まっているのは三人。リリー、プラム、そしてアイビー。三人の中心に置かれた木の丸テーブルに、プラムは背伸びをしながら紙束を置く。単純に、彼女の矮躯では届かない為である。


「報告は以上です!」


 プラムの、と言うよりは娘たちの情報収集の結果を聞かされても尚、リリーの表情は明るくならない。アイビーの表情は元々変わらない。


「結局、差出人の正体は分からず仕舞い?」

「……たっ、大変申し訳――」

「あぁ、ごめん。責めてる訳ではないの、只の確認よ。あと、私が怒ってるのはこの石みたいなベッドであって貴女ではないわ」


 麦の脚での寝心地は最悪。古いマットレスは弾力性の一切を失っており、座ろうと少しも沈む気はないらしい。と言うよりそもそも、長い年月を経て潰れてしまったのか。そのせいで、リリーは身体の節々を痛めていた。


「にしても貴女で駄目、ね」


 娘たちは王国内では非常に高い実力を有している。その中でも、常に隊長不在の為実質的にプラムが指揮命令を行う次女隊「旋風ヴァントーズ」。彼女達はこと諜報においては娘たちの十二の隊の中でも屈指の実力を有する隊であり、リリーが最も信頼を置く隊である。

 だが、旋風は情報を集められなかった。となると標的の実力は、旋風よりも上と言う事になる。ただ、リリーはその事実をにわかには信じられない。


「リリー様のご期待に沿えず、申し訳ございません……」

「フフッ、素手で剣を折れなんて言わないわ。無理なものは無理でいいじゃない、別に何も悪くないわ。で、アイビー。分かってるわよね?」

「あぁ」


 基本的にスカーレット家のリリー、娘たち、そしてアイビーによって梟の狩りは為される。

 娘たちが情報収集。地盤を整え、アイビーが脚本を描くことによりレールを敷く。そこを堂々と闊歩する者こそ、リリーこと梟だ。

 だが、今回は地盤が整っていない。その為アイビーも、それを前提として脚本を描く必要がある。それはまさに、眼を瞑って絵を描くにも等しい。


「全て織り込んで脚本を書きなさい。流石に、天下の蔦の劇団スウィ・ル・ギィも厳しいかしら?」

「言ってろ。お前は報酬の用意だけしてればいい」


 アイビーはスカーレット家の所属ではなく、蔦の劇団の人間。利害の一致による協力関係だ。

 とは言え、得られると思っていた情報は得る事は出来ず、手元にあるのは絶対的な事実。そして、娘たちが得たヴィエルジュ・ルージュが誰を経由してラグナー侯爵の手に渡ったかの情報のみ。アイビーは、これらの材料から脚本を書き上げねばならない。


「さてプラム。少し予想をしましょうか」

「予想、ですか」

「例の依頼。本当の差出人は誰で、目的は何だと思う?」


 リリーがいたずらっぽい微笑みと共に出した問題に、プラムはさも玩具を見つけた子供のようにほくそ笑む。


「ふふーんリリー様! 私、最近こちらを読みまして……じゃじゃーん!」

「探偵グレシアシリーズ……? 何それ」

「王都で有名な探偵小説だな」

「へぇー」


 超能力が当たり前の世界で頭脳は一流だが身体能力皆無の少女グレシアと、身体能力は一流だが頭の悪いローラスが、コンビで事件を解決する超能力ミステリー小説。最近は王都のトレンドを掻っ攫い、現在は三巻まで発行されている。旋風の一人、グレイプ調べである。


「こちらを読んだ私は、今や名探偵グレシアです! この私が、きっぱり当てて見せましょう!」

「どう、うちのプラム。可愛いでしょ?」

「否定はしない」

「私の自慢なの。可愛さで言ったら多分、誰にも負けないわ。勝った相手は消すし、普通に」

「では、状況を纏めましょう!」


 材料は計二つ。

 ルイエルド自身が書いた、ルイエルド殺害の依頼。そして、ヴィエルジュ・ルージュが誰を経由しラグナー侯爵の手に渡ったのか。この内、ヴィエルジュ・ルージュの経路に関しては娘たちが既に掴んだ。


「まず、ヴィエルジュ・ルージュは計五人の持ち主を経由している事が分かりました。ニューグ伯爵、デプロイ侯爵、ヴィアーレ伯爵夫人、ジュグア伯爵、ラグナー侯爵の五人です。あ、まずルイエルド侯爵には協力者がいるとします!」

「……因みに、協力者がいる仮定なのは何で?」

「リリー様を知ってるのに、自分で自分を殺す依頼をするなんてありえないですもの!」

「客観的視点が欠落したすい」

「黙ってなさい馬鹿男。プラムの推理を邪魔しない事」


 少しの沈黙が満ち、プラムの推理は続く。


「そして私は、この五人にヴィエルジュ・ルージュの中に手紙を混ぜた黒幕がいると睨んでいます!」

「あら! 流石はプラムね……! その黒幕については分かったの?」

「いえ……ですが、私達が突き止めてみせます!」

「流石だわプラム。大好きよ。結婚しましょう」

「えへーそれ程でも」

「もう帰っていいか?」

「いいって言うと思う?」


 何度か同じようなやりとりを交わし、プラムの推理ショーはこれにて閉演。リリーが簡単なお使いをプラムに求める事で、部屋からプラムが去っていく。同時に、部屋に満ちるのは倦怠感と僅かな緊張。

 リリーとアイビー。二人だけの空間で、始まるのは本当の会議。


「で、リリー・スカーレット。どう見る?」

「まぁ、大方プラムの推測通りではあるんじゃないかしら。と言うより、実際はそれ以外の推理が現時点では不可能ね」


 現時点での材料では、確かにルイエルドは傀儡の可能性が高い。

 梟に依頼を出す時点で、梟に対する裏社会の評価は嫌でも耳に入る立場にあると言う事。それを知って尚梟に依頼を出すと言う事は、ルイエルドが梟を舐めているか、誰かに操られでもしている以外に考えられない。

 そして、ヴィエルジュ・ルージュに手紙を混入させた犯人もまた別だろう。

 列挙された貴族たちはどれも王都に屋敷を持っている、もしくはルイエルド辺境伯から離れた場所に領地を持つ貴族。そのような場所から、ヴィエルジュ・ルージュを手間暇かけて移すのは考えにくい。

 その上、その事実が判明した時点でそれぞれの屋敷や領地に出入りした人間も記録を辿っている最中だ。暫く経てば、更に正確な情報が手に入るだろう。


「まだ、推測の域を出ないか」

「それはそうよ。あら、アイビー様は分かるのかしら。とても凄いわ、是非聞かせてもらえる?」

「お前は皮肉を言わないと死ぬのか?」

「死ぬわ」

「あー……そうか」


 重々しくリリーが口を開く。


「まぁここまではプラムが推理してくれた訳だし、私達が考えるのは次ね」

「……次はお前の番か?」

「フッ、いいわよ。問題はそれぞれの仮定通りに物事が起きたらどうなるか。ルイエルドが私を舐めている場合は別にいいわ。問題はもう一つ。ルイエルドが傀儡だったとして、黒幕の目的はルイエルドを殺したい人間。もしくは、私を罠に嵌めたい人間になるわね。でも、私を知ってるならばルイエルドが殺される確率が高い可能性も知っている筈よ。となると真の目的は、ルイエルドが死ぬ事」

「それから?」

「ルイエルドが死ぬことにより起こる事と言えば、帝国国境の防衛が一時的に緩む。あら大変。これでは、割を食うのは王国全体。得をするのは帝国。と、帝国に与する人物。例えばほら、情報を流してたりする人」

「帝国と内通してる人物が居ると?」

「だから現時点では可能性の範疇を出ないって言ってるでしょ? あくまで推測よ。ルイエルドが殺されれば帝国国境の防衛が緩む。私を運良く殺せれば、王国の牙が鋭さを失う。もし黒幕が帝国と内通していれば、どちらに転んでも得しかない」


 リリー・オウル・スカーレットは王国への反乱分子を排除する王国の自浄作用だ。スカーレット家は家族それぞれが諜報や破壊活動を得意としているが、こと暗殺においてリリーよりも優れた存在はいない。

 梟が成功すれば、曲がりなりにも王家より辺境伯として帝国国境の防衛を任されたルイエルドが死ぬことで防衛の網が緩まる。もし梟が失敗すれば、王国は裡に巣食う病魔を切除する手段を失う。もし黒幕が帝国に情報を流す存在であれば、どちらに転んでも利点しかない。


「それを込みで貴方は本書きなさいよ。出来るでしょ?」

「あぁ」


 リリーの不敵な笑みに、アイビーは紅茶を啜りながら返した。

 時は経つ。何度か昼と夜が通り過ぎ、そこはロンデイルの街道の一つ。

 華美な装飾の施された馬車が、颯爽と大通りを駆けていく。

 ルイエルド辺境伯領は隣国、ルシナル帝国に面している影響で王国の中でも人口密度が高い傾向にある。当然、大通りなど帝国からの旅人や観光に訪れた王国民で溢れかえっているのだ。だが、馬車は一切止まらない。高々と掲げられた旗を見て、道を開けない者はいないからだ。即ち、ルイエルド辺境伯領が主、へイエス・ゼン・ルイエルド辺境伯の馬車を見て。

 馬車を引くのは八脚の馬二頭。スレイプニルと呼ばれる魔物の一種だ。非常に温厚で、神話では神々すら背に乗せたと言われるこの魔物は、人里から遠く離れた地域に生息することが多く存在自体が珍しい。それを従えている事は即ち、所有者の圧倒的な財力を喧伝する。

 白を基調に赤と金で装飾された馬車の車体は、王国でも有名な職人が手掛けた一級品。緻密に計算された車輪は揺れを限りなく少なくし、車体部分と接続するサスペンションに付与された魔法により、車内は一切揺れる事は無い。

 他にも装飾や、内部の座席。手綱に御者。合計すればその金額は平民の生涯的な収入額を、桁二つ以上は上回る。


「上玉揃いだなァ……」


 車内、ふんぞり返った巨躯の男が一人。にやけながらそう零した。

 服装自体は一般的な貴族の装束。白を基調とし、金や赤などで装飾された華美なものだ。ただ、上半身は彼の自己顕示欲を表すように、引き締まった上半身を見せつけている。下半身は一般的なもののそれだが、少しサイズが小さいのか筋肉の形が浮き出ていた。

 無造作に毛の生えたその腕は、両隣に座る町娘に伸びていた。その豊満な双丘を、玩具のように弄びながら。羞恥と痛み。それと、思考を埋め尽くす様な嫌悪感に顔を歪める女の頬に満足そうに視線を落とすと、再び胸を揉みしだく。


「へイエス様。今日のご予定はどうしましょう」

「どうしましょう? 決まってるだろう、いちいち言わせるな」


 語気を強めたルイエルド辺境伯の向かいに座っていた若い男の執事が黙り込む。その隣に座る三人目の娘は、絶望の表情で俯いていた。

 ルイエルドの辺境伯には悪い噂が多い。特に、女漁りに関しては。

 街中の美しい淑女を攫っては連れ込み、侍女として召し抱える。だがその実態は、見ての通り欲望の捌け口だ。

 馬車に居る三人の少女もそう。 三人とも、生れも育ちもルイエルド領内。大切に育てられ、つい先程まで大貴族であるルイエルドに仕える事を、幸運だと思っていた町娘。

 ルイエルドの右隣、ブロンドヘアの美しいシュシュは既に交際して三年の相手がいる。お互いに婚約を考えており、両親への挨拶も済んだ後。一般的に貴族に仕える事は喜ばしい事。昨晩は嬉々として、誇らしい仕事に就いたと話した。

 左、ブランカは明るい少女として親しまれ、将来は家の稼業を継いでパン屋になる事を夢見ていた。美味しいパンを焼くことを何よりの悦びとし、それらを貧民にも分け与える笑顔の絶えない心優しい少女だった。

 最後のアズリーは何よりも平和を愛する若き文学少女である。ルイエルドの図書館だけでなく王都王立図書館にも足繁く通い、いつかは作家になる事を夢に日々ペンに筆を走らせていた。

 執事は裾に隠した小さな紙片に書かれた情報にざっと目を通す。

 流石は深紅卿の娘たち、と執事は素直に感心する。蔦の劇団も含め、王国で根を張る諜報組織は数多くいるが、ここまで誰にも知られておらず。そしてここまで正確な情報を得る事の出来る組織は片手で数える程度しかいないだろう。


「失礼しました。ではそのように申し伝えておきます」

「あぁ。……どうだ、お前も楽しむか?」

「ありがとうございます。光栄ですが、その者らのような美しき者を恣にすることこそ、名だたる大貴族であるへイエス様の特権でありましょう。私には資格が足りません」


 音を立てぬように懐中時計を開く。侍女のスカウト、もとい女の収穫は一切の滞りなく進んでいる。そろそろ、予定の時間になるだろう。蔦の劇団が演じていた、ルイエルドの執事という役をアイビーとリエールは交替。全員が変装の達人であることが、蔦の劇団の利点。

 この計画の懸念点は一つ。

 ルイエルドは曲がりなりにも大貴族。敷地内にも屋敷にも室内にも、物理的魔法的両方の防犯設備が施されているのは必然。幾らリリーとは言え慢心は無い。万全を期して望むのならば、梟は警備をすりぬける必要があった。

 そこで生じた問題は、どのようにしてリリーが潜入するか。

 リリーはこと暗殺や戦闘においては優れた技術を有しているが、変装や破壊工作に関しては一般人よりも少し巧い、程度。つまり、アイビーのように人を騙して潜入するようなことは難しい。

 だからこそ、リリーはリリーである事を最も生かす方法を取る。

 さて、稀代の好色家であるへイエス・ルイエルドが、あの魔性の女を前に理性を保っていられるだろうか。

 馬車は一度速度を落とし、方向を変える。

 景色を見るに、ロンデイルのメインストリートの一つ。ディエル通りに差し掛かったのだろう。へイエスの屋敷へと向かう、最後の大通りだ。

 この速度でいけば、通りの二番地に――。


「ん?」


 馬車がゆっくりと止まる。本来は無い事。同時に、あってはならない事でもある。異変に気付いたのは勿論執事だけでなく、ルイエルドも女を弄んでいた手を止め、御者台が覗ける小さな連絡窓に怒号を投げる。


「おい。何止まってる!」

「そ、それが……」


 怯えて声の小さな御者と会話していては、へイエスも苛立つだろう。そうなると、この少女達に八つ当たりをし兼ねない。窓から顔を出し、前方の様子を確認する。無数の人だかりができているようだ。何かに夢中になっているようで、そのせいでルイエルドの馬車に誰も気付いていないらしい。

 溜息を噛み殺す。

 執事は嫌いだ。脚本を書く彼は、予定の無い出来事が、何よりも。


「見て参ります」

「待て、俺も行く」

「……なりません。危険です」


 止めはするも、自尊心の高いルイエルドだ。勝手に付いてくることだろう。

 これで暴徒にそのまま殺されてくれでもすれば、手間が省けて楽なのだが。そんな事を考えつつ、執事はルイエルドの為に馬車の扉を開く。ルイエルドの身体を自分の身体で覆い隠すように護衛をしつつ、人だかりの方へと歩みを進める。

 よく見ると、集まっている群衆の殆どは男だ。所々女もいるが、男達とは熱量が違う。

 執事は既視感に眉を顰める。どこか見覚えのある光景だ。こういった状況を、最近よく見かける気がする。


「あは、あはは。え、次はこっち? あ、あの……そろそろ開放してくれませんかぁ?」


 そこには、継ぎ接ぎの古い服。パン入った木で編んだ籠を手に持ち、困惑しながら人だかりから投げかけられる声に応えている女がいた。


「お、おぉ!!」

「はぁ……」


 思わず悶えるへイエスと、溜息を零す執事。

 アメジストのような瞳に、金糸雀の翼を彷彿とさせる艶やかなプラチナブロンドのロングヘア。

 白磁のように白い肌に剥いたゆで卵のような滑らかな肌には、絵画のような顔がある。全ての顔のパーツを、全て完璧な配置に乗せたような美貌。美の神として造られた彫刻は各国にあるが、そのどれも彼女には敵わないだろう。

 正しく彼女が、彼女こそが女神。


「あの女だ……! あいつも連れて行こう!」


 無論、町娘に扮したリリー・オウル・スカーレットである事を知っているのは、溜息を零すバトラーただ一人。


 ルイエルドの屋敷の屋根に、一人の影が降り立つ。

 吹く風に暗い紫のポニーテールを揺らし、眠そうな目で煙を吸いながら敷地内へ入って行く馬車に見下ろし、金色の懐中時計を覗き込む。


「……」


 現状は計画通り。

 主であるリリーと、アイビーは計画通りの役を演じている。直上の上司であるプラムや隊長も仕事に就いている。彼女の役目は、合図を出す事のみ。それが、娘たちドーターズの一人。グレイプの仕事である。

 貴族の暗殺となるとそれなりに大掛かりだ。情報収集は徹底、準備も万全、筋書きも複数用意してある。それに今回のルイエルド辺境伯の暗殺。キナ臭い部分も多い。


「どう転ぶんスかね……」


 彼女は下っ端。考えても、仕方の無い事だ。

 何処かで見ているだろう同僚に手を振り合図を送る。何も見えない。スカーレット家が、ひいては王国の行き先が。ファインスト王国の歴史は古い。五大貴族の一つである、スカーレット家の歴史もまた同じ。だが、高い塔こそ倒れ易い。先の見えない不安に漠然とした不安を抱く。

 だとしても、することは変わらない。仕事は仕事、かの赤百合に従順に、敬虔に仕えるのみである。紫色の水晶が泡立つように手元から湧き上がる。角ばった結晶は徐々に角が取れ、丸みを帯び、仮面の形へと変化していく。

 魔法、あるいは魔術。古より伝わる秘術。

 ファインスト王国だけでなく、イルカディア大陸にある全ての国家は魔法を利用して発達を遂げて来た。勇者と呼ばれる存在が天から注ぐ光を剣とし、賢者と呼ばれる存在が星を墜として。魔素に適応した凶暴な動植物である魔物を退け、土地を拓き、国を治めた。だが魔術を扱うのが英雄と呼ばれる存在だけとは限らない。


「さ、始めるっスよ」


 既に潜入していたプラムに異変が生じる。プラムだけではない。馬車から降ろされたリリーとアイビーにも。外耳道に根が伸ばすように、紫色の結晶が生えた。

 それは発生と同時に振動し、規則的に空気を震わせる。

 たかが振動。だがその規則的な振動に、予め意味を持たせておいたのだとすれば。それは立派な言葉となるのだ。

 計画は一切の滞りなく進んでいる。

 リリーは無事に侍女として屋敷に連れ帰られ、侍女としての教育を受ける。勿論それは一般的な侍女ではなく、ルイエルド辺境伯の侍女としてのだ。

 ルイエルド知らないだろう。自ら猛獣に首を差し出したことを。

 彼女の役割は暗殺の実行、そして標的の警戒心を緩める事。一般的な家事や身の回りの世話は勿論のこと、夜の相手も担う事もある彼の侍女という立場は、ありとあらゆる警備装置をすり抜けて最も警戒心を抱かれること無く彼の側に近付くことができる。そして、女としての魅力を魅せる事は彼女が最も得意とするところだ。

 リリーが標的を狙う狙撃手なら、アイビーは風を読み距離を測る観測手。執事として潜入しつつ、リリーが最も効率的に任務が遂行できるように危険や障害を排除する。

 リリーとアイビーが目線を交わす。振動の合図は、潜入の開始を表している。


「我が主がご無礼を致しました。大変申し訳ございません」


 豪奢な馬車から降り、出迎えの給仕に連れられ屋敷に入って行くルイエルドを見送った後、アイビーは連れて来られた侍女候補に謝罪した。

 既にリリーも含めた四人は嫌悪感を露わにしている。この時点で既に、窓から覗く数名の忠実な従者による視線を知覚しているのはリリーのみ。ただ、自分に待っている運命だけは全員が悟っている。

 帝国と王国の国境を守る辺境伯であるルイエルドは、他の王侯貴族と比べて情報が少ない。理由は何故か、単純明快。辺境伯として、彼は一時的な国防が可能な程の手勢を有している。その為、情報が洩れる前に情報源を処理することが出来る。

 「娘たち」の調査の結果、このルイエルド辺境伯領で頻繁に死を伴う事故が発生している。検死の結果、遺体の主は全て若い女性。検死しなければそれが分からなかったのは、どれも悲惨な状態で男女の区別すら見分けにくい状態で発見されたからだ。

 加えて蔦の劇団による情報で、ルイエルドには極めて危険な嗜虐癖があるが分かっている。殴る、蹴るの暴行は日常茶飯事。泣き喚き、逃げ惑う女相手に筆舌に尽くし難い行為を好む。

 こうも要素があれば想像は難くない。


「これより皆様がこれから暮らすお部屋をご案内いたします」


 そうして四人は屋敷に入って行く。リリーは一度立ち止まり、風に漂う鳥を眺める。そして、追い付くために小走りで屋敷の扉に滑り込んだ。

 青い空を、白い鳥を、徐々に昏い鈍色の雲が覆い尽くしていく。

 まるで悍ましい社会の現実を、そのまま映し出すかのように。




 ◆―5―

 ルイエルド邸、執務室。

 五階建ての大豪邸、最上階のフロア中央。謁見室の光景を錯覚させるそれは、王宮にも劣らない豪奢な装飾が施された、ルイエルドが書類作業に従事する場所だ。

 巨大な両開きの扉が規則的に打ち鳴らさせる。

 返答は無い。扉が開き、執事の一人が執務室へ立ち入った。

 すらりとした、中性的なシルエットだ。執事の服装をしている事でかろうじて男性だと判別出来るだけで、外見的特徴に性別を感じさせる部分は一切無い。

 眦が少しつり上がった、アーモンド型の目。瞳に収まるのは黄玉のような鮮やかな黄色だ。確かな意思の籠もった目は、忠誠とは別の感情が見え隠れしている。剥いた栗のような梔子色の髪は邪魔にならぬよう短く切り揃えられているが、毛先は僅かに瞼に被さっていた。

 ルイエルドは普段、一日の殆どの時間を執務室で過ごす。それだけ聞くと仕事熱心で奇特な貴族に聞こえるが、実際にはそうではない。ルイエルドのような大貴族の間では、何もしないことが美徳とされている。真に富める者は、動かずとも人々が生かしてくれる。それこそが特権階級にだけ許された生き方である。という訳だ。

 その為、彼が執務室に籠る理由は実務ではない。

 ならば何故。その答えを知るのは、屋敷の中でも家令と数名の経験長い執事の数人のみ。

 執事は手に持っていた書類を巨大な一枚板の黒檀の執務机に置き、引き出しの中を探る。直後、ガコンという何かが動き出したような音が部屋に響いたと思えば、天井に正方形の切れ込みが入り、ゆっくりと執務室に降り立った。

 倒れるようにして、簡素な階段が降りていく。設計図に無い、屋根裏部屋への入り口。しかし、そこにルイエルドがいる訳ではない。あるのはたった一つ。

 円のように描かれた、青白く輝く文様が執事を出迎えた。

 魔術式を直接物体に刻み込む設置型の魔法、通称魔術陣。

 式の刻印は豊富な専門知識が要求される、非常に高度な技能だ。事実王国に魔術陣が刻める魔術師は片手で数える程度で事足りる。その為魔法陣の刻印には、魔法の種類にもよるが非常に高い金銭を要する。

 この魔術陣は、この大豪邸と同程度の価値を有している。それもその筈、刻み込まれた魔術の効果は転送。

 執事が魔法陣に乗ると身体が仄かな光に包まれ、同時に粒子となって消える。同時に屋敷地下深くに刻まれた対応する魔術陣より光が溢れ出し、集まって塊になったかと思えば執事の身体の構成した。

 転送の魔術陣は文字通り、人や物体を対応する魔術陣へ転送する。

 人々の生活でも、軍事的にも大きな役割を果たす最も高価且つ最も有名な魔術。それを彼はただ私欲を満たす為だけに使っている。これが、彼なりの惨めな示威なのだ。

 対の魔術陣があるのは、石煉瓦の小部屋。壁掛けの小さなランタンだけが光源だ。執事は陣から離れる前に取り出した蝋燭を手燭に刺し、ランタンから炎を貰うと眼前の錆びかけた鉄扉を開いた。

 鉄と、甘ったるい香の臭いが鼻腔を突き抜け執事は少し眉を顰める。

 ぬらりと湿った石煉瓦の通路は、先が見えぬ程続いている。床の黒い大理石の上には、縁に金糸があしらわれた深紅のカーペット。壁には等間隔で黒檀の扉が設置されている。血の香りも、気持ちが悪くなる程甘い香の香りも、全てそれらの扉の奥からだ。

 今日は何処だろうか。そんなことを考えながら、執事は廊下を歩き出す。

 何度も通り過ぎる扉の上部には、金属のプレートが設置されている。刻まれた文字は名前だ。声に出して読めば、それが男性の名前では無い事がよく分かる。

 少し歩くと、両脇に男が立っている扉があった。

 只の兵士という装いではない。片方の男は二振りのファルシオンを両腰に佩き、もう一人は純銀のハルバードを杖の代わりのようにして退屈そうに虚空を見つめている。


「主は」


 返事は分かっている。ファルシオンの男は狐のような細い眼で答えた。


「部屋にいはります。相変わらず気色悪いさかいに、近寄らん方がよろしいんとちゃう?」

「あは、そうしたいのは山々ですが、仕事ですので」

「あちゃ、そりゃしゃあないな。……すんまへん! 執事さんやで!」


 ファルシオンの男が大声を上げながら扉を叩く。返事を待つ静寂のせいで、嫌に扉の先の物音がよく聞き取れた。

 激しくも鈍い打撃音と、何かが規則的に軋むような異音。諦めが過半数を占めた絶望に浸るような、苦痛を吐き出すだけのような悲鳴と歪んだ高笑い。甘い香りは今まで通ったどの部屋よりも強く、一嗅ぎしただけで胃液が昇りそうだ。

 どうやらファルシオンの男の声には気付いていないらしく、男はおどけるように両手を広げた。仕方が無いと言った様子で、執事はドアノブに手を掛ける。

 ドアは不思議な構造だ。外側から鍵が掛けられるようになっており、だが今は掛かっていない。ノブを捻り少し引くと、香はさらに強く廊下に漏れ出した。口許を手袋越しに抑えながら構わず開く。まず目に飛び込んだのは、肉体の躍動だ。

 汗で濡れた肉体が跳ねている。可視化した情欲を、濡れそぼった窪みに厭らしく押し付け、潰し、こじ開けるように腰を沈め、再び浮かせるの繰り返し。まるでバウンドするように沈み、浮き上がる。動くごとに、淫靡な水音を伴って。

 余らせた手は押し潰した女の肩を潰すように。もう片方は動きに合わせて揺れる果実を鷲掴みにしている。


「うぅ……はぁ、いっ」

「フッ、ハハハッ! もっとだ!」


 覆い被さった筋骨隆々の男が乳房を握り潰していた腕を高く掲げ、固く結んで振り下ろした。

 鈍い打撃音と共に唾と血の混じった飛沫がベッドに飛び、女は再び苦痛に喘ぐ。美しかっただろう面影だけはあるが、女の顔は既に度重なる殴打により骨から歪んでいるようだ。

 同時に、男の背筋がぶるりと震える。ひたひたと五指で触れるごとに、形容し難い快感が駆け上った故だ。

 女の腕はあらぬ方向に曲がり、その上で手枷が嵌められている。脚も同様。女はこうして、ベッドの四角に繋ぎ留められていた。真紅のベッドは血を目立たせないためだ。ルイエルドの苛烈な嗜虐癖は、流血が伴わない事は無い。香は男のそれをいきり立たせ、女のそれを否が応でも潤す。裏社会に流通している麻薬の一つだ。

 これが、へイエス・ゼン・ルイエルドの裏の顔。

 転送の魔術陣でのみ行き来できる秘密の地下室と、護衛兼、逃げ出した女の処理用に雇われた傭兵。そこに囚われた、元侍女の女達。繋がれた女たちはルイエルドの歪んだ欲望の捌け口。決して逃げられることは無く、ここで朽果て死んでいく。さながら牢獄。


「ルイエルド様」


 声は届いていない。執事は小さくため息を漏らし、もう一度声を投げる。


「ルイエルド様」

「はぁ……ティアか。ハッ、お前も、愉しむ、か?」

「御戯れを。幾つかご報告に上がりました」


 ルイエルドは欲望を叩き付ける事を中断し、上半身を持ち上げた。引き締まった筋肉の表面には結露のように汗が吹き出し、光沢を生んでいた。厭らしく女の身体に手を這わせて身体を支え、犬のように口を開けて呼吸をする。

 構わず報告を始める。


「まずガヴィアベル伯爵のレッド・リーフ農園の件ですが、滞り無く成功したようです」

「そうか、市場の、状況は?」

「上々です。小規模の農園は既に冒険者に依頼を出しておりますので、市場の独占も時間の問題かと思われます」


 現在ファインスト王国の市場に出回っている麻薬は、大まかに四割がレッド・リーフだ。その赤い劇毒の四割がルイエルド辺境伯領で生産されており、余った内二割はガヴィアベル伯爵という王国内の貴族である。因みに残りは各地の山賊やギャングからである。

 つまり、レッド・リーフの市場を独占すると言う事は、この王国の麻薬市場の殆どを独占することに他ならない。そしてそれは即ち、莫大な富を生む黄金の鶏の誕生だ。


「勇者への資金援助も功を奏しているようです。全てはルイエルド様の計画通りかと」


 ルイエルドは呆けた顔でそれを聞きながら、一度だけゆっくりと腰を沈め再び浮かせる。


「それと、あれを指示通りに裏から流して暫く経ちますが、今の所何もございません」

「油断、するなよ。奴は、確実に、来る」


 腰の動きが段々と早くなっていく。それに呼応するように、女の悲鳴にも似た嬌声が部屋に響き始めた。

 香に耐え切れなくなって来たか、ティアと呼ばれた執事は苦虫を嚙み潰したような顔で肘裏で鼻を覆い隠した。


「承知いたしました。報告は以上です」

「……おい、最近お前、女の報告が無いらしいな。良さそうな女を、俺に報告する、のが、お前達の仕事だろう」

「……申し訳ございません」

「気を付け、ろ。次は無い。家族の事を、忘れるな、よ」


 ルイエルドの言葉に、ティアは何秒も間を開けてから口を開く。


「畏まりました」


 仄かに頬を朱が差したティアは、快楽を貪る彼の主に対して深々と頭を下げながら静かに部屋を去った。明確な怒りをその端正な顔に浮かべながら。


解除リリース


 紅潮した頬を隠すようにして退室した執事は、傭兵に一言掛けて長い通路を戻りながら一言呟く。魔力の込められた詠唱。込められた魔法は即座に効果を発揮し、彼女の頭に覆い被さっていた魔力のヴェールを引き剥がす。

 折りたたむように纏められた長い髪が姿を表す。彼女は取りまとめるバレッタ――挟み込む形で髪を取りまとめる髪留め――を取ると、水門を開けるようにばさりと長い髪が広がった。秘匿の魔法だ。普段であれば、一切解除しないのだが、誰もいないこの長い通路は彼女に一息付かせるのに十分だった。

 ルイエルドに限らず、女が執事など許される事ではない。

 それでも彼女がこうして執事の格好をしているのは、彼女が練達した魔術師である事を示している。

 ルイエルド家執事バトラーが一人、ティア・アコナイト。

 執事長に勝るとも劣らない最も優秀な執事の一人だ。

 魔法のヴェールが消え去ったのは髪だけではない。豊満な胸部が大きく膨らんでいく。苦しそうに伸びる生地を見かねて、壊れる前に彼女はシャツのボタンを数個外す。


「屑が」


 思わず漏れ出た呪詛に、彼女は思わず周囲を警戒する。

 無論長い廊下には誰もいない。この場所は限られた人間しか知らぬルイエルドの娯楽の場。人がいる方が問題である。今度に漏れ出たのは安堵のため息だ。

 このファインスト王国では決して珍しい話ではない。

 貴族に家族をただ娯楽の為に攫われて、無惨に殺された。そんな貴族相手に復讐を望む、残されたか弱き家族。

 ティア・アコナイトもその一人。


「この手で、ようやく」


 貴族とは読んで字の如く、貴き血族である。

 故に何をしようと咎められることは無い。

 道を歩く市民を馬車で轢く。森に放して銃の的とする。肉片にして家畜に撒き、絞り出した血を美容と称して浴びる。そんな貴族は山ほどいる。であれば、復讐を決意する幼子は星の数程いるだろう。だが、実際に行動に移せる者は殆どいない。

 まず、分が悪すぎる。

 復讐にも様々な種類があるが、最初に考え付くのは暴力による復讐だろう。だが一市民と、私兵を従える貴族。護衛や刺客を雇おうにも、免税特権や貴族年金による圧倒的な財力を誇る貴族相手では、雇える者の質も異なって来る。

 もし、冒険譚のような力に目覚め、復讐を成す程の力を得たとする。今度市民を許さぬのは、法だ。

 自領において領地裁判権を認められている以上、法廷において市民には勝ち目がない。例え裁判官が公平な人選であっても、貴族の恐ろしさはその人脈にあると知ることが出来るだろう。それらを全て乗り越えて、ようやくスタートラインに立つことが出来る。


 ――とは言え、走れるとは限らないか――


 握りこぶし形作り、そして気が抜けたように開く。

 必要なのは圧倒的な暴力と、法も我が身も厭わぬ覚悟。だがそれを持って尚、へイエス・ゼン・ルイエルドは殺せない。

 ルイエルドは非常に警戒心が強い男だ。生まれつき備わった素質なのか、元々は王国軍人として訓練した結果なのか、彼は人の感情の機微を鋭敏に感じ取る。警戒を欠かさない彼を相手にすれば、殺そうと決意した段階で捕縛されるだろう。

 だがそんなティアにも、一筋の希望が見えた。奇しくも、憎むべき主の策によって。


 ——本当に来るのか? あんな怪しい作戦で――


 ティアに詳しい事情は分からない。知る者は本人と、家令の二人のみであり、七人いる執事にも知らされていない。が、彼が何を待っているかは分かる。

 言ってしまえば、都市伝説上の存在だ。

 その逸話は数多く、しかして語る者は誰一人その正体を知らない。ファインスト王国の影なる刃、梟と言う猛禽。

 ルイエルドが何を企んでいるのか分からない。

 もし百歩譲って梟が存在していたとして、どうしたい。取り入れて手駒にしたいのか、それとも排除したいのか。

 ただ、困惑とは別に希望も見える。梟が本当に存在するのなら。その爪が向く先を動かせるのなら。


「いけない」


 強くなる灯りで、自分が思案耽り廊下を歩き切ったことを悟る。


偽装フェイク


 膨らんだ胸が萎み、折り畳まれた髪が消え失せる。女性としてのティア・アコナイトが消え、執事ティアが残った。

 とは言え梟には悪いが、正体も分からぬ畜生を待つ気はさらさらない。ティアには独自の計画がある。圧倒的な武力をすり抜け、法の光が形作る影を通り、その刃で心臓を抉り取る計画が。そして、自分以外の誰にも、ルイエルドを殺させたりはしない。

 寧ろ、梟が紛れ込む混乱さえも利用して。

 転移の魔法陣を起動しようと魔力を高めようとした最中、頬が擽ったくなり思わず白い手袋越しの手で頬を撫でた。

 人差し指の腹が濡れている。

 感情が高ぶったか。何時の間に、涙が漏れていたらしい。知らずに涙さえ流してしまう程可笑しくなってしまった自分を自嘲し、同時にそれでいいと自分を諭す。その涙こそが、ティアをティア・アコナイトにする。その涙の為に彼女は剣を研ぎ続けているのだから。

 故に曇り無い黄玉に宿るのは、全てを捨て去り、一を得る覚悟。彼女が彼女を捨て去る決意。


「悲しそうね」


 だからか。彼女をどこか憐れむような凛々しい声は、彼女には届かなかった。下賤の身の言葉が、尊き耳には聞こえぬように。




 ◆―6―

 夜。野良猫さえも寝静まる宵闇。

 見張りの私兵しか動かないこの時間に、静かに窓が開いた。するりと給仕服の人影が窓から抜け出すと、身体を振り子のように揺らし勢いのまま屋根の上に上がる。驚異的な身体能力の成せる業を、物音一つ無くこなす。それは彼女が音にも気を配る余裕があるという証明だ。

 三日月を背景に、女の手に赤紫の気泡が湧き上がる。

 それは、結晶。結晶が湧き上がるようにして、手から泡立つようにして膨張し徐々に仮面の形を成していく。レッド・アメジストのヴェネツィアンマスクを着けた女は、王国の影で最も恐れられる猛禽その人。赤百合。又は梟。


「さて……」


 外耳道に生じた紫水晶が小刻みに震えると同時に、空気を切り裂きながら飛来する鳩を察知し、リリーは谷間から取り出したハンカチを腕に巻き掲げる。器用にハンカチの上に留まる鳩。魔物の伝書鳩だ。脚に括り付けられた手紙を解くと、鳩は役目は終えたと言わんばかりにすぐに飛び去った。

 手紙に目を通し、それを谷間にしまい込む。

 雨樋を、窓の桟を、壁の出っ張りを伝いながらスルスルとリリーは中庭に降り立つ。手燭を片手に廊下を見回る私兵を窓越しにやり過ごし、彼女は再び室内に新入すると最上階のとある部屋を目指す。

 暗殺、と一口に言ってもその手順が毎回同じな訳ではない。暗殺対象の地位、状況によって手段や脚本も変わるのだ。数日前のロウル侯爵とルイエルド辺境伯を比較すると分かりやすい。

 ロウル伯爵は王都に屋敷を構え、大きな力を持つ貴族の一人。ルイエルド辺境伯は無論の事ルイエルド辺境伯領に居を構え、同じく大きな力を持つ貴族。多少の差異はあれど身分は変わらない。ならば違うのは、二人を取り巻く状況。

 ロウル侯爵の屋敷は王都内に存在する。普段から社交会により出入りが容易い上、容疑者が特定されにくく、屋敷内の構造も把握しやすい。社交会であればリリーもリリーとして出入りすることも出来、わざわざ違う人生を用意する必要が無い。

 ルイエルド辺境伯の屋敷は都市ロンデイルから離れた場所にある上、出入りが少なく潜入に不向き。リリーがリリーとして接触しルイエルドの死が発覚すれば、まず疑われるのはリリーだ。王侯貴族の中には、梟の正体を知りながらスカーレット家の睨みにより口を固く閉ざしている者もいる。リリーが一度でも殺人を疑われてしまえば、彼らの蠢動を許す事となるだろう。

 材料が違うならば、調理法も違う。

 谷間から取り出した金属の糸を折り曲げ、窓に差し込む。

 数秒も経たぬ内に小さな金属音が鳴る、開錠された窓をゆっくりと開き、猫のように音も無く屋敷内に侵入する。廊下の遥か向こうに小さな蝋燭の灯りがあるのを確認しつつ、リリーは炎の灯り目掛けて歩み始める。

 娘たちによる事前の調査の結果、屋敷は計五階建て。各階の行き来には階段を用いる必要があり、昼間は屋敷内の使用人が行き来しているので不審な人物がつけ入る隙は無く、夜間は階段と各階層に見回りの私兵が配置されている。

 一階、階段は屋敷中央に吹き抜けの大階段が一つ。挟むように両脇に私兵が配置されており、発見されず階を上がることは困難だ。二階から三階、四階五階と高さが上がる度に警備が増え警戒が厳重になっていく。まるで何かを隠すように。地下もあるが、あまり使われてはいない様子だ。

 娘たちが一気に動けば警戒されかねない。プラムだけが動くにしても、彼女は事前の潜入の結果既にメイドとして従者に顔を覚えられている。だからこそ最も効率的なのは、リリー自身が動くこと。

 まるで影が動くように音も無くリリーは廊下を進む。

 月光を避ける彼女の歩法は、傍から見れば月光が避けているようにも見える。否、事実そうなのかも知れない。幾ら冷たき月光とは言え、夜の女王を照らすは不遜だというものだ。小さな炎が揺らめく。溶けた蝋が雫となって蝋燭を伝い、手燭の中に蝋溜まりを作った。退屈な仕事に欠伸を漏らしつつ、相方が待つ定位置まであと少し。


 報酬は莫大、仕事内容は果実をもぎ取るより簡単。そして退屈。

 ロンデイルは確かに王国の中でも大都市の部類。だが、街の人間の殆どは旅人や商人だ。潜在的な都市人口は少ない上旅人の中には冒険者も含まれており、この近辺は冒険者の活躍により魔物や賊が少ない。

 更に、へイエス・ゼン・ルイエルドは元軍人の武闘派貴族。私兵の練度も高く、傭兵も雇い入れる事で個が持つ軍事力としては王国でも最高峰だ。そのルイエルドの大豪邸に忍び込む賊は、呆れるほどの愚か者か。もしくは。

 階段の脇に辿り着くと、相方の兵士が眠そうな目で立っていた。この階段の脇に立ちつつ、定期的に交代で同フロアを警戒するのが元傭兵の彼の仕事である。やっていることは衛兵のようなものだが、実際はそれよりも数倍楽だ。

 まず先述の理由で、ルイエルド辺境伯の屋敷に近付く者は例外を除きいない。そして例外とは大きく二つ。とんでもない愚か者か、周到な準備を重ねた者か。

 前者であれば対処は容易い。戦力差を理解できない愚者相手、どうとでも処理できる。後者であればそもそも、この傭兵の男一人程度の力では無理だ。当然、ルイエルドの持つ全兵力が動くこととなる。

 と言う事で、傭兵の男一人が活躍する場は無いという事である。

 ふと、月光が照り付ける廊下に目線を送る。何か生物の気配がしたのだ。だが、当然ながら何もいない。鼠一匹すらそこには。

 気のせいだったかと視線を戻し、再び階段の警備にあたる。

 男は、男達は気付いていない。その背後の階段を、悠々と上る一人の女がいる事を。

 白と黒の給仕服。夜闇の中では目立つその恰好で、まるで当たり前かのように階段を上っている。ワインレッドのマスクの下で彼女は見張りを一瞥すると、その姿は水に浮かべた墨が溶けるように掻き消えた。

 この世界には明明として魔法が存在する。

 人の身で起こし得る小さな神秘。神の奇跡の、その断片。だが魔法とて一種の力に過ぎない。英雄が使えばそれは神聖なる力だが、梟が扱えば野蛮な殺戮道具に早変わりする。そうなると、人間は魔法には魔法的な防御手段を構築するように。結果、現代において魔法による犯罪の特定は、肉体を用いた犯罪と同程度の捜査が可能になった。

 当然だが、ルイエルド辺境伯邸の魔法的防御は厚い。

 透明化、無音、無臭、破壊活動。どのような魔法を扱っても捜査が可能だ。透明化の魔法で侵入すれば、警備の傭兵たちは当然のように看破できる。無音の魔法を扱っても、重量や熱源を感知して侵入者を探知できる。一度壁や床を壊せば、屋敷中に警鐘が鳴り響く事となる。


 ならば何故、彼女は屋敷を闊歩できる。


 フクロウの翼は、無数の細やかな毛によって構成された羽根が集まって形作られている。その他大勢の鳥とは異なるその細やかさは、羽ばたきにより発生する乱流を抑え、羽同士が擦れて音を立てる事を防ぐ役割を担う。

 リリーはフクロウではない。音の立たない翼は無いし、獲物を空へ連れ去る鉤爪も無い。

 が、リリーにしか無い物もある。

 体重をシームレスに地面に浸透させる脚運びを、振動に共振するように身体に流す重心移動を、衝撃無く地面に脚を付ける技術を。何も無いなら筋力で、緻密さが足りないなら技術で、理論で不可能ならば魔法で。人生の全てを暗殺に擲つ覚悟と、影に潜む天稟。それが彼女を、梟たらしめるのだ。

 呆気無く通り抜けた見張りを一瞥し、リリーは自然な足取りで階段を上っていく。

 用心はした。だが魔法的防御も物理的防御も厚いルイエルド邸も、彼女にとってはドアノブを捻る程度の障害でしかなかった。ただ、それは針の穴に毛羽立った糸を通す様な技。三流は暴れ回るだろう。この厳重な警備を抜けるために何も考えず騒ぎを起こし、正面突破で切り抜ける。

 二流は意味を持って暴れるだろう。例えば、誰かが暴れている間に他の者が忍び込むようにして。一流は、無事に忍び込めるかもしれない。ただ、この屋敷内に施された数々の罠を全て避け切れるとは限らない。

 では、その上は。

 踊るようなステップで、リリーは廊下を音も無く進んでいく。

 気味が悪いことが二つ。

 一つは、時折跳ねるような動作も交えているのにも関わらず、少し踵の上がったキトゥンヒールから一切の音が出ない事だ。靴も、給仕服も、彼女が踏みしめる床も。まるで音と言う概念を忘れてしまったかのように、一切の音を発さない。

 そしてもう一つは、屋敷の管理者の立場でないと分からない。

 彼女はそのステップで、全ての警報装置を回避しているのだ。温度を感知するもの、存在を感知するもの、音を感知するもの、重さを感知するもの。ありとあらゆる物理的、魔法的警報装置をすり抜けて、彼女は悠然と屋敷内を闊歩しているのだ。

 彼女はそのまま何度か階段を抜け、最上階に辿り着く。

 確かにリリーに宛がわれた部屋は最上階に位置してたが、出入り口に見張りが配置されていた。さしものリリーも、ドアの前に配置された見張りの目を欺いてドアを潜るなんて芸当は難しい。だからこそリリーのルート取りは、最上階から一度降りた上で再び最上階を目指す事になる。

 今日はその、ルートの確保が目的だ。

 当然だが、歩き慣れた道と初めて歩く道では、歩きやすさが全く違う。トラップの位置、警備の配置、床の劣化、平均的な室温。これら全ての要素を考慮し初めて、リリーによる芸術は為される。

 既にこの時間帯、ルイエルドが執務室に消えることは掴んでいる。ずっと執務室にいるならばいい。問題は、彼らしか知らぬ空間がある可能性。


〈人影無し〉


 外耳道が震える。娘たちによる合図だ。

 さも自室に入るかのように自然な動作で扉を開く。無論その最中、息遣い一つすら音は立たない。

 書斎、兼執務室といったところか

 左側の壁は全てが本棚で、大きさの違うまばらな本が収められている。背表紙には何も記されておらず、装丁も雑だ。推察するに私的な書物なのだろう。無闇に触ることはせず、本を舐めるように見てから部屋全体を見回す。

 屋敷正面の門を、ロンデイルの街を一望できる巨大な硝子窓。それを背にするように茶色い革張りの巨大な椅子と、黒檀の一枚岩の執務机。机上には積み上げられた書類と、インク瓶とペン。

 右側には暖炉と転落防止の鉄柵。部屋の右奥は不自然に窪んでおり、その隙間にすっぽりと天蓋付きの白いベッドが置かれている。当然だが、ベッド上に人の気配はなかった。何もいない。ただ一つ気になる点があるとすれば、微かに漂い甘ったるい残り香。


 ――ニフライル――


 答えの単語を、口の中で噛み殺す。

 麻薬、もしくは媚薬の一種。

 香にして焚くことにより漂う特徴的な甘い香りは。男女問う事無く、ゼロから十へと劣情を引き摺り出す。その需要は主に王国の貴族の中で多く、レッド・リーフに続き王国の裏で広く蔓延している麻薬の一種だ。

 執務机、棚、窓、ベッド脇。香が焚かれていた様子は無い。

 ともすればこの香りは、何者かがその香りを纏ってここを通った証拠。リリーは何度か強めに耳を叩く。目的は何も自傷ではない。その振動は空気を伝わり、外耳道に根を張るアメジストを微かに揺らす。


〈不明〉


 返答は短い。

 太陽の明るい時間帯から、この時間に至るまで。娘たちが突き止めたルイエルドの行先はここが最後だ。この場所からどこに向かったのかは不明らしい。

 窓の外を眺めると、寝静まった街がある。昼間なら燃え上がるかのように広がる赤レンガの屋根も、ケーキのような白い漆喰も、青々とした大自然も、今や深い蒼のヴェールが優しく覆い被さっている。

 だが、そのヴェールの下から覗く影が一つ。

 街の、少し高い煙突の家。その煙突の影に紛れるように、朧げな人影がこちらの様子を窺っている。

 普通の人間であれば、違和感を抱く事すら出来ないだろう。リリーでさえ凝視せねば見抜くことは難しい。それ程に遠く、それ程に自然。ただリリーが見抜くことが出来たのは、その存在を知っていたからに過ぎない。

 見られてると気付いたのか、人影は軽く頭を下げた。

 よく見れば、視線は煙突の裏だけではない。まだ明るい酒場の店内から、夜風を浴びる通行人から、路地裏の隙間、空き家の窓、森林、厩舎、その他数々。娘たちの監視は厚い。ただ、この屋敷内に潜入している娘たちは、プラム、グレイプ、あと一人の三人のみ。

 外の監視が発見できておらず、屋敷内の三人にも見つけられていない。となると、答えはこの執務室にある。


 ――謎解きね。上等だわ――


 執務室のインテリアをよく観察する。流石に相手は大貴族。ちゃちな仕掛けではないだろう。

 魔法の中には、行使した対象の状態を直感的に理解することの出来る「鑑定」や、物体や生物の熱を感知する「熱感知」。人の行動を辿る事の出来る「辿視」等があるが、魔法的防御を怠るルイエルドでもない筈だ。

 故に、彼女は仕事において滅多に魔法を扱わない。突きより蹴りが強いように、人間と言う生物は肉体的よりも魔法的な能力の方が高い。つまり、警備となると必然的に魔法的防御の方が厚くなる。

 だからこそ、リリーが信じるのは己が身一つ。


 ――お嬢。勇者に関わってる貴族の動きが少し不穏だよ。


 信頼に値する部下の言葉が蘇る。

 冒険者と言う存在がいる。依頼を受け、魔物を狩る者達だ。そんな中、冒険者という枠から飛び出し、魔王討伐を志す特筆すべき力を持つ個人が稀に表れる。それらを時折国は拾い上げ、国家予算を注ぎ込んで抱き込む。それが勇者と呼ばれる存在だ。

 表向きは、神の祝福を授かりし国の至宝。が、ファインスト王国で始まり、瞬く間に各国に広まることになった勇者の裏向きの存在価値は、一騎当千の戦略兵器だ。

 この国や帝国における勇者は、王命によって一般の兵や冒険者では対処できない凶悪な魔物の討伐に赴く。緊急時には戦争に赴くことで武力を示し、国家間の取引で威圧することも少なくない。無論、当人に知らされることは無いが。

 簡潔に言うと人の形をした戦略兵器。これが、勇者と言う存在の大まかな概要だ。そして最近、娘たちによって勇者にコンタクトを取った貴族の様子が少しおかしいのだと言う。


 ――あら。


 粘土のようなあやふやな情報を捏ねる思考を止める。引き出しに手を掛け、だがリリーはすぐに離した。魔法的エネルギーをリリーの柔肌は察知したのだ。魔法は実際に存在するエネルギー。つまりは熱や、風のような自然的エネルギーと同じ。慣れれば肌で感じることが出来る。

 罠の可能性も考えたが、それにしては少し弱い。エネルギーの残滓、と判別するのが妥当。

 一切の音無く引き出しが開く。リリーの推測通り何も入っていない。ただ埃が積もっていないことを考えるに、使われていないという事は無いだろう。ぺたぺたと触ることはせず、じっくりと観察する。そして何かを確信した表情で、彼女は引き出しを半分しまう。

 リリーの推測は正しい。

 この黒檀の引き出しの奥には、三種の魔法陣が施されている。

 一つ一つは何の意味も無い魔法陣。ただそれらが関わり合う事により、一つの魔法的仕掛けを生み出す。この魔法陣は、屋敷内の者が触れて魔力を流す事によって、遠くの仕掛けが動く。そんな魔法陣だ。

 個人により異なる魔力の波長を変える事は至難の業で、意図的に変えることの出来る者は一握り。他でもないリリーも、その少数から零れた存在である。


 ――成程――


 続けて仰ぎ見た天井に、僅かな隙間がある事に気付く。

 寸分の狂いも無い長方形の隙間だ。それを確認しリリーは耳を何度か叩く。それは、特定の個人への呼びかけだ。


「ハァーイ、お呼びかい? お嬢」


 リリーが声のした方向へ振り向くと、奇妙な光景がそこにはあった。

 影が、蠢いている。

 幾つもの細長い触手のような揺らぎがまるで蛇の頭のように立ち上がり、徐々に何かを形作っていく。何度か動物の形状を経て、最終的に形を成すのは人型だ。そして、影には徐々に色が差す。

 鱗のような、薄い金属が幾つも取り付けられることにより、光を並べたような独特な光を放つ黒いブーツが膝下までを秘匿する。太腿を覆う黒いストッキングの下には、太腿の白い肌が微かに透けていた。

 蛇のように曲がりくねった、奇怪なナイフがぶら下がった黒い革のホットパンツは、十分に皮鎧の役目を果たすだろう。身体に沿い、臍にもぴったりと張り付く黒い肌着。膨らんだ胸部により隙間が出来た丈の短い黒革のジャケットが見えるのは、黒い金属の糸で編まれた長いマントの隙間からだ。

 全身を黒で包んだその女は、顔にも漆黒の仮面を嵌めている。黒曜石から切り出したような無骨なそれは、波紋のような小さな凹凸は月光が乱反射し無機質な輝きを放っている。目の部分にも、口の部分にも一切の穴が無いその仮面でどのようにして状況を確認しているのか。リリーには皆目見当も付かなかった。

 膝裏にまで届く黒髪は、さも夜空を撚ったかのような漆黒。それをマントのようにたなびかせ、女は返答の無い主に小さく首を傾げた。


「えぇ勿論。貴女の力を借りるわよ」

「喜んで。お嬢のご命令とあらば」


 隠密行動の最中だと言うのに、一切声を潜めようともしない。靴音も大きく、まるでカーペットを闊歩する王妃のようである。

 だと言うのに彼女を黙認するのは、彼女への圧倒的な信頼があるからだ。

 十二の隊により構成される娘たち。その次女隊である旋風は、間諜を専門とする部隊。普段はリリーに仕えており、ジェーン・ドゥを隊長に据え副隊長にプラムが配属されている。ただ普段、実質的な指揮官はプラムだ。隊長であるジェーン・ドゥはふらりと現れて、情報をリリーに残しふらりと消えるのだ。

 まともに仕事をせぬ自由人のようにも思える。

 だが、彼女がそのような自由な仕事を許されている事には理由がある。

 子供を率いて戦争が出来るか、雛鳥を連れて渡りが出来るか、それと同じ。影より夜が暗いように、雲より雪が白いように。彼女の前では、どのような見事な変装であって児戯のように見えてしまう。

 彼女は組織的行動が出来ないのではない。リリーにより、組織的行動を禁止されているのだ。故に、付いた渾名は行方不明者ジェーン・ドゥ。煙の如き女。リリーが配下、次女隊が隊長。


「でも、わざわざあたしを呼び戻し、やらせることはただの魔法仕掛けの操作? 随分余裕があるんだねぇ」

「そう言わないでジェーン。この分野において、貴女に勝る人間はいないのよ」

「ふふっ、お嬢もおべっかが上手になったね」


 微笑みかけたのだろうが、黒曜石の仮面は表情を変えない。嗤うような靴音がただ響くのみだ。

 リリーを見送り、ジェーン・ドゥは再び消える。

 階段を見張るつもりではない。こうして偵察に踏み切ったのも、既にリリーが侍女候補として潜入して三日が経過した故である。これ程の時間が経てば、自ずと見えぬ物も見えてきた頃合いである。

 まずこの屋敷の全体的な構造。特に地下室に関しては、パーティー用の地下第一階はともかく、第二階は屋敷の地表一階層分よりも広い。とは言え大部分は地下牢と倉庫。そして、ワインセラーがある程度。屋敷部分より重要度は限り無く低く、勿論その分見張りに人数が割かれていない。

 もしこの場所に入り込んだ鼠が大声で会議をしていても、気付く者はいないだろう。夜であれば、尚更。

 ジェーン・ドゥは最上階から滑るように去っていき、見張りが置かれている地下室への入り口も素通りする。彼女は、魔法を用いて消えているのではない。卓越した気配遮断の技術を用いて、彼女は人の目すらも欺く。

 地下室。倉庫の一区画に灯る光を見掛け、ジェーン・ドゥはようやく気配を消すのを止める。ぴんと、遠くからでも犬の耳が立ち上がる景色が見えた。


「まさか隊長まで出るなんて……!!」


 カツカツと靴音を鳴らすジェーンに、プラムはすぐに一礼し感服を露わにする。

 黒曜石の仮面のグラマラスな女は、小さな副隊長の礼に片手を振って応えるとすぐに彼女の側に寄る。アイビー、グレイプ、そしてプラムがいる古い木の丸テーブルに。


「あはーご無沙汰だねプラムちゃん。最後に会ったのはいつだっけ?」


 彼女はさも久々に友人に会ったかのように軽い口調で語り掛ける。いや、実際に彼女にとってはそうなのだろう。


「恐らく、ブルメリンでの作戦以来かと」

「あぁー時計塔の。懐かしいねぇ」


 耳がピクピクと揺れる。感情がこのように顕わになる彼女は、このような大規模作戦になるとよく耳が動くようになる。リリーの役目に立てる事が余程嬉しいのだろう。ジェーンはリリーが可愛がる忠犬を微笑ましく思う。


「それだけの作戦、という事ですか……!」


 ジェーン・ドゥは娘たちの中で唯一、自由行動が認められている隊員の一人。彼女は常に王国内外問わず、至る所に蜚蠊のように忍び込み、得た全ての情報をスカーレット家に流し込む侯爵家の目の役割を担っている。

 そんな彼女が、ここにいる。

 その事実の重要性が分からぬ者は今のこの場にいない。ただ、やり取りを見ていたグレイプの顔は苦い。


「隊ちょー昔話するとながいんスから、さっさと本題行きましょうよ」

「俺はいつまでも話してもらっても構わんがな」

「あはーごめんね仔犬ちゃんたち。お姉さんいつも言われるんだぁ、悪い癖だネ」


 おどけたような口調は、少しだけ不慣れそうだった。

 アイビーが本題を切り出す。

 夜な夜な行われる作戦会議は、情報共有の意味を持っている。まずプラムから告げられるのは各使用人の行動パターン。どの使用人がどの様なペースで廊下を歩き、何処を見張るのか。各人の性格も含めて。

 彼女は見た目、性格、共に人の精神に潜り込みやすい。その為、人に関する情報は常にリリーの右腕たる忠犬の役割である。グレイプにより街と建物の情報が告げられ、ジェーンによりルイエルドの繋がりが暴露された次。アイビーから告げられるのは他でもない、脚本の進行度。


「脚本は極めて順調だ」


 ジェーン・ドゥが不敵に哂う。無論、その表情を窺う事は出来ないが。


「へぇ……流石は蔦の……なんだっけ。ま、君とは末永く、いいビジネスパートナーで居続けたいものだね」

「それは、あの女次第だな」


 嫌味っぽく告げるアイビーに、おどけたようにジェーンは両手を広げた。

 アイビーは作戦に用いる脚本に名前を付け、それを作戦名とする。今回の作戦名は「神託の乙女」、ある女性を中心に据えたものである。

 リリー・オウル・スカーレットは神の手厚い寵愛を受けている。すれ違った人間誰もが振り返る優れた美貌。派閥に所属せずとも貴族社会を渡り歩く優れた頭脳、近接格闘において比肩する者のいない優れた肉体能力。

 だが一つ欠点があるとするならば、彼女は愛されている。愛され過ぎている。どれだけ闇に溶けようと影に身を沈めようと、光が彼女を逃さない。底の無い深みに嵌ろうと、必ず光がその手を取る。暗殺者として目立ち過ぎるのだ。

 ロウル侯爵の一件のように、スカーレット侯爵家として不自然ではない行動範囲ならばまだいい。何とでも言い訳が出来るし、アリバイは作れる。だが、ルイエルド辺境伯領ともなると話は別だ。

 ここは完全な敵地。娘たちの力が及ぶのにも限度がある。故に今回の仕事で、リリーは手を下さない。神託の乙女を指す言葉は、リリーではない。彼女は、後片付けを担うのみ。


「計画通り、ってことは」

「実行日は明後日ですね」


 グレイプとプラムの言葉にアイビーは深く頷く。


「あぁ、ラ・レザンだ。段取りは?」


 少しの間の後、アイビーは身体全体をくの字に折り曲げ、腰に手を当てているジェーンに目線を向ける。何かを訊ねるような視線だ。それも、少しだけ威圧的な。

 降参とばかりにジェーンが諸手を挙げた。


「あー人事はプラムちゃんに任せてるんだ。ねっ」

「はい、例の神託の乙女にはフェンを付けます。リリー様のお傍にはグレイプを、アイビー様のお傍には戦闘力を考慮して隊長を。その他、既に準備も万全です」

「……お前、隊長ではないのか?」

「あははーお姉さんも不思議」


 おどけたような口ぶりに、アイビーは不満げな溜息を洩らした。

 背景も含め、確実に面倒な依頼となる。だがそこにある感情は失敗への不安ではなく、己とビジネスパートナーとの差だった。

 アイビーはリリーの協力者で、所詮は利害が一致しただけの存在。眼前の面々のように、自ら忠誠を誓いたくなる程心酔している訳ではない。ましてや、惚れている等以ての外だ。ただ、惚れているという表現は案外遠くない。

 生ける芸術。彼はリリーの事をそう考えている。

 却って恐怖すら抱く暴力的な美貌や、媚薬等を軽く凌ぎ情欲を誘う仕草もそう。闇という湖面に身体を沈めつつ、それでいて水面下の水掻きすらも優雅にこなす彼女の仕事は、最早芸術の域に達している。

 繊細な色使いと、暴力的なタッチで描かれた最上級の絵画。その芸術性に、アイビーは惚れこんでいた。


「さて」


 ポケットから一枚の似顔絵を取り出し、アイビーはプラムに告げる。

 肩まで描かれている。顔立ちは綺麗で、カテゴライズするならばその美貌は、可愛いよりは美しいに分類されるタイプだろう。金色にも見える瞳は、鋭さと丸さを両立した切れ長のアーモンド形。高く小さな鼻と、結んだ唇は筆で引いたようで小さくも瑞々しい印象を抱かせる。

 少し明るい山吹色の髪は丁寧に整えられており、弱めの螺旋を描きながら腰にまで届く長さだ。身を包むのは慎ましやかなドレス。リリーが普段着るような王国最高峰の物、とは数段劣る品だ。然しその分、素材の味を生かしているとも言える。


「英雄たる少女の道を、切り拓くとしよう」


 動く。神託の乙女を、作り出す為に。




 ◆―7―

 微酔月、七日。

 たわわに葡萄が実る時期、ロンデイルには多くの人が集まる。集まるのは人だけではない。上等な服、質の良い食材、古今東西の珍しい品々。それらを求めて各国の貴族や、豪商たちが集まるのだ。

 今日は、特別大きな祭典がある訳ではない。

 だが市民が不自然に思う事は無い。収穫の時期である事も考えれば、王都に勝るとも劣らない隆盛を誇るロンデイルならばこの程度普通だろうと考えるのだろう。

 だが実際には違う。裏社会に身を置く者にとって、今日は大きな祭典の日だ。


「……」


 纏わり付くような湿気のある闇に紛れ、黒い外套で身体を包んだ者達が路地を蠢いていた。

 背丈はまばら。高い者も居れば、低い者も居る。体格も、姿勢も、そして性別も。何もかもが統一されていない、ちぐはぐな一団。

 リーダーらしき人物が手で合図を出すと、一団は頷きを返し人目を避けて進んでいく。警備を避け、やがて見えるのは巨大な邸宅。

 このロンデイルにおいて、豪邸という言葉に相応しい場所はたった一つ。

 へイエス・ゼン・ルイエルド。その居城である。

 刺客、と呼べる集団ではあるが、娘たちと比べてしまえば児戯にも等しい。ぱたぱたと足音は鳴り響き、行動には迷いが現れている。武器も握り慣れていなさそうな手には包丁や汚らしいデッキブラシ、煤のこびり付いた火掻き棒といった日用品。防具もまともなものは無く、鎖帷子の一着すら無い。

 本当にやる気があるのかと、問いかけたくなるほどの武装である。

 だが、彼らの行動の迷いは、自分の行動とそれが引き起こす結果に対する不安が生んだもの。頭に叩き込んだ計画に狂いは無かった。リーダと思しき者の合図と共に三班に分かれ、徐々にルイエルドの屋敷を包囲していく。東、西、そして北に向いた正門と、それらを取り囲むように。

 ルイエルドの屋敷には三つの出入り口がある。正門である南の門。そして、東と西の勝手口。何故平民なら近付く事すらも許されぬ筈の、ルイエルド邸の勝手口を何故知っているのか。それは、彼らの仲間の一人の協力が関係していた。

 ラ・レザン。収穫祭と暗喩されることもある、巨大な裏オークション。それが、今日。

 出回る品は全てが非合法。没落した貴族令嬢や、焼き払われた村の娘。高品質の麻薬に密輸品、ファインスト王国では数十年前に法により禁止された筈の、奴隷でさえも。国境付近の警備の為、多くの私兵を抱える事の許されたルイエルドだからこそ可能な裏社会の祭典である。そしてこれは、彼の権威を高める重要な儀式でもあるのだ。

 槍のような細工が為された鉄柵を超え、中庭へ。

 普段より警備の厚いルイエルド邸の敷地内を、刺客たちはすり抜けるように抜けていく。彼らは知っているのだ。警備の配置や、安全な場所さえも。


「……トーシロじゃん」


 刺客の動きは傍目から見れば見事。答えを知っている迷路を進むようなものだ。だが、ルイエルド邸の高い屋根の上に腰掛け、嘲笑うようにぼそりと呟く影が一つ。

 白に僅かに黄金の糸を足したかのような、色素の薄いホワイトブロンドを右側頭部から垂らした黒いローブの少女。

 丸っぽい鼻と、狐のように吊り上がった丸目。九割の幼さの中に、目が覚めるような美貌と計算尽くの可憐さを一割としてブレンドしている。自分が美しい事を自覚している美しさだ、同性には嫌悪され、異性に好まれるような容姿だろう。

 脚を組み、むにりと太腿を歪ませた彼女の座高は、ざっと見積もって十歳前後の少女のもの。脚の長さから考えるに、立った状態でもその推測は変わらないだろう。ただ彼女が幼い訳ではない。身体の成長がぴたりと止まってしまっただけである。

 右手には柄に金属糸が結び付けられたフィレナイフ。ただ峰には、狙った獲物を決して逃がさぬような歪んだ返しが付いており、それがただ肉を切り分ける為のナイフではない事を証明していた。

 そんな彼女が太腿の上に頬杖を突き、ナイフを片手でくるくると弄び眼下に展開する刺客たちを見下ろしている。


「リーちゃん物好きー。マジ訳分かんない、ホントにうちがこんな奴等のおもり? 信じらんなーい」


 もしその声を聴いた者がいるのなら。彼女を生意気な小娘と評価しただろう。だが、実際に彼女を目にした者がいるのならそのような評価は下さない筈だ。

 降りた夜そのものが、人の形を成している。完璧に調律されたその音色は、夜風の音階と等しい。例え数歩先に居たとして、彼女の声を聴くことはできないだろう。

 漂う気配は夜そのもの。吹く風を不審と思うか。降り注ぐ月光に不安を感じるか。答えは否。それは、自然が故。この世界に在るべきものだからである。彼女の立ち振る舞いはまさに、自然そのもの。何故いるのか、そんな思考がまるで浮かばない程彼女はこの世界に溶け込んでいるのだ。

 出入り口を塞ぐように配備される刺客と、その少女との力量の差。剣術で比べれば、まるで幼子と免許皆伝の師範代のような差がある。彼女こそが旋風が一員、フェンベリー。この隊の中で隊長こそ除けば、最も隠密行動を得意とするメンバーである。


「まー仕事だし? あーしも従うけどね?」


 吐き捨てるようにぼやくと、彼女はナイフを投げる。

 まるで少し遠くの屑箱に、ちり紙を投げ入れるような適当さ。だが引き起こされた結果はどうだろう。

 突如訪れた衝撃に身を捩り、ルイエルドの私兵が疑問を胸に首元を抑える。だがその行動は既に遅い。ぬらり、という触感が兵士の手に伝わる。同時に激しく湧き上がる激痛と、烈火の如き高熱。

 命の欠片が勢いよく噴き上がり、零れていくことをようやく悟った彼は、悲鳴を上げようと大きく息を吸う。糸を巧みに手繰り寄せたフェンベリーのナイフが喉を切り裂いていなければ、それも叶っただろう。


「ひゅ」


 異様な呼吸音だけを残し、ナイフが今度は心臓に突き刺さった。

 糸を手繰り寄せると、返しに持ち上げられて成人男性の肉体が浮かび上がり茂みに消える。こうして、ルイエルドの私兵の一人が消え失せた。私兵はもう少しで刺客の集団に遭遇するところであった。それを殺した彼女はつまり、刺客たち自身すら気付いていない、彼らの味方。


「あーもう足音出し過ぎ、気配駄々洩れ、キョロキョロしすぎ、足遅すぎ……。マジで監督係はちゃんと隠密行動の基本を叩き込んだんだよね? ジェーン姉がいたらぶん殴られるって。見てるこっちが怖いっての」


 刺客の正体を、娘たちはとうに掴んでいる。

 へイエス・ゼン・ルイエルドは街の民や商人の娘は勿論。売られた没落貴族の娘や、敢えて重税を課して担保として村一番の娘を連れ去る等して、欲望の限りを尽くし遊び回っている極悪人だ。

 当然ながら、彼を恨む人間は大勢いる。

 父親、母親、姉、兄、妹、弟、友人、恋人。彼らを繋ぎ留めているのは若さでも、老いでも一切関係無い。ましてや男でも女でもない。人種も、素性も、人間の社会的地位を決定付ける何もかも彼らには関係無い。

 この刺客たちは、それらの中で選りすぐりの、憎悪に身を焦がした者達だ。

 所謂、復讐者たち。


「あー不安。マジでこんなやつ等のお守すんの? サイアク、これで失敗したらホントにうちのせい?」


 稀代の脚本家が書き上げたシナリオは単純、明々にして朗々。

 快楽の為に他者を噛み潰す暴君と、それに抵抗する貧しい英雄たち。そんな小さな英雄叙事詩の、影で蠢く紅い小鳥。


 ルイエルド邸地下二階は階は、巨大なホールになっている。

 主にパーティー等の際に用いられる場所だ。地下に降りてすぐに、大人が両手を広げた広さの廊下を挟み、メインのホールが出迎える。パーティーに用いるとは言うが、普段このホールはがらんどうだ。神殿を彷彿とさせる白亜の巨大な柱。無機質な光を放つ白とは対照的に、温かみのある黄土色の壁。

 手を伸ばしても決して届かない高い天井には、三角形が積み重なった鱗のような幾何学的模様が形作られており、ステンドグラスにはファインスト王国で信仰されている神の一人、欲望を司る神を描いている。巨大なシャンデリアは十層以上にもなり、巨大な空間の隅々に光を行き届かせていた。

 しかし今夜は違う。このホールには、溢れんばかりの人が犇めいていた。原因は今夜だということ。ラ・レザン、ルイエルドが催す収穫祭。

 ホール最奥の壇に向かうように、高貴な身なりの人間が必死に手に持った木札を挙げている。壇上には手枷足枷が嵌められ、鎖で繋がれた豊満な身体の亜人の女性がいた。

 纏う衣服は貧相そのもので、至る所が刃物に切り裂かれたように欠けている襤褸布。辛うじて局部を隠す事は出来ているが、これを服と呼ぶには無理があるというもの。

 まるで感情を感じない焦げ茶色の瞳は、眼と言うよりはガラス玉だ。顔面のパーツこそ美人と呼べるものだが、表情は虚ろでのっぺりとしており美しかったろう面影は一切感じない。垂れ下がった長い耳は兎に近かった。

 壇の脇にはこのオークションを取り仕切る執事が一人。シルバーブロンドのボブをカーテン・ヘアにしており、右目には縁がシルバーのモノクルを掛けている。喋る度に尖った八重歯の除く猫の様な口に、目は狐のように細い。顔は端正且つ知性的で、撫でる微風のような心地良い声はリュートの音色を彷彿とさせた。

 木札を掲げる列の最前には、引き締まった肉体を晒すルイエルド。そして、その脇に侍る執事が一人。

 競落人を満開の拍手が包み込んだ。同時に、壇上の女が舞台袖に消えていく。

 悔しそうに手に持った木札を下げる貴人たちは、揃って華やかな色のマスクを付け顔を隠していた。すぐに隣の者と軽い談義をしながら、逃がした魚の大きさを語り合う。落札されたのは、亜人の女だ。

 大陸北部に集落がある、長い耳を持つ種族。現在その集落はファインスト王国北部のセタナ神聖皇国との戦争状態。事の発端は、餓えた亜人が皇国の村を襲ったとされている。彼女はその過程で捕縛された捕虜だろう。

 が、実際には亜人の集落が食べ物に困っているという情報は無く、神聖皇国は以前より国境付近で生活している亜人たちを毛嫌いしていた。

 そして神聖皇国は、イルカディア大陸でファインスト王国、ルシナル帝国と並び三大国に数えられる強国。強者の行いを、表立って追及出来るような者はいない。つまりこの戦争自体が、皇国の侵略行為である可能性は高い。

 壇上からの光景を眺めながら、ティア・アコナイトは奥歯を軋ませる。ただ、すぐ傍でふんぞり返るルイエルドに悟られることは無い。


「次の商品は――」


 次に貴人等の前に躍り出るのは手紙だ。曰く、リリー・オウル・スカーレットが何処かの貴族に出したという招待状らしい。これさえあれば、かの赤百合と茶会を開くことが出来る。

 会場の盛り上がりが、より一層激しくなるのを肌で感じた。

 反吐が出る。

 へイエス・ゼン・ルイエルドも、驕り高ぶった豚と呼ぶに相応しい貴族たちも、可視化できる程に醜い欲望も。

 だから今夜、何もかも終わらせる。

 盗むように壇上の執事に目を向ける。

 今この瞬間まで、ラ・レザンは一切の滞り無く進行している。それはつまり、何の異常も発生していないと言う事だ。否、実際には異常は現在進行形で発生しており、それに彼らは気付いていないというべきだろう。

 ティアは執事だ。この屋敷内でもそれなりの地位を持ち、ある程度の情報ならば苦も無く集めることが出来る。その為に、十何年もこの屋敷に仕えているのだから。警備の数と配置、屋敷の構造、標的の位置。全て教えた。刺客は全てを知っている。梟など、待つ必要は無い。

 ただ一つ不安要素があるとすれば、自分以外の執事。

 ルイエルドの執事は、忠実な召使であると同時に屈強な護衛でもある。魔術、剣術、弓術など、ありとあらゆる武芸に精通した達人たちだ。かく言うティアも、魔術の才を認められここに居る。自分が攫った女の妹であるということまでは、見抜くことは出来なかったようだが。

 この場に執事はティアを含め三人。さしものティアでも手に余る。その為、この作戦において最も重要なのは、執事の排除。

 強者を相手するならば、緊張と弛緩の合間。困惑の最中が相応しい。詰まる所、不意打ちにより一瞬で片を付ける必要がある。

 故にティアは待つ。

 リリー・オウル・スカーレットの招待状が落札された。待つ。魔法の施された短剣が落札された。待つ。没落した貴族の姫君が落札された。待っていた事態が、ようやく訪れる。


「え」


 最初に会場に浮かび上がったのは疑問だ。

 まるで大海に一滴の血を垂らしたように。興奮の中に小さな戸惑いが産み落とされる。会場内に集まる貴族たちのある一点を中心とし、困惑が湧き上がったのだ。徐々に人波が捌け始める。戸惑いは恐怖へと変容し、徐々に伝播していく。その恐怖が、尊き血族に後退りをさせたのだ。

 ルイエルドの顔が曇る。人が退いたことでようやく後ろで起きた異変に気付いたのだろう。

 ぬらぬらと、シャンデリアの光を反射して深紅が光っている。鮮烈なまでに生命の色をしたその下には、硬質な鋼の輝きが隠れていた。


「う、うあ」


 呻き声が上がり、深紅の切っ先が引っ込む。

 輝きを纏っていた正体は、貴族の一人の腹部を通り背部まで貫通したパン切り包丁。それが引き抜かれ、貴族がようやく自分の身に起こった出来事を悟ったのだろう。

 悲鳴が上がる。刺された貴族ではない。その周りに居た女性貴族の金切り声だ。


昏睡コーマ


 ティアは素早くすぐルイエルドに魔法を掛ける。派手な魔法ではない。余程近くで見ない限り、傍目にはルイエルドがそのまま立っているように見えるだろう。


「警備兵!」


 素早く異変を察知した狐目の執事が警備にあたっている私兵を呼びつける。が、直ぐに状況に気付いたようだ。

 ティアは鉄面皮の下で嗤う。警備は、来ない。

 ルイエルドの使用人は、主により階級が定められている。頂点に立つのは家令。ルイエルドに代わるこの屋敷の主とも言える存在だ。その下に配属されるのが七人の執事。それは、執事によりそれぞれが統括する部門が異なる為である。

 ティアの統括する部門は人に関すること。警報装置の配置、警備の配属、巡回ルート。どれもティアが決める事だ。

 そして、警報装置が一切鳴らずに、刺客がここまで侵入している。導かれる結論は、一つだけ。

 

「ティア・アコナイト!!」


 狐目の執事が叫ぶ。それは憤慨であると同時に、裏切り者の正体を周囲に知らせる警鐘であった。

 刹那、膨れ上がるように執事の周りの空気が白む。一秒も経たぬ内にその空間からボコボコと沸騰するように氷が湧き上がったと思えば、投槍の形状を成し即座に刺客へと飛んだ。

 ホール中の注目が、串刺しにされ凍り付く刺客に集まる中。壇上の二人の眼に、互いに決意が宿る。

 向けた指先の周囲に蜃気楼が纏わり付き、大気に僅かな渦が生じる。

 理外の力にして、常なる理。

 人はこの力を巧みに道具とし、強き種族から人類を護り抜いた。その名も、魔法。


凍て槍アイス・パルチザン

屈折リフレクト


 執事の表情が微かに歪む。一瞬、ほんの一瞬彼女の姿がぼやけたのだ。

 だがその理由を究明する時間は無い。目の前に裏切者は居る。となれば、最速で穿ち全力で屠る以外に選択肢は無いのだから。

 生み出され、即時に射出させる氷の槍。

 魔力により押し出される槍は、通常では有り得ない程の速度で切っ先はトップスピードに達し、ティアの下へと飛来していく。

 だが、当たらない。

 ティアのすぐ横を通り抜け、氷の槍が舞台袖に消えた。奥で壁に激突したのか、凄まじい衝撃音が着弾を執事に報せた。

 彼女が用いたのは簡単な、光を曲げる魔法。

 それは執事の視界を歪ませ、本来存在しない場所にティアの虚像を作り出す。


偽光フォール・フラッシュ


 次に攻勢に出るのはティア。

 不意打ちには失敗した。なら、自分の土俵に持っていくのみ。

 掌から生じた魔法を浴びせると、狐目の執事は思わず顔を背けた。同時にティアは深く踏み込み、腰に佩いていた剣を抜き放つ。

 魔法には系統が存在する。それは、剣における流派のようなものだ。

 複数の系統を極める事の出来る者も居るが、それらはほんの一握り。基本的には一人一つ、運が良ければ二つまで。

 リリーは炎を、グレイプは結晶を、眼前の執事は氷を。そしてティアは、幻術を。彼女の魔法に攻撃能力は無い。だからこそ、執事を無力化するには接近戦を仕掛ける他無い。

 執事はすぐに体勢を立て直し、同じように剣を抜こうとしていた。

 ティアが用いたのは幻の閃光を見せる魔法。

 故に、光が及ぼす身体的な影響も、執事には一切無い。

 魔法戦が白兵戦に移ろうとしている中、会場には既に混乱が満ち切っていた。

 ティアが手引きした刺客が会場に乱入している。ある者はピッチフォーク喉を貫き、包丁は肩口に深々と突き刺さり、投石が眼窩に虚ろな空洞を空ける。各々が各々の武器で、貴族たちを出来る限り無惨に殺している。

 逃げ惑う貴族らと、逃げる者から殺していく刺客たち。

 憎き貴族たちに恨みをぶつけられる絶好の機会。そして、血を浴びる事による興奮。それだけで、刺客が殺戮に走る理由には十分過ぎた。

 全てティアの計画通り。

 ティアが考案したルイエルドの暗殺計画は以下の通り。

 警備の配置とルートを熟知したティアが、外部の協力者に情報を流す。協力者は全て、ルイエルドに大切な者を奪われた被害者たち。そしてその中でも、己が全てを棄ててでも報いを受けさせたいと願う者たち。

 三カ所の出口に配置した刺客により逃げ道を封じ、一部は地上への出口を塞ぎつつ侵入する。

 目的は封じ込める事だ。貴族が逃げる事により屋敷全体の警備レベルが上がることを遅らせる。侵入者だけに対応されれば、ティアたちにまで警備が届くことは無い。だが、もし貴族が逃げてしまい刺客の目的がルイエルドだと分かれば、警備がこの場所に殺到することになる。

 最終的な目的はルイエルドの殺害、可能であれば拘束だ。拘束が目的なのは、最大限甚振って殺す為。それを望む程の恨みを抱かねば、そもそもこの計画に参加しないだろう。

 だがこの計画には二つ程大きな問題があった。


「っ……!」

「くっ……」


 幾度も刃と刃が打ち鳴らされ、しかし互いに命まで届かない。

 問題の一つ目。この執事を、この場の少ない刺客だけで無力化しないとならないと言う事。

 ティアは優れた魔術師であるが、その魔法に攻撃能力は皆無だ。幻術でルイエルドを欺くことに特化している為、剣の腕が優れているという訳ではない。対して眼前の執事は剣と魔法両方を高い技量で使いこなす、執事の中でも指折りの実力者。おまけに彼の魔法は致死性が高く、剣と魔法どちらも侮れない。

 脚を狙った剣閃を執事が掬い取るように弾き上げる。狐のような細い眼が、見極めるように少し開かれた。

 そして感じる、あり得ない魔力の高まり。


 ――――〈伝播する降霜フロスト・リプルス


 詠唱の直後、大きく薙いだ一撃を受けた執事の剣身が徐々に白く染まる。と思えば、痛々しい棘の如き霜が剣身にへばり付く。

 驚きに一歩遠退くティア。

 通常、白兵戦の最中に魔法は行使できない。

 剣を振ると肉体的に疲労するように、魔法を行使すると精神的な疲労に陥る。言うなれば、人体において使う箇所が全く異なる技術なのだ。歌いながら本を読むような行為。そう易々と出来るようなものではなく、出来たとしても片方の集中が著しく低下するだろう。


「クソ……」


 つまりこの執事とティアの剣の練度は、それが可能な程にかけ離れている。

 剣を大きく押し付け、間合いを回復させる。

 不幸中の幸いか、唱えられた魔法は直接的な攻撃魔法ではない。剣戟により剣身から剣身に冷気を伝わせることで、相手の身体に冷気を浸食させる魔法だ。

 長期戦はよろしくない。決めるならば、短期決戦。


「ふむ、騒がしいと思えば」


 背後でゆっくりと、椅子から立ち上がる気配がした。

 有り得ない。有り得る筈が無い。

 昏睡の魔法はティアが扱える中で最も、効果時間の長い魔法だ。魔法により深い眠りにつかせ、余程の事が無ければ意識が戻ることは無い。ティアと同程度の術師であれば話は別。同程度の魔力を高めれば簡単に抵抗できる。だが、ルイエルドは剣で名声を轟かせた元軍人だ。ティアの魔法を抵抗する術は無い筈。

 きっとこれは幻聴。そんな希望的観測で振り返る。

 残念ながらそれは、夢幻では無かった。

 厚い筋肉に覆われた屈強な肉体は、ティアよりも頭二つ以上高い長躯だ。肉体を晒したその姿は、貴族礼服を気崩したと言っていい程ではない。そんな彼が、首を回しながら面倒臭そうに剣の柄に手を掛ける。

 鯉口を切る。鋼の輝きに混じり、極彩色の光が漏れ出ている。魔法の付与された剣だ。


「やはり貴様か、ティア・アコナイト」


 この計画において、ルイエルドの拘束を絶対の目的にしないのには理由がある。問題の二つ目にして、最大の障壁。

 ファインスト王国きっての剣士であるルイエルド。彼が、昏睡に対処出来た場合。

 じりと後退する。右手側には剣に冷気を宿した執事と、左手側には目覚めたルイエルド。

 想定外に執事の実力が上だったこと。そしてルイエルドがまさかティアの魔法をレジストしたこと。想定外の事態が二つ重なり、ティアは絶体絶命の危機に直面していた。


「はーほんとトーシロ。計画グダグダじゃん」


 絶叫に紛れて声が聞こえた気がしたが、それは違和感なくすっと消え失せた。

 視界の端で二人を捉えたまま、今も尚混沌の支配する会場に目線を移す。

 入り込んだ刺客たちはごく少数。それも今は、予め配置されていたルイエルドの警備兵を相手取っている最中だ。その上、ティアが配置したよりも多くの警備兵が配置されており、刺客一人を相手に数人の警備兵が交戦している。

 逃げ惑う貴族らを盾にしているからこそ何とか戦えてはいるものの、とても救援を呼べるような状況ではない。

 ハッキリ言って、計画は殆ど失敗と言ってもいい。

 だからこそこの二人を、ティアは一人で無力化する他無い。


「クソ……出来れば拘束で済ませたかったんだけど――〈蜃気楼ミラージュ〉」


 幻惑を身に纏う。自分の姿を常に不確かにすることで被弾を防ぐ魔法。至近距離で見られれば簡単に看破されるが、無いよりはいいだろう。

 言葉も無く、最初に仕掛けるのは執事だ。


「シッ!」


 左から右の方向に。腹を開かんと横に薙がれた剣を、一歩下がることで避ける。また後手に回ってしまった。時間が経てば経つ程不利になるのはこちらだと言うのに。

 切り返されるだろう刃を見越し、左に大きく振りかぶりながら大きく踏み込み急接近。

 剣の軌跡に残っていた冷気が肌を蝕む中、ティアは剣を振らずに肘で執事を大きく突き飛ばす。

 間合いを回復すると同時に、執事を再び剣の間合いに釣り出したのだ。


不可視アンシーン


 剣を振るいながら魔法を掛ける。

 執事やルイエルドとは異なり、ティアの剣に技術は無い。ならば、そこに魔力を足すだけだ。執事が体勢が崩れよろめく中、彼に振るわれた刃が煙のように消え去る。並の剣士なら防ぐ術は無い。

 ただ、執事は並の剣士では無かった。


「フッ!」


 よろめきながらも上段に構えた剣を勢いよく振り下ろす。同時に、ティアの手元に強い衝撃が迸る。姿勢、目線、空気のゆらぎ。それらだけで、執事は剣身の位置を読み切ったのだ。

 撃ち落とされた剣が床に触れる前に引き戻す。

 今度攻め立てるのは執事の方。

 まるで旋風のような連撃が、ティアの急所を狙って放たれる。

 頸を狙った横振りを下がって躱し、切り替えした袈裟斬りを剣を上段に構え弾き上げる。ティアの表情が罅が入るかの如く歪んでいく。辛うじて躱せる、防げる。だが、反撃には至れない。

 執事の全ての攻撃は素早く、それでいて全てに死が纏わり付く剛剣だ。その上、打ち鳴らされる毎にティアの身体に伝わる冷気によって、既にティアの手には耐え難い痛みが激しく警鐘を鳴らしており、満足に剣を振るえるのも両手で足りる程だろう。


 それでも、まだ。


 薄雪の上に打ち捨てられた、肉の塊を見た日を思い出す。

 一糸も纏わぬ女の身体。そこに艶やかさを一切感じないのは、身体中に深く刻み込まれた生傷のせいだろう。

 身体の外側から中心に掛けて、深く広い傷が目立つ。

 剥離した表皮の下には赤黒い筋繊維と、膿のような黄色が見え隠れしており、留まった蝿が忙しなく触覚を動かしていた。

 手の甲や胸部、腹部に顔はまるでペンキを塗りたくったような昏い青紫色に変色しており、一番変色が酷いのは顔、取り分け頬の部分。

 身体は細く、貧しい村の生まれであってもこれ程貧相な身体にはならないだろう。そんな少女に付いた傷が打撲痕ばかり。それも、少女を少女たらしめる、女性特有の部位を中心に。この絶対王政下のファインスト王国において、その意味が分からないティアではなかった。

 憐憫が誘われ、せめてもの思いで土を被せようとした時だった。

 姉妹喧嘩の時に付けてしまった、妹にしか無い筈の耳の切り傷に気付いたのは。


「まだ、まだだ!」


 か弱い女が吼えた。

 ティア・アコナイトは背負っている。

 貴族に娘を弄ばれた父親の恨みを、恋人を奪われたいたいけな青年の憤怒を。身体中に生傷を負い、性病を含む複数の感染症に身を蝕まれ、襤褸雑巾の如く棄てられた亡き妹の想いを。

 執事の大きな踏み込み。喉元を狙う彼の突きを防ぐ術は、今のティアには無かった。

 死ねない。悪を、摘み取らない限りは――。


「!?」


 それはまるで、天使が鳴らす鐘のような音色だった。

 凄まじい勢いでフィレナイフがティアの視界に飛び込むと同時に、切っ先が執事の剣の腹に命中したのだ。

 運命、因果,、定め事、巡り会わせ。

 恐らくは刺客の誰かの手から抜け落ちた物だろう。集めた刺客は素人も同然。狙って当てられるような人間がいる筈が無い。だからこれは完全な偶然。運が良かった、それだけだ。

 とは言え一秒にも満たない刹那の逡巡の中、脳内に様々な言葉がよぎる。

 そして、命中したナイフにより逸れた剣先がティアの耳朶を斬り裂いた時、彼女が確かに幻聴を捉えたのだ。

 悪を、滅せよと。


「あぁぁぁ!!」


 咆哮と同時に剣を引き、踏み込みに合わせて思い切り剣を突き出す。

 切っ先は執事の腹部を貫き、確かな感触が剣身から手指へ。耳元で苦痛と吃驚の入り混じった声が漏れた。

 そのまま腕を横に思い切り薙ぎ、燕尾服を切り裂きながら剣を抜き放つ。

 ピタリと、空中で剣を止める。てらてらと光を受けて真紅が刃を伝い、彼女の指をなぞっていった。流派も何も無い、切っ先で敵を捉えた構えだ。

 まだ敵は、残っている。


「……剣の腕はそこまでと聞いていたが」


 ツヴァイヘンダー。一般的にそう呼ばれるルイエルド卿の愛剣は、ティアが持つそれよりも遥かに剣身が長い。

 赤、青、緑の輝きが宿る剣身には、様々な魔法が込められている。戦場において敵の騎兵を馬ごと斬るという荒業を為した、彼の異名の由来となった剣。剛剣のルイエルド。ギルフェル戦役の英雄、ファインスト王国の名将だ。


「滾るなァ……えぇ? ティアよ」

「ふぅ……」


 両手剣を片手で構え、ルイエルドが構えを取る。

 上がった息を無理矢理いつも通りの呼吸で整え、恐怖を抑える。死への恐怖はある。だが、眼前の敵に対する恐怖は無い。あるのは復讐を成し遂げる強い恨みと、悪を滅するという使命感。


多重幻影マルチプル・ファントム


 空気が揺らぎ、ティアの虚像が生まれる。

 自分の幻影を複数生じさせる魔法だ。強力な魔法だが、魔力の消費も精神力の消耗も大きい。そう何度も使える魔法ではない。ルイエルドは王国南方剣術の達人。悔しい事に、受けに回って無事で済むような相手ではないだろう。ならばひたすら攻めあるのみ。


偽光フォール・フラッシュ


 まだ彼にこの魔法は見せていない。

 ルイエルドが仰け反り、偽物の閃光と同時に走駆する。

 副なる目的としてルイエルドの拘束を掲げていたが、それは全てがティアの目的通りに事が進んだ場合の話だ。こうして正面から対峙してしまった以上、殺さず捕える等という生温い事を言ってはいられない。

 喉元を狙って突き上げる。

 剣術において突きは、最も危険な攻撃の一種だ。

 躱しにくく、受けにくく、威力が高い上予備動作が少ない。最早拘束を棄て、確実に殺す為の攻撃。

 甲高い金属音が鳴り響いた。


「ふむ」


 ティアは知らない。

 ミュリーア流、通称王国南方剣術。

 遥か昔の剣士ミュリーアが発祥とされる、大陸でも名高い剣術流派の一つ。

 清流の如しとも言われるその剣。澱みの無い受けを基本とし、敵の勢いを利用した剛力を得意とする攻防一体の剣だ。

 つまり、強い攻撃を繰り出せば、その分手痛い反撃を受けることになる。


「つっ!」


 高速の突きがティアに迫る。瞬きの間に三回、彼女の眼では捉えられない程の速度、威力。突きを受けた幾つかの虚像が消え去り、同時に三色の光を消え失せる。

 多重の虚像の影響で、ルイエルドはどれが本当のティアかを見破れてはいない。だが彼はこう嘯くだろう。ならばその全てを、切り伏せてしまえばいい。

 集中していたからか、ティアの眼でも今度は予備動作が視えた。そして魔法で生み出した偽物の自分が、三度斬り刻まれる瞬間も。


 ――来るッ!――


 剣に宿った三色の光が戻り、再び閃く三度の剣閃。壇の木材も、壁の大理石も、悉く切り刻む神速の斬撃。


「ぷはっ」


 高速の斬撃を凌ぎ、息継ぎのような時間が一瞬で過ぎたと思えば、再び斬撃が三つ閃く。

 三枚卸ドレス・フィレット。高い魔力の籠った斬撃を三度連続で放つ、魔法の込められた魔法剣だ。魔力を流し威力を上げる武器はありふれているが、これ程特異な剣は無い。

 この剣は魔力を均一に流すのではなく、敢えて波を付けることにより威力を跳ね上げさせている。つまり数秒ごとにこの剣は、鈍と業物に切り替わる。

 好機は見えている。

 この剣は魔力を殆ど流さない一瞬、銀程度の硬度しか持たなくなる。ティアの鉄のロングソードであれば、打ち合って圧し折るのは容易。猛禽の翼さえ奪ってしまえば、ルイエルドは家禽にも等しくなる。

 息吐く暇も無い三連撃を、後退しながら弾く。

 分かってはいるものの、その翼を捥ぐのがどれ程難しい事か。

 三連撃で体勢を崩され、体勢を回復する間に剣の魔力が快復する。こちらの攻撃準備が整った時には、再び魔力の斬撃が三度飛ぶ。

 剣を折る暇なんて無い。息をするだけでも精一杯だ。

 最後の幻影に肩口から刃が入り、靄のように消え失せる。やはりと言ったところか、ルイエルドレベルの相手にただの幻影は効果が薄いか。ティアは歯軋りする。

 輝きが消え失せると同時に、一往復半の銀色の軌跡。辛うじて剣で受けるが、馬ごと断つとも言うその剛剣相手では、受けたというよりかは崩されたという方が正しい。

 やはり後手に回っていても勝ち目はない。


「……!」


 剣を振ることを諦め、動体視力に意識を集中させる。

 来る。そう確信した瞬間には少し遅い。刃の向き、ルイエルドの視線から割り出す狙われた箇所はどれも致命傷ばかり。

 痛み対する不安。死に対する恐怖。

 だが、革命を遂げるティア・アコナイトの使命感が、それらを悉く取り除く。


「なっ」


 半身を捩り、最小限の犠牲で致命傷を避ける。

 虹色の軌跡が腹を、顔を切り裂いていく。芯を捉えれば致命傷。だが、芯を逸らせば即座に死ぬような箇所ではない。

 灼熱が迸り、深紅が舞う。灼けるような痛みが襲うが問題無い。否、問題があってもティア・アコナイトは止まらない。


「はぁぁぁ!!!」


 弓のように引き絞った突きが放たれる。

 ティアは一人の村娘だった。

 なんてことの無い、ルイエルド辺境伯領の僻地に存在する小さな農村。一切好きでもない硬く黒いパンを食べ、時折混じる獣肉を悦びとする。

 人に向けて剣を振るったことは愚か、鍬すらも振り下ろしたことの無い守られるだけのか弱い少女。母親を失った家庭で、母でもあり良き友でもあった姉を愛していた少女。

 瞬きの暇も無い。

 只の一撃、されどこの突きは至上。

 彼女の覚悟が、決意が、使命が。剣の柄に手を添えて、彼女の殺意を一つ上の段階に押し上げたのだ。

 だからこそこれはティア・アコナイト史上、最も速く最も強い一撃。


 勝った。

 集中状態により極限まで引き延ばされた時間の中で、へイエス・ゼン・ルイエルドは嗤う。

 眼前に迫る鋭い切っ先。深紅を纏いつつ鈍い輝きを放つそれは喉を見据え、直撃すれば落命は例外なく免れない。

 しかし、それでもルイエルドは嗤う。そこにあるのは確信。勝利への確信だ。

 確かにティアが防御を棄てた時は驚いた。このか弱き少女に、これ程の事をさせる決意があるとは。

 だが甘い。三枚卸はまだ一回分の魔力を残している。

 恐れを棄てた一段階上の攻撃。とは言え、半人前がようやく一人前になっただけだ。軽く弾き上げ、反撃を見舞うだけで済む。

 欲望の神の微笑みを、幻視するような感覚に陥る。


「――――!!!!」


 氷の刃が、ルイエルドの幻想を貫いた。

 瞬時に汗が吹き出し、柄を握る指が震える。鳥肌が茨のように立ち、思考が真っ白に染め上げられていく。

 走馬灯のように記憶が過り、その感情の名を思い出そうとする。

 それは、外を歩いていて初めて怒り狂った野良犬を見つけた時の。それは、訓練で初めて真剣を受けた時の。それは、戦場で初めて猛将と謳われる他国の将と一騎討を挑んだ時のもの。

 理性を獲得した人間でさえ、逃れる事の叶わない根源的感情。

 その名は、恐怖。


「――はぁ……っ!」


 纏わりつくように重苦しい空気を短く吸い、逃げ出したくなる身体を必死に縛り付ける。

 眼球がギョロリと忙しなく動き回り、恐怖の原因を探す。それを見つけるのに、大して時間を要さなかった。視界の端に彼はその発生源を見つける。見つけたと言うよりかは、消去方でその発生源だと決め付けた、と言う方が正しいだろう。それ程までに、それは異彩を放っていたのだから。

 言い表すならそれは、黒い点だった。

 毎朝毎晩歩く廊下に不可解なものが落ちていた時のような、白パンを噛んで突如酸味を感じた時ような。いつも通りの日常に紛れ込んだ、異質過ぎる違和感。

 それは、幼い少女の形をしている。

 絹のように光沢すら放つ夜空を織ったような漆黒のローブで顔を隠し、色素の薄い金髪のサイドテールに、片手にはフィレナイフ。

 今まで何故気づかなかったのか。何故今この瞬間になって、気付くことが出来たのか。

 答えは簡単。気付かされたのだ。

 これ程いとも容易く気配の操作を行い、このような場所にあの服装で潜入することの出来る実力だ。こうして特定の人間にだけ強く感じさせる等造作も無いだろう。

 このようなことが出来る人間を、彼は一人しか知らない。


 ――もし上手く誘い込む事が出来れば、私達はこの王国の裏で動く上で最も邪魔な存在を消せる――


 走馬灯が、よく知る男の言葉を一つ拾った。

 そうだ、きっと彼女こそ。


「ふくろ……!!!」


 ティアの突きが胸の中心を貫いた。

 心臓に熔鉄を流し込まれたかの如く、心臓を中心として灼けるような熱が全身を駆け巡り、痛みという形で身体中に足跡を振り巻く。黒い少女に気を取られ、本来集中すべき眼前の敵が意識から抜けていたのだ。一瞬、気配を表すだけで、彼女はルイエルドを殺した。

 成程。王国の影なる刃、梟とはこれ程までに。

 視界から色素が失せていく。

 熱が身体を巡ったかと思えば、次の瞬間訪れたのは凍て付くような極寒。悴んだ時のように、四肢の感覚が消えていく。喉を駆け上った血液が、どろりと口から漏れ出る。まるで血液自体が脈動を続けているかのように、弱々しい鼓動が五月蠅いほどに脳を揺らした。

 最早痛みは無い。

 目に映る光景が瞬く間に白飛びしていく中、彼は未だ存在感を放つ黒い少女に視線を向けていた。

 ファインスト王家の懐刀。その剣身の形を、頭に叩き込むように。




 ◆―8―

 ティア・アコナイト率いる刺客たちは、捕縛することを恐れて即座に撤退。

 駆け付けた執事や使用人たちが地下一階に集う頃には、既に裏切者の執事の姿は無く、現場に遺されていたのは徐々に呼吸が小さくなっていくルイエルドの肉体だけだった。

 使用人たちは即座にルイエルドを最上層、執務室まで彼の肉体を運ぶ。家令は医療に長けた執事と侍女の二人を伴い執務室に消えた後、その後使用人たち全てに執務室の入室を禁じると同時に、何人たりとも執務室に通すな、という命令を下した。


「……」


 ルイエルド邸五階。そこには、現在殆どの使用人が集まっていた。執事、侍女、従者、家政婦、料理人、庭師に至るまで。まるで執務室に立ち塞がる壁のように、ルイエルドに仕える過半数の使用人がそこには。

 何故そこにいるかも分かっていない者ばかりだ。実際に知っているのは家令のみであり、察しているのが家令に追従した執事と侍女の二人。その他は、本当に何も知らずに執務室のドアを塞いでいる。

 彼らが守る部屋には、誰もいない。

 使用人等は執務室を守るべき最後の砦と解釈しているが、実際には少し異なる。何故ならそこは、道だからだ。

 三種の魔法陣を起動し、初めて現れる階段。その先の刻印された転送を経れば、薄暗い通路がある。

 湿り気のある石煉瓦の壁に、黒いマーブル模様の大理石の上に敷かれた深紅のカーペット。煤と、血の足跡で汚れたそれが続く先。廊下の先には何がある。当然、壁だ。

 ただ、何の変哲も無い壁とは行かない。それは、カーペットの下に刻まれた「偽物イミテーション」の魔法陣による壁だ。

 その奥こそ、家令と主であるルイエルドのみが知る部屋。今となっては家令と主、執事一人と侍女一人の計四人のみが知っている場所となったが、その場所でへイエス・ゼン・ルイエルドは現在進行形で治療を受けていた。

 そう、彼はまだ生きている。


「ん?」


 そんな中、剣を携えた侍従の一人が違和感に首を傾げる。

 現在屋敷は厳重警戒。既に屋敷中に襲撃者の報は知れ渡っている。この場所にも、撤退した刺客が引き返して突入してくるかもしれない。

 そう気を張っていたからこそ、彼は気付けたのかもしれない。


「誰……だ」


 警戒の為、構えていた剣先が揺らぐ。

 雨が降るように、風が吹くように、さも当たり前のように最上階への階段を上る影が一つあったのだ。

 吹き出た鮮血のような深紅のドレス。まるで海月が海に漂うように揺れるその下から、浮き上がる身体の線は暴力的なまでに蠱惑的だ。この昏い屋敷内、手燭の灯りだけが頼りの深夜で、太陽のように燦然と輝く黄金の髪。

 編み込みが後頭部を横に走り、それを留めるのは黒いリボンだ。編んだ髪の下に螺旋を描くロングヘアが垂れ下がり、風も無いのに彼女の美しさを演出するように揺れている。まるで、肉食獣を誘うかのような髪型は、俗世ではハーフアップと言う。

 ドレスが揺れる度に、視覚的かつ直感的な女性性が目に飛び込んでくる。

 男を誘い逃がさぬ蟻地獄のような、顔を覗く深淵を思わせる窪地。霊峰の如くせり上がり、つんと上を向いて張った二つの肉丘。

 美と言う言葉を初めて思い付いたのは、きっと彼女を見たからだろう。全ての美を集め、束ね、それでも尚彼女の顔には至らない。そう確信する程の美貌が、赤水晶のヴェネツィアンマスクの下からでも容易く感じ取れる。

 滑らかな曲線を描く腰も、スリットから覗く氷の彫刻のような脚も、柔らかさとしなやかさを同居させる細腕も、じゅくじゅくに熟れた唇も何もかも。

 幻痛すら生じさせるような、上品で、凶暴で、瀟洒で、過激で、優雅で、野蛮な。全身の毛が逆立ち、肉欲が身を貫き、脳が打ち震える程の圧倒的な美の極致。


「あ……」


 剣が手から零れ落ちる。

 眼前に立つは明確な侵入者にして、具現化した美。だと言うのに、侍従の男は敵意をすっかり失くしていた。

 見惚れているのはこの侍従の男だけではない。

 この階層の、彼女の姿が見える全ての者が、彼女の本能に訴えかける美を目の当たりにして動けない。


「あ?」


 刹那、男の視界が反転する。

 それでも眼前の美女は揺るがない。男は敵である女を食い入るように見続けて、緩やかな浮遊感に身を包まれて、床と衝突してようやく気付く。

 あぁ、自分は、首を刎ねられたのだと。


「て、てき――」


 刃がハイヒールに引っ込んだ音がカシャと鳴ると同時に、倒れるようにして女が踏み込む。

 肉薄。叫ぼうと声を発そうとした男に、息も掛かる程の距離に顔が迫った。

 彼は今、このファインスト王国の民がどれ程渇望しても、どれ程大枚をはたこうとも手に入れることの出来ない体験をしている。リリー・オウル・スカーレットの顔面をこれ程近くに拝み、吐息を浴びるという体験を。


「サービスは楽しんでくれたかしら」


 腹部に当たる氷の如き硬く、冷たい感触を感じたと思えばもう遅い。

 踏み込みと同時に拾い上げた先刻の男の剣の刃が腹を切り裂き、リリーは極上の体験の料金を徴収する。

 呆気無く倒れる男。リリーはそのまま剣を投げると、軌道上に居た侍女の喉を切っ先が貫いた。

 何人たりとも言葉を発することは叶わない。

 彼女が現れそして今まで、五秒さえ経っていないのだから。

 リリーは瞬時に集団の中に躍り出、両手を軸のようにして独楽のように両足を回転させる。

 幾らリリーとは言え、女性の蹴り程度に殺傷能力を持たせることはできない。人間の急所を蹴り抜くことで一生まともに生きる事の出来ない身体には出来るものの、言葉を発する間もなく殺す等という事は不可能だ。

 ただ、案ずることは無い。

 ハイヒールの爪先に力を入れると、踵と爪先より刃が飛び出した。満月のような円を描く軌跡が、四人の頸動脈を切り裂く。


「あ、あぁ……」

「いやっ」


 十秒だ。

 僅か十秒。両手の指を折って数える間に、七人もの人間がこの世を去った。

 使用人たちの脳より第一に優先すべき命令が剥離し、代わりに恐怖が満ち満ちる。最早彼らの間に、敵に対処するという考えは、残されていなかった。


「てきしゅ――」


 僅か数人の、執事だけを除いて。

 一人の執事の口腔をナイフが刺す。夜の王たる梟の前で、声を出すこと等叶う筈もない。


「いいわよ、相手してあげるわ。光栄に思いなさい」


 退屈だから。とでも言いたげに侵入者の女は呟いた。

 執事の一瞬だけの叫び――声を発し切ることは出来なかったが――が効いたのか、使用人達の顔より僅かに恐怖が消え去り、使用人たちが各々の武器を抜き放つ。剣、包丁、槍にナイフに枝切り鋏。

 女はヒールで足元に落ちていた剣の柄を力強く踏み付け、弾き上がった剣を掴んだ。


「――……ただ、簡単に私の相手が務まると思わない事ね」


 刃が手燭の光を反射する。同時に、二人の首が跳んだ。

 女により素早く振るわれた刃に反応できず、頸を失くした身体が斃れる。ただそれが床に激突するよりも疾く、彼女は走駆していた。

 崩れ落ちる最中の侍女から手燭を奪い取ると、リリーは迫った料理人の眼に蝋燭を喉に強く押し付ける。熱で柔くなった蝋燭が潰れ、蝋燭を差し込む為の真鍮の針が眼球を、その奥の脳を貫いた。

 鮮血が夜を彩る薔薇のように噴き上がる中、手から零れ落ちた包丁はリリーの手に渡り、傍らに居た執事に振るわれる。

 甲高い金属音が鳴り響く。鉄が削れる臭いと、剣身に籠る熱。

 振るわれた包丁を弾き上げた執事の吃驚が表情に現れ、舞い散る火花により冷徹な表情で梟の瞳孔が収縮した。

 リリー・オウル・スカーレットの、最も恐ろしい点は何か。

 スカーレット家に仕える娘たちの間で、度々雑談の種として議論されることがある。

 隠密という点において確かに彼女は超一級品の技術を持つが、娘たちの練度も高い。ジェーン・ドゥ等と並ぶ隊長格ともなれば、リリーに勝るとも劣らない実力を有している。

 戦闘力に関してもだ。

 例えば娘たちの長女隊である「夕立プリュヴィオーズ」は、暗殺を専門とした部隊である。

 それもリリーのように事故や事件に見せかけることで人一人を消し去るようなものではなく、圧倒的な武力を武器に蹂躙する、ただ殺す事に重きを置いた隊。対人での戦闘に限るが、彼女等の武力は並の冒険者を軽く凌ぐ精鋭中の精鋭だ。末端の隊員一人であっても、正面から戦闘すればリリーでさえ叶わないだろう。

 隠密能力に関しては、旋風に勝る相手はいない。特に隊長のジェーン・ドゥは、その気になればリリーでさえも彼女の存在を知覚出来ない。

 ならば彼女の最も秀でた能力とは。

 執事の吃驚は当然だ。その包丁の一振りには、女性の膂力とは思えない程の威力が込められていたのだから。

 反動で執事の腕が弾き上げられる。

 剣の戦闘において相手に大きな隙を見せた彼の状態は、敗北の予兆。


迸るソーリング――


 慌てて唱えられる魔法よりも、リリーは素早く手を返し刃を腹部に深々と突き刺す方が早い。力が抜け落ち、零れ落ちる剣の柄は吸い込まれるようにリリーの手へ。


「十三」


 振りかぶる事無く投擲された剣を、庭師は顔の前で構えた剪定鋏で辛うじて凌いだ。

 巨木が倒れたと紛う程の衝撃に手を振るわせながら、鋏の刃の隙間に美から転じて死の化身となった女の様子を窺う。

 だが、居ない。彼女は既に、庭師の足下に居るのだから。

 リリーの掌底が柄が交差した部分を撃ち抜く。重ね合わされた刃と刃が頸に当てられ、頸動脈が引き裂かれる。


「十四」


 落とされた鋏で首を断ち切り、折れた眼鏡のフレームが脳を突き刺す。懐中時計で首を締め上げ、裁縫針が心臓を刺した。

 この話題は娘たちの間で何度も起こるが、その度結局は一つの結論に行き着く。

 人間は存外に脆い。

 それも、人間の手に掛かれば尚更脆く儚いものだ。

 例えばペン。本来は溜め込んだインクを一定の量で少しずつ吐き出す事で、文字を書くことを目的とした道具だ。だが尖った金属のペン先は突き立てれば人間の皮膚を容易く突き破る上、突き立てた場所によっては命に関わる重傷を負わせられる。

 例えばハンカチ。濡れた手を吹き、詰まった鼻をかむ小さな布だが、喉に巻き付けて締め上げればれっきとした凶器へと変貌する。

 手燭も、眼鏡も、懐中時計も、裁縫針も、靴も布もボタンも木の枝も道端に転がる石ころでさえも、見方を変えれば人を傷つけることの出来る道具になるのだ。ただ人々は、そんなこと思い至らないだけで。

 リリーは違う。

 身の回りの物を瞬時に武器と認識し、扱うことの出来る判断力と冷静さ。一切の情も無い冷徹な仕事ぶりに、ありとあらゆる武芸も少し習うだけで本質を理解できる肉体能力に聡明さ。

 彼女の恐ろしさとは、彼女という人間自体。

 優秀だからこそ梟なのではない。

 その強さが、賢しさが、美しさが。彼女を生まれながらにして梟に仕立て上げたのだ。だからこそ誇るべきだろう。この五階に集まった面々の中で唯一、リリーの二撃目以降を防いだ執事は。


「なんなんだよお前はッ!!」


 リリーの一文字斬りを、軌道上に剣身を置くことで防ぐ。

 彼女の剣は二の太刀入らず。良く言えば圧倒的な威力を誇り、悪く言えば後先を考えない攻撃的な剣だ。振るわれる剣に全ての重心を加える事で、柔な剣なら砕く事も出来る。

 対する執事は剣術も何も無い、防御のみを目的とした構え。

 当然ながら衝撃を受け流す事は出来ず、剛剣をまともに喰らい執事がよろめく。


「何、ね」


 弾かれた剣を引きながら、ヴェネツィアンマスクから声が零れる。

 騎士同士の一騎打ちであれば名乗りも当然だが、彼女は正体を隠す暗殺者。その質問の答えを、リリーは持ち合わせていない。

 常に守っていては勝ち目がないと判断したのか、執事が一歩踏み込んで太腿を狙う突きを放つ。命のやり取り、という面で考えれば悪手だ。が、侵入者の対処としては妙手と言えるだろう。

 確かに、防御の一切を棄てる彼女の剣は守りに弱い。ただ、リリーは剣の振り方を変える。瀑布の如き剛剣は、清流を思わせる柔剣へ。

 剣先が執事の剣を掬い上げた。

 ゆっくりと、彼女は剣を持ち上げる。剣の腹が彼女の頬にピタリと付く。

 首を傾げた彼女の首元に彼女の剣が。それを挟み、執事の剣がリリーの剣に刃を削り取られている。

 奇しくも今、彼の剣は今夜最もリリーの命に近付いた。


「斬るなら、ここよ」


 下を向いた半月を描き、流麗な銀色の軌跡が執事の腋から侵入し、右腕を断った。顔が苦痛に歪み、縊られた鶏のような声が漏れ出る。

 彼にとって最も不幸であったのは、相手がリリーだったと言う事だ。

 彼女の強みは手数の多さ。古今東西の武芸を学び、彼女はそれを独自の物に仕立て上げた。攻めに長けると思えば、守りに長けた型にもなる。彼女に勝つ方法があるとすれば、彼女が対処できぬ程の技を最初に見せるしかない。

 だが彼にとって最も幸福であったのも、相手がリリーであると言う事だろう。

 彼女は無惨な殺戮者ではない。冷徹な暗殺者だ。

 切っ先が再び執事の頭上で半円を描き、袈裟斬りが頸へと落ちた。彼が苦しんだのは、精々十分の二秒と言った所か。


「二十三……」


 真紅の絨毯の上で、艶やかな美女は一つだけ息を漏らした。

 付いた砂埃をぽんと叩いて落とし、手に持つ剣をその場に落とし棄てる。鋼の塊は床と打ち鳴らされることは無く、肉と激突し鈍い音が響く。

 本来この階層に絨毯は無い。ならば彼女の足下を埋め尽くすのは何か。それは、広がる血溜まりと数刻前まで人だった肉の塊。

 鏖殺だ。警備兵に一切叫ばせること無く、彼女は一瞬にして使用人らを殺し尽くした。

 刺客が忍び込み、ルイエルドを殺害したのだ。この程度の被害が出ていても全く不自然ではないだろう。

 そして実際、この事件を調査することになる後の者らはそう判断する。


「遠ざけて」


 暗闇が解け、人の形を成していく。グレイプがコロコロと口の中で硬い物を転がし、リリーの隣へと歩み寄った。

 彼女の命令に従い、グレイプが手拍子をするように両手を合わせる。

 そしてゆっくりと手を広げると、今まで何も無かった手の中に、紫色の水晶が姿を見せた。


「さて」


 魔法を行使し始めるグレイプを傍目に、リリーは発せられる音に構う事無く執務室の扉を開ける。

 当然ながらそこには誰もいない。がらんと静かな広い部屋が広がり、天井に上がった階段。

 ジェーン・ドゥは別の作戦行動中だ。その上、魔力の偽装はリリーの不得手。だが考えるべきだろう。この屋敷に押し掛けた侵入者が、わざわざ偽装までして先へと進むか。


〈――〉


 リリーが両手を掲げる。

 それは、魔法ですらない魔力の高まり。だが、彼女の目的にはそれだけで事足りる。

 偵察の際、魔力を偽装して階段を起動させたのは、魔法的な警報装置を発動させない為である。警報の発動如何を問わぬのならば、装置を起動させるのは造作も無い。

 要は、誤作動を引き起こせばいい。

 すうと下がっていく天井の一部を前に、リリーは一切の表情を変えない。

 まだ標的を殺せてはいない。彼女の目的はまだ、達せられていないのだ。


 広い部屋の中に、小さな暖炉と木の丸テーブルと椅子。

 火は消えてから久しく、炉室内には燃え切った炭も灰も無い。椅子は埃こそ被ってはいないもの、席に付いている者は誰もいない。

 部屋全体に地下特有の冷たさと湿気が重たい布団のようにのしかかっており、温かさが灯っているのは、部屋の奥に設置された天蓋付きのベッドのみ。

 暗く、重い雰囲気が立ち込める部屋。が、家具や調度品の見た目が違和感を演出させていた。

 椅子の背もたれには、まるで翼を広げた天使の如き黄金の意匠が施されている。炉室には「残火エンバー」が刻み込まれた魔法陣に、ベッドの大きさはそこらの貴族の邸宅に設置されている物を優に凌ぐだろう。

 まさに、財をふんだんに扱った豪奢な部屋。

 奇妙なことはもう一つ。

 この部屋には、ドアという物が存在しないのだ。

 天蓋付きベッドの向かいに、ドアがあれば自然だろう窪みが壁にあるだけ。上部には小さな銀色の鈴が取り付けられており、魔法的な繋がりが壁の中に続いている。だが、ドアらしいドアは存在しない。まるで閉じ込められているかのようだ。

 確かにドアとはそもそも、部屋とその外部を遮断するもの。であれば、この窪みもドアの役割を果たしていると言えなくもない。偽物の魔法により宙に描かれたそれは、どれ程近くで見ようとも壁そのものだが触れても実体が無い。暖簾を潜るよりも容易く、その先に行くことが出来るのだ。

 唯一人の気配があるのはベッドの近く。

 一人の男が、荒い寝息を立てながらベッドの上に横たわる。上半身は胸を締め付ける包帯以外は裸で、下半身はベルト付きのパンツ。包帯にはぐっしょりと血が滲んでいる。下に敷かれた白い絹のシーツも、彼の血によってぬらぬらと真紅に染め上げられていた。

 尋常ではない出血量だ。当然ながら、彼は無事と言える状況ではない。

 そんな彼を必死に癒そうと試みるのが、ベッドに周りに侍る三人の使用人たちである。


「容体は?」


 家令が冷たい声を放つ。

 さらさらとして肌触りの良さそうな、金属の糸のような鈍い銀色の髪を、後頭部で一つに束ねた麗しい男だ。切れ長の眼に、小さくも高い鼻。少し先の尖った耳は、彼が只の人間ではない事を示している。

 唇は色素も厚さも薄く、全体的な顔立ちは端正でありながらも顔のパーツはすっきりとしており、巨大なキャンパスに水絵の具で描いた風景画のような印象を抱かせる。そんな、美しい男だった。

 ただ表情は明るくない。

 人差し指の第一関節を唇に沿わせるように、顔に手を当てて深い思案に暮れている。

 その様は何かを憂慮している。よりかは、何かに対しての苛立ちを隠しているような表情だ。腰に佩いた剣に手を置いているのは、警戒の糸を未だぴんと張っているからか。

 家令、フェルメル・ブランチェスの冷たい声に、男の様子を確認していた女中が首を横に振った。

 男の治療を執事と侍女に任せつつ、家令は二人に聞こえぬように舌打ちする。家令の権限で二人をこの場所に連れて来てはいるが、彼に医療の知識は毛ほどしかない。ならば、二人の邪魔をするのは良くない。聞こえる場所で舌打ちをしても、彼らのやる気を削いでしまう。

 ルイエルドの状況は良くは無いが、悪くは無い。

 確かに、ティア・アコナイトに胸を刺されたのは致命傷だった。大きな血管を見事に貫いており、出血は多量で少しでも対処が遅ければ死んでいただろう。皮肉にもティア率いる刺客の撤退が素早かったこと。そして、使用人らの迅速な処置によって何とか一命を取り留めている。

 命に別状が無いとは言い切れない。が、このまま何も無ければ殆どの場合無事に意識は回復するだろう。というのが、医者の経験もある執事の言である。


「ルイエルドめ」


 家令とは思えないような発言を、聴いた者はいない。

 フェルメルは二十年以上ルイエルドに仕えるこの屋敷の古株だ。言い換えれば、最も彼に忠義厚い召使、とも言える。

 だと言うのに、彼の言葉には忠誠心の一欠片も無かった。


「――殿下は何を……!?」


 家令が真の主の名を口にした時、劈くような鐘の音が鳴り響いた。

 偽物の壁に上に設置された銀色の鈴が、魔法的機構により激しく打ち鳴らされているのだ。

 屋敷中に張り巡らされた魔法的警戒装置と、物理的な警戒装置。それらの仕掛けは何者かが引っ掛かると、この屋敷の主要な部屋で警報が鳴り響く。家令と執事の部屋、ルイエルドの執務室、そしてこの秘匿された地下にも。

 それが表す事の意味を、知らないフェルメルではない。


「侵入者、こんな時に」


 刺客が去ったかと思えば、立て続けに再び侵入者。それも、このタイミングで。


「私が行きます」


 突如鳴り響いた警報装置に困惑する使用人等に声を掛け、フェルメルは静かに剣を抜く。

 この警報装置が鳴り響いたことは少ない。歴の長いフェルメルでも、鈴の音を聞いたのはこれが三度目である。

 彼が携えるのは、傍目から見ても不思議な剣だった。

 片刃の剣身には冷徹な鉄の輝き。真鍮のような輝きを放つ鍔は小指のように細く長い為、手を守る部品としては少し頼りない。

 切っ先は、不思議な事に存在しない。まるで潰されたように切っ先は丸まっているのだ。

 知る者は少ないが、これは処刑剣と呼ばれるもの。その剣の形状は本来戦闘に扱う物ではなく、主に斬首に用いるものだ。切っ先が無いのは、戦闘に用いない処刑剣では突く機能が必要無い為である。

 だがそれをフェルメルが戦闘用の剣として佩くのは、魔法が刻み込まれているからである。

 魔法剣は、魔法陣と同じように魔法を刻み込んだ武器だ。当然、少ししか効果が表れないような魔法剣でも、その値段は目を見張るものがあるだろう。辺境伯へイエス・ゼン・ルイエルド程の大貴族ともなると、魔法の付与した武具を揃える事も難しい事ではない。

 とは言えこの剣は、フェルメルが元々持っていた物ではあるのだが。


「貴方達は続けて下さい」


 幻影の壁に触れると、靄のように壁が揺らいで消え去る。そして眼前に広がるのは、嫌になる程静まり返った、石煉瓦と真紅のカーペットが伸びる長く暗い廊下だ。

 カツカツと革靴を踏み鳴らし通り抜ける。偽装の魔法が再起動し、フェルメルの背後の部屋が消え失せる。

 剣を抜くのは少し早かったか。

 警報が未だ鳴り響く中でありながらも、人の気配がしない廊下を歩きフェルメルは軽く思う。

 この通路に行き着く為の執務室。その前には、大勢の使用人を護衛として配置してある。

 ただ、この秘密の通路の存在を知ると忠誠心が無くなる者――主に女性の使用人たち――も居るだろうと想定し配置を執務室の前としたが、それでもこの場に侵入するには彼らを全員対処する必要がある。

 ティア・アコナイトは確かに優れた魔術師だったが、幻術を得意とする彼女ではあの数の敵を潜り抜けるのはどだい無理な話だろう。


「ん」


 フェルメルが足を止める。

 暗闇に目を凝らす。そして、剣を握る手を強めた。

 眼前に延びる暗闇に、彼は何か違和感を感じたのだ。フェルメルは歴戦の剣士。だからこそ、彼は自分の直感を疑う事はしない。

 その勘が、戦場においていつ何時も自分の身を救ってくれた。


「なんだ?」


 彼が信じるその勘が、徐々に警鐘を大きくしていく。

 勝手知ったる秘密の遊び場。家令であるフェルメルであれば、幾度も通った事のある道だ。最早目を瞑っても、望んだ場所に辿り着くことが出来る。

 だが、今この瞬間。まるでこの場所が、全く違う場所のように思えたのだ。


「――」


 勘が最大限の警鐘を鳴らす。

 先程までは直感だったが、今では明確に視認できた。

 ぞわりと、脚の爪先から頭頂部まで電流のような怖気が走った。鳥肌が全身に立ち、ひとりでに指が震え始める。

 深い闇の水底より、何かがこちらへ迫ってきているらしい。それが何かまではまだ分からない。ただ、辛うじてそれが人の姿である事は分かった。同時に、先程まで警報に掻き消されて聞こえなかった音も聞こえる。それはまるで、骨を打ち鳴らす様な乾いた音。

 コツ、コツと規則的に響くそれは、まるで死神が鎌の石突を突く音のようにも聞こえた。そう感じたのは、やはりその身に迸る恐怖の所為だろう。


「――成程」


 ようやく闇より出でし侵入者を視界に収め、フェルメルはその恐怖に納得する。

 血のような深紅のドレスに、精巧に削り出された赤水晶のヴェネツィアンマスク。その下には、仮面を以てしても隠し切れない美貌が滲み出ている。闇には似合わない陽光の如き明るいブロンドヘアは、それ自体が光を放っているよう。

 そんな女が、まるで自分の家を歩くかのようにヒールを鳴らし闊歩しているのだ。

 家令として使用人の顔は、体格含め全員把握している。無論このような女は使用人に存在せず、となれば彼女が侵入者である事は火を見るよりも明らかだ。

 固唾を呑み込む。

 強者にはそれ特有の雰囲気がある。

 それは分析してしまえば、命の奪い合いに対する余裕と精神の弛緩、そして立ち振る舞いより覗く技術によって相手に与えられる印象の事。明確に数値として出るものではない為、過信は良くない。

 だがそれは確かに歴戦の勇士にとって、確かに相手と自分の実力差を測る物差しであった。

 その物差しを基準に考えるのならば、眼前の女は自分では叶う筈もない圧倒的な強者。

 状況証拠は揃っている。

 フェルメルは使用人全員を管理する立場にある。その為、ティア・アコナイトの裏切りは事前に察知していたのだ。油断させるために数を変えはしなかったが、警備の配置を家令の権限で変えていた。にも関わらず、彼女は反逆を成功させた。それはそれは見事な程に。

 そして、数か月前に裏市場に流したヴィエルジェ・ルージュの問題もある。

 あれは元々、この王国に潜むある存在をおびき出す為の餌だった。眼前に彼女が現れたと言う事は、獲物は見事餌に食いついたのだろう。だがそれを、釣り人たるフェルメル等が今の今まで気付かなかっただけで。


「貴女が梟。違いありませんね?」


 返答の代わりか、女はゆっくりと微笑んだ。やはり間違いない。フェルメルはそう確信する。

 下級貴族の間では噂程度だが、ルイエルド程の上級貴族となるとそれが噂ではないと知る事が出来る。

 特に、裏社会と通じているような貴族――上級貴族の中で裏社会との繋がりが無い者はいないが、特に繋がりが強い者ら――ならば、嫌という程実感するが出来るだろう。裏社会で暴れ回っていた者が、気付けば消えているのだから。

 王国には、王家に反目する者を見逃さぬ暗部がいることは明らか。

 そしてその暗部を、貴族らは梟と呼ぶ。


「納得です。同時に驚きもありますね。まさか、王家より最も信頼される五大貴族の一人である貴女が、梟の正体だったなんて」

「……あら、どこかで会った事あるかしら。だとすると、貴方本当はルイエルドの従者ではないでしょう」


 正体を看破された今では隠す意味も無いと判断したのだろう。ピアノのような美しい音色が、声となって耳に届く。奏でられた言葉は最早演奏、フェルメルが今まで聴いたどの曲よりも美しく感じた。

 少し昔、噂として聞いたことがある。

 ファインスト建国にも関わった王国五大貴族が一つ、スカーレット侯爵家。その娘に、この世界で最も美しいとされる女がいるという。

 その美貌は彫刻家に彫刻刀を折らせ、彼女こそ至高の彫刻にして美の結晶であると叫んだ。画家は筆を投げ出しキャンパスを絵の具で滅茶苦茶に汚して、彼女よりも美しい絵画を掛ける筈がないと自ら命を絶った。

 その声はどの演奏者を持ってして唸らせ、宮廷楽長に頭を抱えさせた。現代の音楽では、彼女の足元にさえ至ることは出来ないと。

 確かにこれでは、王家に仕える宮廷楽長もお手上げだろう。

 必死になって書き上げ、大陸でも有数の奏者に演奏させた曲が、一人の美女の声に劣るのだから。


「えぇ。ですので、ここで戦闘するのは御遠慮させて頂きたいですね」


 冷汗が垂れる。

 梟は、一切の証拠を残さず事故や第三者による事件に見せかける手口で有名だ。彼女の正体を悟ったフェルメルは、通常であれば生き残ることは不可能だろう。

 だが、フェルメルは本来ルイエルドに仕える従者ではない。

 その上彼が梟を知っていると言う事は、彼がそれなりの上級貴族に仕える存在だと言う事だ。その使用人を勝手に殺せば、梟も余計なリスクを抱える事になる。

 だからこそ、この命乞いは通る筈。

 そして、望んでいた返答は帰って来た。


「いいわよ……――でも」


 今までより少し低い音色が、フェルメルの身体をびくりと震わせた。


「今、私達の生殺与奪を握っているのはどっち?」


 それは無論、眼前の暗殺者だ。

 そう答えようとした時、彼女はそれを止めるように掌を見せる。


「ならば、私が命を奪わないだけの対価を示す必要があるんじゃないかしら。違う?」

「……いいえ。貴女様の言、まさに御尤もです」


 林檎を買うには銅貨を。竜の卵を得たいなら竜の巣へ。

 等価交換は至極真っ当なこの世界の常識であり、理だ。だからこそフェルメルは、自分の命と釣り合う物を今この場で差し出さねばならない。


「何を差し出すの? 自分の命を買う為に、貴方は何を売るのかしら」


 彼女の問いかけに、フェルメルは永遠とも思える時間を感じた。

 何を差し出せばいい。何ならば捨てられる。いや、切り捨てられる。熟考の末、彼は結論を導き出す。


「へイエス・ゼン・ルイエルドの全てを」

「フッ。使った塵紙を渡されても困るわ」


 こうなってしまった、梟が来てしまった以上、へイエス・ゼン・ルイエルドが殺されることは確実だ。

 そうなれば、フェルメルにとってルイエルドの情報は彼女の言う通りゴミに成り下がる。ただ、それに思い至らない梟では無かった。


「……で、それだけ? 私としては、貴方を逃がす理由は無いの。それでも、何を売るかぐらいは訊いてあげているのよ。あまり、私の慈悲に甘えない事ね」


 フェルメル・ブランチェスは覚悟を決める。

 彼は忠実な従者だ。であれば、主を裏切ることは死を意味する。

 とは言え従者として、主に情報を持ち帰るのも彼の役目。ここでむざむざ死ぬ訳には行かない。梟の正体を知ってしまった、今では。

 ルイエルドの情報が駄目ならば、こうするより他は無いだろう。


「私の腕を、持って行って頂いて構いません」

「……それならば十分ね。貴方の命の値段の代わりとしてあげるわ、感謝なさい」


 フェルメルの腕は何も、純金で出来ている訳ではない。つまり、腕自体に価値がある訳ではない。その腕から生まれる情報にこそ、破格の価値がある。それが分からない梟ではないと確信したからこそ、彼はこの提案を出した。そして、それは受諾された。

 再びヒールの音が鳴り響く。

 ゆっくりと、まるで迫り来る死の如く梟が歩み寄る。

 一歩、一歩確実に。そして次の一歩で――甲高い金属音が鳴り響く。


「何のつもり?」


 ギリと、鋼が削れるような異音が骨を伝わって耳にまで届く。

 梟の頸を目掛け振り抜かれた処刑剣が、彼女がいつの間にか持っていたダガーナイフにより防がれているのだ。

 苛立ちを隠しもしない梟の声が、嫌に澄んで聞こえる。


「ただで売った、となると余計な詮索も生まれましょう?」

「この私に、ね。私ではないわ」


 疑念が集まるのは梟だけであり、彼女の正体たる素性には何の影響も無い。それは確かにそうだろう。

 しかし、それでも。フェルメルは興味があった。梟と言うファム・ファタールに。その刃の切れ味に。


「今の私は、へイエス・ゼン・ルイエルドの家令ですので」

「はぁ……」


 溜息の余りの艶やかさに、剣に入れる力が緩む。

 その隙を突かれた。想像を絶する力強い反発を感じたかと思うと、剣が冗談のような勢いで弾かれる。

 女性の膂力では考えられない。強化の魔法を使った気配も無い。つまりそれは、彼女が純粋な技術でそれを為したという事。

 追撃の様子は無い。

 それどころか、彼女は数歩後ろに下がるとナイフを逆手に持ち構える。その姿はまるで、一騎討ちに望む騎士を彷彿させる。今にも名乗りを上げそうだ。

 呼応するようにフェルメルも構えを固める。

 抱いた印象が事実である事を知るのは、僅か一秒後の事だ。


「いいわ、遊んであげる」

「フェルメル・ブランチェスです」

「……梟。それ以上でも、以下でもないわ」


 剣を構える。

 濃密な殺意と恐怖が入り交じり、両名は同時に駆け出した。

 魔法剣には様々な魔法が付与されている。有名な物で言えば、ファインスト王国の王宮たるシャルバラン宮殿の地下に眠るとされる岩斬りの剣カレドボルグ。剣に選ばれし者しか引き抜けぬ代わりに、鋼鉄でさえもバターのように容易く切り裂くと言われる魔法の剣だ。

 ルイエルドの配下としてよく知るのはやはり三枚卸ドレス・フィレット。一度に振れる回数に制限がある代わりに、高速かつ強力な斬撃を放つ事の出来るものだ。そして、フェルメルの持つ魔法剣。頸狩人ムッシュ・ド・グレーヴには、少し特殊な魔法が付与されている。

 空気すらも切り裂く刃が迫りくる暗殺者の頸に迫る。

 ルイエルドの配下は、家令を頂点として次に執事。そしてその他の部下が続く。執事はルイエルドの護衛である以上、執事を取りまとめる家令の実力は当然、執事達を優に凌ぐ。

 王国帝国間にて起こったギルフェル戦争。そこで、ルイエルドが直々に取り立てた傭兵がいる。

 無類の剣の腕を誇り、戦場にて幾人もの将の頸を刎ね飛ばした。ルイエルドは彼を取り立て、護衛とすると同時に忠実な右腕とした。名を、フェルメルと言う。

 魔剣の切っ先は宿った魔法によりさらに速められている。だが、彼女の命には届かない。

 爆ぜるような衝撃音と、耳を塞ぎたくなる程高い金属の軋む異音。

 金切声のような金属音は、金属に強い負担が掛かっている事の証だ。

 負担が掛かっているのはどちらか。只の金属の梟のナイフか、もしくはこの頸狩人か。答えは。


「は?」


 困惑が思わず口に出る。出た元は勿論、フェルメルの口である。

 剣を引き、剣戟を幾度交わしても浮かんだ疑問が潰える事は無い。それどころか、さらに激しく募るばかりである。

 幾度も振るわれる剣が、続けて梟の頸を狙い続ける。

 踏み込み、時には足を引き、腕を振るい腰を捻る。相手は知る限り最も上位に君臨する強者。ただ相手は止まったままであり、動かない的に等しい。その為彼女に対する剣は、今振れる限りの全力だ。

 そして、この頸狩人に付与された特殊効果は、必ず相手の頸を振るわれるというもの。

 力を込め過ぎれば当然、狙った場所には振るえない。剣での戦闘は適当に振っていればいい訳ではない。顔、首、腕、胸、腹、腿、脚、腱等の人体の弱点を狙う必要がある。とは言え撫でるような剣では意味が無い。力を込めれば込める程、腱の威力は跳ね上がる。剣とは究極的には、人を殺すための道具なのだから。

 そこで活きるのが、頸狩人の効果。

 どれだけ力を込めて振るおうと、必ず人体の最大の弱点である頸部に吸い込まれるように命中する。その効果が、どれ程剣との戦闘において強力か。

 自分の体勢、敵の防御、集中、その他諸々。

 戦闘において重要な要素を、この剣を用いる事により自分のみ排除できる。重石を持つ者と持たぬ者。それが同じ近接戦闘において、どれ程のアドヴァンテージを持つかは推して知るべし。

 なのに、だと言うのに。


「――はァっ……!!」


 濁流の如き連撃を終え、フェルメルは大きく後退しながら息を吸う。

 散った火花の数は百を優に凌ぐ。何度も首に剣を振った。只人であれば一個中隊の壊滅すら可能だったろう。だのに相対する梟はダガーナイフ一本。背筋を弓のようにぴんと張り、少しも体勢を変えずナイフだけで全ての攻撃を弾いたのだ。

 そこにあるのは、圧倒的な技量の差。

 魔法を宿した剣でさえ至る事は出来ない、夜の女王の爪の鋭さ。


「独りよがりね。ベッドでもそうなのかしら?」

「戯言を……――!?」


 空間がぐっと引き寄せられ、二人の間合いが縮んだ。正確には、梟の速く大きな踏み込みにより、間合いが一瞬で潰れたのだ。

 慌ててフェルメルが後ろに下がるがもう遅い。剣とナイフでは圧倒的に間合いが違う。

 有効的な間合いを取らねば、頸狩人でさえ十割の効果を発揮できない。そしてこの互いの虹彩の色さえ窺えるこの距離は、梟の間合いだ。


「チッ!」


 突如目の前に刃が浮かぶ。

 いきなり現れたように見えたのは、単にフェルメルが梟の速度を補足できていない為だ。踏み込みの勢いを利用した一撃。逆手で振るわれた首を狙うナイフを、首を傾ける事で回避する。

 そこに技術は何も無い。練達した戦士の、純然な反射神経である。

 風を切る音、鉄の香り、刃の閃き。

 濃密な死が音色となってフェルメルの耳に届く。嗤う。甘美な声の、蠱惑的な死神が。反転。回避された瞬間、ナイフの軌道が蛇のようにうねる。切っ先が狙うのは致命。


「さっきから頸ばかり。随分好きなようね。だから、返すわ」


 順手で突き出されたナイフが瞬時に引かれる。下を向いていた刃は横向きに。沿うようにしてそれは、フェルメルの頸へと向かう。


「くっ」


 辛うじて滑りこませた刃が、異音と共に白い火花を散らす。

 返したナイフは川が流れるように再び彼の頸へ。防ぐ術は無い。ならばいっそ、道連れを。迫る刃を無視し、フェルメルは力任せに剣を振り下ろす。

 フェルメルの剣と、梟のナイフは同時に襲い掛かった。梟の得物が頸動脈を喰い破り、フェルメルの剣が襲撃者の頸の、薄皮一枚を切り取る。筈だった。


「チッ」


 舌打ちと同時にナイフの軌道が直角に曲がり、剣の刃に沿わせられた。体勢を瞬時に下げる事で剣の勢いを殺し切り、沿った刃は徐々に力を込められ剣を弾き上げると、梟から流血を遠ざけた。

 浮かんだ疑問に、思考が急速に回転する。

 梟の存在は、ルイエルドが梟に自身の殺害を依頼した処女の血ヴィエルジェ・ルージュが起因している。つまり、彼女の目的は間違いなくルイエルドの暗殺。となれば、次に気が向くのはその手段。

 ティア・アコナイトは確かに反乱の動機を持った人間。ただそれは、雇い入れた時点でその意思を挫かれていた上それが再燃する理由も周囲には無かった。だから危険性は無いと判断し、見逃した。

 理由は単純だ。仲間がいない。

 ティアは確かに優秀な魔術師。だが、戦闘に向いている能力を持っている訳ではなかった。つまり彼女一人で反乱を起こしても、制圧は容易である。

 だが、それは覆されたのだ。

 彼女は手勢を得ていた。同じ復讐心を抱く者達を。絶望に打ちひしがれ、塞ぎ込むしかなかった者達を。何が彼女と復讐者を繋げたのか。この状態に陥ってしまった以上、手引きした者は一人しかいない。

 梟は、目的の為ならばどのような犠牲も厭わない冷徹な仕事人。フェルメルは梟の事をこう分析している。ティアを利用した以上、梟は筋書きにさえ沿っていれば余計な犠牲も厭わないだろう。その犠牲が善人か悪人かに関わらずだ。

 彼はそう判断していた。

 ならば何故。彼女はフェルメルを殺す好機をみすみす逃したのか。

 そのたった一つのやりとりだけで、フェルメル・ブランチェスは気付く。

 この世界には魔法が存在するが、魔法が万能と言う訳ではない。人の傷を一瞬で治す様な魔法は、例外を除きこの世界には存在しないのだ。梟はファインスト王国の影に潜む刃。とは言え、彼女とて人の子。受けた傷が即座に塞がる訳も無い。

 梟に傷を負わせれば、梟と言う仮面を被った王国の何者かも傷を負う。

 気高き猛禽は、白日の下に晒される。


 ――否、晒す事が出来る!!――


 梟を狩った者はいない。

 それは、彼の眼前で今も尚命の灯火を狙って羽ばたく彼女を見れば、疑いの余地は無い。

 ただ、もし梟と対峙して勝つ方法があるのだとすれば方法はたった一つ。その答えに今、フェルメルは思い至った。弾かれた剣を膂力で戻す。その最中にも梟の刃は迫り来るが、それよりも早くフェルメルが突きを放った。

 バネのように引き、矢のように放つ。

 リリーは眼前に捉えた突きにやはり舌打ちを隠さない。完全に悟られた。こちらが傷一つ負う事も許されぬと言う事が。

 大きく後退する事で間合いを回復し、頸椎目掛けて放たれた乱暴な突きを弾き上げる。

 鉄が削れ、削りカスが火花となって燃え尽きた。リリーは引き戻される剣を追わず、次撃を警戒し間合いを維持。彼女の予想が的中すれば、恐らくはもう。


「チッ」


 三度目の舌打ちが響く。彼女の予想は的中した。もうこの執事は、突き以外放ってこない。

 尋常ならざる動体視力で剣の腹を捉え、指の関節で弾いて逸らす。間を空けずドレスのスリットを勢いよくはだけさせ、白い雪のような太腿と黒革のナイフシースを露出させた。

 再び剣を引くフェルメルの思考に迷いが生まれる。もう一つのナイフを手に持つのか。はたまた、投擲武器として扱うのか。

 答えはそれ以外。

 剣の戻りと同時にリリーは大きく踏み込む。フェルメルは引いていた刃で撫で切ろうと中途半端に振るが、もうそこに彼女はいない。太く、長い真紅の線が二の腕に走る。


「……成程」


 何故なら、再び間合いを回復しているから。

 ナイフに付いた血糊を払い落とす梟は、肩で息をしながら納得の表情をするフェルメルに何の反応も示さない。

 ジンジンと、打ち鳴らす様な痛みが二の腕を刺している。

 フェルメルは眼前の敵に九割九分の神経を向けつつも、僅かに傷の様子を気に掛ける。

 腕に血が伝う感覚は無いが、恐らくそれは斬れれた直後だから。数秒も経たずに血が流れ始め、意識に死の気配を割り込ませてくるだろう。

 戦場の基準で言えば軽傷の類だ。だが、それが幾度も積み重なればどうだろうか。


「時間を掛けるのは貴女の好みで?」

「いいえ。でも私、勝てるもの以外興味ないの。勝負も、男も」


 弛緩した空気が一瞬にして張られた。梟が大きく振りかぶる。

 投擲を警戒したフェルメルは、大きく下がりながら剣を盾のように構えた。梟はその様子を最後までその様子を眺め、そして消えた。


「なっ」


 困惑が脳内に噴き上がる。暗殺者の中には、戦いの最中に一瞬気配を消す事により敵を錯乱させる技術があるという。その頂点とも言える梟が扱うと、こうも効果的なのか。と。

 完全に知覚外からの攻撃。だからこそ、彼女のダガーナイフを避けることが出来たのは偶然に過ぎない。

 頸を狙ったダガーの斬撃を、鋼を盾にすることで凌ぐ。

 理性が揮発していく。代わりに満ちていく、死への恐怖。力任せに盾にした剣を横薙ぎにするも、既に梟はそこにはいない。ブォンと、何も無い空間に風切り音だけが響く。

 引き延ばされた時間の中、音も無く白指が鋼を撫でる。

 目を疑う暇も無い。だが実際にその光景を目にしていたら、彼は自分の目に映る光景が真実か否か判別できなかったかもしれない。

 梟は、飛んでいた。

 まるで重力が反転したかのように、軽々と飛び上がり彼の刃に手を添えていたのだ。


「約束通り――」


 違和感が肩を中心に走る。

 何が起こったのかを分析する前に、彼は眼前の光景をすぐさま情報に変換する。空中で逆さの姿勢のまま、梟が刃を振り抜いたのだ。それが意味することを、フェルメルは一つしか知らない。

 一拍遅れて熱と、痛みが身を貫いた


「――腕は頂くわ」


 梟の着地。同時に、再び走る違和感。その真実は梟の攻撃のあまりの鋭さ、速さにより、フェルメルの本能が痛みを感じる事が遅れただけに過ぎない。

 二度目の激痛を感じるよりも先に、首の後ろを衝撃が貫いた。

 ケーキを切り分けるように肩口を切り裂き、腕を切り取ったその勢いよりも更に速く、ダガーナイフの柄で意識を刈り取ったのだ。

 視界から色が失せ、急激に黒ずんでいく。世界の音の全てが遠退くと同時に耳鳴りに置き換わり、急ブレーキをかけたように思考が遅くなっていく。

 脚に力が入らなくなり、フェルメルは膝から崩れ落ちる。深紅のカーペットの上に落ちた処刑剣が、鈍い音を響かせながら転がった。

 遠退く意識の中で、梟が手袋を外し蒸れた手を振って乾かす。


「約束は守る。命は奪わないわ」


 その言葉の裏を考えられる程、フェルメルに思考のリソースは残されていなかった。


「命は、ね」




 ◆―9―

 ファインスト王国北東はルージュ地方。起伏の少ない肥沃な大地が広がるそこは、冬こそ少し冷えるものの一年中過ごしやすい気候が続き、後述の理由もあるが避暑地として王国の王国貴族の間でも足を運ぶ者は多い。

 領内の村落では茶葉の生産が盛んで、王国の愛好家ではルージュの紅茶とそれ以外では、蜥蜴と竜とも言える差があると語る程。事実王国に出回る茶葉の六割以上が、ルージュ地方で採れたものだ。

 貴族たちが避暑地として赴くこととなるのは、ヴィル・スカレア。ルージュ地方で最も栄える街である。

 人口は王都の半分より少し多く、所狭しと高級ホテルが立ち並ぶ。最奥には咲くフリージアをモチーフとした紋章を掲げる大貴族が、巨大な屋敷を構えている。名を、スカーレット侯爵家。ファインスト王国建国に関わった由緒正しき大貴族にして、王国五大貴族の一つ。

 門を潜ればすぐに巨大な庭園が出迎える。

 バラやクレチマス、ゼラニウムが生けられた生け垣は迷路のようになっているが、見回せばすぐに傘のような屋根のあるテラスを見つけることが出来るだろう。


 ソーサーとティーカップが打ち鳴らされる小さな音が響く。

 それだけ小さな音が響くのも、このテラスに静寂が満ちているからである。

 白い椅子に腰かけ、眼を瞑り脚を組みながら紅茶を愉しむ麗しい少女が一人。漆黒のドレスに身を包み、後頭部で一つに纏めたブロンドヘアの上にはトークハット。

 白磁に金の装飾が施されたカップに満ちるのは琥珀色の高級茶葉、夕日の涙ソルクシャン・ド・ラルンだ。

 スカーレット侯爵家の庭園において、これ程優雅に過ごせる人物は一人しかいない。リリー・オウル・スカーレット、たった一人。


「ん」


 言葉も無く、リリーが飲み干した紅茶を即座に注ぎ直すメイドが傍らに侍っている。

 プラムではない、長躯の女性だ。平均的な成人男性を十センチ以上は超えるだろう。並んで立てば威圧感すら感じるかも知れない。夜を織ったかのような深い黒のワンピースのスカートは、脚の全てをすっぽりと覆い隠す程長く、白いエプロンには汚れどころか皺の一つすら付いていない。

 右肩から垂れ下がっている、くすんだ灰色の髪の毛先は腹まで届いており、その長さが窺える。さらによく見れば、髪全体に宝石のような艶が乗っているのが分かるだろう。長い髪を手入れするなら、それだけ長い時間と労力が必要だ。その事を考えれば、このメイドの性格まで読み取れる。

 ワインのように少し暗いルビーの付いたブローチは首元に、頭頂部にはホワイトブリム。右頬に、唇の端の少し下から耳元まで駆け上がるように刻まれた傷を加味しても、絶世と呼ばれていても不思議ではない程の美形。

 そんな完璧なメイドの名はフーア・オブライエン。プラムがいないのは、彼女がスカーレット侯爵家の家政婦長だからである。


「本日のご報告は如何なさいますか?」


 フーアの問いに、リリーは何も答えずに紅茶を啜る。

 その沈黙から彼女の意志を読み取り、フーアがつらつらと喋り始めた。


「幾つか言付けを預かっております。ジェーンより、撤収の報告。フルールより、勇者に関する情報でご報告したいことがあるとのことです。直接会っての報告を求めておりますが、如何されますか?」

「断る理由は無いわ」

「畏まりました。ジュディーカより、作戦は滞りなく完了のご報告。イヴレスより、ベル村での変死事件を確認、調査を進めるとのことです」

「ベル村……直轄領よね?」

「流石はお嬢様。仰る通りです」

「世辞は要らない。忘れたの?」

「失礼しました」


 顎に手を沿え、思案に耽る。

 だが答えが出る前にリリーはその思考を止めた。待ち人が、テラスに近付くのが見えたからである。

 くすんだ金色は、見方次第で緑色にも見える。いばらのような刺々しい髪から覗く眼光は、鳥すらも射殺す程の鋭いものだった。白いシャツと灰色のベストが包み込む肉体は猫のようにしなやか。首元には真鍮色のロケットペンダントをぶら下げた男。


「遅かったわね」

「勘違いするな。お前が早いんだ」

「あら辛辣」

「ようこそおいで下さいました、ベスコート様」


 深々と頭を下げるフーアを一瞥し、男はリリーの対面に座る。


「アイビーで構わん」

「どうせ本当の名前じゃないんでしょ?」

「だったら何か変わるか?」

「別に。さぁ美しい女の前で名前を隠す臆病者さん、今日はどうされたのかしら?」


 両手を広げ、皮肉っぽく告げる。

 裏社会の人間は信用第一。とは言え、全てを曝け出すのが信頼関係ではない。

 親しき中にも礼儀ありと言うように、ビジネスパートナーである彼らにはビジネスパートナーに適した距離がある。特にアイビー・ベスコートは、蔦の劇団と呼ばれる国際的な義賊集団の一人。スカーレット侯爵家の一員ではない彼相手には、それ相応の距離を置くべきだろう。


「革命が起きた」

「脚本通りじゃない」

「そうではない。外で、だ」

「あぁ……」


 不思議そうな顔をするフーアに、溜息を吐きながらアイビーは今一度脚本についての説明をする。

 ルイエルド辺境伯暗殺事件。この事件のシナリオは、革命を起こす事だ。

 標的であるへイエス・ゼン・ルイエルドは、元々多くの者から恨みを買う人物だった。だからこそ、彼を恨んでいる者を束ね徒党を組ませ、彼らを傀儡の如く操ることにより、自らの手を汚さずして彼を殺させるシチュエーションを作る。

 そう考えると計画は失敗に思える。

 何故なら、ルイエルドは実際に彼女等に殺された訳ではないからだ。

 だが、実際に殺しているか否かは問題無い。目的は、刺客がルイエルドを殺すという状況を貴族たちに見せる事にあるのだから。

 これは、ある種の劇だ。舞台裏でリリーが何をしようと、観客には見えない。


「僭越ながら、質問させて頂いても?」

「構わん」

「それだけ聞くと、全てアイビー様の脚本通りと思います。一体何が問題なのでしょうか」

「フーアの言う通りね。ただ演劇は大成功でも、問題は観客席で暴動が起こってるのよ」


 フーアはテーブルの下の方に一瞬だけ視線を送り、再び不思議そうな顔を浮かべる。

 呆れた表情のアイビーが大きなため息を吐いた。


「お前の例えは婉曲的過ぎる。要は、この仕事により貴族への不満が爆発したんだ。もっと平たく言えば、一揆だな」


 アイビーは説明を続ける。

 例の事件は多くの目撃者が居た。

 確かに刺客たちは集まっていた貴族や商人を惨殺したが、全員ではない。逃げ果せた者は、命からがら逃げて来たと言いふらしたのだろう。

 ティア・アコナイトから始まった反乱の狼煙は、病魔が伝播するように広がった。ルイエルド辺境伯領内の各地の村落で、ルイエルドに、ひいては国に対する反乱が勃発したのだ。

 ルイエルドは元々重税を強いたりと圧政を執る貴族であったし、いつか不満が爆発するのは予想出来たこと。だがその風船に、暗殺を切っ掛けとして針を刺してしまった。

 彼の報告によると現在二つの街で反乱が起こっており、無事ルイエルドの臣下を殺害することで反乱に成功している。そしてこの波は、瞬く間に領内に広がるだろう。


「分かった? プラム」

「バレていましたか……」


 そろりと、机の下から出て来る犬耳が一つ。

 プラムはぴくぴくと耳を動かすと、恥ずかしそうに顔を上げた。フーア・オブライエンは、二人の話に付いていけない程馬鹿ではない。実際に理解できていなかったのはプラムである。


「お陰様でばっちり分かりました! 反乱が起こった訳ですね!」

「七十点ね」

「三十点だ」


 リリーが及第点を与え、アイビーが落第を告げる。

 王国内でこのようなことが起こったと言う事は、貴族であるリリーにとって状況は良くない。

 今回の反乱はルイエルド辺境伯領での出来事だが、これが噂として広まることになればどうだろう。自分たちもと影響を受ける者が増え、その中の一割は実際に行動を起こすだろう。そしてその中の一割は、実際に成功するかもしれない。

 確実にこの反乱は波及する。そうなると、王国屈指のの大貴族であるスカーレット侯爵家は選択を強いられるだろう。

 全てを棄て、新しい国を目指すか。

 王政を守るため、悪しき貴族となるか。


「失礼。お言葉ですが、考えるべきはもう少し手前の部分なのでは?」

「分かってる。問題は誰が、この革命を手引きしたか」


 プラムが首を傾げた。

 普通に考えるのならば、革命を手引きしたのは梟だ。何せ実際に刺客を手引きしてルイエルドを殺させたのは、他でもない梟なのだから。ただその事を考えると、一つだけ引っ掛かる点がある。


「プラムは忘れちゃったのね。あの、ヴィエルジェ・ルージュを」


 リリーの言葉を聞いて、プラムもようやく気付いたようだった。

 今回の依頼はルイエルド自身が依頼したもの。だが、背景を考えるに彼にそうするよう唆した黒幕が存在する事は明白。用心深いのか、娘たちの調査では結局何も繋がりは見出せなかった。

 黒幕の目的は恐らく革命。もしくは、王国を帝国に併吞させること。その為に、ルイエルドを欺いて彼自身を殺させた切れ者がいる。


「私達は、場にあるカードで役を作っただけ。そもそも、場にカードを持ち込んだゲームマスターを特定する必要があるわ。収穫メスィドール

「残念ながら」

旋風ヴァントーズ

「いえ、ヴィエルジェ・ルージュの足跡はルイエルドで完全に消えています」


 フーアが淡々と告げ、プラムは心底残念そうに零す。

 リリーは顎に手を当てて思案に耽る。

 推理をするには、大きな部分から考えるのが定石。まず考えるべきは、ルイエルドを唆した人物の素性だ。

 人物から読むなら、浮かび上がるのはやはり貴族。

 ルイエルドは非常にプライドの高い人物だった。となると、彼を唆せる人物は表社会で高い地位を築いている人物である。つまり、貴族となる。裏社会の有名人である可能性も否定できないが、限りなく低いとリリーは推測する。

 それにしては出処を特定出来ない。

 娘たちは裏社会に広く根ざしている。各組織の情報を集めるなど息をするより容易い。が、位の高い貴族程鎧は厚く、硬い。それだけ娘たちの介入は難しくなる。

 そう考えると浮上するのは、辺境伯と同格の侯爵や公爵。もしくは、王族の誰か。スカーレット侯爵家内部の可能性も否定出来ない。何もこの家は、一枚岩ではないのだから。

 ただ、王国きっての諜報機関である娘たちが集められない情報となると、危険度も高いだろう。無闇に飛び込んでいい問題ではない。そう結論づけ、リリーの思考は現世に戻る。


「いいわ。今日はどうもアイビー様。この私自ら、お見送り差し上げても構わないわよ?」

「遠慮しておく。本当に用があるのはお前の父だからな」

「あら大胆ね、婚約の申し込みかしら」

「違う。契約に関わる話だ」

「では、私の手の者でご案内を」

「助かる」


 おどけたような仕草のリリーを一瞥し、紅茶を一気に飲み干したアイビーが屋敷の方向へと去っていく。まるでその場から急に生まれかと見紛う程、気配を急に現したメイドを供として。


「さて、私も行かないとね」

「どちらへ行かれるんです!?」

「参列よ。辺境伯が不埒な革命により死んだんだから、侯爵家にも招待状が掛かってるわ。プラム」

「はい! ただいま用意いたします!」


 馬車を用意する為、プラムが走り去る。

 その要素を残って眺めるのはリリーとフーアただ二人。すっかり戻って来た静寂の中で、リリーは静かに残っていた紅茶を全て呷った。


「父上は?」

「お変わりありません」

「そう。留守は任せるわフーア」

「仰せの儘に」


 馬車が見えて来る。既に用意していたのだろう。いつでも走れるぞと馬が嘶いた。

 突如屋敷内に押し寄せた、彼に不満を持つ平民。彼らによって無慈悲に殺害されたルイエルド。並びに使用人たちの葬儀に参加するのだ。王国が誇る赤き百合として、粛々に。

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朽木まとめ 朽木真文 @ramuramu

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