流刃秘抄

日暮奈津子

流刃秘抄

「刀を持った女が出ると聞いた」

 人だかりに向かって、錬十郎は声をかけた。

 四、五人ばかりの野良着姿の男女がふり返る。

 人がやっと通れるほどの山道から、村外れらしき田畑の間のあぜ道へと彼は姿を現したところだった。

「あんた……」一番年嵩らしき男が、錬十郎に呼びかける。

 構わず、錬十郎はあぜ道を進み、彼らの方へと近づく。

「あんた、侍かね」

 腰の太刀に目をやって、さっきの男が聞く。

「そうだが」

 しかし、その男の他には誰も何も言わない。

 赤子を背負った女が、男たちの後ろへ身を隠そうとする。

 警戒している。

――それは、そうだろう。

 刀を携えた見慣れぬ男がいきなり自分たちの村に入り込んできたら、野盗か野伏のたぐいではないかと思うのも道理だ。 

 人だかりのそばまでやってきて、再び問う。

「刀を持った女を探している。身内の女だ。俺の兄が打った刀を持って姿を消したので、探している。手前の立花村で、この辺りに刀を持った女が出ると聞いたが、本当か」

「あんた、源氏かね」

 相変わらず錬十郎に聞いてくるのは年嵩の男だけだ。

「それとも……まさか」

 そのまさかだ、と言ったらどうするのだろう。

「違う。平家などとうに滅びたろう」

「強いのかね」

「何故そんなことを聞く。俺は刀を持った女の話をしているだけだ。俺の探している女かもしれん。どこにいる」

「それなんだが……」

「お願いが御座います」

 若い男の声がして、人垣が割れた。

「私とご同道頂けないでしょうか」

 墨染の衣に丁寧に剃髪された頭の男が村人たちの間から姿を現した。

――坊主か。

 錬十郎に向かい、深々と頭を下げる。

「だからそれは……」年嵩の男はその若い僧に向かってそう言いかけたが、辺りを見回すと、他の者に野良仕事に戻るように言った。

 村人らと子守り女がその場を離れると、男は声をひそめて語り始めた。


 半年ほど前。

 壇ノ浦に平家一門が沈んでまだ間も無い頃、村に手負いの落武者がやってきた。

 平征綱たいらのまさつなと名乗る落武者は、突然現れると、村の女を一人さらって人質に取り、山中の猟師小屋に立て籠もると食い物と酒を寄越すよう村の者に命じた。

 刀を突きつけておどす征綱に、村人は言われるがままに食事や酒、薬を差し出した。

 しばらくはそうして征綱の言いなりになっていたが、やがてこの村にも源氏の手勢が落武者狩りにやってきた。

 攫われた女のおこうは、征綱が酒に酔って寝入った隙にその刀を持って逃げ、丸腰の征綱はあえなく源氏の追っ手に首を討たれた。

 だが、何故か征綱の刀を持ったおこうは村には戻らず、そのまま行方知れずになった。

 そして、それでは終わらなかった。

 国分寺の住職を訪ねていった村長むらおさが村外れの道端で一刀の下に首を落とされた。

 薬草取りの男は山へ向かう途中の道で袈裟懸けに斬り付けられ、辛うじて村へたどり着いたものの、手当ての甲斐なく死んだ。

 おこうにやられた、と言い残して。

 他にも何人もの村人達が襲われて死に、あるいはほうほうのていで村に逃げ帰った何人かは、これが本当にあの大人しく控えめであったおこうの成れの果てかと目を疑う程の恐ろしい有り様であったと語った。

 さては征綱の怨念が娘に取り憑いたか、源氏にくみした儂らを恨んでおるのだと、村人らは噂した。

 村から国分寺へ通じる唯一の道へ足を踏み入れた者は一人残らず娘が振るう刃の餌食となり、誰もそこを生きて通ることはできなくなったのだ。


「だのにこのお坊さまは、何としても国分寺へ行かねばならんと言って聞かんのだ」

 困り果てた風で男が言うと、若い僧は再び錬十郎に頭を下げた。

「申し遅れました。私は備前国瑜伽山ゆがさん蓮台寺れんだいじの僧、浄心と申します。故あって幼き頃より寺に預けられ、仏道修行に打ち込んで参りましたが、我が身によどむ雑念いかにしても断ち切れず、師より四国八十八ケ所、西国三十三観音を巡りてその妄念を打ち消すまでは帰参まかりならぬと命ぜられました。私が次に向かうべき札所も伊予国分寺。ここを通らぬ訳には参りません」

「しかし、それではあんたも殺されてしまうぞ」

「私は死んでも構わない」

 年嵩の男が見かねて言うのに向かって、それまで静かだった浄心は声を荒げた。

「全ての札所を回り納め、私の妄念を消し去ることができぬのなら、いっそその女に斬られて死んだところで構いません」

「ならば誰の許しも得ずとも行けばいいだろう。俺もそうする。場合によっては女は斬る」錬十郎が浄心の言葉をさえぎった。

「では……」

「あんた達のためではない」

 浄心と、年嵩の男に向かって錬十郎は冷淡に言い捨てた。

「国分寺への道を行こうとした者はみな女に斬られ、村に逃げ帰った者にしたところで、それが本当におこうであったか定かでないと言っているようなものだ。だとしたら、そいつは俺が探している女かも知れんだろう。俺はそれを確かめに行くだけだ」

「構いません。同行をお許し頂けるのならば」

「好きにすればいい」ちらりと浄心を見ると、錬十郎はそう言い捨てて、国分寺への道へと歩を進めた。

 浄心はそれを見て、一人残った年嵩の男に丁寧に頭を下げると足早に錬十郎の後を追った。


 最初は錬十郎が前を歩いていたが、村人から詳しく道を聞いていたという浄心が途中から先導し始めた。

「どうお思いになりますか」山道を歩き慣れているらしく、浄心は息を乱すこともなく錬十郎に問いかける。

「何がだ」

「村の人々を襲っているのは、本当におこうさんなのでしょうか。ごく普通の村娘であったはずが……やはり、征綱の怨念のせいなのでしょうか」

 答えを返さない錬十郎を、浄心は振り返る。

「それとも、何かご存知なのですか」

「……刀のせいかも知れん」

 錬十郎がぼそりとつぶやいた。

「えっ?」その答えに、思わず浄心は立ち止まった。

「俺の兄は刀鍛冶だった」

 錬十郎は浄心と目を合わることなく、そのまま浄心を追い抜いた。

「人が人を斬るのは人間の意志ばかりではなく、刀がそうさせるのだなどと、因縁めいた話はいくつも伝わっている。男は戦場いくさばの血に酔い、あるいは刃紋の美しさに魅入られることで刀に使われ、人を斬る。一方で、女は生来、争いごとをいとう上に力も弱い。それでも刀は血を欲する。だから代わりに、刀は女の心魂を喰らい尽くして意のままに操ることで刀を振るわせる。そうして思うさま人の血をすするという訳だ。稀に、そういう刀があるのだと」

「そのような話、初めて聞きました」

 足早に浄心が追いついてくる。

「錬十郎様は、それを御兄君からお聞きになったのですか?」

「……いや、兄の師であった、伯父から聞かされた話だ。子供の頃だ。伯父には娘が一人いたが、俺と兄も一緒に刀にまつわる話をいろいろと聞かされたものだ。男であれ、女であれ、刀鍛冶の身内であるなら心せよ、と」

 不意に、山道の途中で浄心が立ち尽くした。

「どうした」

 いぶかしんで尋ねる錬十郎に答える代わりに、浄心は道を外れ、一人で熊笹のやぶの中へと分け入って行く。

 錬十郎も素早く後を追う。

 一見、ただの藪のように見えたが、僅かに踏み分けられた跡があるのがかろうじてわかった。

 だが。

 浄心はそのかすかな道筋をたどるというよりも、その先にある何かに引き寄せられてでもいるかのように、迷いなくその歩を進めていく。

 やがて林と藪の茂みが途切れ、視界が開けた。

 二人は足を止めた。

 目の前の光景に、浄心が鋭く息を飲む声が錬十郎の耳に届く。

 細い獣道を分け入って二人がたどり着いたのは、無残な焼け跡だった。

 おそらく、もともとは小さな建物だったのだろうが、焼け焦げて折れた柱や燃え落ちた屋根の残骸だけが積み重なっている。

 焼けたのは最近ではないらしく、既に一部が雑草に覆われつつある所も見えた。

 だが、相変わらず浄心は、まるで錬十郎がそこにいるのも忘れてしまったかのように何も言わぬまま、焼け落ちた小屋の跡へ近づいてゆく。

 錬十郎も後に続く。

 浄心は何かの声を聞き漏らさぬようにするかのように静かに歩を進めていたが、やがて焼け跡の一角で不意にかがみ込むと、燃え落ちた小屋の残骸を取り除き始めた。

 黒焦げの板壁や柱を次々と、掘り返すようにどかしてゆく。

 太い柱が倒れているのを無理矢理動かそうとしているので、仕方なく錬十郎が手を貸した。

 ごとりと重い音を立てて柱が脇へと転がされると、その下から二人の目の前に、『それ』が姿をあらわした。

「あった……」

 それまでずっと黙っていた浄心の口から吐息混じりの声が漏れた。

 そっと手を伸ばし、『それ』を両手で壊れもののように抱え上げる。

 黒く焼け爛れた頭蓋骨がひとつ。

 その周りにも、柱や屋根に押し潰されて砕けた骨の欠片かけらがいくつも散らばっている。

 辛うじて指らしいとわかる骨のさらにその先に、黒漆塗りの鞘が転がっている。

 だが、そこに収められているべき刀は無かった。

 浄心は黙って頭を垂れ、沈鬱に目を閉じる。

 おそらく、僧であるならばまずは合掌し念仏すべきであったのだろうが、浄心の手の中の髑髏どくろの主ですらそれをとがめることはなかった。

――平征綱。

 猟師小屋の焼け跡から浄心が見つけ出したのは、その頭骨だった。

 だが。

 一心に祈る浄心の傍らで、錬十郎は疑念を抱いていた。

 村人の話では、征綱は娘に刀を奪われ、源氏の手勢に討たれたのではなかったか。

 ならば何故ここに鞘だけがあるのか。

 征綱が抵抗できぬように娘が武器を奪ったというのならば、刀を扱い慣れぬ女が抜き身のまま持ち去るとは考えにくい。

 それに、追っ手に討ち取られたはずの征綱が、なぜ首を討たれることもなく焼け落ちた猟師小屋の下敷きになっているのか。

――まるで、小屋もろとも焼き殺されたかのように。

 林の枝葉の間から不意に鋭い山鳥の声が響いた。

 その声に、びくりと浄心が目を開く。

 同時に辺りが急激に暗くなる。

 気付いた錬十郎が素早く辺りを見回す。

――まだ日暮れには早いはずだ。

 だが、暗くなってきているのは、膝まづいたままの浄心と征綱の髑髏の周りだけのように見える。

――いや、違う。

 周囲の光を奪っているのは、浄心だった。

 まるで日没間近の日差しが長い影を作るように。

 髑髏を抱えて膝まづいたままの浄心の影が、生き物のように伸びてゆく。

「ああ……」

 己の影の異変に、浄心も気付く。

 だが、そこから目が離せない。

 錬十郎も息を呑んで見つめるうちに、ゆるゆると伸びた影帽子はやがて二つに分かれた。

 影は、まるで絵姿のように二人の人型となって立ち現れる。

 若く精悍な顔立ちの戦装束の武将と。

 その隣には、身なりは貧しいが、澄んだ瞳に一途さをたたえた若い村娘が。

 互いに寄り添い、見つめ合う。

 ふっと、錬十郎と浄心の目の前で、その周りにあったはずの小屋の焼け跡の景色が消え、代わりに二人はおこうと征綱の記憶の中へとすべり落ちていった。


  * * *


 傷を負った征綱を熊笹の藪の中で見つけたのは、山菜採りに出ていたおこうだった。

 捨て子だったおこうを哀れんで世話してくれた老婆が死んでからはずっと身寄りもなく、おこうは村の者にも黙って猟師小屋に征綱を匿った。

 傷の悪化から征綱は高熱を発したが、おこうの看病の甲斐あってやがて意識を取り戻した。

 征綱はおこうに、自分が平家の落武者として追われる身であると名乗ったが、おこうにはその意味することが分からなかった。

 分かりたいとも思わなかった。

 征綱は、おこうの無償の献身に己の境遇を忘れた。

 二人は互いにおのずから湧き上がる情感にすべてを委ねた。

 そうして、しばらくは二人の間に穏やかな日々が流れた。

 しかし、おこうの様子を不審に思った村人らが、征綱の存在に気付いて村長に知らせた。

 丁度、立花村との境界争いがこじれていたのを有利に運ぼうと、村人らは征綱を見逃す代わりに、村境を超えて木々を切ろうとする立花村の者を脅して追い払う役目を負わせた。

 だが、かえってそれが「桜井村との境に落武者がいる」と立花村の者から訴えが出て、源氏の追っ手がやってくるらしいという話が聞こえてきた。

 村ぐるみで落人を匿っていると知れれば、自分たちはどうなるか――。

 夜、密かに村長の家に村人の何人かが集まって談合に及んだ。

 村長は、薬草取りに作らせたしびれ薬を酒に混ぜ、何も知らぬおこうに持たせた。

 そして数人の男が深夜、猟師小屋に火をかけた。

 おこうが気づいた時には既に小屋には火が回り、薬で体の自由が利かぬ征綱を連れて逃げることは叶わなかった。

「そなただけでも逃げよ」

 残り少ない力を振り絞り、征綱がおこうの体を突き放した。

 激しい音と共に、おこうの目の前で猟師小屋の梁が崩れ落ちた。

「征綱様!」

 無数の火の粉が舞い上がり、征綱の姿が見えなくなる。

 燃え盛る炎の前で、おこうは呆然とその場にへたり込む。

 その目の前に、黒漆塗りの鞘に納められた刀が蛇のように横たわっていた。

――征綱の刀。

 か細いおこうの手が、その艶やかさに魅かれるように柄に伸びてゆく。

 まるで刀が自ら鯉口を切ったかのように、何の抵抗もなく抜き放たれた。

 ますます勢いよく燃え上がる炎が、刃紋に浮かび上がる――。

 それが、おこうの意識が最期に見た光景だった。


   * * *


 錬十郎の目の前に、再び猟師小屋の焼け跡の景色が戻った。

 まざまざと立ち現れたおこうと征綱の記憶の光景は消え去り、代わりに浄心が先程と同じく膝まづいている。

「ご覧になりましたか」浄心は征綱の髑髏をそっと地に置くと、苦い物を飲んだかのように唇を噛んでいたが、やがてぽつりと錬十郎に問うた。

「ああ」

――そういうことだったか。

「もしや、今のが……」

「はい」

 浄心は立ち上がり、真正面から錬十郎を見つめて答えた。

「今、私を通してここに現れたのが、あの二人の身に本当に起きたことなのです」

 だが浄心はそんな己を恥じ、憎んでいるかのように片頬をらせていた

「お前は一体……」

 錬十郎が問いかけようとして、気づく。

 振り向きざま抜き合わせる。

 甲高く、刃のぶつかり合う音が夕暮れ近い山林に響き渡った。

――来たか。

 相手の顔を、錬十郎は見る。

――おこう。

 先刻、浄心と見た光景に現れたのと同じ女が、征綱の刀を手にして錬十郎に斬りかかってきていた。

 だがその顔は先程の記憶の光景で見たような、貧しさの中でも折れることのない一途さを込めた眼差しは消え、屍人のように凍てついていた。

 怨みも哀しみも、なにもない。

 黒く凍りついた瞳だけが妖しい光を放つ。

 受け太刀になった錬十郎を、両手で構えた刀で満身の力を込めて押し返そうとする。

 若く小柄な村娘の姿からは到底推し量れないほどの重さの一太刀だった。

「おやめなさい!」

 女に向かって浄心が叫ぶ。

「もうおやめなさい! これ以上、人をあやめるのは……」

「無駄だ」浄心の声を、錬十郎がさえぎった。

「こいつはもう刀に喰らい尽くされている。言葉など通じん」

 そう言い捨てるや、刀を持つ両手にぐいと力を込めてから突き放す。

「まだそうと決まったわけでは……!」

五月蝿うるさい、黙れよ」

――お前に何がわかるというのか。

 何も知らないくせに。

 鍔迫り合いを避けて距離を取ろうとする錬十郎に、おこうは無造作に間合いを詰めては幾度となく斬撃を繰り出してくる。

「おこうさん……! 錬十郎様!」

「黙れと言ってるだろうが!」

 再び錬十郎が吠える。

――お前に何がわかる。

 こいつはもはや、怨みに取り憑かれた哀れな村娘などではない。

 血に飢えた刀の妄執そのものだ。

――隙を見せれば、俺が斬られる。

 なのに何故か心が波立つ。

 鋭く、重い斬撃を何度も受ける。

 華奢な女の体とは思えない。

 あの時と同じ――。

 おこうの目はもう何も写してはいない。

 その黒く凍った瞳に、全身がぞくりと粟立つ。

 心を喰われたおこうの顔に、もう一人の女の顔が重なった。


 今、俺の目の前にいるのは誰だ。

 俺を斬ろうとしているこの女は。

 俺が斬ろうとしているのは――。


 我知らず、錬十郎の刀を持つ手が下がる。

 おこうの振りかざした刃の前に、無防備にその身を晒す。

 胸元と喉ががら空きになる。

 「あの時」のように。

 錬十郎様。

 懐かしい声が木霊のように、錬十郎の耳に響いた気がした――。


「違う! そのひと千尋ちひろさんではない!」


 浄心の叫びに、錬十郎は我に返る。

 期せずして下段になった刀を振り上げて大上段から斬りかかる相手の太刀を受け止めると、そこから横薙ぎに錬十郎はおこうの細い胴を断ち斬った。

 音もなく、女の体がその場に崩れ落ちる。

 その小柄な身体がみるみるうちに朽ち果ててゆく。

 ぞっとするような冷たい山風がその場を吹き過ぎた。

 そこに倒れていたのは、女の全身の骨だった。

 冴えざえと白く細い手の骨が、それでも征綱の刀を握っていたが、やがて鋭い音を立てて、その刃が粉々に砕け散った。

 細いおとがいの、白く真新しい髑髏されこうべが。

 本当はとうの昔に自分もこうなっていたかのように。

 もっと早く自分もこうなりたかったのだというかのように。

 征綱の焦げた骨の傍らに静かに転がっていた。

 深く、長く息を吐き、錬十郎は呼吸を整える。

 浄心に背を向けたまま、ことさらゆっくりとした動作で血振いをして、刀を納める。

 その動作の静けさが、いっそ浄心には恐ろしかった。

 のろのろと、錬十郎が振り返る。

「何故だ……」かすれた声が、錬十郎の唇から漏れた。

 そのまま浄心の方へと大股に歩み寄る。

「う……」

 がっくりと浄心がその場に両膝をつく。

 必死に嘔吐をこらえるかのように、右手で口元を押さえつけている。

 その身がひどく震えている。

 だが、浄心が抑えようとしているものは、吐物などよりも、もっと――。

 だから何も聞かないでくれと。

 けれどもそれを口走ってしまったこと自体が己の失態なのだと、浄心には痛いほど解っていた。

 錬十郎が聞かずにはいられないことも。

 浄心の目の前に錬十郎も膝をついた。

「貴様……!」

 錬十郎と目を合わせることもできずにいる浄心の胸倉を乱暴に掴み、噛み付くように問うた。

 

「何故、貴様が千尋のことを知っている」


「うっ……」

 必死に口元を押さえていた浄心の指先の間から、どろりとした黒い何かがこぼれ出た。

 同時に、先刻よりももっと深く濃い影が浄心の背後から立ち上がり、瞬時に二人を飲み込んだ。

「やめてくれ、これ以上……」浄心のかすれた声が辛うじて錬十郎の耳に届いた。

 だが、もう何も見えない。

 二人の意識はそのまま影に押し流され、記憶の暗がりをさかのぼってゆく。

 錬十郎の奥底の、秘められた暗い記憶の中へと。


  * * *


 千尋が兄・鉄山を婿にとると伯父から聞いて、錬十郎は吉井川の土手へと向かった。

 野草が茂る土手の斜面に寝転んでいると、鉄山が来て、問うた。

「聞いたのか」

「ああ」

 錬十郎はただ空を見ていた。

 それから、答えた。

「よかったな」

 なのに兄が答えないので、さらに言った。

「千尋が選んだのだろう。ならばそれで良いに決まっている。……伯父上とて、次の桜が見れるかもわからんのだし」

「……俺から話すべきだった」

「どうして」

 やはり兄は答えず、そのまま錬十郎の隣に自分も寝転んだ。

 火床と玉鋼の匂いがした。

――すまない。

 そう、兄は言ったかもしれない。

 だが、よく覚えていない。

「お前は……」

 兄が口を開きかけた時だった。

「鉄山さま。錬十郎さまも」

 土手の上から千尋が声をかけた。

 兄は起き上がり、千尋を迎える。

 錬十郎も立ち上がったが、二人の方を振り返ることなく、その場を立ち去った。


 音を立てて勢いよく障子が開き、錬十郎の前に女がおどり込んできた。

「な……」咄嗟に転がるように体をかわし、そのまま部屋の隅の刀掛けに手を伸ばす。

 深夜の居間にひとつだけ灯った燭台の炎が揺らいで。

 ごろりと、目の前に鉄山の首が転がった。

「なん……!」

 錬十郎の血潮が逆流し、沸騰する。

 だが、次の刹那にそれは音を立てて引き、青ざめた頭と心臓を凍らせた。

「……千尋……?」

 見慣れた千尋の顔は、頬に血糊が散っている。

 婚礼の白無垢は一面に紅葉もみじばを散り敷いたかのようにあけに染まっている。

 真っ赤に濡れた細い手が、しかと刀を掴む。

 血と脂にまみれた刃紋は紛れもなく鉄山の打った刀だった。

 物も言わず斬りかかってくるのを、刀を抜いて受け止める。

――喰われている。

 絶望と理解が同時に訪れた。

「よせ、千尋」

 言葉は、届かない。

「やめないか」

 返事の代わりに無情な斬撃が何度も浴びせられるばかりで、錬十郎は己の刀でそれを受けるのすら苦しかった。

 むき出しの自分が刃を受けるかのようで。

 千尋の振るう切先を払いのけ、身をかわすだけでも、己の中で大切な何かが打ち砕かれていくような痛みを覚えた。

 だからこそ、呼ばずにはいられなかった。

「千尋!」

 代わりに、凍るように黒い声が錬十郎の頭の中に響いた。


 斬ってしまえよ。

 憎い女ではないか。

 そうだ。斬れ。


――違う。……違う。


 この女は決してお前のものにはならない。

 だったら――。


「黙れ!」

「錬十郎さま」柔らかい千尋の声が、そう言った。


――千尋。

 

 左袈裟斬りの太刀が、錬十郎の胸骨を断ち割った。

 己の刀が呆気あっけなく折れて飛んでいくのが見えた。

「つまらんな」

 錬十郎の胸元から飛沫しぶく血煙の向こうで、暗く凍った瞳に千尋の顔をしたそいつが言った。

「こうすればお前を喰ってやれると思ったのに」

 その声を聞きながら、錬十郎の意識が闇に沈んだ。


  * * *


 浄心が唱える念仏の声で、錬十郎は目を覚ました。

 いつの間にか夜が明けていた。

 押さえきれない嗚咽が念仏に混じる。

 浄心は頭を深く垂れ、黒衣の肩はがっくりとうなだれている。

 土饅頭が二つ、その向こうに見えた。

――征綱と、おこう。

 浄心が一人で葬ったのだろう。

 錬十郎が身を起こした気配に気付いた浄心が、びくりと振り返る。

 そのまま力なく、その場にくず折れる。

 錬十郎に顔を向けることすらもできぬまま、地を掻きむしるように両手を付き、地べたに額を擦り付けた。

「申し訳……、申し訳御座いません……!」

 それで、錬十郎にもわかった。

――見たのか、お前も。

 もはや、そう聞くのも愚かな気がした。

「どうすることも出来ないのです」地に頭をつけたまま、浄心が告解する。

「その場所や、そこにある物、或いはその人に私が触れることで、それらの持つ記憶が私を介して勝手によみがえってしまうのです。何度も、何度も……幼い頃からそうでした。ですが、それは決して許されることではありません。人が忘れたいと思う記憶を、隠したい、二度と見るに耐えない光景までをも、むざむざと……私がそこにいるだけで暴き立て、衆目に晒してしまう。……私に見えるだけならば、まだよいのです。私が黙っていればいいのですから。そんなことは容易たやすい。ですが、あのように……」

――我が身に澱む雑念いかんともし難く……。

――断ち切るまでは帰参罷りならぬと……。

――私は死んでも構わない。

 つまりは追い出されたのだ。

 幼い頃に寺に預けられたように、寺すらも浄心を扱いかねたのだ。

 むしろ俗世よりも寺の中に居る者たちにとってこそ、浄心が突きつけてくる自分たちの真実はより醜悪で、存在自体が認めがたいとされたのではないか。

――確かに、こいつは俺の奥底の癒えることの無い傷をえぐった。

 これまでも、そうされた者が他にも数多くいたのだろう。

 だがそこから生々しく吹き出す血潮の激しさとどす黒さは、浄心の所為せいではないはずだ。

 千尋に斬られた胸の傷を、錬十郎は我知らず襟元の上から押さえていた。

 今にもそこから血が飛沫しぶくかのように。

 だが、それが浄心のとがだというのか。

 誰にも、どうすることもできないことだというのに。

 嵐が来れば、木が倒れるように。

 大雨が降れば、川があふれるように。

――俺が千尋を……。

「もういいだろう」錬十郎は立ち上がり、浄心に背を向けた。

「俺は行く」

「え……」浄心が涙に濡れた顔を上げる。

「俺はこの女が自分の探していた女ではなかったと分かった。そしてお前も、自分の行くべき道を遮る者が取り除かれた。もう俺がここに留まるべき理由も、お前と共に行くべき理由もありはしない」

「では……どうなさるのです」

「決まっている。俺は千尋を探す。あては無いがな。だが、あんたにはもう関係ないことだ」

「それでどうするのですか」

「……何?」

 歩み始めた足を錬十郎は止め、振り返る。

「この先も、あなたは千尋さんを探し続けて、追い求めて……そうして遂に見つけ出した時、あなたは千尋さんを一体どうなさるおつもりなのですか」

 泥と涙に汚れた顔で、真正面から問うてくる。

 それが、誰にも明かせぬ奥底の秘密をさらけ出させた罪を自分はこうして背負ってゆく覚悟なのだというかのように。

――ならば……。

 ならばそれに応えるのが礼儀というものだろう。

「知れたこと」

 錬十郎は浄心の前にかがみ込んで再び胸倉を掴むと、己の顔を近づけ、その目を逸らすことなく言った。

「千尋は、俺が斬る」


(終)

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流刃秘抄 日暮奈津子 @higurashinatsuko

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