3 光る花

「犯人が分かったんですって?」

 ミミアとリーティーが、遅れて食堂へやってきた。

 リーティーはまだ、痛々しそうに右手の人差し指をぎゅっと握りしめている。

「お手並み拝見といこうじゃねえか」

 窓際の椅子にどっしりと腰かけながら、タンガスは言った。

「一体誰なんです? ユスチルさんを殺した犯人は」

 テーブルの上に置かれたミニチュアの椅子に座り、ポープリッタは言った。

 ナイロットも、ポープリッタと同じテーブルに着いていた。ミミアとリーティーが、入り口から程近いテーブルに着席した。

 シャーバは食堂の中央に立って一同を見渡した。そして、静かに口を開いた。

「ユスチルを殺した犯人は——」

「ちょっと待った」

 ミミアが言った。

「私も分かっちゃった。犯人が誰か」

「ミ、ミミアさん」

 拍子抜けしたようすでナイロットが言った。「今、シャーバさんが謎解きを——」

「だって分かっちゃったんだもん。それに、私が謎を解いた方が、『ねえねえ知ってる? あのホテルの支配人、実は名探偵なんですって!』って、いい宣伝になるでしょ」

「そ、そうですかね……」

「誰なんですか? 犯人は」

 ポープリッタが言った。

 ミミアは、まっすぐに指差した。

「犯人はあんたよ、ナイロット」

「ぼ、僕ぅ???」

「はぁ……。私としたことが、ちょっと考えればすぐに分かることだったわ。従業員であるあんたなら、マスターキーを自由に使うことができた。つまり、被害者が4時半にホテルに戻り、自室に鍵をかけたあとも、彼が寝静まった頃を見計らい、侵入して殺害することができたってことよ。そして朝食のとき、何食わぬ顔で彼の部屋へ朝食を運び、死体を発見するフリをした。わざわざトレイをひっくり返して、腰を抜かす演技までしてね」

「そんなぁ、ミミアさん——」

「動機だってあるわ」

 ミミアはぴしゃりと言った。

「一昨日、被害者が『朝4時過ぎにホテルへ戻る』と言ったとき、あんたは『いつも4時に起きているから、玄関の鍵を開けておく』と言った。でも、あれは嘘よね?」

「嘘?」

 ポープリッタは眉をひそめた。

「この子はいつも朝6時起床なのよ。でも、サービス精神で嘘をついた。お客様に、少しでも快適に過ごしてもらうためにね。そして昨日の夜、被害者は10時に突然フロントに現れ、また、『朝4時過ぎに戻る』と言ってホテルを出ていった。前日、ナイロットが良かれと思っておこなった特別なサービスを、当たり前のように要求してきた。せめて、『今夜も張り込みで帰りが早朝になりそうなんですけど鍵を開けておいてもらえませんか?』とか事前に相談してくれていたら、彼も『仮眠をとっておく』などの対策をしておくことができたわ。でも、そういうのもなかった。それでストレスが溜まった彼は——」

「ちょ、ちょ、待ってください!」

 ナイロットはうったえた。

「僕がいつも6時起きなのは本当です。昨日今日と寝不足が続いて、ぶっちゃけ、しんどいっちゃしんどいです。でも、そんなことで大切なお客様を殺したりはしませんよ! 大体、現場の状況からいって一番疑わしいのは——」

 ナイロットは、テーブルの上の小さな椅子にちらりと目をやった。

「わ、わたし?」

 ポープリッタは口をあんぐりとさせた。

「ぼ、僕見たんです……。死体を発見したとき、ユスチルさんの部屋の窓ガラスが割られているのを……」

 緊張したようすで、ナイロットは説明した。「ポープリッタさんならマスターキーがなくても、隣にある自室から空を飛んでいけば、外側から窓ガラスを割って三階にある被害者の部屋に侵入することができます。それから、眠っているユスチルさんを殺害し、人間サイズのレインコートに血をつけて置いたり、入り口のドアの鍵を開けておいたりして、自分だけに疑いがかからないように工作したんです」

「そ、そんな! 私は修行中の身ですよ! どうしてそんな残忍なこと——」

「色んな修行や儀式をおこなっているからって、過ちを犯さないとはかぎらないですよね?」

 なじるような目つきでナイロットは言った。「現に、妖精による犯罪だってゼロというわけでは——」

「現場の窓ガラスを割ったのは、ポープリッタさんではありません」

 シャーバが言った。

「え?」

 ナイロットは顔を上げた。

「割れた窓ガラスの破片は、室内ではなく、窓の外に落ちていました。つまり、窓は内側から——おそらく、ユスチルと犯人が揉み合っているときに、割られたということです。それに——」

 シャーバはにっこりと微笑んで、ポープリッタの方を見た。

「ポープリッタさんはキラキラしています」

 一同はきょとんとなった。

「それが、なんなの?」

 ミミアが言った。

「昨日の朝9時頃、僕、ポープリッタさんと、階段の踊り場でぶつかったんですよ。その時、床に妖精のキラキラが落ちたんです。それから4時間後、昼の1時に同じ場所を通ったときも、キラキラはまだ残っていました。おそらくですが、妖精のキラキラは、4時間以上は保つのではありませんか?」

「そ、そうです……」

 小さくうつむいて、ポープリッタは言った。「個体差はありますが、短く見積もっても、キラキラは12時間以上は残ります。世界中の妖精たちに確認してもらってもかまいません」

 シャーバは小さく頷いた。

「ナイロットさんは、ポープリッタさんが『部屋に侵入して眠っているユスチルを殺害した』と言いましたが、ユスチルが倒れていたのはベッドの上ではなく、部屋の中央です。つまり、犯人が部屋に侵入したとき、ユスチルはまだ起きていたか、眠ってはいたけれど何者かの侵入に気づいて目を覚まし、少しは犯人に抵抗したことになります。仮に、ユスチルが殺されたのが4時半だとしても、死体が発見されたのは8時過ぎ。その間およそ3時間半。もしもポープリッタさんが犯人なら、揉み合ったときに舞ったキラキラが、現場に散乱したままになっているはずです」

「で、でも、犯行後にキラキラを拭き取ったんじゃ……」

「それが難しいことはあんたが一番よく知ってるでしょ、ナイロット」

 冷静に、ミミアが言った。「妖精の客を泊めたあと、どんなに念入りに部屋を掃除しても、多少のキラキラは残ってしまう。洗濯したシーツやタオルにもね。つまり、12時間以上経たなければ、キラキラを完全に消し去ることは不可能ってことよ」

「た、確かに……」

「シャーバさんたちの言うとおりです……」

 もじもじしながら、ポープリッタは言った。「それに、怪しさでいったら、私なんかよりタンガスさんの方が——」

「な、なんだと!」

 椅子から飛びあがりそうな勢いで、タンガスは言った。

「い、今までずっと黙ってましたけど、私、一昨日の夜からずっとおかしいと思ってたんです。シャーバさんたちが、『町から森へ向かう立て看板が壊れて吹き飛ばされていた』って話をしていたとき」

「それがどうかしたんですか?」

 リーティーが言った。

「覚えてますか? あの時タンガスさんは、リーティーさんに、『それでよく森へ入ろうと思ったな』『危険な目に遭うと思わなかったのか?』って言ったんですよ」

「ええ、そうですけど……」

「私、あのとき混乱したんです。だって普通、看板が壊れて吹き飛ばされていたのなら、『通行禁止』だと知る由もないのですから、迷わず森の中へ入ってしまいますよね? なのにどうして、そんなことを聞くんだろうって……」

「ああ、確かに……」

「どういうことなの?」

 ミミアが言った。

「看板は、まるごと吹き飛ばされていたのではなく、上下真っ二つに割れていたんです」

 シャーバが説明した。「それで、下の『通行禁止』の板だけが残った」

「ほら、やっぱりおかしいじゃないですか!」

 ポープリッタは言った。「タンガスさんは2時に森を通ったとき、看板はまだ壊れていなかったと言っていたんですよ? 看板が真っ二つに割れて、『通行禁止』の部分だけが残っていたことを、どうして知っているんですか!」

 タンガスは黙りこくっていた。

「きっと、タンガスさんが立て看板を壊した犯人なんです!」

 ポープリッタは続けた。「杣師のタンガスさんなら、看板をぶった斬る道具くらい、常に持ち歩いているはずですから。一昨日、ユスチルさんは壊れた看板のことを役所に連絡するようなことを言っていました。もし警察にチクられて、捜査が始まって、自分が看板を壊して逃げた犯人だとバレたら、王都での大事なお仕事も白紙になってしまうかもしれません。だから、ユスチルさんを——」

「お、俺が看板をぶった斬っただとぉ?」

 タンガスは言った。「それはお前さんの推測だろ? 俺はあの日、自分の仕事道具にゃ手も触れていねえ」

「それは嘘ね」

 ミミアが言った。

「あなた自分で言ったじゃない。このホテルに着いてすぐ、『一仕事終えて疲れてる』という理由で、旅商人から栄養ドリンクを買ったって」

「それに、僕、見ました……」

 ナイロットも言った。「チェックインしてすぐ、タンガスさんが、自室で刃物の手入れをしているところ……。あれは、刃物を使ったからじゃ……」

「う……」

 タンガスは言葉に詰まった。それから、観念したように大きなため息をついた。

「……確かに、立て看板をぶっ壊したのは俺だよ」

 一同は揃ってタンガスに視線を向けた。タンガスは続けた。

「あの森の入り口は、枝や蔓が伸びて荒れ放題だったんだ。それを見てたら、なんだか黙っちゃいられなくてよ……。きれいに刈り終えて、それで一息つこうと、後ろの看板に手をかけたら……」


『ふう……』

 バキッ

『あっ……』


「お、折れちゃったんですか……?」

 ナイロットは言った。

 タンガスは深く頷いた。

「一応、割れた方の板を看板の前に立てかけて置いたんだがな。それが風で吹っ飛んじまったらしい」

「それがバレるのを恐れて、ユスチルさんを?」

 ポープリッタは言った。

「いやまさか! そんなことであいつを殺したりはしねえぜ。大体、一番怪しいやつっていったらあいつだろ!」

「あいつ?」

 ナイロットは言った。

「忘れてねえか? 今、202号室で眠ってる誰かさんのことをよ」

 タンガスは天井をあごで指した。それから、ポープリッタの方を見た。

「おめえ、昨日話してただろ。『ハンダーソン事件』のこと」

「え、ええ……」

「道端で倒れていた若造が、介抱された先で殺人を犯すなんて、まるで今回の事件とそっくりじゃねえか。ハンダーソン事件の犯人はまだ捕まってねえんだ」

 タンガスは声をひそめた。「もしかすると、202号室のあいつが……」

「フッ」

 微かな笑い声がした。

 一同は振り向いた。

 微笑を浮かべていたのは、シャーバだった。

「彼は犯人じゃありません」

 楽しそうにシャーバは言った。

「どうしてそう言い切れるんです?」

 ポープリッタは言った。

「みなさん、お気づきになりませんか? ここにいるべきはずの者が、いないことに」

「だから、202号室のあいつだろ?」

 タンガスは言った。

「いいえ」

 シャーバは首を振った。

 リーティーがはっとした。

「もしかして、アキティーヌさん?」

 シャーバは頷いた。

「昨日の夕食時、ミミアさんは202号室にラーメンを運びに行きました。ですがあの時、202号室の彼はまだ眠っていたはずです。いつ起きるか分からない人の夜食に、ラーメンを選びますか? 少しでも時間が経てば、伸びてしまうというのに……」

 シャーバはミミアの方を向いた。

「あのラーメンは202号室の彼ではなく、アキティーヌさんのために持っていったんですよね?」

「そうよ」

 当然のようにミミアは言った。「アキティーヌはラーメンが大好きなの」

「アキティーヌさんはそのあともずっと、202号室にいたのではありませんか?」

「ええ。あの少年がハンダーソン事件の犯人だったら困るから、見張りとして居てくれるよう頼んだわ」

「つまり……」

 リーティーは言った。

「アキティーヌさんに見張られている以上、彼には犯行は不可能ということになります!」

「は、犯人は誰なんです!」

 怯えたようすで、ポープリッタは言った。

 シャーバは静かに、奥のテーブルを見た。

「傷の具合はどうですか? リーティーさん」

「え?」

 人差し指をぎゅっと握ったまま、リーティーは言った。

「今朝は随分と災難続きでしたね。まあ、あなたに殺されてしまったユスチルに比べれば、両手の怪我なんて擦り傷のようなものですが」

 一同は慄いたようすで、リーティーの方を向いた。ミミアが、さりげなく自身の椅子を引いた。リーティーは切迫した面持ちで黙り込んだ。

「あなたが捜査に協力したがったのは、現場写真のためなんかではありません。現場に入り、怪我をすることが目的だった」

「怪我をすることが目的だって? なんじゃそら」

 タンガスは言った。

「おそらくリーティーさんは犯行時、ユスチルと揉み合っているうちに、凶器のナイフで左手を負傷してしまったんです」

 シャーバはリーティーの左手の包帯を指差した。

「ナイフについた血を拭き取ったとしても、現場の床や、死体の衣服に残った血は相当な量です。もしかすると、どこかに自分の血液が紛れ込んでしまったかもしれない。そこであなたは捜査協力という名目で現場に入ると、わざとガラスの小瓶を割って怪我を負い、『現場から自分の血液が検出されても不自然ではない状況』を作り上げたんです」

「…………」

「ですが残念でしたね。有難いことに、ナイロットさんがユスチルの死体にシーツをかけてくれていた。死体のすぐそばにあった凶器のナイフにも、シーツが被さっていました。人差し指を負傷したあの時、リーティーさんの血液が死体やナイフに付着することは有り得ません。もし、シーツの下からリーティーさんの血液が検出されることがあれば、それは犯行時についたもの。あなたが犯人だという、何よりの証拠です」

「ど、動機は……?」

 震える声で、リーティーは言った。「どうして私が、初対面のユスチルさんを——」

「それはもちろん、〝夢〟のためでしょう」

 穏やかに、シャーバは言った。

「『オズワルド・スキン強盗殺人事件』。それが、僕とユスチルが調査を進めていた事件です」

「あれか、資産家が手斧で殺されたっていう——」

 タンガスが言った。

「あれは……恐ろしい事件でした」

 ポープリッタも言った。

「ユスチルが何度も町へ出かけていたのは、その事件の関係者の張り込みをするためでした。あなたはなんとしてでもその事件のスクープを入手し、新聞記者になるという夢を叶えたかったんです。一昨日の夜、ユスチルが張り込みへ向かったあと、あなたは『迷宮の森を撮影してくる』と言ってホテルを出た。外に停めてある黒のいかついバイクは、あなたのものですね? あなたはあっという間にユスチルに追いつき、張り込みに同行させてくれないかと迫った。だがそれを断られてしまったため、ユスチルを殺害。部屋にあった調査資料を燃やしたように見せかけて、まんまと自分のものに——」

「そうです!」

 リーティーは叫んだ。

「確かにあの夜、私はユスチルさんを追いかけました。シャーバさんの言うとおり、張り込みに同行して、スクープ写真をものにできたらいいと思ったんです。でも……」

 リーティーは口ごもった。

「でも?」

 ミミアが聞いた。

「……ユスチルさん、張り込みなんてしてなかったんです」

「えっ?」

 シャーバは言った。

「どういうこと?」

 ミミアは言った。

「私にもよく分かりません。ユスチルさんは町のはずれの、工場のようなところへ行って、仕事をしていました」

「潜入捜査ってことか?」

 タンガスが言った。

「いえ、そんなはずは——」

 シャーバは眉をひねった。「張り込み先は、花屋の二階の、レンガ造りのアパートのはず——」

「でも、ユスチルさんは確かに工場で仕事をしていました!」

 リーティーは言った。「建物の外から姿は確認できたのですが、さすがに中に侵入して仕事はできなかったので……それで、あきらめて引き返してきたんです」

 その時、廊下の向こうから、ぱたぱたと小さな足音が響いた。

 シャーバがふと顔を上げると、アキティーヌと、パジャマにガウンを羽織った少年がやって来るところだった。

「レイ」

 ミミアが言った。「あんた動いて大丈夫なの?」

「ええ、もうすっかり」

 しっかりとした口調でレイは言うと、とぼとぼと食堂に入り、一同の前に立った。アキティーヌはナイロットの隣に座った。

「事件のあらましは、先程、ミミアさんとリーティーさんから伺いました」

 レイは言った。「それで、僕、妙だなと思ったんです」

「妙って?」

 ミミアは言った。

「ええ、犯人はどうして、ユスチルさん〝だけを〟殺したんだろうって」

「『だけ』って……」

 いぶかしんだようすで、タンガスは言った。「それじゃおめえ、他にもターゲットがいるみてえじゃねえか」

「いるじゃないですか。他にも殺さなければいけない人物が。犯人は、ユスチルさんの部屋にあった捜査資料を隠滅している。ですが、みなさんは二日目の昼食時に見ているはずです」

「何を」

 ミミアが言った。

「ユスチルさんが、捜査資料のファイルをシャーバさんに手渡しているところをです。犯人の目的が捜査資料の隠滅なら、シャーバさんのことも殺さなくてはなりません」

「だからよぉ、そこの嬢ちゃんが、捜査資料を燃やしたように見せかけて、まんまとくすねたって話だろ?」

 リーティーの方をちらりと見て、タンガスは言った。

「わ、私はそんなこと——!」

 リーティーは立ち上がった。レイは首を振った。

「捜査資料の他にも、ユスチルさんの部屋からは、あるはずのものがなくなってたんです」

「あるはずの……もの?」

 ポープリッタが言った。

「ええ、車を運転するユスチルさんなら、〝携帯していなければならないもの〟とでも言うべきでしょうか」

「免許証!」

 ナイロットが声を上げた。

「車に置いとく派なんじゃねーのか?」

 タンガスは言った。

「いいえ」

 すぐさまミミアが言った。「宿代を払うときにちらっと見たけど、クラッチバックの中に免許証入れてたわよ、あの子」

「捜査資料を燃やそうとしたとき、意図せずに一緒に燃やしてしまった、とも考えられるんじゃないでしょうか」

 冷静に、ポープリッタが指摘した。

「いいえ。免許証は、犯人によって意図的に燃やされたんです」

 落ち着いた口調で、レイは言った。

「どうして分かるんですか?」

 ナイロットが言った。

「興味深い点は、『金色の花』と、『消えたバーナー』です」

「消えたバーナー?」

 ポープリッタは眉をひそめた。

「ああ、そうなんです。今朝方、キッチンのバーナーが行方不明になったんですよ」

 ナイロットが説明した。「もう見つかったんですけど」

「金色の花っていうのは、ユスチルさんの遺留品のことですね」

 リーティーが言った。「四角いコンパクトと、ボールペンについていました。特に、コンパクトの方にはびっしりと」

「金色の花といえば……」

 ミミアが思い出したように言い、後ろを振り返った。「フロントのカウンターに、誰かが勝手に金色の花を飾ったのよ」

「ああ、あれ……」

 ナイロットが言った。「僕が飾ったんです」

「あんたが? あんな花どこから——」

「昨日の午後、アキティーヌと玄関掃除をしているときに見つけたんですよ——ドアの蝶番ちょうつがいの、ところで——」

「蝶番?」

 タンガスは顔をしかめた。「どうしてそんなところに花なんか」

「さあ。分かりませんけど、キラキラしてきれいだなって思って、フロントに飾ったんです」

 ミミアはうつむき、考え込んでいた。

「どうかしたんですか? ミミアさん」

 隣に座るリーティーが言った。

「あ、いや……関係あるか、分からないけど……」

 困惑したようすで、ミミアは言った。

「ほら、204号室に泊まっていた、旅商人がいたでしょ? あの人、昨日の朝、チェックアウトする少し前にフロントに来て言ったの。『玄関ドアの蝶番が錆びてますよ』って。おすすめの錆取剤さびとりざいがあるって言うから、それを買って、すぐに注したの」

「ああ、だからドアの開け閉めがスムーズになってたんですね」

 ナイロットが言った。「ここ最近、ずっとギーギー言ってましたから」

「でもよう、錆取剤を注したからって、そこに花が咲くわきゃねーだろ?」

 タンガスは言った。

「そ、そうよね……」

 ミミアは少し小さくなった。

「ポープリッタさん」

 突然、レイが名指しした。

「え?」

 驚いて、ポープリッタは振り向いた。

「夕食の時のみなさんの話、お伺いしました。ここにいる宿泊客のみなさん——ユスチルさんも含めると五人の宿泊客のみなさんには、それぞれ王都へ向かう、素晴らしい夢にあふれた目的があった。その話の中で、ポープリッタさんはシャーバさんとユスチルさんにこう言ったそうですね。『事務所を持たず、旅をしながら探偵業を営むなんて素敵だ』と」

「え、ええ……。正直な気持ちを言ったまでです」

 警戒したようすで、ポープリッタは言った。

「しかし同時にこうも言っていた。204号室の旅商人のことについて、『店を構えず、ふらふら歩き回って商売をしている人間は信用できない』と——」

「…………」

「これって、僕には矛盾しているように聞こえるんですが」

「…………」

「あなた、何か知ってるの……?」

 ミミアがたずねた。「あの旅商人のこと」

 ポープリッタは険しい表情で首を振った。

「あの方のことは、まったく存じ上げません。でも……ごめんなさい……『旅商人』と聞くと、どうしても……」

「何があったんですか?」

 優しく、ナイロットがたずねた。

 ポープリッタは話し始めた。

「みなさんはご存じですよね。妖精街の、妖精印の妖精製薬のこと」

「そりゃあもちろん」

 タンガスは言った。

「値は張りますが、ラベルに妖精印があれば、それは安心安全、高品質の証で有名ですから」

 リーティーは言った。他の者たちも頷いた。

「ところが最近、妖精製薬の製品を混ぜ物で薄めた質の悪い品を、『妖精製薬の商品』と偽って売りさばくタチの悪い旅商人があとをたたないんです。そのせいで、妖精製薬への信頼は落ちるばかりか、副作用による健康被害も相次いでいて……。それで、旅商人と聞くとなんとなく腹立たしい気持ちになってしまって、思わずそんな発言を……」

「でもあの旅商人、すごく感じのいい人だったし……」

 ミミアはくちびるをとがらせた。「現に蝶番のサビは取れたんだから、あいつは悪質な旅商人ではなかったってことよね?」

「いいや、錆取剤を注した箇所に花が咲くなんていう、要らねえ現象が起きてんだろ」

 タンガスは言った。「それが、混ぜ物による副作用ってやつなんじゃねーのか?」

「なんですか金色の花が咲く副作用って」

 間の抜けた調子でナイロットは言った。

「〝ファイトマイニング〟」

 レイは言った。一同は振り向いた。

「植物を用いて、金属を回収する技術です。ミミアさんが旅商人から買った錆取剤には、おそらく、混ぜ物として金属集積植物ハイパーアキュムレーターを原料とする金属吸収剤のようなものが含まれていたんです。それが作用して、薬剤を注した蝶番に金色の花が咲いた。そしてそれと同じ花が、ユスチルさんの遺留品にも咲いていたということは……」

「わ、私じゃないわよ!」

 ミミアがすぐさま言った。「私、あの子がチェックインしてから、あの部屋に入った記憶もないもの!」

「犯人が使ったんですよ」

 レイは言った。

「コンパクトとボールペン——おそらく、錆取剤が使われたのは、びっしりと金色の花が咲いていた四角いコンパクトの方でしょう。そして、机の上で作業している最中、備え付けのボールペンに、薬剤が垂れ落ちた」

「じゃあやっぱり、あのボールペンはうちのだったんですね」

 ナイロットは言った。

「一体なんだったんですか? あのコンパクト」

 リーティーは言った。

「ヒントは、ポープリッタさんが聞いた、ガラスの割れる音です」

「え?」

 ポープリッタは小さく言った。

「ポープリッタさんは今朝の5時頃に、ガラスの割れる音を〝二度〟聞いています。二度目は、ユスチルさんの部屋の窓ガラスが割れる音。では、一度目はなんだったのか?」

「何よ、一体」

 急かすようにミミアは言った。

 レイはガウンのポケットから、現場にあった四角いコンパクトを取り出しした。コンパクトの外装は、金色の花でキラキラと輝いている。レイはそれを本でも開くように横開きにすると、中を一同の方へ向けた。

「それはこのコンパクトの中にはめ込まれていた、ガラスが割れる音だったんです」

「ああ、俺ぁ分かったぜ」

 タンガスが言った。

「『コンパクト』って言うから化粧道具かと思ってたがよ、あれじゃねーか、『写真立て』」

「写真立て……」

 コンパクトを前のめりになって見つめながら、リーティーは言った。

「あ……言われてみれば……」

 ナイロットも言った。

「つまり犯人はこの写真立てを発見し、中の写真を取り出そうとしたが、取り出し口のツマミが錆び付いていて取ることができなかった。写真を取り出す一番手っ取り早い方法は、中のガラスを叩き割ってしまうことですが、それでは隣室の人間に気づかれてしまう恐れがあります。だから、錆取剤を使うことにした。ミミアさん、錆取剤をしまった場所は?」

「一階の廊下の突き当たりの、納戸だけど……」

「なんでもあそこに突っ込んじゃうんですよね、ミミアさん」

 ナイロットは言った。

「つまり、錆取剤は誰でも持ち出せる場所にあったわけか」

 鋭く目を細めて、タンガスは言った。レイは頷いた。

「ですが玄関ドアの蝶番とはちがい、頑固なサビに覆われていた写真立てのツマミは、錆取剤では歯が立ちませんでした。金属吸収剤の効果が表れるまでに、時間がかかるせいもあったのでしょう。そこで犯人は、部屋に備え付けのマッチで写真立てを炙ることにした。熱を加えることにより、サビによる固着を弛める効果が期待できますからね。机の上に、資料を燃やすには多過ぎるほどの、使用済みのマッチが残っていたのはこのためです。ですがそれでもツマミが弛まなかったため、犯人はもう一度部屋を出て、あるものを取りに向かった」

「あるもの?」

 ナイロットは言った。

「もしかして……」

 ポープリッタが言った。「それが、例の『消えたバーナー』、ですか?」

 レイは頷いた。

「ホテルの夕食には、焼きおにぎりやカツオのたたきが出されたそうですね。犯人はナイロットさんが調理しているところを見て、キッチンにバーナーがあることをあらかじめ知っていたのでしょう。犯人はキッチンへ忍び込み、バーナーを持ち出すと、もう一度写真立てを炙った。けれど、それでもツマミを開くことはできなかったんです」

「じゃあ、どうすんの?」

 ミミアは言った。

「仕方なく、写真立ての中のガラスを割ることにしたんです。この時の音が、ポープリッタさんが聞いた、〝一度目〟のガラスが割れる音です」

「ちょっと待ってください!」

 リーティーが言った。

「ポープリッタさんがガラスの割れる音を聞いたのは、今朝の5時頃でしたよね? その時間までに、犯人は納戸から錆取剤を持ち出したり、マッチを燃やしたり、キッチンからバーナーを持ち出したり……これだけいろいろな作業をこなしたということは、5時より前にはもう、ユスチルさんは死んでいたことになります。でも、二度目のガラスの割れる音は、ユスチルさんの部屋の窓からだった。あれは、ユスチルさんと犯人が揉み合っているときに、窓ガラスが割れた音じゃなかったってことですか?」

「二度目に聞こえたのは、間違いなく部屋の窓ガラスが割れる音です。でも、ユスチルさんと犯人が揉み合ったせいで割れたわけではなかった。写真立てのガラスの破片を隠滅するために、犯人がわざと窓ガラスを割ったんです。そして、ガラスの破片を窓の外に落とし、窓ガラスの破片に紛れ込ませた」

「一体どうしてそんなことを……」

 ポープリッタが言った。

「〝わざわざガラスを割ってまで写真立てから写真を抜き取った〟という事実を隠すために、この四角いコンパクトが写真立てであることを、分からなくしたかったんですよ。その時にはもう、金属吸収剤の効果で、写真立ては金色の花に覆われはじめていたのでしょう。写真とガラスを取り去ってしまえば、写真立てはきれいな花飾りがついた、金属のコンパクトにしか見えなくなる。いいですか——」

 レイは真剣な顔を作った。

「先程リーティーさんが話していたように、犯人はユスチルさんを殺害してから、5時頃に写真立てのガラスを叩き割るまでの間に、様々な隠蔽工作を行っています。逆算すると、ユスチルさんの死亡時刻は、おそらくホテルに戻った4時半過ぎ。それから犯人は、納戸へ行って錆取剤を持ち出し、部屋に戻って写真立てに薬剤を注した。そのあと、マッチの火で写真立てを炙り、もう一度納戸へ行って錆取剤を元の場所へ戻すと、今度はキッチンへ行ってバーナーを持ち出し、部屋に戻ってもう一度写真立てを炙る。それからまたキッチンに行ってバーナーを元の場所へ戻し、部屋に戻って写真立てのガラスを叩き割って中の写真を取り出したあと、さらに窓ガラスを割って破片を隠滅した。つまり、犯人はなんとしてでも写真を隠滅したかったし、同時に、『写真を隠滅した』という痕跡すら隠滅したかった。廊下をうろついていれば、誰かに見つかってしまうかもしれない。音を立てれば、誰かに聞かれてしまうかもしれないというリスクを承知で——。ここまで来れば、ユスチルさんの免許証が燃やされた事実も、偶然ではないということが分かっていただけるはずです。犯人の目的は、ユスチルさんの顔写真を燃やすこと。捜査資料は、そのカムフラージュのために燃やされたんです」

「顔写真って……」

 ミミアは眉根を寄せた。「燃やしたところで、私たちにはもう、顔は割れちゃってんじゃない」

「タンガスさん」

 レイは言った。

「失礼ですが、年齢はおいくつですか?」

「お、俺か?」

 いぶかしみながら、タンガスは答えた。「56だが……」

「確か夕食の時の話では、16歳のときに奥さんと行ったきり、王都へは行っていないということでしたね?」

「ああ、そうだぜ」

「そしてこうも言っていた。二年前に王都で起きた、『ハンダーソン事件』の現場である屋敷の前を通ったことがあると」

「ああ、そ——あ、あれ?」

 言いながら、タンガスは首をかしげた。

「なんか矛盾してません?」

 ナイロットも顔をしかめた。

「16歳ってことは、今から四十年前ってことでしょ?」

 ミミアは言った。「四十年前に王都へ行ったきりって話が本当なら、二年前に起きたハンダーソン事件の現場へ行ったはずがないじゃない。何よ。あんたまたしょうもない嘘ついてたの?」

 ミミアは軽蔑のまなざしを向けた。

「ちがう! 俺は確かにハンダーソン事件の現場へ行ったさ!」

 慌ててタンガスは言った。そして思い返しはじめた。「でも……あの事件……ほんとに二年前だった、か……?」

「『妖精は20歳になると、人間と契約を交わして、御付きとなって働く』」

 レイは言った。

「そしてその御主人を探すため、ポープリッタさんは王都を目指していた。ということは、ポープリッタさんの現在の年齢は、20歳ということですね?」

「は、はい……」

 歯切れ悪く、ポープリッタは言った。

「でも夕食の時にご自身で説明していたとおり、妖精は寿命が長い。おそらくですが、ポープリッタさんの言う『20歳』というのは、『人間の年齢に換算すると』ということなのではありませんか?」

「そ、そうです。人間と交流する場合には、妖精たちは、いつもそうしています……」

「じゃ、じゃあ、ポープリッタさんの実年齢は?」

 ナイロットが言った。

「400歳です。人間の一年は、妖精にとっての二十年だとよく言われます」

「じゃあもしかして、ハンダーソン事件が起きた『二年前』っていうのも?」

 リーティーが言った。

「ええ。タンガスさんは嘘を言っていません。ハンダーソン事件は、私が360歳のとき——今から四十年前に、王都で起きた事件です」

「でも、それっておかしいじゃない」

 ミミアが言った。

「被害者は夕食の時に語っていたでしょ。ハンダーソン事件が起きたとき、テレビや新聞が、連日その話題で持ちきりだったって——。私は、宿帳を管理しているから分かるの。あの子は現在28歳よ。事件が起こったのが四十年前なら、まだ生まれていないはずでしょ? どうして生まれていない人が、事件のことを、まるで見てきたかのように語れるのよ」

「ユスチルさんは、年齢を偽っていたってことじゃないですか?」

 ナイロットは言った。「だとしたら、顔写真が燃やされた理由も、納得がいきます」

「うーん……どんなに若作りだったとしても、俺には、あいつが40より上には見えなかったがな」

 タンガスは言った。

「きっと若返りの魔法を使ったんですよ!」

 リーティーが言った。

「魔法?」

 きょとんとして、ポープリッタは言った。

「ユスチルさんは魔法が使えたんです! トランクの中にも、魔導書やペンデュラムがありました! ほら、タンガスさんやポープリッタさんが持っているのと同じ、月と星の紋章が入った——」

「月と星? ああ、ありゃあ……」

 タンガスはこめかみを掻いた。

「あの、月と星のペンデュラムは、魔道具ではありません」

 丁寧に、ポープリッタは言った。「おそらく、タンガスさんの書物も……」

「え? じゃああの本とペンデュラムは?」

「ありゃ『年金の書』だぜ」

 あっけらかんと、タンガスは言った。

「私の方は、『年金ペンデュラム』です」

 ポープリッタも言った。

「なんなの、その、年金の書とか年金ペンデュラムとか」

 ミミアは言った。「公的年金制度の加入者に交付される被保険者証って、『年金カード』じゃないの?」

「僕もそう思ってました」

 ナイロットも言った。

「今の若いやつぁ知らねえだろうがな、昔は、書物やペンデュラムだったんだ」

 タンガスは言った。

「年代によって、被保険者証の形態は異なります」

 ポープリッタが説明した。「私が持っている年金ペンデュラムは、現在70歳より上の人が持っているものです。その後、タンガスさんが持っている年金の書に移り変わり——これは、初めは緋色のカバーで、のちに紺色に変更されました。そして、今の20代以降の方——ミミアさんやナイロットさんが持っているのが、年金カードというわけです」

「ユスチルさんはどうして、年金の書とペンデュラムの両方を持っていたんでしょうか?」

 リーティーが言った。「身分証を提示するとき、年齢を偽るため?」

「いや、28歳に年齢を偽るのなら、年金カードの方を持っていないとだめだろう」

 タンガスは言った。

「それを紐解く鍵は、ユスチルさんの荷物の中にあった、これに隠されています」

 レイはガウンのポケットから、一冊の通帳を取り出した。

「通帳で何が分かるの?」

 ミミアが言った。

「ここを見てください」

 レイは通帳を開いた。


 《オルワッタートコッカネンキンキョク》


「あれ? もう年金受給してるじゃない」

 ミミアが言った。「年金の支給って70歳からよね?」

「持ち物の中に年金ペンデュラムがあったことを踏まえても、ユスチルさんの実年齢は、70歳以上、と考えるのが妥当ではないでしょうか」

 ポープリッタは言った。

「ペンデュラムがユスチルさんのものだったとすると、年金の書の、持ち主は——」

 リーティーは言った。

 一同は、通帳を手にしたレイから、視線をほんの少しずらした。

 背後にはもうひとりの探偵が、顔をこわばらせて立っていた。

「そうだ! あんた確か40歳でしょ!」

 ミミアがずばりと言った。「シャーバ・スタヤバーン 40歳 探偵。宿帳に、弟さんがそう記入したの。ずいぶん歳の離れた兄弟だなって、あのとき思ったのよ」

「年金の書の色からも、年齢とぴったり合うな」

 タンガスが言った。「紺色の年金の書は、確か俺より下の年代——今の40代以降のやつだ」

「じゃあ何よ。こいつは40にもなって、大事な年金の書の管理を、弟に押しつけてたってこと?」

 ミミアは言った。

「弟——というより、兄ですよね? ユスチルさんが70代、シャーバさんが40歳なんですから」

 ポープリッタは言った。

「兄——というより、ここまで来るともう——」

 ナイロットがそう言いかけたとき、シャーバが吹き出した。

「ちょっと待ってください。話が飛躍しすぎですよ。弟が、40以上も年齢をサバ読んでたなんて。みなさん忘れたんですか? 弟は僕の探偵助手ですよ? 捜査の過程で、70歳の老人に変装することだってありますよ。あの年金ペンデュラムは、そのための小道具です」

「なら、リーティーさんと現場を捜索したとき、どうしてそう説明しなかったんですか?」

 レイは言った。

「あなたは知らなかったんです。車の運転、チェックインの手続き、貴重品の管理——。面倒事をすべてユスチルさんに押しつけていたせいで、あの書物やペンデュラムが、年金の被保険者証だということさえ分からなかった。そしてあなたは〝勘違い〟していた。ユスチルさんは〝魔法を使って〟若返っていたのだと。だからあの年金の書やペンデュラムを見つけたとき、瞬時に魔道具だと思い込み、リーティーさんの見ている前で書物を開くことを避けた。若返り術に関する記載があれば、ユスチルさんが年齢を偽っていることを悟られてしまうかもしれませんからね」

「おい待て、若返りの魔法が『勘違い』ってことは、あいつは、一体どうやって見た目を偽っていたっていうんだ」

 タンガスは言った。

「リーティーさん」

 レイは振り向いた。「もう、手を離して大丈夫ですよ」

「あ、はい……」

 リーティーはぎゅっと握りしめていた右手の人差し指から、左手をそっと離した。

 そこには、包帯や絆創膏どころか、かすり傷ひとつない瑞々しい指先があるだけだった。

「あれ?」

 ナイロットは目をぱちくりさせた。「さっきはあんなに血が出てたのに」

「それがね」

 ミミアが言った。「手当てをしようと思ったら、みるみるうちに傷口が塞がって、あっという間に治っちゃったの」

「どういうことですか?」

 ナイロットは振り向いた。

「ユスチルさんの部屋にあったガラスの小瓶は、栄養ドリンクではなく、『若返り薬』だったんです」

 レイは言った。

「そして、落として割れたガラスの破片を拾うとき、リーティーさんは指先に傷を負ったのと同時に、破片に僅かに付着していた薬液に触れてしまった。それで、傷口がすぐに治癒したんです。ナイロットさんの、『ユスチルさんは不気味なくらい顔色が悪いように見えた』という証言から、あの小瓶の中身は、純粋な若返り薬ではないと思われます。おそらく錆取剤と同じ、204号室の旅商人から買った、混ぜ物の入った若返り薬……」

「そういえば、聞いたことがあります……」

 ポープリッタが言った。「粗悪な若返り薬には、本来、生き物が摂取するべきではない、『復元薬』が混ぜられていることが多いと……」

「なるほど。だからユスチルさんは、あんなに具合が悪そうだったんですね」

 ナイロットは言った。

「ちょ、ちょっと待て!」

 タンガスが言った。「金属吸収剤だの復元薬だの、さっきからあの旅商人の悪評ばっかり叩かれてるがよ」

 タンガスはポケットからガラスの小瓶を取り出した。

「俺はあいつからこの栄養ドリンクを買ってもう何本も飲んだが、このとおり、ぴんぴんしてるぜ?」

 ミミアが急に席を立ち、ずんずんとタンガスの方へ向かった。それから目の前に立つと、小瓶をひったくるように奪った。

「おい、な——」

 タンガスの言葉も聞かず、ミミアは瓶の封を開けると、腰に手を当て、ドリンクを一気に飲み干した。それから、手の甲で豪快に口元をぬぐった。

「…………これ……ただの砂糖水じゃない……」

「えっ」

「リーティーさんに副作用が表れなかったのは、おそらく、薬が経口投与ではなく、ほんの少量が傷口に塗られただけだったからでしょう」

 レイは言った。「つまり、あの旅商人は、ただの詐欺師です」

「やっぱり……あの人……」

 心底忌々しそうに、ポープリッタは言った。

「ユスチルさんが若返り薬を使って年齢を偽っていたのは分かりましたけど……」

 ナイロットは言った。「一体、なんのために?」

「よっぽど若さに執着してたとか?」

 ミミアが言った。

「最初の日の夕食の席で、シャーバさんとユスチルさんはこう話していたそうじゃないですか」

 レイは言った。

「『伝説と謳われた名探偵である、行方知れずの父親を捜している』と——」

「そ、そうですが……」

 ナイロットは言った。

「それと若返りと、なんの関係があるの?」

 ミミアが言った。

「つまり、『行方知れずの父親を捜す』というシャーバさんの夢を叶えるには、ユスチルさんは、〝本来の姿〟では存在してはいけなかったということです。そして〝探偵をやりたい〟シャーバさんのために、自分は探偵助手の弟を演じつづけていた」

「演じてつづけていた?」

 シャーバは鼻で笑った。

「君は眠りこけていたせいで知らないだろうけどね、弟は昼も夜も町へ行って張り込みをしていたんだ。僕はその調査ファイルも受け取っている。確かに、弟は張り込みを——」

「まだ分からないんですか」

 鋭い口調で、レイは言った。

「ユスチルさんが張り込みと偽って、一体何をしていたのか——」

「潜入、捜査……?」

 リーティーが言った。

 レイは首を振った。そしてユスチルの通帳を開いた。

「もう一度、これを見てください」

 ミミアが通帳を奪い、履歴をまじまじと見つめた。年金以外に、毎月あるところからの振り込みが記録されている。

「……トキノマホウ、キョウカイ……?」

 横から通帳を覗き込みながら、ナイロットが言った。

「魔術関係の副業をしていたんでしょうか?」

 ポープリッタが言った。「ユスチルさん、若返りの魔法は使えなくとも、修復魔法は使えたんですよね?」

「ちがうわ、これ、スキマバイトの仲介業者じゃない!」

 ミミアが言った。それから、リーティーの方を振り返った。「あんたが見たのは潜入捜査じゃなく、被害者が工場でスキマバイトをしているところだったのよ!」

「じゃあ、二日目の昼間に『張り込みに行く』って言っていたのも?」

 ナイロットは言った。

「勤務先はちがうかもしれませんが、おそらくここから程近い距離にあるバイトへ行っていたのでしょう」

 ポープリッタは言った。「シャーバさんとユスチルさんは事務所を持たず、町を点々としながら探偵業をしています。副収入を得るには、定職に就くよりも、スキマバイトの方が都合がよかったのでしょう」

「副収入どころか本業ですよ」

 レイは言った。「シャーバさんに、探偵業によって得られる収入はありません。そしてユスチルさんの少ない年金では、二人で世界中を旅をしながら食べていくことは難しかった。だからユスチルさんはシャーバさんの夢を壊さぬよう、『張り込みに行く』と嘘をつきながら、日夜スキマバイトに励んでいたんです」

「口を挟むようで悪りぃけどよ」

 腑に落ちないという面持ちで、タンガスが言った。「被害者が、まったく張り込みをしていなかったってのは、ないと思うぜ」

「何を根拠に」

 ミミアが言った。

「実はな、二日目の昼——あいつがこいつに、できあがった捜査資料のファイルを手渡すとき——中を少し——ほんっっっっの少しだけ見たんだ。いや、わざとじゃないぜ。たまたまチラッと目に入って——」

「分かったから」

 苛立ったようすでミミアは言った。「それがどうしたの」

「いや、俺が見たファイルの中には、まとめた捜査資料がちゃんとあったぜ。ワインレッドの髪の、美人のねーちゃんの写真でよ、窓辺の花に水をやってた。それって、張り込みのときに撮った写真だろ? だからよ、実績は少ないとはいえ、探偵業は、細々とやってたんじゃねえのか?」

「レイチェル・バレット——」

 シャーバは呟いた。

「彼女は、オズワルド・スキン強盗殺人事件の犯人の、共犯者と目される人物です。彼女を張り込むために、弟は町へ——」

「それは、実際にあなたが捜査をして得た情報ですか?」

 レイは言った。

 シャーバは黙りこくった。

「あなたは安楽椅子探偵だ。足で捜査していない。ユスチルさんがでっちあげた資料や報告を、鵜呑みにしていただけです」

「じゃあ、俺が見た写真は……」

 タンガスは言った。

「ユスチルさんが隠し撮りした、事件とはまったく関係のない人物です。彼女の名前がレイチェル・バレットなのかどうかも、疑わしいところですね。ユスチルさんは捜査資料として捏造できそうな写真や物証を、日頃から収集していた。現場で顔写真とともに燃やされたのは、そういった偽の捜査資料のストックの数々でしょう。『父親を捜すついでに、旅先で遭遇した事件を解決したり、警察に捜査協力をしたりしている』とユスチルさんは言っていたようですが……それもどうでしょう。シャーバさんは一日中新聞を読みふけり、首を突っ込みたい事件の記事を見つけると、勝手な推理をめぐらせて、ユスチルさんに外での捜査を指示する。もちろん、シャーバさんは警察や依頼人とのやり取りさえもをユスチルさんに押しつけていたでしょうから、最終的な事件の謎解きも、ユスチルさんにだけ披露していた。そしてユスチルさんはその推理を依頼人に報告したフリをして、後日、『兄さんの推理は当たっていた』『事件は解決した』などと伝えていただけの可能性が高いです」

「どうりで……」

 ぽつりと、リーティーが言った。

「何が?」

 ミミアは言った。

「いえ、ユスチルさんの部屋を調べていたとき、バスルームの中も調べたんですけど……。なぜか、薬品の匂いがしなかったんです」

「薬品?」

 ナイロットは言った。

「フィルムの現像に使う薬品です。ユスチルさんはシャーバさんに捜査資料のファイルを手渡すとき、『昨日の分』と言っていました。早朝、ホテルに戻ってからフィルムを現像したとすれば、客室の中で暗室の代わりとして適当なのはバスルームしかありません。でも、薬品の匂いがまったくしませんでしたし、ユスチルさんのトランクの中にも、現像に必要な道具が何ひとつなかったんです。町へ行って写真屋さんに頼んだとも考えられますが、ユスチルさんが張り込みに行くと言って出かけていた前日の夜から朝方の間、町の写真屋さんは閉まっていますし、朝食のあとも、ユスチルさんは資料をまとめると言って自室にこもっていました。昼食時に資料のファイルを渡すまでの間、ユスチルさんには町の写真屋さんへ行く時間はありません。つまり、ユスチルさんが『昨日の分』と言って手渡した『レイチェル・バレット』なる人物の写真は、実際にはそれよりも前に撮られたものってことです」

「それじゃあいつは、捜査や張り込みじゃなく、本当に毎日スキマバイトを……」

 タンガスは言った。

「そう。昼と夜はスキマバイト、朝になれば調査資料の捏造——。ほとんど寝る暇もないのですから、わざわざホテルに泊まらずとも車中泊で十分だったでしょうし、お金の節約にもなったことでしょう。でも、ユスチルさんはこのヴァクシーホテルに泊まった。あなたに、温かいベッドと、温かい食事を用意するために——」

 レイはまっすぐにシャーバを見た。

「ユスチルさんのそんな愛情にも気づかず、あなたは彼を殺したんです」

 シャーバは押し黙っていた。

「まずあなたは、フロントが空になる深夜0時を見計らって一階へ向かうと、犯行に使うナイフとレインコート、ゴム手袋を入手した」

「そうです、それらは、誰でも手の届く場所にありました」

 真剣な表情で、ナイロットは言った。

「ナイロットさんやポープリッタさんの証言から、ユスチルさんがホテルに戻ったのは、早朝4時半。あなたはユスチルさんが部屋に戻ったことを確認すると、レインコートとゴム手袋を身につけて彼の部屋に向かい、仕事で疲れ切っていたであろうユスチルさんを、ナイフで滅多刺しにしたんです」

 シャーバは鼻で笑った。

「弟が4時半に部屋に戻ったのは、僕も知ってるよ。ポープリッタさんと同じように、足音を聞いたんだ。でも、そのあと僕は二度寝した」

「二度寝してから、またすぐに目を覚ましたとしたら……?」

 レイは言った。

「あなたは5分くらい気持ちよく二度寝したあと、ユスチルさんの部屋に向かい、犯行をおこなった。そしてユスチルさんの年齢が分かるものを燃やし、同時に、そのカモフラージュのために捜査資料も燃やした。だがここで、思いもよらぬアクシデントが起こった」

「コンパクト型の写真立て、ですね?」

 リーティーが言った。

「そう。そこには、今より歳をとったユスチルさんの姿が写っていた。が、ツマミが錆びついていて取り出すことができなかったため、あなたは一階へ下り、納戸にしまってある錆取剤を取ってくると、それを使って錆を落とそうとした」

「そういえば」

 ミミアは言った。

「私が錆取剤を納戸にしまったあと、廊下でこいつとすれ違ったわ」

 ミミアはシャーバの方を見た。

「あの時、私が錆取剤をしまったところを見ていたのね」

「しかし、錆取剤を使っても、備え付けのマッチを使っても、錆を弛めることはできなかった。焦ったあなたはもう一度一階に下り、キッチンからバーナーを持ってくることにした」

「そういえば」

 ナイロットは言った。「キッチンで焼きおにぎりやカツオのたたきを準備しているとき、シャーバさんはいつも興味深そうに僕の方を見ていました。キッチンにバーナーが置いてあることも、すぐに分かったはずです」

「でも、そのバーナーを使ってもサビを弛めることはできなかった。そこであなたは、隣室のポープリッタさんが目を覚ましてしまうのを覚悟で、写真立てのガラスを割ることにした。そして写真立てから写真を抜き取ったことを分からなくするために、窓ガラスを割って写真立てのガラスの破片を紛れ込ませ、抜き取った写真を燃やし、写真立てがあたかもただのコンパクトであるかのように見せかけた」

「うーん……いまいちよく分かんねえんだがよぉ……」

 タンガスは頭を掻いた。「あいつの金で生活ができて、あいつの御膳立てで探偵ごっこができていたわけだろ? なんで殺す必要があるんだ」

「それに、二人は今まで、ずっと一緒に旅をしていたわけですよね? どうして今更?」

 ポープリッタは言った。

「よりにもよってうちのホテルで殺さなくたって、よかったんじゃないの?」

 ミミアは言った。「誰にも見られずに殺すチャンスなら、いくらでもあったはずでしょ?」

「現実を、突きつけられたのでしょう」

 静かに、レイは言った。

「現実?」

 ナイロットは言った。

「初日の夕食の席で、リーティーさんが話したそうですね。王都にいる、謎のベールに包まれた名探偵のことを——」

「ああ、確か——その探偵はこう言っていたんですよね」

 思い返しながら、ナイロットは言った。「『私は謎を解き明かすのが仕事だが、同時に、私の存在そのものが、〝解き明かされるべき謎〟でもある』——でしたっけ?」

「そ、そうです」

 リーティーは言った。「以前スクープを探していたとき、耳にした情報です。シャーバさんたちがお父様を捜していると聞いて、もしかしたらと思って——」

「仮にその謎めいた名探偵が、実在したとしましょう。でも、それがシャーバさんの父親であるということは絶対にありえない。なぜならシャーバさんの父親は——」

「証拠はあんのかよ!」

 シャーバが叫んだ。

「さっきから聞いてりゃ勝手なことばっか言いやがって。全部お前の推論だろ? 俺が弟を殺したっていう証拠はあんのかよ!」

 レイはふうっと息をついてから、ナイロットの方を見た。

「ナイロットさんは、こう証言していたそうですね。『今朝の5時過ぎに、キッチンでマシュマロを焼こうと思った』と」

「そ、そうです」

 少し不安げに、ナイロットは言った。「その時に、バーナーがなくなっていることに気づいたんです」

「みなさん、よーく考えてみてください。朝の5時に、マシュマロを焼く人がいるでしょうか」

「えっ」

「言われてみれば……」

 ミミアは眉をひそめた。

「唐突過ぎますね……」

 ポープリッタが言った。

「不自然だぜ、どう考えても」

 タンガスも言った。

「ちょ、ちょっと待ってください! 何も変じゃないですよ!」

 慌ててナイロットは言った。「これには、ちゃんと理由があるんです!」

「理由?」

 ミミアはじろりとナイロットを見た。

「リ、リーティーさんからルームサービスの注文が入ったんですよ! 徹夜で新聞記事のスクラップをしていて疲れたから、温かいココアが飲みたいって! それで、ココアの上にマシュマロをトッピングしようと思って——」

「そ、そうです……」

 おそるおそる、リーティーは言った。「ナイロットさんが、『4時には起きている』と言っていたので、いけるかなと思って……」

「左手の包帯は、その時にできたものですね?」

 レイは言った。「熱々のココアをこぼしたときにできた火傷——」

「火傷?」

 タンガスは言った。「スクラップをしていてできた傷じゃなかったのか?」

「スクラップをしている最中に、熱々のココアをこぼしてできた火傷なんです」

 リーティーは言った。「ミミアさんがすぐに処置してくれたので、大事には至りませんでしたが……」

「朝っぱらから叩き起こされていい迷惑だったわよ、あんときは」

 ミミアは言った。

「先程、あなたは自分の口で説明したんですよ」

 レイは、シャーバに向かって言った。

「ナイロットさんが、ユスチルさんの死体にシーツをかけてくれていた。そして死体のそばにあった凶器のナイフにも、シーツが被さっていた。よって、リーティーさんがガラスの破片で人差し指を負傷した際に、その血液が死体やナイフに付着することは有り得ない、と」

「…………」

「さらに、リーティーさんの左手の甲の傷は、犯行時にユスチルさんと揉み合ってできた切り傷ではなく、自室でココアをこぼしてできた火傷だった。リーティーさんの血液が、ユスチルさんの部屋に落ちるはずがない。もし、シーツの下からリーティーさんの血液が検出されることがあればそれは……」

「…………」

「犯人が、リーティーさんの左手の怪我を火傷と知らず、リーティーさんを陥れるために工作したもの。ガラスの破片に付着していたリーティーさんの血液を、シーツの下の証拠品に塗りつけてできたものだ」

「…………」

「リーティーさんがガラスの破片で怪我をしたあと、リーティーさんは手当てをするため、ミミアさんと一緒に現場を離れた」

「そうよ」

 ミミアは言った。リーティーも頷いた。

「ナイロットさんは現場の入り口の前で掃除をしていましたが、シャーバさんの指示で、他の宿泊客を呼びに向かった。そうですね?」

「そ、そうです」

 ナイロットは言った。「タンガスさんとリーティーさんの部屋は現場と同じ階だったので、すぐに呼びに行きました。工作なんてしている暇はありませんでしたし、二人とも、部屋に呼びに行ってから食堂に向かい、シャーバさんの推理劇が始まるまで、ずーっと僕と一緒でした」

「ええ」

 ポープリッタは言った。

「間違いねえぜ」

 タンガスは言った。

「そして僕はアキティーヌさんと部屋にいた。僕にも、アキティーヌさんにも、工作は不可能です。要するに、リーティーさんの血液を使って現場の工作ができたのは、ナイロットさんがみなを呼びに行ったあと、ひとり現場に残ったあなただけ——」

「そいつが他にも、怪我をしていたとしたら……?」

 シャーバは虚ろな目で、リーティーの方をちらりと見た。

「弟を殺したとき、左手の甲とは別の場所に、出血を伴う切り傷を負っていたかもしれない! そしてガラスの破片で右手の人差し指を怪我したとき、若返り薬の効果で、人差し指だけじゃなく、他の切り傷も一緒に治癒されたのかも——」

「往生際が悪いわよ」

 ミミアが言った。「この子が熱々のココアで火傷を負ったとき、パジャマもココアまみれだったから、すぐに着替えさせたの。そのとき私は、この子が他に火傷を負っていないか全身をチェックしたわ。若返り薬に触れる前のその時点で、この子の体には切り傷どころかかすり傷ひとつついていなかった。私がチェックしたんだから間違いないわ」

「…………」

「あなたは、何がなんでも他の誰かを犯人に仕立て上げ、森の迷宮が解ける9時には、とっととこのホテルから立ち去ってしまいたかった」

 レイは言った。「だから、ユスチルさんが二日目の朝食に遅れてきたことには何も言わなかったのに、今朝はユスチルさんが起きてこないことになんだかそわそわしたようすを見せ、すぐに起こしに行こうとした」

「あ、王都での約束……ですね?」

 ナイロットが言った。「シャーバさん、今日の9時半に、王都で依頼人と会う約束をしていると言ってました。その依頼人っていうのも、ユスチルさんが作った架空の依頼人で、本来、事件が起きていなければ、ユスチルさんが依頼人と〝会ったふり〟をするはずだった偽のアポですよね? シャーバさんはそれを知らなかったわけですから、ユスチルさんの代わりに、在りもしない依頼人に会いに行こうとしていた?」

「それもありますが、理由はもう一つ——」

 レイは言った。

「9時になれば、警察が森を抜けて、ここにやってきてしまうということです」

「そりゃそうでしょ」

 ミミアが言った。「今だって、森の向こうで待機してると思うわ」

「もし、その時までに事件が解決していなければ、どうなると思いますか?」

「どうって……」

「警察が、捜査を始めるのではないですか?」

 ポープリッタが言った。

「そのとおりです。そして、現場に残ったありとあらゆる証拠が調べられ、シーツの下から被害者とは別の血液反応が出たとなれば、当然、我々の血液も提出せざるを得なくなる」

「まあ、そうだわな」

 タンガスは言った。

「そうなると、分かってしまうんです」

「何が?」

 ミミアは言った。

「被害者と、シャーバさんとの関係が」

 レイはまっすぐにシャーバの顔を見た。

「まだ、認めませんか」

「…………」

「いいでしょう」

 レイはそう言い、ガウンのポケットから布袋を取り出した。

 そしてその中身を、床の上に注いだ。灰の山ができた。

「これは?」

 ポープリッタが言った。

「ユスチルさんの部屋にあった、調査資料や身分証などの燃えカスです。そしてこれが——」

 レイはガウンのポケットから、ガラスの小瓶を取り出した。

「ユスチルさんが旅商人から買った若返り薬——まだ未開封のものです」

 レイはそっと瓶のフタを開け、傾けた。

「もし、ポープリッタさんの言うように、この若返り薬に、『復元剤』が混ぜられているとしたら——」

 シャーバははっと目を見開いた。

 瓶の口から、薬液が滴れた。

 シャーバはそばにいたミミアを突き飛ばし、灰の山に手を伸ばした。

 かがみかけたシャーバの目線の先で、不気味な緑色の薬液が、灰の上にジャバジャバと注がれた。


 シャーバの脳裏に、年老いたユスチル・スタヤバーンの、屈託のない笑顔がフラッシュバックした。


 シャーバは灰の上に覆い被さっていた。

 周囲に舞い上がった灰が充満し、一同は顔をしかめた。

 シャーバは顔中を灰色に染めていた。涙がくっきりと跡を残して流れていた。

 灰は、灰のままだった。

「ああ……。さすがに」

 シャーバの頭上から、レイは言った。「混ぜ物だらけの薬品では、灰を元通りにすることはできないみたいですね……」

 シャーバは灰に覆い被さったまま、わなわなとふるえていた。

 一同は困惑しながら、それを見つめていた。

「あ……あ……あの人は……親戚のおじさんなんです……」

 ふるえる声で、シャーバは言った。

「ぼ、僕は親戚のおじさんを殺しただけなんです! 〝親戚〟の! 〝おじさん〟を! 殺ぢだだげなんでづ!!!!」

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