4
起きてほしくないことが起きた。もっともそれはすでに繰り返されてきた出来事で、おれが気づいたのがたまたまその日だったにすぎないのかもしれなかった。
変わらず亜矢子は「聖流復古の会」通いを続けていた。なにごとか苦言してやりたいと思っていたけれども、おれは単なる雇われ運転手である。関係ないと跳ねつけられればそれまでだ。おれが余計なことをすれば、史織にしわ寄せがいく可能性だってある。だから慎重にやらなければ――そんなふうに考えていた。これが大間違いだった。
その日もおれは亜矢子を送り出して、近くの空き地に車を停めると、徒歩で飯綱家まで戻ったのだった。家のなかから「上がってください」と史織の声がしたので、おれはいつものように座敷で彼女を待った。ここまでは普段通りだった。
奥から現れた史織を一目見るなり絶句した。半袖から覗いている白い腕に、青黒い痣がいくつもついていたからだ。反射的に彼女に駆け寄って、
「どうしたんだ、これ」
答えない。おれはさらに距離を詰め、
「誰にやられた」
沈黙。しかし聖流復古の会がらみに決まっている。連中にそそのかされた亜矢子か、時導師主導師を名乗った男たちか、その手先か。畜生。怒りに手が震えた。おれは喉を振り絞るようにして、
「電話、どこだ」
「……どうされるんですか」
「決まってる。警察だ」
おれは座敷を出て電話を捜しはじめた。一回りしても見つからないのによけい苛立ち、おれは史織に向かって、
「車に乗って。ちょっとのところに交番があったろう」
弱々しげに立ちすくんでいる史織を押し込めるようにして車に乗せた。助手席で彼女はなにも言わなかった。あまりに情けなくて泣き出しそうだった。なぜここまで放っておいたのだ、おれは。
交番に行くと出てきたのは気だるげな顔をした爺さんだった。おれが早口に訴え出ると、爺さんはおれをまじまじと見つめ、
「それで、烏丸さん、あなたは史織さんとどういうご関係ですか」
「どうって、義理の母親亜矢子の運転手ですよ。さっきそう言ったでしょう」
「で、お義母さん、亜矢子さんはこの件についてご存じなんですか? 私どもとしても、いちおう保護者の方の――」
万事この調子である。さらにこの爺さん、どうもおれのことを疑っている様子であった。住所氏名年齢電話番号あたりを書かされるまではよかったが、そのうち問答の質が変わってきたのである。立派な社会生活を営んでいるとはとうてい言いがたい人間ではあるものの、おれにだって良心くらいある。そうそう暴力など振るうものか。
爺さん警官が飯綱家に電話した。留守である。亜矢子は聖流復古の会にいるのだ。そちらのほうに架けなおすと、亜矢子が出てきたらしい。しばらくあれこれと喋っていたようだったが、やがて受話器を置き、
「亜矢子さんは、史織さんの怪我についてはご存じなかったようです。たいへん心配だと仰っていましたが、いまはどうしても手が離せないそうです。用が済み次第すぐに向かうとのことでした。烏丸さんには帰っていただいても結構だと。娘に気をかけていただいてありがとうございますとお伝えください、とのことです」
なにがありがとうございます、だ。おれは舌打ちしたくなった。娘のことをまったく気にしていないであろう人間――もしかしたら犯人かもしれない人間が、よく言うものだ。
警官からも帰ってよいと告げられた。おれがいたのでは話しづらいこともあるだろうと思い、史織を置いて帰宅することにした。亜矢子なのか聖流復古の会の仕業なのかは、史織自身の証言で明らかになるだろう。警官相手ならば、なにもかも正直にぶちまけられるに違いない。
「なにか判ったらおれにも電話してください」
警官に言い、おれは交番を出た。
そのまま帰った。車を事務所に置き、榊に事情を説明して部屋へ戻った。じりじり待っていると、夜になってから電話があった。あの爺さんである。
「史織さんから話を聞いてみたところ、聖流復古の会という団体で、お祓いといいますか、まあその手の儀式を行っているそうなのです。これがいささか乱暴でして、悪いものが憑いているとされる人を、専用の棒みたいなもので打ち据えると。史織さんは『狐憑き』と呼ばれて、その棒で打たれたということでした」
狐憑き――。やはりろくでもない連中であった。「で、奴らはそれを認めたんですか」
「儀式を行ったこと自体は認めました。しかし――」
どうも歯切れが悪い。史織は棒で殴られたと言った。相手が認めた。それ以上になにがあるというのだ。
「痣が残るほどは殴っていない、と言うのですな。私もそのお祓い棒を見せてもらいましたが、なるほどわりと細い。そして、あくまで儀式ですから、ぱしぱしと数回打つだけです。あの棒を使って全力で殴ればどうかわかりませんが、少なくとも儀式によって痣がつくほどではなさそうでした。それに、ああした棒状のもので打った場合につくであろう痣と、史織さんの腕についていた痣とは、痕跡が異なるんですよ」
「……待ってください。でもそれは、連中が史織に手を上げていたってことでしょう。なにか別の理由で殴ったりしていたのかもしれない」
「しかし史織さんは確かに、儀式で、棒で殴られたと」
「間違いだ。もう一度調べてください。頼みます」
通話が切れたあと、しばらくおれは呆然としていた。わけが判らなかった。
*
おれは首を切られた。もう来なくていい、と亜矢子から事務所に電話があったそうだ。これ以上近づくなという警告としか思えなかった。
夜になって、榊がおれの部屋を訪ねてきた。これからの方策その他を話し合うためである。事務所でやればいいのではと思ったが、彼が「おまえの部屋に行く」と言うのでそれに従ったのだ。
「少し落ち着け。肝心のおまえがそれでは困るんだ」
榊に促されて鏡を覗いたらば、ぎょっとするほどやつれた顔がそこにあった。史織の痣の一件で、おれは自分でも思いがけぬほど憔悴していたらしい。榊は手土産として携えてきたらしいコーヒーゼリーをおれに勧めた。「こういうものならまだ喉を通るんじゃないかと思って」とのことだが、まともに飯も食えていないと見られるほどであったか。
おれはコーヒーゼリーを食いはじめたが味などよく判らない、と思ったらシロップを入れるのを忘れていた。シロップをかけてから改めて口に運んだら、今度は甘かった。
「飯綱家の家族構成について聞きたい。亜矢子さんと史織さんの二人で、義理の親子だったな。父親についてなにか言ってなかったか」
榊が問う。まるで予想していない質問だったが、これが彼の頭のなかにあるパズルの、ピースのひとかけらなのかもしれない。
「おれにも詳しく話してくれたわけじゃない。いまはいません、と言ったきりだ」
「いまはいない、か。ということは昔はいたわけだ。そして亡くなりました、とは言っていない。ならば出て行った――少なくとも彼女はそう認識している」
「どういう意味だ」
「父親は亜矢子さんと再婚した。おまえの話を聞くと――まあ電話応対した限り俺もいい印象は持っていないが――亜矢子さんには人間的に問題があるらしい。だから愛想を尽かして父親は出て行った。それはいいが、なぜ実の娘をそういう酷い人間のところに残して行ったのか」
「……判らない。いくら貧乏だろうが、あの母親と一緒にいるよりはいいと思う」
「ならばこう考えてみよう。いなくなったのは父親の意思じゃない」
「むりやり追い出されたってことか」
「だったらまだいいんだが……最悪の場合、死んでいる可能性は否定できない」
まさか。驚いた勢いで手許に置いてあったシロップの器をひっくり返してしまった。液体が垂れて、そばにあった新聞紙をわずかに濡らした。
慌ててティッシュペーパーを捜そうと立ち上がりかけた次の瞬間、電話が鳴りはじめた。軀が硬直してしまったかのように思われたがそれも数秒のことで、気がつくと手が伸びて受話器を耳に当てていた。しばらく沈黙が続いた。その間おれの耳には自分の心臓の音だけが聞こえていた。悪戯電話ではないという確信めいた予感があった。やがて微かな、しかし聞き間違えようのない、消え入りそうな声で、
「お義母さんを、わたし……殺してしまいました」
頭が真っ白になった。信じられなかった。史織が? どうした、と榊に問われてようやくはっとし、
「待ってろ。すぐに行く。榊も一緒だ。大丈夫だから、な」
電話の向こうでは嗚咽が続いている。おれはいったん受話器を口から遠ざけて、「史織だ。母親を……殺したと言ってる」
榊は小さく頷くと、「行ってみよう」
*
呼び鈴を押すなり史織が飛び出してきた。泣いていた。しゃくりあげている彼女に「大丈夫だ、安心して」と声をかけながら家のなかに入った。すぐ右手にある茶の間に行き、史織を落ち着かせるべくおれは言葉をかけ続けた。彼女がへたり込んだので、おれも隣にしゃがんだ。
「俺が見てくる。おまえはその娘を頼む」
榊が言う。おれはできる限り静かな声で、「どこだ」と史織に問いかけた。彼女は声を絞り出した。だしき、と聞こえたがそれでおれには判った。「座敷だ。奥の部屋」
榊が出て行った。おれは史織の背中をさすってやった。掌に軀の震えが伝わってきた。史織がなにごとか言葉を発した。
「どうした?」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。落ち着いて」
史織をなだめ続けていると、扉が開き、榊が戻ってきた。おれは顔を上げた。
「死んではいない。たぶん気を失ってるだけだ。そのうち目を覚ますと思う」
途端に全身の力が抜けた。よかった――史織は義母を殺してなどいない。
「電話はどこだ」
榊がこのあいだのおれと同じ科白を吐く。「救急車か」おれが訊くと、
「警察だ。殺人未遂だからな」
史織がびくりとした。おれは思わず、
「突き出すのか」
「そういうことになる。もっとも、捕まるのは亜矢子さんだけどな」
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