千尋

 黒衣の青年の手は、榛名はるな千尋ちひろの予想に反して暖かかった。


「……去年も、あの楡の木のいちばん上で、僕のこと見てたでしょ」

 千尋はその手をできる限り強く握り返す。

 生死の境を彷徨ったあの夜に見た大きな鴉は、金色の粉を撒きながら、闇夜に融けて消えてしまった。


 今、傍に寄り添うその姿は黒い三揃の背広、白に近い金髪は後ろに撫でつけ、英国紳士のように美しい。

 あの日から千尋は理解していた。

 彼こそが自分を導く存在なのだと。




 千尋は眼を瞑る。

 本当はもっとこの世を見ていたいのだけれど、眼が勝手に閉じてしまうのだ。


 彼は幸福だった。

 母の記憶はないけれど、鏡を見ればそこに母の面影を探すことができた。

 病気は苦しくて辛くて、けれど母から受け継いだものだと思えば、確かな繋がりが感じられる。


 家に仕えてくれる皆が好きだ。

 すぐに体調を崩す千尋の扱いに困っていることには勘づいていた。

 それでも皆、千尋を気遣い優しく接してくれる大切な家族だ。


 半年前、千尋の新しい母になった双葉ふたば

 おもしろくて、歳が近くて、母というよりは姉のような存在のその人は、いつも陽だまりのような笑顔を絶やさない。

 いつの間にか家の中心にいて、そして誰よりも千尋の側にいてくれた。今まで辛い表情ひとつ見たことがない。強い女性だと思う。

 そんな双葉が父を支えてくれる。

 これからもずっと。

 

 父、蒼一そういちは千尋の憧れの人だ。

 纏う雰囲気は近寄りがたいけれど、実直で、他人に厳しい分、自分にも厳しい。

 そんな誠実な父が大好きな千尋だったが、母の形見をひとつも残してくれなかったことは、やはり少しだけ残念だった。

 千尋は幼い頃、その淋しさから枕に顔を埋めて何度も泣いた。

 今ならわかる。きっと父は辛かったのだ。

 すべてを捨て去らなければならないほどに、母を愛していたのだと思う。

 確かめたことはないけれど、そうだったらいい。


 終わりゆく時間の狭間を揺蕩う千尋の口元に、笑みが浮かぶ。




「旦那様、主治医せんせいがすぐに来てくださるそうです」

「だ、旦那様、奥様、坊ちゃまが……!奥様、走ってはいけません!」


 襖の向こうから家令のさかきと女中の花江はなえの声がして、慌ただしい気配が近づいてくるのを、青年の手を握ったまま千尋は聞いていた。

 ぱん、と襖が開く音。自分を呼ぶ声。

 千尋は瞼に力を込めてなんとか眼を開こうとする。

 薄く開いた睫毛の隙間から、支え合うようにして自分に縋りつくふたつの人影が見え、千尋は嬉しくなる。


 やはり彼は幸福だった。

 そんな千尋だったが、気懸きがかりなことがひとつだけ。


 それは、双葉に宿った小さな命。

 千尋にとって、弟か妹になる存在。


 あれは冬の声が聞こえ始めた、穏やかな陽射しが楡の木から降りそそぐ午後だった。

 その日は体調が良く、千尋は双葉と並び縁側に腰掛け、双葉の淹れてくれたお茶を飲んでいた時だった。

「千尋さん、この子のお兄ちゃんになってくれる……?」

 頬を染めた双葉が帯の上に手を添え、慈しむような仕草を見せる。

 驚きながらも、千尋は心の底から喜んだ。


 もしもその子が、自分のような身体に生まれてしまったら。

 それだけが不安だった。

 だから千尋は祈らずにはいられない。

 どうか生まれてくる弟妹きょうだいが、強く明るく、そして自由に生きてくれますように。


 その時、千尋の手を握る黒衣の青年の指先に力がこもった。千尋が霞む眼を向けると、青年は白に近い金の瞳を千尋に向けたまま、虚空に向かい口を開く。

祈願ねがいの」

 初めて聞くその声は、大人とも子供と、ましてや男と女ともつかない声音。

 すると、文机の傍らに黒い外套を頭から被った小柄な人影が現れ、こちらも同様の声で応える。

神饌しんせんには、この栞を貰う」

 小柄な人影は言うや文机の上の本に挟まった栞を摘まむと、跡形もなく消え失せた。

 それを確認した青年が千尋に頷いてみせる。

 大丈夫だと言わんばかりに。


 その栞は、いつか双葉が飾ってくれた半夏生はんげしょうを千尋が押し花にしたものだった。

 不格好だけれど、千尋が初めて自分で作った唯一の物。

 

「――よかった……」


 薄く開いた千尋の口からそう零れると、強く身体を揺さぶられる感覚がして、千尋の上に双葉の涙が落ち、蒼一が祈るようにその名を叫ぶ。

 

「ありがとう……」




 榛名千尋は黒衣の青年と手を繋いだまま、満ち足りたように瞼を閉じると、無数に瞬く星のひとつとなった。




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