冬の追伸
風何(ふうか)
短編小説「冬の追伸」
※
追伸 冬になれば思い出します。凍みる頬に手をふれて、それが他人のものでなくても温かいこと。ガス、水道、電気、古いアパート、会社、そういうわたしたちを取り巻く細かな要素を抜きにすれば、わたしたちはべつにひとりでも生きていけるし、ひとりだからといってすぐに死ぬわけでもないということ。夏、暑さを疎ましく思って、冬、寒さに震えて、そういう巡る季節のなか、冷暖房の下で俗っぽい死者蘇生をして、そこで小さな幸せを感じて、ただ単純な循環をするように呼吸をして生きて、だから死のうと思ったんです。
追伸 と書いてから、書きたいことがどんどん出てくるなんて、なんだかどこまでも未練がましく、終わりに差し掛かったはずの物語、その世界観に溶け込めない要素を片っ端から付け足していく三流作家みたいだけれど、きみがその蛇足によって泣いてくれれば嬉しいから、その要素のひとつでもきみの琴線にふれてくれて、きみのなかに確かにあるはずのなにかに介入することができたらわたしは嬉しいから、そのすべてが無駄だと知りつつも書いていこうと思います。
解れかかった赤いマフラーを巻いて、毛玉のついた黒いコートを羽織りながら、そのポケットに手を突っ込んで、冬の夜の帰り道を歩くとき、わたしは生きている瞬間で唯一その世界に溶け込めているような気がしていました。どこまでも抽象的に、その風景の一部、その絵の一部になれている気がして、斜め上の藍空を見上げながら、いつだって、なにかを考えている振りをしました。わたしにとって、黄昏れるとはつまりそういうことでした。澄んだ夜の藍色の空を見つめながら、いつの間にか自分までもがそんな澄んだ存在であるかのように錯覚し、ひとりでに洗われたような感覚になり、そのなにもかもに準ずるようになにかを考えている振りをする。深く考えるほどのことはなにひとつなく、なにかに深くのめり込むほど濃密な人生を過ごしているわけでもないのに、ただポーズをとって、そうして誰かに声をかけられるのを待っている。人生についてよく考えていることを誰かに褒めてほしくて、わたしの真面目さ、優しさ、哲学、そのぜんぶをどこかの誰かに肯定してほしくて、机もないのに空中で頬杖をついて、わたしはきっと本能的に昔から知っていたのでしょう。性欲でさえ冬の夜空の下では綺麗になりえること。わたしほどの酷い近眼でも、いつだって夜空は綺麗で、観念上でわたしを美化してくれました。
高校に通っていたときも、大学に入ってからも、社会人になってからもわたしは変わらず遠回りをしてきました。それはなにも比喩的な話ではなく、もっと直截的に、帰り道、家に真っ直ぐ帰ることなく寄り道をして、けれどもその寄り道でなにかをするでもなくただ無為に歩き続けて、微睡んだように空を見上げている。これはなんにでも言えることだけれど、どこにも仕舞われていない瞬間が、その物体としての働きを最も全うしているはずで、だからわたしは家に帰りたくなかったのです。お父さんもお母さんもべつに嫌いじゃなかったけれど、家に帰ってしまえば、その瞬間、それは積み上げられ、縛られ、クローゼットの奥に放り込まれた小説のように無意味なように思えて、わたしはなにも予定などないのに、冬空の下を歩き続けていたのです。
そうして歩き続けるのにも疲れて、暗い公園のベンチに腰かけていたとき、まだ幼かったきみは声をかけてきたね。誰かに声をかけられたのはあのときが最初で最後でした。きっとあれが初めての家出で、きみは今にも泣きそうな顔をしていたけれど、それでも泣くのを我慢しながら、「お姉さんも家出してきたの?」とわたしの隣に自然と腰かけながら訊いてきました。強張った小さな身体はそれでも微かに震えていて、わたしは着ていたコートをきみに着させてあげようと思ったけれど、きみはそれを拒否して、強情にひとりで身体を震わせていました。
だからわたしはきみの手をやさしく握って、少しでもきみに寒い思いをさせまいとしたのだけれど、それは、わたしが初めて感じた他人の体温でした。そして、今にも泣きそうだったきみよりもわたしのほうが先に泣いていて、どうして涙が出てくるのだろうと思いながら、わたしは顔を必死で覆い隠そうとするのだけれど、わたしの両手はきみの両手を握ったままだから、ぐちゃぐちゃになった自分の顔をまるで隠すことができずにいて、けれどきみは泣きそうなのに優しく笑いながら、「お姉さんが泣いたの、ぼ、ぼく、ぜったい、誰にも言わないから」とわたしのことを周囲から見えないようにしてくれました。周囲に人なんて誰ひとりいないのに。けれども、きみがすぐ近くにいて、むしろ虚しい気持ちにならずにすんだとかそんなことをこっそり思っていたこと、そのとき必死に慰めてくれるきみにだけは知られてはいけないと思ったものです。
わたしが泣き止んでからしばらくして、きみは最近学校であった出来事を話し始めました。きみはクラスでいちばん足がはやくて、逆上がりもクラスでいちばん最初に出来るようになったこと、跳び箱を誰よりも高く跳べること、勉強は苦手だけれど、このまえの算数のテストで初めて百点を取ったこと、そのことを照れたような顔をしながら教えてくれました。わたしもまた、きみに学校の話をしました。緑の多いキャンパスのなか、ひとりでベンチに座りながら小説を読み、そうして周囲で活動的な誰かの声を聞き、授業のときは、レジュメを見せてほしいと言ってくる友達にただそれを見せて、帰りがけにはレジュメを見せた友達が別の友達に合流するその後姿を見つめながら、彼らに背を向け教室を後にする。勉強だけは得意だったはずなのに、志望大学に落ちて、今では勉強をする気にもならないから、講義が終わった後図書館で、小説が好きということでとりあえず自分でも書いてみようとするのだけれどもうまくいかず、すぐに放り出して、ひとり帰路については、けれどもまっすぐ家に帰る気にもなれないから、ふらふらと無意味に放浪している。
けれどもきみはなんの脈絡もなくいきなり、「お姉さんは優しいから、ぼく好き」とどこまでも無邪気な顔で言って、ああ、わたしはただ誰かに好かれたかったのです。ただ、優しいだけで無条件に誰かに好かれたかった。そして優しいことをするだけで、どこまでも優しくしてくれる誰かに巡り会いたかった。きみが両親に見つかって、家に帰った後で、わたしはひとりになって、「お姉さん、ぜったいまた会おうね」って言葉がいつまでもリフレインして、わたしは、あれが初恋だったのだと知りました。
でもあの日の出来事は、客観的にはほんの一瞬のことで、きみは、わたしがいったい誰なのかさえ覚えていないかもしれません。わたしだってきみの名前さえ知らないし、きみの幼少のころの顔しか分からないのです。年齢だってきみはもう高校生になる年頃だし、わたしは三十代に到達しようとしているけれど、でもそれでも、わたしがさっき書いたことに嘘偽りはありません。
追伸が長すぎて覚えていないかもしれないので、もう一度書かせて頂きます。
わたしのすべてを、きみに捧げます。
追伸 (二度目の追伸を追伸というのかは不明です。)わたしのただひとつ世に出た作品を送らせて頂きます。なんだか代償行為みたい。思えば、わたしの人生はずっと代償行為じみていました。
※※
僕は冬空の下で小説を読みながら、上空を見上げる。もう足の速さはクラスメイトに抜かされてしまったけれど、それでも十分速い足で、思い立ったように駆けてゆく。ああ、僕は優しい貴方が好きだった。
冬の追伸 風何(ふうか) @yudofufuka
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