4/30 ちょっと前の心象風景

 ひらひらと、花びらが落ちてきた。

 花びらは井戸の岩肌に引っかかって、わたしの目線より上で止まっている。井戸の底にいたわたしは、花びらが欲しくて、井戸の壁面にはじめて手を掛けた。井戸は作られてから間もない。岩肌はでこぼことしていて、頑張れば登れそうだった。私は何度も滑り落ちそうになりながら、手と足をかけて、登った。

 やっとの思いで掴み取った花びらは、想像したより良いものではなくて落胆したけれど、指を滑らせるとすべすべとした独特の触感がして、わたしはこれを気に入った。

 この花びらはどこから来たのだろう。

 先を見上げれば、暗い井戸の底に、向こう側が見えないほどの強い光が差し込んでいる。

 ああ、あの強い光をこの手に握ることができたら、どれだけ良いだろうか。ずっと井戸の底に座っていたわたしは、そこでようやく見ないようにしていた光が欲しいのだ、と気付いた。わたしはわくわくして、暗闇の中ごつごつとした岩肌を手探りで登った。手の皮は擦り切れ、血が噴き出した。指が血まみれになり、何度も登ることを諦めようとしたが、あの光をこの手に掴むことが諦めきれなかった。それに、血を見ると幾分か気持ちが良かった。井戸の底で安穏と過ごしている頃には見られなかった、生きている証。わたしは、生きている。脈動している。痛みがない訳ではない。その痛みに挫けそうにもなる。しかし、血こそがわたしの本性だと思った。わたしの本性だと、信じた。わたしが誰よりも血を流している。誰よりも、生きている。そうであれと願うために、血を流し続けようと懸命に岩肌に手をかけた。

 その頃には光を求めているのだか、血を流したいのだかよく分からなくなっていたが、きっと、光を手に握れれば、楽になるはずだ。暗い井戸の底で血も流しもせずに過ごしているような日々は、もうごめんだ。

 とにかくわたしは滑落を繰り返しながら少しずつ進んでいた。既に通った道のりを往くのは、うまくなってきていた。

 何度も滑り落ち、てのひらにかさぶたを作り、またそのかさぶたが剥がれ、血が噴き出し、そうしてようやっとわたしは、井戸のてっぺんに手がかかった。眩しい、光の源に、ようやく行ける。

 不安があった。

 この光は、ほんとうにわたしの思った通りのものだろうか。血のように、わたしのことを。誰よりも生きている、と感じさせてくれるだろうか。光に照らされるのがすこし、怖かった。だけれども、光に照らされれば、井戸の底から出られれば、きっと楽になれる。そんな確信もあった。

 わたしは井戸の外へ我が身を引っ張り出した。

 光は柔らかに降り注ぎ、平等に人々を照らしている。草木はそよぎ、穏やかな光を受けて輝いていた。

 ああ、やはり、と絶望した。

 あれほど強く、井戸の底からは自分だけを照らしているように感じた光は、誰にも降り注いでいた。人々はそうした絶望など感じさせず、かさぶたまみれの素足で踊っている。

 わたしは、独り占めしたかったのだ。わたしの井戸から見た光は眩くて、わたしに独り占めできるということが何よりの価値だった。

 わたしは、井戸に投げ入れられた革靴を履いた、無傷の足で立ち尽くす。

 世界は広い。わたしはこれから、どこへ行けばいいのだろうか。

 どこへも行けることが、こんなにも、怖い。

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ねじれ人間日記(旧書き損じ、生き損じ。) 碇/刻壁クロウ @asobu-rulu

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