1-4 鹿と破廉恥と英雄と


 

 

「さて、今から城を出て街を案内しますが、流石に国の人達にアマギさんのことを異界の人だとは紹介出来ないので、リグナスの人ということにしましょう」


 両開きの扉の前で立ち止まったゼリュスが、テルヒコの姿を暫く見定めるように眺めた後にそう言った。


「おうおう。性懲りも無く、さも当たり前のように知らない単語を出してくるな、お前は」


「あ、ごめんなさい。えっと、私たちが今いるのは、ギルリアンの中心街、王都オルビスティアです。リグナスは西の方にある街の名前で、空疎のリグナスなんて呼ばれ方をしています。異界出身のアマギさんの言動やその装いのヘンテコさは、リグナス出身だと言えば大体皆さん納得すると思います」


「え、なに? その街はやべー奴らの巣窟とかなの?」


「いいえ、逆です。あまり住む人が居ないのです。人が住めるような環境では無いので」


「クソ田舎って事かよ。こちとら華の大都会、東京生まれ東京育ちの紛うことなき都会人だぞ」


「アマギさんだって、私の知らない単語をさも当たり前のように言ってますよ」


「それ言われると、ぐぅの音もでねぇわ。ちっとばかし自分本位だった、ごめん」


「生きてきた世界が違うのですから、お互い知らないことが多くて当然なのですよ」


「優しい言葉を吐くなよ。自分の心の狭さが浮き彫りにされてるみてぇで、すっげー嫌。せめて少しでも罵ってくれ」


 そんな会話をしながら、扉を開けて外に出る。石段を降りて街の方へと歩き出した時、

 

「ああああああ!!! 避けてええええええええ!!!」


 テルヒコの耳に、強烈な叫び声が響く。驚いて声の方に顔を向けると――そこには鹿。そう、鹿がいた。全速力でこちらへと駆けてくる鹿が、勢いのそのままテルヒコの顔面を踏みつける。そしてスピードを緩めず、踏みつけたテルヒコを一瞥する事もなく走り去っていく。鹿に踏んづけられたテルヒコは、その身を地面へと叩きつけられていた。


「アマギさんっ!?」


 ゼリュスの声がして、何が起こったのか理解する間もなく、テルヒコは意識を失った。


「きゃああああ! やだ! あの子ついに人踏んじゃった!」


 鹿を追いかけて来たらしい女が急ブレーキをかけて、失神したテルヒコの横で止まる。先程の強烈な叫び声はこの女から発せられたものだった。

 

「ごめんなさい! 大丈夫ですか? お怪我は…そりゃありますよね! 本当にごめんなさい! 死なないで! あの子を人殺しにしたくないの! 生きて! お願い!」


 白目を剥くテルヒコの肩を抱き、その身体を前後左右に激しく揺らす女。テルヒコの頭がぐわんぐわんと激しく揺れる。それに合わせて、揺らしている張本人の深緑色のポニーテールもゆらゆらと揺れていた。


「セレフィア、これは一体何事ですか?」


 名前を呼ばれた女がテルヒコを揺らしていた手を止める。そしてゼリュスの顔を見て、ものすごく見て、ものすんごく見た後に、ハッと閃いた顔をする。


「ゼリュス様……? そのお姿はどうされたんですか」


「もうっ! ゼリュス様って呼ばないでください! 私のことは王ではなく友人として扱ってくださいと、何度もお願いしているではありませんか」


「はい、こちらとしてもそのような無礼なことは出来ないと、何度もお断りしております」


「相変わらず頭の硬い人ですね! 私は王様ですよ! 王様の命令を聞くのは国民の義務なんですよっ」


 自分から王様扱いしないでと言った直後にその権力を振りかざす。その支離滅裂さがゼリュスがゼリュスたる所以なのだ。


「おい、国民じゃないけど死にかけてる奴がここにいるだろうがよ。それ放ったらかしてるやつが王様を語るな」


 三途の川を渡りかけたテルヒコが、怒りの言葉を吐く。ポニーテールの女に激しく揺らされた事で、意識を取り戻せたようだ。それを見た女は両手を絡ませて「生きてる!」と喜びの声をあげた。


「生きてる、じゃねぇんだよ。こちとら三途の川に片足突っ込んできたんだよ。何なんだこの国は。城の外で鹿に顔面踏まれるなんて聞いてねぇぞ。どこが普通の国だ。普通の国って言ったやつでてこいよ、同じ目にあわせてやるから」


「アマギさんが不幸体質なだけですよ。自分の生まれ持った残念なさがを、私の愛するギルリアンのせいにしないでください」


「お前たまにムカつく発言するよな」


 怒りを通り越して真顔になったテルヒコを無視して、ゼリュスが女に話しかける。


「ところでセレフィア、先程アマギさんを踏みつけて行ったのは貴方の鹿ですか?」


 鹿が走り去って行った方向を指差すゼリュスに、セレフィアが申し訳なさそうにその首を小さく縦に振った。テルヒコがものすごい顔でセレフィアを睨みつける。お前が元凶か、と言いたげな顔だ。


「本当にごめんなさい。ちょっと目を離した隙にアグノティタが逃げてしまって。ずっと追いかけてるんですが全然捕まらないんです」


 テルヒコの顔を踏んづけたのはアグノティタ、と呼ばれる鹿らしい。テルヒコが恨みのこもった目でその女に顔を近づける。その無言の圧力に、女が「すみません……」と目を瞑り声を絞り出した。すると何かを考え込んでいたゼリュスが、パッと顔を明るくして手を叩く。

 

「アマギさん、これは善行チャンスですよ! 私達が鹿の捕獲をお手伝いしましょう!」


「は? 普通に嫌だけど?」


 即答で拒否したテルヒコの言葉に、ゼリュスが食ってかかる。


「何でですか!? 貴方には人助けの精神というものがないんですか!?」


「え、だって俺あの鹿に顔面蹴られたんだぜ。普通に腹立ってるし、自分が嫌な事された奴を助ける程、お人好しでもねぇし。ごめんな、これも生まれ持った残念なさがってやつなのかな」


 ゼリュスへの当てつけのような言葉を言うテルヒコに、ゼリュスが頬を膨らませる。


「最低なだめだめ人間ですね! その性根を叩き直すためにも、絶対協力してもらいますからっ!」


「嫌どぇす。僕はここで待ってるので、人助けはゼリュスさんお一人でどぅぞ」


「ムッキィイイ!!」


 殴りかかるゼリュスをテルヒコは片手で抑え込む。届かない両手をぶんぶん振り回しながら、ゼリュスが悔しさの声をあげた。その様子を暫く見ていた女は、おずおずと手を上げ


「あの、お取込み中にすみません、ゼリュス様。こちらの方は?」


 目線でちらりとテルヒコを見る女に、ゼリュスはようやく両手の動きを止めた。そして乱れた前髪を整えながら、


「この人はリグナスから来たならず者ですっ」


「え、リグナス? あの場所に人が住めるんですか?」


「そうなんですよ〜。そのせいで人とあまり関わる機会がなかったのか、人を助ける気概もない、器の小さい人になってしまったんですかね〜?」


 プププと口に手を添えて嘲笑するゼリュスの頭を鷲掴みにしながら、テルヒコは笑顔で女に声をかける。


「どうも、ケツアナの小さい男、テルヒコです」


「なっ、破廉恥!」


 そう叫ぶと、女の右足がテルヒコの脇腹へクリーンヒットする。見事なミドルキック。速さ、キレ、威力。どれをとっても申し分ないほど洗礼されたその蹴りに、テルヒコは為す術もなく地面へと倒された。突然の出来事にテルヒコの頭はクエスチョンマークでいっぱいになる。


「よくもゼリュス様の前でケツアナなどと破廉恥な言葉を! 碌でもない男ね!」


 ゼリュスの耳を塞ぎ、テルヒコから遠ざけるように自分の元へと寄せる女。痛みで震えるテルヒコに、


「大丈夫ですか、アマギさん。気をつけてくださいよ。セレフィアは破廉恥なことが大嫌いな純真無垢な乙女なんですから」


 ゼリュスが哀れみの目を向ける。セレフィアはゴミを見るような目でテルヒコを睨みつけている。


「純真無垢な乙女が初対面の人にミドルキックをかましたりするもんかよ! もしかしてこの国にはまともな女はいねぇのかよ!」


 テルヒコがこれまでに出会ったこの国の女は、頭のイカれてる王様と、初対面でミドルキックをかましてくる暴れ鹿の飼い主のみだ。悲痛な叫びを言うのも無理はない。


 


************************




「では、暴れクソ鹿捕獲大作戦の作戦会議を始めます。指揮を務めるのはこの俺。お前らは俺の言うことを聞いて、指示に従うだけでいい。余計な事はするな。絶対にするな。本当に絶対にするなよ」


 芸人の振りのような言葉をいいながら、テルヒコが厄介女二人に指を突きつける。ゼリュスは「はーい」と元気よく手を上げ、セレフィアは「分かった」と素直に頷く。何故いきなりテルヒコがやる気を出したかというと、鹿を捕まえる手助けをしないなら元の世界へは帰さないとゼリュスに脅されたからだ。だからこの行為は人助けではなくて、自分の為、保身の為の行為。あの鹿がセレフィアが幼少期から一緒にいる兄弟のような存在だからとか、そういうのは関係無い。鹿の身を案じて涙を流したセレフィアを見たからとか、そういうのは絶対に関係ない。


「まずは状況確認だ。あの鹿はどれくらいの間逃げ回ってる?」


「逃げたのが朝ご飯をあげる時だったから、もう五時間くらいずっと追いかけてるわ」


「五時間!? ノンストップで五時間!? 鹿もお前もバケモンか!? ていうかそんなに追いかけ回しても捕まえられないのかよ」


「あの子は弓矢よりも速く走るから、追いかけるので精一杯で…」


「追っかけてる間、鹿を見失ったりとかした?」


「いいえ。ずっと後ろを走ってたわ」


 五時間も鹿と追いかけっこ出来るほどの体力、そして弓矢よりも速く走る鹿を見失わずにずっと後ろを着いてきたという金メダリストも形無しの俊足。流石あの痛烈なミドルキックを放つ脚力は伊達じゃない。


 話を聞き終わった後、テルヒコはその場でぐるぐると円を描くように歩きながら、暴れ鹿の対処法を考え始める。その間、ゼリュスは木の枝で地面に絵を書いて遊び、セレフィアはその様子を笑顔で見守っていた。

 

「……なぁ、ここらへんで動物が水を飲める場所とかあるか」


 しばらくして、何かを思いついたテルヒコが女二人に声をかける。そして足元に広がる鹿の大群が描かれた地面に気付き、ゼリュスの頭を容赦なく叩いた。


「無礼者! ゼリュス様になんてことを!」


「人が一生懸命考えてるすぐ横で遊んでる方が不躾な無礼者だろうがよ」


 流石に言い返せないセレフィアが、悔しそうな顔で唇を噛み、テルヒコを睨みつける。当のゼリュスは「自信作だったのですがお気に召しませんでしたか」と的外れな事を嘆いていた。


「で、水が飲めそうな場所はどっかないのかよ」


「この近くなら広場の噴水と、あとは城の後ろの方に小さな湖ならありますよ」


「うーん、じゃあ湖の方へ案内してくれ。あとゼリュス、お前の力ってこういうのも創れたりする?」


 テルヒコがゼリュスに何かを耳打ちすると「もちろん創れますよ」と親指を立ててほくそ笑んだ。二人のやり取りを見て、セレフィアがその首を横へと傾けた。




************************



 城の後ろは手入れのされていない雑木林だった。

 中に入れば風が吹き抜ける音や、その風に揺れる木々の歌声のような音しか聞こえない。自由にその身を空へと伸ばす大木や、見たことのない実をつける樹木を横目に、膝ほどの位置まで伸びた雑草が蔓延る獣道を進んでやっと、三人は湖のあるひらけた場所へと出た。それは湖と呼ぶにはあまりにも小さく、ほぼ池のようなものだった。しかしその透明度は高く、覗き込めば鏡のように顔が映る。湖の周辺を念入りに調べていたテルヒコが、「よし」と頷く。


「これならいけそうだ。ゼリュス、さっき言ったやつをこの湖を囲むようにぐるっと創ってくれ」


「何をするの? こんな場所にいて本当にアグノティタを捕まえられるの?」


 未だ作戦の全貌を知らないセレフィアが不安げに声を漏らす。ゼリュスが出す光の渦のようなもので取り囲まれた湖を見ていたテルヒコは


「ちょっとした賭けだが、大丈夫だ。俺、賭け事大好きだし得意なんだ」


 そう言ってパチンとウィンクする。

 


 湖全体が見渡せる位置で、テルヒコたちが草に隠れて周囲の様子を伺う。本命はテルヒコ達も通ってきた雑木林の入り口から伸びる獣道だが、相手は動物なのでどこから来るか分からない。三人は視線だけを動かして、いつ来るかもわからない獲物を待った。途中、飽きたゼリュスがぐずりだしたり、早く鹿を捕まえたいセレフィアがそわそわと落ち着きをなくしたりと、なんやかんや色々と面倒事が起きて、その度にテルヒコの叱咤が飛んだ。


「――来た」


 そう言ったのは誰だったか。ガサガサと葉をかき分ける音がして、木の影からアグノティタが顔を出す。待ちに待った瞬間。作戦開始から三時間ほど経っていた。


「アグノティタ…!」


 飛び出そうとするセレフィアの口と体をテルヒコが抑え込む。ここで飛び出したら作戦の意味がない。もっとよく見ようと身を乗り出すゼリュスの体は足で抑え込む。「静かにして見てろ」と小声で囁き、三人の目がアグノティタの動向を見守る。地面の匂いを嗅ぎながら、アグノティタがゆっくり湖の方へと近づく。じりじりと、しかし着実にその距離は縮まっていく。もう少しで湖に届く、という距離まで来てアグノティタの姿がそこから消えた。


「アグノティタ!?」

 

 セレフィアが叫び、テルヒコの制止を抜けて湖の方へと走り出す。その後をテルヒコ達がハイタッチしながら追いかける。アグノティタが消えた場所で、セレフィアがぺたりと座りこむ。やっとこさ追いついたテルヒコが、その背中へと声をかけた。


「作戦成功だな。賭けは俺らの勝ちだ」


 セレフィアが見つめる先には、ふかふかの綿が敷き詰められた穴の中で、観念したようにこちらを見つめるアグノティタ。キュウ、と切なげな声を漏らしている。


「名付けて、追いかけてもダメなら待ち伏せして落とし穴に落っことしてしまおう(動物愛護団体が怖いのでちゃんと鹿の安全面も考慮した落とし穴を用意しました)大作戦だ」


「素晴らしいですアマギさん!」


 紙吹雪を撒き散らし、盛大な拍手を送るゼリュスに


「『作戦名長っ!』とか『()の中要らなくね!?』とかツッコミくれないとボケた俺がスベってるみたいになるじゃん。恥ずかしいんだけど俺。可哀想なんだけど俺」


 不満を言うテルヒコの服の裾を、セレフィアが指で引っ張る。そしてテルヒコを見上げながら、声を震わせた。


「なんでアグノティタがここへ来るって分かったの?」


 頭についた紙吹雪を指で取りながら、テルヒコが歯を見せて笑う。


「追いかけ回して捕まえられないなら、相手の行動を先読みするんだよ。何時間も走り回れば、誰でも喉が乾くだろ。喉が渇いたら水を飲む。それは人間も動物も一緒なんだよ。だから罠を仕掛けた。水を飲む場所は他にもあるかもしれないから、そこらへんは賭け要素だったけど。俺は賭けに強いから、必ず来るって思ってたぜ。無事に捕まえられて良かったな」


「……うん、ありがとう」


 まだ座り込んでいるセレフィアに、テルヒコが手を差し出す。セレフィアがその手を取りながら、今日一番の笑顔で礼を言った。


「本当に凄いです! アマギさん、賢いです! 英雄みたいです! もはや英雄です!」


 しっとりとした雰囲気をぶち壊す女、ゼリュス。

 先程からずっと拍手を続けていたゼリュスが、テルヒコに訳の分からない賛辞の言葉を送る。

 

 賢い=英雄になる道理が分からずテルヒコは苦笑した。隣でセレフィアも笑っていた。ゼリュスは普通の人とはズレた考えを持っていることが、ここまでの経験上テルヒコには分かっていた。その常軌を逸している思考回路を全て理解するのには、莫大な時間を有する。つまり、頭がイカれている変人の考える事は、凡常なテルヒコがいくら考えても答えの出ない迷宮のようなものだ。だからテルヒコはゼリュスの賛辞の言葉を深く考えるのをやめた。


 その後は三人で落とし穴にハマった鹿を救出しようとするも、暴れ鹿がその本領を発揮して激しく暴れ狂い、やっと穴から地上へと引き上げる頃には陽が傾いていた。

 

 アグノティタに手綱のような紐を結えたセレフィアが「本当にありがとう」と頭を下げる。アグノティタはまだ暴れ足りないのか、不満げに鼻息を漏らしている。この調子だとまた脱走する日は近いのかもしれない。セレフィアが嬉しそうにアグノティタの頭や背を何度も撫でる。夕陽に照らされたその横顔は、絵画のように美しかった。


「……黙ってれば可愛いな、あんな女でも」


「私もそれよく言われますっ!」


 何故か誇らしげなゼリュスに「言葉の意味分かってないだろ」とテルヒコの肩が下がる。ボロボロになった三人と一匹は、へとへとの体を引きずりながら帰路についた。

 


 テルヒコの異世界生活一日目は、鹿と女に蹴られるという最悪な始まりだった。しかし最後は疲れさえ心地よい、未だかつて感じた事のない充実感に包まれた一日になった。

 

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