5
「まず今日起きたことから取り掛かろう。違っていたら遠慮なく訂正してほしい。いいかな」
榊が史織のほうを向いて言う。彼女はこくりと頷いた。ようやく涙の跡も乾いてきているようだった。
「単刀直入に言うと、亜矢子さんは史織さんを殺そうとした。もう少し詳しく言うなら、撲殺しようとした。襲われてパニックになった史織さんは、亜矢子さんを突き飛ばしてしまった。彼女は後頭部を柱に打ち付け、気を失ってしまった。それで史織さんは慌てて、烏丸のところに電話を架けた」
「殺そうとした……」義理とはいえ母親が娘を。しかしおれは彼女の冷たい面持ちと、刺々しい態度、そして聖流復古の会の存在を思い出していた。亜矢子ならばやりかねないと思った。
「なら正当防衛じゃないか。まったく非はない」
「まあ」榊は遮り、「あえて言うなら、亜矢子さんが使おうとした凶器を、どこかに隠したのが史織さんだということくらいだな」
「そうです」おれがなにか言う前に史織が答えた。「母は棒切れでわたしに殴り掛かってきました。びっくりして、つい反射的に突き飛ばしてしまった。母は柱に頭をぶつけて……殺してしまったと思いました。でもわたしは信じたくなかった――母がわたしを殺そうとしたなんて。たとえ亡くなったとしても、殺人未遂者になんてなってほしくなかった。だからその棒切れを隠したんです。喧嘩の最中につい手が出ただけ、事故だった、と言い張るつもりでした」
なんてことだ。史織はそうまで義母のことを思っていたというのに――。
「続けよう。亜矢子さんがなぜ、史織さんを殺そうと思ったかだ。殺人、まあ今回は未遂に終わったわけだが、その動機はどこにあったのか」
「聖流復古の会に洗脳されたんだろう」
おれの言に史織も頷いた。しかし榊は表情を変えないまま、
「本当にそうか。俺は違うと思う。亜矢子さんはもっとしたたかだった。悪質と言っていい。彼女は聖流復古の会を利用しつくそうとした、俺はそう考えてる」
「……どういうことですか」また史織に先んじられた。
「まず俺がおかしいと思ったのは、彼女が手品に凝っているという話を烏丸から聞いたときだ。手品に詳しいなら、いかさま団体のやる『奇蹟の技』くらい見破れそうなものじゃないか。俺は現物を見ていないが、烏丸の話を聞く限り、ちゃちなマジックだとしか思えなかった。そんなものに騙されるか? そう疑った」
「だけど、信じたい気持ちの問題だと、前に言ったじゃないか。多少疑わしいと思っていても、信じてしまうことがあると」
「確かに言った。だがこうも言った。信じていないものを信じていることにしてしまう――本心ではまったく信じていないものを、自分は信じているのだと周囲にアピールすることでなんらかのメリットを得られる場合、それを理解したうえで利用している場合、こっちはずいぶんと悪質なんだ、と」
「確かに聞いたな。それで、亜矢子は聖流復古の会の教えを信じてなかったってことか?」
「最初から信じていなかった。ならば彼女の目的はなにか。俺はここで思い当たった、逆だ、と。つまり彼女は騙される側ではなく騙す側――その宗教団体の中心にいて、裏からいいように操っていた人物だったんじゃないか、そう考えた」
「ちょっと待て。亜矢子が中心人物で……しかも中心人物なのに信じていなかった?」
「そうだ。いいか、宗教団体なんてのは、立ち上げるだけなら簡単だ。そう名乗りさえすればいい。亜矢子さんはこれで金儲けをしようと考えた。おまえが見たという導師たちは、おそらく手下みたいなものだな。ただ言われた通り演技していただけだ。仕込まれた手品を人前で見せる。信じる人が出てくる。それだけで金が入ってくる」
「だとすると……亜矢子は、信者のふりをして、連中の仕事の出来栄えを客席側から見ていたわけか」
あの屋敷に忍び込んで見た、亜矢子の後ろ頭を思い起こした。「奇蹟の技」を熱心に観賞していたかに思えたが、あれは厳格な目でチェックを入れていたのだったか。
「そういうことだ。そして亜矢子さんは、『奇蹟の技』をもっと見栄え良くしようと、あるとき思いついた。それで、史織さんを巻き込むことにした」
「史織を?」声を上げていた。彼女もその胡散臭い芸に協力していたということなのか。
「こんなふうに言いくるめたんだろう。みんなでマジックショウをやるから手伝ってくれ、と。自分に冷たかった義母にそう言われて、史織さんは喜んだ。これで少しは仲良くなれるかもしれないと思った。引き受けた。それで狐の役を演じることになった。狐憑きを落とす例の儀式をやったわけだ。ところが史織さんは、どうにもおかしいことに気づいてしまう。これはただの手品ではない、怪しい宗教かもしれないと」
史織は沈黙していた。おれは肯定と受け取り、
「……続けてくれ」
「おまえが初めて史織さんに会った日の話を、少し蒸し返す。あのときは物理的な答えしか出さなかったから、今度は心理のほうを解決しよう。烏丸はあのとき白い顔を見た。その正体は史織さんの後頭部にあった狐面だった。史織さん、そうだろう」
彼女はゆっくりと口を開き、
「……そうだと思います。烏丸さんが白い顔を見たと仰ったとき、自分のお面のことだろうとすぐに気づきました。でも、他人に知られたくなかったんです。わたしが変な団体に協力していることを」
その日のことを整理するとこうだ、と榊は語りはじめた。亜矢子はおれの車で、聖流復古の会の会場まで行った。そこであれこれ準備を整えたところに、史織が来ることになっていた。狐面はむろん、小道具として持ってくるよう命じてあったものだ。あえて時間をずらしているのは、舞台裏を見せたくなかったからである。
史織は、聖流復古の会で行われているのがただのマジックショウではないことに、なんとなく気づいていた。しかし断って抜けるきっかけを見つけられずにいた。そんなとき、たまたまおれと遭遇した――。
「烏丸は、家まで送っていこうか、と言った。これが史織さんには、『やめて引き返すか』と問いかけられているように思えたんだろう。そして史織さんは、烏丸の車で帰ることにした」
「そうです。あのときのわたしは……どうしようかずっと迷っていました。でも、烏丸さんにとても優しい言葉をかけていただいて、こんなことをしていちゃ駄目だと思ったんです」
無自覚のうちにおれは、彼女が狐の役をやめる後押しをしていた。そしてあのとき、おれは素人が憑き物落としをするとしたら、という話をした。かつては憑き物落としと称して殴る蹴るの暴力行為が行われたことがあった、とおれは言った。それを聞いて史織は、聖流復古の会がいかさま団体であるという確信を深めたのかもしれない。そして「暴力」という言葉は、大きなヒントとして彼女の頭に刻み込まれることになってしまった……。
「それで、どうにかして母をあの団体から引っ張り出そうと決めました。そのためならなんでもしようって」
「そして実際にやろうとした。まず思いついたのが、聖流復古の会の悪事を、目に見える形で告発することだった。ことを大きくしやすいのは、暴力だ。そのためには判りやすい被害者が必要だった。史織さんは、自分で被害者の役をやることにした」
「自分で、被害者を演じた……それならあの痣は」
「自作自演だ。憑き物落としの儀式と銘打って殴られた、と訴え出ることにしたはいいものの、ただ殴られたんです、では説得力がない。そこで史織さんがやったのは、まず誰が見ても明らかな傷跡をつけること、そして、被害を目撃して警察へ行ってくれる人間を確保することだった。それがおまえだ」
ごめんなさい、と史織がおれに頭を下げた。
「騙したんです。自分のことを本気で心配してくれた人を、わたしは騙しました。本当に、すみませんでした」
莫迦、とおれは声を荒げた。
「……おれはいま、初めてきみに激怒してる。そういう莫迦なことをするな。もっと自分を大切にしろ。誰かを守るとか、そんなのは二の次でいい。自分のことを考えろ。助けてほしかったら助けてくれと言え」
「その通りだな。もう少し早く烏丸に助けを求めてくれていたら、ここまでのことにはならなかったかもしれない」
はい、と史織は言い、両掌で顔を覆って頷いた。
「しかしおまえは、なぜ史織が自分でつけた傷だと気づいたんだ?」息を整えておれが榊に問うと、
「半袖を着ていたから腕の痣が見えた、とおまえは言ったな。まずそこが気になった。問題を自分だけで抱え込むつもりなら、つけられた傷なんて、ふつう隠したがるものじゃないか。逆に本気で助けを求めるつもりなら、なにもかも話してしまえばいい。ところが史織さんは、黙ったままただ傷跡だけを見せて、あとのことは烏丸に任せた。これは妙だなと考えた」
確かにそうかもしれない。十五歳くらいの少女ならば、肌の傷など他人の眼には触れさせたくないはずである。
「それで、亜矢子さんのほうだ。彼女は自己中心的で、史織さんに対しても聖流復古の会についても、利用する以上の感情を持っていなかった。都合が悪くなれば切り捨てるつもりだったんだ。それを今回、実行に移そうとした」
榊は吐息し、
「自分の言うとおり狐の役を演じていたはずの史織さんが、急に反抗しはじめた。しかも警察にまで駆け込んだ。裏切った、と亜矢子さんは思った。これが直接の引き金だったかは判らないが、とにかく史織さんが命令に従わなくなったことに、彼女は怒りを覚えた」
もともと白かった史織の顔色が、凄惨なまでに青白くなっていた。「大丈夫か」おれが訊ねると、「続けてください」
「史織さんが警察に行ったせいで、聖流復古の会にも疑いが向くようになってしまった。下手をすると、これまで自分がやってきた詐欺行為がばれるかもしれない。それはまずい。そういうわけで亜矢子さんは、聖流復古の会を蜥蜴の尻尾にすることを決めた。もともと自分が入れ知恵して立ち上げた集団だ、似たようなものをまた作ればいい。だからちっとも惜しくはなかった」
おれまで吐き気がしてきた。そんな考え方をする人間がいるとは思いたくなかった。
「亜矢子さんは不都合なもの両方を潰すことにした。史織さんが『聖流復古の会に殴られた』と訴え出たことを逆手に取り、自分の手で史織さんを撲殺する。そして、聖流復古の会にすべての責任を押し付ける。烏丸でさえ連中が史織さんに手を上げたと思い込んでいたんだから、ふつうの人間ならまず、このシナリオを信じる。これなら、亜矢子さんは娘を奪われた被害者だ」
史織がまた泣きはじめた。彼女の手が、おれの上着をきつく握りしめていた。
「聖流復古の会での亜矢子さんはあくまで、裏側から知恵を提供していただけの人間だ。中心人物として表に出ることを注意深く避けていたんだろう。だから、ひとりの元信者として、自分は騙されていただけだ、娘まで殺されてしまった、と言い張ることが可能だと踏んだんだな。殺人を犯した集団の言い分など誰も聞くわけがないから、亜矢子さんがメンバーだったという証拠は出て来ようがない」
「……ふざけやがって」おれは吐き捨てた。
「そして彼女はおそらく、自分の再婚相手、史織さんの実の父親も殺したのだと、俺は考えている。まだ証拠はないが、やっていたとしてもおかしくない。調べれば、たぶんなにか出てくると思う」
榊の話が終わった。よし、とおれは頷き、「警察を呼ぼう」
そのとき、すす、と部屋の扉が開いた。闇の奥から覗く、血走った眼。蒼白な顔がぬっと突き出してきた。亜矢子だった。そのただならぬ殺気にあてられて、おれは凍りついた。亜矢子の右手に見える鈍い光。包丁を下げている。史織が悲鳴を上げた。
それを呼び水に、おれの軀は弾かれたかのように亜矢子に向けて突進していた。不意を突かれた相手が驚愕に眼を見開いている。おれはその肩のあたりに体当たりを食らわせた。亜矢子が倒れた。
やった、と思った途端、衝撃がおれの脇腹あたりを貫いた。刺された、とおれは自分でも不思議なほど冷静に考えた。その思考は引き延ばされたように長く――永遠に続くものかとすら思えたが、時間にしてみればほんの一瞬のことだったのだろう。がくんと首が垂れ、自分の腹から飛び出ている柄が眼に入った。おれはわけの判らない呻き声を上げ……ついに痛みが襲ってきた。軀が熱くなるのを、じわじわと血が滲みだしていくのを、おれは感じていた。乳白色の靄が立ち込めたかのように、視界が不鮮明になっていった。遠くのほうで榊と史織のくぐもった叫び声が聞こえた。やがて頭の奥をさっと冷たいものが流れた。
*
「気がついた」
聞きなれた声がしたように思えた。ぼんやりと眼に入ったのは見知らぬ白い天井である。続いて突き出してきた顔がおれの視界を占拠した。榊だった。
「どこだ、ここ」
「病院だ。おまえは亜矢子さんに包丁で刺されたんだ。悪かった。俺のせいだ」
「なんでおまえが謝るんだ」
「見つけたときにせめて縛り上げておくべきだった。相手は殺人者だったというのに」
「あの時点では未遂だったし、まさか刃物で襲いかかってくるなんて予想できないだろう。仕方がないよ。それでおれがこうしてるってことは、今度もまた未遂か。亜矢子はどうなった?」
「逮捕された。聖流復古の会にも改めて調査が入った。史織さんの父親については……俺の考えた通りになってしまっていたようだ。だから未遂ではないわけだ」
そうか、とおれは応じた。史織から電話が架かってくる直前にも、確かそんな話をしかけていたのだった。本当に亜矢子が殺した。衝撃がまるでなかったと言えば嘘になるが、おれとて現に刃物で刺されて死にかけた身である。あの女ならばやったに違いない――生々しい実感が、おれのなかに湧き上がった。
榊が語ったところによれば、亜矢子は「聖流復古の会」の主導師の男と共謀して、再婚相手、つまり史織の父親を殺害していた。犯行現場は古いアパートの一室、ベッドの上だったという。指紋も血痕も、その部屋にはいっさい残されていなかった。殺人が行われたベッドは撤去され、そのベッドが接触していた壁も入れ替えられてしまっていたからだった。
自作自演――思い返せば義理の母子が、偶然にも同じ手を使っていたことになる。亜矢子はそれで壁の入れ替えをやってのけ、自分が主催した集団に騙されたふりをし、さらには娘とその教団を同時に消そうとした。史織は史織で、自分の腕に傷をつけることによっていんちき教団を陥れようとした。
一度は見事に証拠を消し去ることに成功した亜矢子だが、二度目はなかった。史織は、おれの前からは狐を隠しおおせたが、榊には通用しなかった。一切が奇妙な具合に絡まって、このたびの事件を作り上げたのである。
「あの部屋を借りなくて正解だった」と榊は笑う。いくらどんな環境でも気にならない質とはいえ、本当に殺しのあった部屋では寝覚めが悪かろう。あるいは亡霊の声かなにかに突き動かされて、まったく別の形で真相に踏み込む羽目になっていたか。
「それで史織は」おれは訊ねた。
「そこにいる」
榊が手招きすると、病室に史織が入ってきた。ベッドの横に立つなり、彼女はおれに深々と頭を下げ、
「本当にすみませんでした。どうお詫びしたらいいのか」
「そんなことはいいよ。とにかく無事でよかった。例を言うなら榊のほうだ。おれはなにもしてない」
史織はかぶりを振った。榊は笑って、「莫迦なやつだな」と言いながら立ち上がった。
「彼女が電話してきたのは、俺の事務所じゃなかった。おまえのところだ。誰をいちばん頼りにしていたか、それで判るだろう」
彼は手を振り、静かに出て行ってしまった。がらんとした部屋におれと史織だけが残った。彼女の頬を涙が伝っているのが見えた。
「泣くなよ」
どう言葉をかけたものか判らず、自分でも莫迦みたいだと思いながら言うと、史織は不器用に笑顔を作った。おかしかったらしい。泣き笑いしながら彼女は、おれの目の前に拳を突き出し、しばらくそのまま握り続けていたかと思うと、勢いよくぱっと開いた。現れたのは可愛らしい桃色の花だった。
「わお」おれは声を上げた。これまでに見た最高の手品だと思った。
「ありがとうございます」
魔法のように取り出した花を、史織はそっとおれに握らせると、そのおれの右手を包み込むように、ゆっくりと自らの掌を重ねた。
消えかけた狐 下村アンダーソン @simonmoulin
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