聖職者になり、十数年の時が流れた。



 その間に起こった事は様々であり、険しく苦しい道のりだったと言える。



 だがそれも全て神からの試練だと受け入れ、信仰心をお試しにあるのだと信じていた。



 そしてそれは今も変わらず、私の全ては神の手にあると信じている。



 


 それはある雨の夜だった。



 秋雨が降る少し肌寒い夜。夕食を終え、自室で本を読んでいた私がトイレに向かった時、聖堂の方からギイッと扉の開く音がした。



 夜の静寂に響くその音を妙に不気味に感じた。



 時計を見ると零時前。日付が変わる数分前だった。



 こんな時間に——と思わなかった訳じゃないが、二十四時間聖堂の鍵が開いているこの教会に、それはあってもおかしくはない。



 教会のり方は場所によって様々だが、この教会は常に信者を受け入れている。



 その理由のひとつは、ここがビジネス街にり、夜になるとひと気がなくなるこの場所には、夜は滅多に人が来ないからでもある。



 無用心だと思われるだろうが、信仰心というものに時間は関係ない。



 それにこの教会はとても古い教会で――だからこそ、ここがビジネス街になる前から建っていたお蔭で今もこうした場所に在るのだが――盗まれて困る物など何もない。



 だから少し驚いた。



 こんな雨の夜、一体誰が来たのかと。



 教会に来る人たちは、その理由も様々だ。



 家族や友人に何かがあり、ただひたすら祈る人もいる。



 そうかと思えば時折ホームレスが舞い込んできて、一夜をそこで過ごす事もある。



 この夜は雨が降っていた事もあり、ホームレスが一夜を過ごしに来たのだろうと予想出来た。



 激しいとまではいかないが、それでも聞こえる雨音はきつい。



 舞い込んできたホームレスが信者でなかろうと、追い出すには忍びない夜。



 だから私はそのままそこで一夜を過ごせばいいと思った。



 ただ一応、もしもの為にと聖堂へと足を向けた。



 ホームレスじゃなかった場合、例えば本当に信者だった場合には、顔を見せた方がいいと思ったからだ。



 聖堂へ向かう私の耳に、さっきよりも少しだけ激しくなったように思える雨音が聞こえる。



 昼過ぎまでは晴れていたのに、流石「女心と秋の空」というだけの事はある。



 コロコロと変わる天候。明日は晴れるだろうか。



 天候への憂鬱さに溜息を吐き出し、聖堂への扉を開けた私は、そこに人影を見つけた。



 大きな——とまではいかないが、小さくもない聖堂の左端。



 誰もいない、蝋燭ろうそくの火だけが灯るその場所では、薄暗くとも動く人影を見つけるのは容易たやすい事だった。



 その人影の動きを見て、私はハッとした。



 そして慌てて開けた扉を閉め、裏手に回る廊下へと足早に向かった。



 聖堂の動く人影が入っていった場所は「告解室」。



 それこそ「こんな時間に?」と思った。



 しかし、これは私の勝手な見解だが、人間というのは夜になると罪の意識を深く感じる。



 昼間は太陽に光で隠されている罪悪感が、夜の闇と一緒に現れ、その罪の重さに苛まれる。



 だからこそこの教会を二十四時間開けている。



 それも理由のひとつだ。



――なんて事はさっきも言ったが私の勝手な見解だ。



 この教会の告解室は、昔の造りのままになっている。



 今ある教会はそのスタイルも様々で、直に相手と顔を合わせ、向かい合って話を聞く所もあるそうだが、ここはそうじゃない。



 二帖ほどの狭い部屋に、仕切りの壁が存在する。



 二帖を一帖ずつの部屋に分けていると言ったら分かり易いかもしれない。



 その部屋の一方には告白をする相手が。そしてそのもう一方には私が入る。



 聖堂から入れる告解室は告白をする側が入る方で、私は裏手からその部屋に入り、ちょこんと置かれた椅子に座る。



 狭い部屋。



 窓もない。



 実際には相手側の方にはすり硝子の小さな窓があるのだが、隣に建つビルが余りにも近い所為で外の光なんて入ってこない。



 私は椅子に座るとふうっと息を吐き、壁の向こうにいる人物の事を考えた。



 こんな時間のこんな雨の日にこんな場所にある教会に来るというのは、余程告白したい事があるらしい。



 この辺りに住宅がない事を考えると、どこから来たのか。



 もしかしたらわざわざ車で来たのかも知れない。



 明日ではダメだったんだろうか。



 今日の——今、この時でなければダメだったんだろうか。



 つまりは相当の何かがあるのかも知れない。



 私は仕切り壁にある小さな窓に手を掛けた。



 横長の数十センチほどの小窓。



 座った時の目の高さにあるその窓を開けば告白の始まりだ。



 薄暗い告解室の中、スッと小窓を開く音が雨の音と混ざり合う。



 この教会の告解室の中はわざと薄暗くしてある。前記した相手側の部屋にある窓も小さく、元々外の光など大して入ってこないようになっている。



 その理由は、私が罪の意識というものは暗く重い存在だと思っているから。眩い光の中でだとその罪の全てを告白出来ないと思っている。



 何度かこの告白室を改装しようという話が持ち上がった。



 それでも私はがんとして首を縦には振らなかった。



 一度ここで告白すればきっと誰もが分かってくれる。自分にとって重苦しい告白をした あと、ここを出た時の開放感。



 それはこの部屋と聖堂の明るさの違いも必要な要素で、暗い場所から明るい場所へ出るというだけでも人は晴れやかな気分になれる。



 仕切り壁にある小窓は筒抜けではない。



 細かい網目状の格子こうしのようなものがあって、向こう側にいる相手の顔がはっきりとは見えない。



 しかしそれもわざとそうしてある。



 ここに入る人たちは皆、私ではなく私を通して神に告白しているのだから、「私」という存在をまざまざと相手にさらすのは違うと私は思っている。



 しかしこの夜のこの人物には、格子が必要ではなかったかもしれない。



 キャップ帽を目深に被り俯く男。これでは格子がなかったとしても、はっきりと顔は分からない。



 どっちにしても見覚えのない人物だった。



 よくここに来る信者なら――といっても場所が場所なだけにそう何人もいる訳でじゃないが――格子があろうがなかろうが、薄暗かろうが明るかろうが、誰だか分かるのだが、この男に見覚えはない。



 人は持ってるその雰囲気で、他人に印象を与える。



 私はこの男にやけに陰湿な印象を持った。



 それは目深に被るキャップ帽の所為でも、俯いている所為でもない。



 何故かこの男が持つ雰囲気が重い。



 そしてその印象は、その声にまで反映されていた。



「あの……僕は信者ではありません……」


 ボソボソと聞き取りにくい程の男の小さな声に、何故か背筋が冷たくなった。



 それは一種の恐怖なのかも知れない。



 ただ一般的な身に危険を感じる恐怖ではなく、陰湿すぎて気持ち悪いという感じの恐怖だった。



「それは困りましたね。信者ではない方の告白は――」


「ですよね」


 私の言葉を、やはりボソボソ声でさえぎり最後まで聞かない男。



 その歯切れの悪さに今この男が抱えてる罪悪感の大きさを垣間見た気がした。



 外は雨が降っている。



 冷たい秋雨がステンドグラスに当たる音がする。



「ですがまあ、こんな雨の日にここに来たという事は、切羽詰まった状態なのでしょう?」


 雨の音に耳を傾けながら男に救いの手を伸ばすと、男は「はい」と小さく呟き更に顔を俯かせた。



「きっと神もあなたのお話を聞いてくれると思います。そこまで困っている人を神が見捨てる訳がない。なのでどうぞ、お話下さい」


 そう言ったのはもちろん聖職者としての本心ではあったが、その中にほんの少しも普通の人間としての興味がなかったとは言い切れない。



 雨の夜、信仰もしていない教会に告白しに来るなんて事はそう滅多やたらと出来るものではなく、そこまでこの男を追い詰めている罪というものを、聞いてみたい気がした。



 確かにそんな考えは聖職者として有るまじきもの。



 だけど。



「あ……ありがとうございます……」


 やはりこの男に何故か興味をそそられる。



 男は暫く黙っていた。



 しかし私はかしたりはしなかった。



 これは珍しい事ではなく、よくある事。



 告白をしに来ても、誰でもすぐにそれを話し出せるとは限らない。



 それが信仰者ではないとすれば、きっと告白するのも初めてで、色んな事に不安を抱え、言うか言うまいか悩んでいるのだろう。



「ご安心下さい。あなたがここで言った事は決して口外しません。神父には守秘義務があるのです」


 私の言葉に男はほんの少しだけ顔を上げた。



 しかし目深に被ったキャップ帽の所為で顔は見えない。



 顔が見れないから年齢も分からない。



 私の予想では多分二十代後半から三十代前半といった感じだろう。



「しゅひ……?」


 男は困惑の言葉をボソボソと吐き出す。



 雨音に消されそうなくらいのか細い声に私は小さく頷いた。



「あなたの告白がどんなものであろうとも、私たち神父はそれを口外しません。仮令たとえあなたが誘拐犯だとして、それをここで告白しても、私はその事を警察に言ったり等は出来ないのです」


「……それは……どうしてです?」


「あなたは私にではなく、私を通じて神にお話になっているからです。あなたは決して私に告白してるのではない。だから安心してお話下さい。どんな内容だとしても、私がそれを口外する事はありません」


「…………」


 相当言い難い内容なのだろうか。



 男はまた黙り込み深く俯いた。



 しかしもう私に出来る事はない。



 このまま部屋を出ていくか話をし始めるかはこの男次第で、その選択が決まるまで、私も黙って待っているしかない。



 雨音が聞こえる。



 また更に雨足が強くなったようだ。



 そんな雨音に混じる男の声。ボソボソと話された内容に、私は聞き間違えたのかと思った。



 決して聞き取りにくいからではなく――確かに聞き取りにくくもあったのだが――言われたその内容が信じ難い言葉だったからだ。



「今、何と……?」


「……僕は人を殺しました」


 思わず聞き返してしまった私に、男は少し躊躇ちゅうちょしたように言葉を繰り返した。

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雨の夜 ユウ @wildbeast_yuu

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