蒼一
冬は苦手だ。
凍えるような空気が肺へ入り込むたび、
亡くした妻の名が胸に浮かぶ。
もう十二年も経つというのに、冬になると蒼一は必ず思い出す。
あの年の冬、千歳は病を悪化させ、その季節を越えられずに旅立った。ひとり息子の
先日、その千尋は十五歳になった。
ついに約束の日を迎えたのだ。
蒼一は書斎の窓から
冷え込んだ空気が忍び寄る書斎で、蒼一はひとり書類に眼を落としていた。
銀鼠の紬に黒の羽織を肩にかけ、銀縁眼鏡を外す。静かに灯るスタンドランプの橙色が、凛とした横顔を柔らかく照らしている。
そんな蒼一の思考は、別の場所へと彷徨っていた。
蒼一は徐に机の一番下の抽斗に手をかけ、一瞬だけ躊躇うと、何かを振り払うようにその指先を慎重に手前に引く。
そこには小さな箱が収められていた。
それは蒼一には似つかわしくない、掌にほどよく収まる小ぶりで愛らしい宝石箱。
外装は黒檀を磨き上げたような深い艶を帯び、角には繊細な意匠の金具が施されている。
蓋をそっと押し上げると、内側は深紅のビロード張り。
僅かに甘い木の匂いがふっと立ちのぼる。
その中央には、古風な金のペンダントが静かに眠っていた。
ペンダントは楕円形で、表には精巧な六角形の
中には指先ほどの大きさの、写真が収められる小窓がふたつ。元々は千歳と、一歳になった千尋の写真があったのだが、今はもうない。
千歳は蒼一の遠縁の娘であった。
病弱とは思えぬほど伸びた背筋。奥ゆかしいその瞳には、内に秘めた強さが焔となり凛と灯っている。
蒼一よりひとつ年上という落ち着きが、更にその佇まいに静かな気品を添えていた。
当時の蒼一は、当主となるべく日々己を律し、家を背負う覚悟を固めつつあった。しかしその厳しいだけの時間は、千歳がふと見せた微笑みひとつで、ふわりと解けていってしまう。
眼が合う。千歳が静かに頷く。
その姿はまるで、冬の朝に差し込む清らかな光のようで、蒼一の心は暖かなもので満たされた。
その千歳が亡くなって、蒼一は妻の物すべてを処分した。
写真も着物も、愛用していた硝子細工の簪まで、ひとつも残さずに捨てたのである。
蒼一のその姿に、周囲の者は誰もが非情だと噂した。
その通りだった。物心つかない息子に、母の面影ひとつ残してやらないなんて。
そんな心の内を、蒼一は誰にも打ち明けられずにいた。
残していては、生きていけなかったのだ。
千歳の姿を思い出すたび、彼は悲しみの海の底へと堕ちてゆく。
人は知らない。蒼一の心は誰よりも弱い。
それでも彼には幼い息子、千尋がいた。
千尋のためにも立ち止まってはいられなかった。前へ進まなければ。
だから蒼一は、千歳のすべてを遠ざけたのだった。
それから長い年月が過ぎた。
ちょうど昨年の今頃、千歳に似て病弱だった千尋も十四歳の誕生日を迎えた。息子の誕生を祝うたびに蒼一は安堵した。
今年も無事に歳を重ねられた。
けれど次はどうなるかわからない。
蒼一の心には、安堵と同時に不安の影が色濃く落ちる。
そんな寒さの厳しい夜だった。
千尋が倒れたのだ。
千歳と同じ病だった。
千歳の主治医でもあった禿頭の医者は、蒼一に向かって「もって一晩」と眼を伏せた。
紙のように白い顔で横たわる息子とふたりきりにさせられた。
恐ろしかった。
千歳同様、千尋までもが自分の前からいなくなってしまうのが恐くて、恐くて。
その時蒼一は、自分の心臓が引き絞られる音を確かに聞いた。
母の面影をそのまま写し取ったかのような千尋。奥ゆかしくも凛としたその眼差しは、今は力なく閉じられたまま。
まだ十四だ。
十四歳になったばかりだったんだ。
蒼一は震える手で、人形のように床に伏した息子の手を取る。
まだ暖かい。
この温もりが消えてしまうなんて。
まだ逝かないでくれ。神よ、もう少しだけ。
せめて一年、せめて十五の誕生日を迎えるまでは。
「その願い、聞き届けた」
突然の声に弾かれたように、蒼一が面を上げる。涙に濡れたその眼が見たモノは、黒衣を纏った小柄な人影。
いつの間にか蒼一の傍らに、ソレがいた。
「其方の大切なモノと引き換えに、その願いを叶えよう」
大人とも子供とも、ましてや男とも女ともつかない声音。黒い外套を頭から被り、その容貌は窺い知れない。けれど、確かにヒトではないと蒼一は理解した。
ならば悪魔か。
悪魔が浅ましいこの身の前に姿を現したのか。この魂を喰らうために。
「願いを、叶えてくれるのか。本当に千尋を生かしてくれるのか」
震える声が喉から零れる。
「十五の誕生日まで」
にべもなくソレが言う。
「……分かった。けれど、私の魂はやれない。息子の傍にいて、育てていかなければならない。だから」
「それでいい」
尊大に言うと黒衣のソレは蒼一に向かって指を伸ばした。
「それが其方の大切なモノなのだろう」
ソレが指し示す先、普段は着物で隠しているが、そこには金のペンダントが、蒼一の首から下げられていた。
中には写真が仕舞い込んであった。他の何を捨てても唯一捨てられなかった、息子にも隠して持っていた、何物にも代えがたい写真が。
とん、と着物の上からソレが触れる。
ペンダントに触れた途端――ソレは跡形もなく消え去った。
「……おとう、さん」
そう呼ばれた蒼一が視線を転じると、蒼白だった頬に微かな朱が戻った千尋が、自分を見上げている。
奥ゆかしくも凛とした瞳。
蒼一は千尋の華奢な手を強く握り、深く深く息を吐くと、ゆっくりと微笑んだ。
それは彼の人生で初めて息子に見せた、泣き笑いだった。
それから蒼一は、
周囲から「もしもの時のために、新たな跡取りを」という声があったのも事実だ。
しかしそれ以上に、蒼一は、千尋には側で見守ってくれる母親が必要だと改めて思ったのである。
自分ももちろん息子を愛している。けれど千歳が亡くなってからというもの、息子には強く厳しい父親の姿ばかりを見せてきた。
己を律していなければ崩れてしまいそうになるせいでもあったが、母親がいなくとも強い男子に育ってほしいと願ったのも事実だ。
蒼一はあの夜の後、そっとペンダントを開いて見たのだ。すると、中に入れていた写真はすっかり消えてしまっていた。
偶然ではない。千尋が回復したのは偶然などではなかった。
千尋の命の期限はあと一年。
ならば、己のできることは限られていた。
幾度目かの見合いの席で双葉を眼にしたとき、蒼一はなんて地味な娘かと思った。着飾りもしなければ化粧っ気もない。父親の早乙女殿も汗をかいて苦笑いしている。
「お初におめにかかります」
涼やかでよく通る声音。
次いでその娘は真っ直ぐに蒼一の眼を見つめた。思わず怯みそうになる。
「榛名様、お見苦しくて申し訳ございません。けれどこれがわたし、早乙女双葉なのです」
そう言って微笑んだ。
それはまるで、初夏の風に吹かれても落ちることのない白い小花のように、静謐で力強かった。
冬は苦手だ。
強い風が窓枠を叩く音で、蒼一の沈み込んだ意識は浮上する。軽く掌の中の小箱を握り締めると、元の場所に戻し抽斗を閉めた。
千尋は先日、十五歳の誕生日を迎えた。
黒衣の悪魔との契約が継続しているのか確認するためペンダントを見てみたが、やはり写真は消えたまま。
もういつその時がきてもおかしくなかった。
すると、バタバタと廊下を走る足音が。
次いで慌ただしく書斎の扉がノックされ、「蒼一さん!千尋さんが……!」荒く呼吸を乱した双葉が駆け込んで来たのである。
その様子で蒼一はすべてを理解した。
椅子を押し退けるように立ち上がると、勢いで書類が床に散らばる。
蒼一は倒れ込むように飛びついてきた双葉の小柄な身体をしっかりと抱きとめた。
「千尋さんが!早く……!!」
「わかっている、だから落ち着いてくれ双葉。君にまで何かあっては」
「わたしは大丈夫です!だから早く千尋さんのお傍に」
どこにそんな力があるのか、蒼一の腕を掴んでぐいぐいと引っ張る双葉の肩を掴むと、その暖かい身体を力いっぱい抱きしめる。
ありがとう、千尋の母でいてくれて。
「――行こう」
「はい!」
蒼一は双葉の肩を支え、息子の名を胸の奥で繰り返し呼びながら、冬の闇へと続く廊下を駆けて行った。
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