第3話 シュエの煩悶
ハオと青年が揃って顔を向けると、こちらに向かって駆け寄ってくる者が見えた。
歩くのと変わらない速度だが、本人は必死に走っているつもりなのだろう。
黒い立襟の服に、灰色の細帯が首に掛かっている。人の好い生真面目なおじさん、を体現するシュエは、傍までやってくると、ハオの両肩を掴んで荒い息を吐いた。
「……ハ……オ……」
「シュエ、だいじょぶ?」
「だい……だいじょう……ぶ、おえっ」
「無理すんなよ。どうせ走っても遅いんだから」
「ひど……い、ことを……」
シュエの息が整うのを待つ間、ちらりと隣を見上げれば、黙って立っている青年は興味深そうにシュエを観察している。
「ごめん、もう、大丈夫」
息を整えたシュエがその場でしゃがみ、ハオの顎に手を添えた。困ったような下がり眉の顔が、その表情を曇らせる。
「また、怪我を……一人に、してしまったせいだ。他に怪我は? 痛む? 相手は? ごめん、ぼくが迂闊だった。もう帰ろう。帰ってすぐに手当てをしよう」
たたみかけるように言葉を重ねるシュエの顔は、ここ数週間で頬がこけ、すっかり痩せたように見えた。明らかに疲れ果てている。
ハオは、笑みを浮かべた。
「それよりシュエ、荷物は? せっかくウサギ獲れたのに、どっかに置いてきた?」
村の周囲に広がる森に、二人で行ってウサギを獲ったのはつい先ほどのことだ。幼い頃から猟銃を扱ってきたハオが撃って、二羽を仕留めた。
仕留めたウサギの肉で、今夜はグラタンを作ろうと話していたのだ。荷物をシュエに任せて、ハオはキノコを探しに村外れに向かうつもりだった。
「後で届けて貰うように、お願いしてきたから」
そうやって駆けつけてきたのなら、親切な誰かがシュエに騒ぎが起こっていると知らせたからなんだろう。
ハオは、それで十分だと思う。でもシュエは、満足できないらしい。
「そっか。じゃあ安心だな。なに、そんな怖い顔しないでよ。転んでぶつけだけだってば。シュエのせいでもないし。手分けした方が早く済むって、言ったのオレだし。キノコなら、オレの方が見つけるのうまいしさ」
シュエは、元々ハオの扱いについて色々と思うところがあったようだ。村での扱い、あるいは村の外から来た者がハオに向ける視線や言動について、そして、そもそもの原因であるハオの刺青についても。
ハオが仕方ない、と諦めを口にすれば、シュエは毎回哀しそうにする。そんな顔をしたところで、何も変わらないのに。
特にここ半月ほど。具体的には、ハオの唯一の肉親がいなくなってからだ。
その後のシュエの気遣いは、ハオにとってやや過剰で、息が詰まりそうなくらいだった。
このままでは一人で出歩くこともできなくなりそうだ。そう思って、二手に分かれての買い物を提案したのだ。無事に買い物を済ませて、問題など起きないことを証明する予定だった。
「どうして、こんな……。やはり一人で歩かせるんじゃなかった」
「だいじょぶだって」
心配をありがたいとは思う。血の繋がりもない赤の他人であるハオに、ここまで親身になってくれるのは、世界中を探してもきっとシュエだけだ。
でも、生真面目で心配性なシュエとの生活は、ハオにとって息苦しくもある。ことあるごとに神様に祈ったり語りかけたり、説教臭いことを聞かせてくるのもいただけない。
神様なんて、ハオには少しもありがたいとは思えないのに。
「帰ってちゃんと手当をしよう。だめだ、もう、こんなところ」
シュエがひとり言のように呟いた「こんなところ」とは、一体どこを指しているのだろう。ハオにとって、ここがだめだったとしても、他のどこかなんてない。
シュエの目が、睨みつけるように周囲を見渡す。シュエは本来穏やかで平和な人間だ。そんな怖い目をしないで欲しい。
周囲を見渡せば、どの家でも冬を迎える準備がされている。軒先に吊るされた野菜が風に揺れ、煙突からは煙が出ている。家の中では保存食を作るための煮炊きがされているのだろう。
屋外には、家畜のヤギが草を食む姿がある。人の姿はないが、誰も騒ぎには気付いてないだけかもしれない。
いつもの風景だ。
誰もいない。誰も気付かない。見ない。聞かない。関わらない。
人殺しの刺青を持つハオは、この村ではまるで存在しないものとして扱われる。でもそれは、刺青を持つ者に対する扱いとして、かなりマシな方だろう。
シュエの手が有無を言わせず、ハオの腕を掴んで歩き出そうとした。
「ちょっと、シュエ」
「――失礼」
そのシュエの腕を、別の手が掴んで止めた。
ハオを引きずるようにして歩き出そうとしていたシュエが、掴まれた腕に視線を落とし、辿るようにしてその男の顔を見上げる。
シュエに足を止めさせた青年は、相変わらず優しそうに見える、胡散臭い笑みを浮かべていた。
「少年は確かに、多少鼻血を出すなどしていましたが、もう血は止まっていますし、あとは手足を少々擦りむいた程度です。口内も骨も異常なし。傷口を洗って、心配なら冷やしておくぐらいで、なにも問題はないかと思いますよ」
シュエの疲れた顔が、戸惑いを隠せないでいる。しかし青年が気にする様子はまったくない。
「素行のよろしくない方たちに絡まれていましたので、僭越ながら口を挟ませていただきました。私の方できちんと話を付けましたから、今後も付け狙われる等はないと考えて大丈夫です」
挟んだのは口だけじゃなかった気がしたが、ハオは黙っていることにして口を噤んだ。青年を見上げる目が胡乱になったが、そのハオをちらりと見た青年は、笑みを深めた。まるで、ただの好青年だ。
本当の好青年であれば、いきなり人を殴ることはしないだろうが。
シュエは困惑して、その対応を決め兼ねているようだ。ハオに好意的な、そう思える青年の口調と、言葉のせいだろう。
罪人の証を持つハオにとって、それは滅多にない。あり得ない、と言い換えることもできる。
「あの、あなたは」
「通りすがりの親切な者です。あなたは、この少年の保護者ですか?」
「ああ……ええと、まあ保護者と言いますか、なんと言うか……まあ、そのようなものです」
シュエは質問を返され、しどろもどろに答えた。
改めて問われると、説明に迷う間柄だ。
この村の者たちは皆、ハオがどんな生まれで、シュエとは血の繋がりがないことも承知している。改めて問われることはほぼない。だからこそ、その問いの答えに用意はない。
「あなたがこの村に配属されている助祭で、魔術士のシュエさん、ですね?」
微笑んだ青年の視線が、シュエの耳飾りに向けられた。シュエの左耳には、常に蜜色の石が揺れている。それは、シュエが魔術士である証。
そして青年の目が、シュエが首にかけている細帯、ストラに向けられた。
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