旅は死ぬまで続く

「それ、は」


 ガタン、とウェアウルフの座っていた椅子が強く弾かれた。

 アイビーは立ち上がったウェアウルフの顔を緩慢に見上げる。


 青灰色の体毛の奥からだらだらと脂汗がにじみ出ていた。見開かれた瞼から眼球が飛び出しそうな鬼気迫る表情だった。細長の顔全体を覆った狂気的な手が、爪を立てたまま顔を撫ぜる。汗に混じって血液が滴り落ちる。

 歪な縦縞たてじまを、アイビーは虎のようだと思った。


「それは。それは、それは、それはそれはそれは……!」


 ウェアウルフは何度も何度も繰り返す。何度も言葉を吐こうとする。恐らくそれは言い訳の類。しかし次が続かない。言い訳でしかないと理解できてしまうから、己の行動がかつてのウェアウルフ達とは乖離していると分かってしまったから、何も言えない。

 己の憧れを穢してしまうから、アイビーの言葉を否定することも叶わない。


「……がはっ!」


 そしてやがて、進路も退路も自ら塞いでしまった彼は、言葉ではなくて血液を吐き出した。


 赤色がアイビーの視界を覆う。

 それに彼女が気が付いて驚嘆を感じる頃には、すっかりそれは床に落ちていて、目に入ったのは死ぬ間際のウェアウルフの顔だった。


 黄金の瞳は赤く染まり、脱力し切った舌を出し、けんが切れたようにだらりと両腕を落としている。ほんの数瞬、そのまま静止した彼は、ゆっくりと身体を傾けて、受け身を取ることもなく前のめりに倒れ伏した。


 椅子よりも遥かに重いであろう彼の身体は、バラバラになったテーブルを更に砕き、微塵になった木片を宙に舞い上げた。


 陽光を浴びて輝くそれを追うようにして視線を下に落としたアイビーは、常よりほんの少しだけ目を開きながら、ピクピクと痙攣を繰り返すウェアウルフを見た。


「ミストル、なんかしたの?」


 自分は何もしていないのだから、思い当たる節はそれしかない。

 いくら本人が殺傷力を持ってないと言えども、そんなのはアイビーとて同じこと。ミストルはアイビーよりも余程知恵が回るし、きっと人の殺し方だって知っている。


「ようやく回ったのね、毒」


 案の定、ミストルの声音に驚きは混じっていなかった。


「わあ。弾は出なくても毒は出るんだ」

「誰が毒舌なのよ……じゃなくて。お馬鹿。私じゃなくて」

「じゃなくて、誰?」

「ラミア」


 アイビーは後方の食堂車と、原型を失った悪臭を放つ皿を見た。きっとそこには、ラミアのスープが入っていた。血と肉と骨と毛髪が入り混じった、調味料の類も入っていない、料理なんて概念から知らないようなそれ。


 今はウェアウルフの腹の底に沈殿している。


「言ったでしょう。ラミアは食べられないのよ」

「ふん?」


 そういえばそんな事を言っていたような気もする。余り重要そうな情報ではなかったから、アイビーの中では既にぼんやりとした記憶だ。


「有毒なのよ、彼ら。しかも個体差があるから解毒剤も作りづらい、ある種最強の毒」

「ははあ」

「ウェアウルフの強靭な内臓器官で今の今まで耐えてたみたいだけど、限界が来たのね。助かるかは五分ってところかしら」


 食べられないというのは、食べ物ではないという意味ではなく、言葉通りの意味だったらしい。


「ね。毒の有無が分からないと困るでしょう」


 もう一度アイビーはウェアウルフを見た。

 血反吐を吐いて、全身が痙攣して、真っ青や真っ赤に顔を染めて、白目を剥いて息絶えるのだろうと思った。苦しそうだった。こんな風に死ぬのは嫌だと思った。


「さ、アイビー。今の内にお暇しましょうか」

「ん?」

「アンタね。言ってたでしょう、彼。アンタを殺さないのはお腹が空いていないからなのよ?」

「助かるかは五分って、こっちもか」


 確かにこんな所でウェアウルフに殺されるつもりは無かった。

 シャベルを背負い直して立ち上がる。


「私も忘れるんじゃないわよ」

「分かってるよ。立ち上がったら左側が軽いんだもの」

「ちょっと。私が重いみたいじゃないの」

「銃なのに重さとか気になるんだ」

「それが女心というものよ」

「ふーん……あ、弾抜いてあげよっか? いくらか知らないけど軽くなるんじゃないかしら。どうせ入ってたって出ないんだから、どっちでも変わらな──」


 アイビーが床に転がってしまっていたミストルを拾い上げようとしたその瞬間の事だった。

 彼女の視界の外から、空を裂きながら毛にまみれたものが飛び込んできた。


 他に可能性はない。考えるまでもなくそれはウェアウルフの腕。

 幾度となく繰り返した時と同じように、それはアイビーやミストルの認識できない速度で以て、ミストルを掴んだ。


「はあ? ちょっと!」


 ミストルの驚嘆もそこそこに、彼は相も変わらず死に体とは思えない動きで撃鉄を起こし、引き金に手をかけ、そして構えた。


 己の、毛むくじゃらのこめかみに向けて。


「あ」


 吐息のようなその声は、アイビーとミストル、どちらのものだっただろうか。


 刹那にも満たないそれすら食い潰すように、大きく甲高く、しかしどこか軽く、銃声が響いた。

 放たれた弾丸はウェアウルフの尋常ならざる鉄骨をいとも容易く突き破り、銃口とは反対側、左の側頭部から脳漿のうしょうとともにまろび出た。


 床に倒れ付したままだった彼は、ついぞ毒から回復することはなく、それどころか風前の灯だった生命を暴風雨に曝け出し、そうして二度と起き上がれなくなった。


 だくだくと漏れ出る生命だった赤を眺めながら、漫然とその事実を受け止めたアイビーは、いつの間にやら止めていた呼吸をゆっくりと再開した。鼻の奥から脳髄まで、鉄の臭いが染み込むようだった。


「やあ。弾、本当に出るんだね」

「アンタは良く知っているでしょうに」

「目の前で見た訳じゃ無いから……うん。壊れてないみたいで何より」


 アイビーは床に投げ出されたミストルを拾い上げ、流れるように己のこめかみに向ける。


「駄目かあ」


 ミストルは常と変わらず沈黙を返した。

 失望のような虚脱感のような、何か複雑な感情をの底から吐き出しながら、生きている席に腰を落とす。


「この人はこんなに簡単に逝ったのに」

「彼は死ぬべき時だった。アナタはそうではなかった。それだけのことよ」

「僕も毒で死にかければ良いのかしら」

「そう単純なことではないのよ。それにね」


 言葉を切ったミストルの方を見つめる。目なんてついていないのに、彼女はじっとアイビーを見つめているようだった。


「彼は、死のうとしたのでは無いんだわ」


 一拍おいて、アイビーは「ふーん」と気の抜けた相槌を返しながら窓の外を見た。

 列車は砂原を遥か後方に置いてけぼりにして、青く茂った草原を切り裂いている。


 何も無い景色は考え事に向いていた。ミストルの言葉を噛むようにして繰り返す。

 毒が苦しくて死にたいと思ったのではないとしたら、彼は一体どうして死んだのだろう。死のうと思ったのだろう。死ぬ事が出来たのだろう。


 ふっと脳裏にウェアウルフの姿が映る。血反吐を吐く直前、自分の在り方を自分に問いかけていた、迷い子のようなあの姿が。


「……分からん」


 それが何故かはアイビーには分からなかった。

 彼と自分自身の違いも、分かるようで、分からないような。


 考え込んだところで答えは出そうにない。アイビーは諦めた。


「ふあ」


 欠伸が出た。そういえば自分は疲れていたのだった。もう少し寝ていたかったし、綿の抜けた硬い座席だったから疲れも十分に取れていない。

 

「ねえミストル。彼が死んじゃったから、急いで降りる必要はなくなったよね」

「ん? まあ、そうね」

「寝る」


 アイビーは椅子を並べて横になった。ぐったりと力を抜くと、高そうな椅子は彼女の身体をしっかりと受け止めてくれた。

 

「アンタ、こんな状況で良く眠れるわね」

「臭いって慣れるね」

「それもだけど」

「死体なんてこれまでいっぱい見てきたよ」

「それもだけど」

「他にになんかある?」


 頭だけ起こしてテーブルの上のミストルの方を見た。銃口だけがちょこんと端から覗いていて少し可笑しい。

 アイビーは揺れで落ちたりしないように、奥に押し込んでやった。


「なにってアンタ、車掌もいないのにどうやって降りるのよ」

「……あー」


 呆れを含んだ声に困り眉を返す。


「列車ってもしかして勝手に止まらない?」


 はたと困った。飛び降りると粉々になって死んでしまうし、このままだとお腹が減って死んでしまう。

 なるほどこれは寝ている場合じゃないぞと横になりながら腕を組み、うんうんと唸っていると、テーブルの上からクスクスと笑い声が聞こえた。


「さっきも彼無しで降りようとしていたじゃない」

「あ」

「冗談よ。列車の停め方くらい知っているわ。私はミストル。『魔女』の作った魔法の銃。知らないことなんて知らないわ」

「さすが」

「私がいないと困るでしょう?」

「もう分かったって」


 眠ろうとするアイビーに、喋るリボルバーはそれ以上何も言わなかった。


 アイビーは、死に方が分からなくても、生き方は分かったような気がしていた。


 今後もこうして、死ぬまで続く旅路において、彼女を頼れば間違いがないと分かっている。


 しかしきっと、こういう事では無いのだろう。

 結局アイビーは何も分からないまま、何を探しているかも分からないまま、旅を続ける。


「おやすみ、ミストル」

「おやすみ、アイビー」


 銃は眠るのだろうか。自分が眠る時には、いつもミストルは起きているから分からない。

 無事に目が覚めたら聞いてみようか。覚えていたら。


 列車はガタゴトとどこかへ向かって進んでいく。終わりの決まった世界で生きる少女と、生きているらしい一丁の銃を乗せて。


 こうして今日も死にたがりの少女は、自らを殺してくれるはずのリボルバーに生かされる。



  ──To Be Continued──

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終末の墓守 南川黒冬 @minami5910

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