道は続く
道は続く
『この道の先には、何があるだろう』。そう、思ったことは無いだろうか。例えば通学中、乗り込んだ電車の終点には何があるのだろう、とか、通勤中、駅から会社までの道で、その会社を通り過ぎたら何があるのだろう、とか。
それは全て、冒険への第一歩だと、俺は考える。たとえ実行に移さずとも、心の中では空想の旅が広がっている。人間には、役目や使命のような、そこから離れては行けない、なにかやらなければならないことがある。公園や塀の上を歩く猫は自由だ。だが、俺たちはそうはいかないのだから。
だから、そこに連れて行ってくれるものはどんなきっかけであれ、離しちゃいけない。例えそれが、その場の勢いに流される形であっても。
斜向かいの家のお姉さんは、僕にとっては刺激が強かった。見たこともないようなスカートの丈に、キラキラしたメイク。いつもまるで制服とは思えないような胸元を開けたシャツを着て、深い紺色のカバンを片手にしている。しまいには怖い模様の入ったジャンパーを着ている。(たまに腰に巻いている。そっちはまるでヒーローのマントみたいで、少しカッコイイ)。
朝、小学校に行く時に、たまに見かける程度だったが、カッコイイのか怖いのかが頭の中で混ざっていてわからず、とにかくただ「…ぁ、お、おはようございます!」と言うことしか出来なかった。
その日は学校が午前で終わって、ルンルンで家に帰っていた。が、失念していた。いつもなら午前授業の時は必ず鍵を持っていくのに、その日だけは忘れてしまったのだ。我が家は共働きで、親は日が暮れるまで帰ってこない。
そんな時だった。
「てめー、家の鍵忘れたのか」
斜め前から、低いとも高いとも言えぬ声が聞こえてきた。そこにはいつもの、あのお姉さんがいた。
「よォ、奇遇だな。アタシもだ…たまたま、今日に限って忘れちまった」
お姉さんは玄関前の階段に座って、膝に頬杖をつきながらこっちを見ている。どうやらお姉さんも、鍵を忘れてしまったようだった。
「こ…こんにちは、高校生でも、そんなことあるんですね…」
失礼なことを言ってしまっただろうか。しかしお姉さんは、ニヤリと笑ってこっちを見ているだけだった。やっぱりこの人に対してはどう接していいか分からなくて、下を向いてしまう。
「おいテメー、そんなビクビクすんなよ。男だろ?もっとシャキッとしろや。シャキッと。ほれ」
「や、やめてください…」
そんなふうに、ちょくちょく話すようになっていった。話してみればお姉さんは優しくて、それとかっこよくて。僕は密かに憧れていた。
いつしか「僕」は「俺」になって、お姉さんは制服から私服になっていた。服装が変わっても、お姉さんの中身は変わらない。それが少し嬉しかった。いつだったか、お姉さんはスポーツカーのような羽の付いた車を、自宅の車庫に入れていた。赤色の輝く、お姉さんみたいに派手な車だ。お姉さんは車から降りて、こっちに来て話しかけてきた。
「おぉ、がきんちょ、生きてたか!」
「お姉さんのその車に轢かれでもしない限り、僕はそう簡単に死にませんよ。それよりどうしたんですかそれ、免許とったんですか」
いつも通り軽快に冗談を飛ばしてくるお姉さんに、俺もいつも通り冗談で返した。そしてむふふと笑い、鍵を見せてくる。
「そう、まさにその通り!念願のマイカーゲット!高校生の時から金貯めて、社会人二年目にしてやっとよ!どうだ、いいだろ〜、将来ボーイフレンドを乗せて海岸線をこう、スゥーっとだな…ってか、免許取り立ての人に「轢く」とか言うなっ、縁起でもねぇ!」
ボーイフレンド―。なんだか少しいじけてしまう。お姉さんは美人だし、別に俺が恋愛的に好きという訳ではないから、変に思うことは何もないんだけれど。高校生にはなったものの、生まれてこの方色恋沙汰を全く経験してこなかった俺にとっては、先を越されているというか、住む世界の違いを感じるというか、大人になったと言われているようで。
「いいなぁ、お姉さんは自由で。僕も免許欲しいです」
するとお姉さんはキョトンとする。
「バイクの免許なら、あんたの歳でも取れるだろう?」
バイク。バイク?なんだか違うように感じた。車とは、形とかではなくもっと、本質的な違いを。
「中型までだけどなー、あんたまだ高三にはなってないだろう?受験受験って、焦ってないもんな」
「バイクはなんか…違うというか…目の前で車見せられてて、バイクの気にはならないですよ」
なんだろう。別にバイクもかっこいいと思うのだ。お姉さんがバイクに乗っていたら、またどんなに似合うだろうか。そんなことを考えられるくらいには、バイクには魅力を感じているはずなのだが。
心がそれを許さないというか。
「ふーん、まぁほら、十八になれば普通自動車免許も、大型二輪も取れるしー…でも、アタシはあんたにバイクに乗って欲しいな」
「…?」
何故だろう。理由によっては考えてやらんこともないと思った。
「だって、あたしは大型二輪持ってないんだもん。お金ないしさー。でもデカいバイク、乗ってみたいんだよねー」
実にお姉さんらしいといえばお姉さんらしい、清々しいまでの自己中心的思考だった。というか。
「え、つまり、俺の運転するバイクに乗るってことですか」
「うん、そう。乗せてくれるっしょ?」
「……」
簡単には了承しかねた。取ったらもちろんであるが、だが少し怖いところがある。自分の運転する車に人を乗せるというのは、その人の命を自分の責任で以て預かるということである。つまり、自分の判断によって、お姉さんを生かすも殺すも出来てしまうということになる。
重たい。というかなんだか、それは一方的に負うには不平等な気すらする。
「じゃあ、それならお姉さんの車、乗せてくださいよ。それなら平等ですし、さっきからそのカッコイイ車気になってたんだ」
「えー、カッコイイだなんてそんな照れる。でも免許取りたてだしやだよー、まだ人を乗せるにはジキショーソーよ」
「なら嫌ですよ、俺だって乗せるとしてもこれから免許取るんだから」
腕を組み、ここは譲らないという意思表示をする。正直言って、健全な紳士諸君であれば、女性との二人乗りなんて願ったり叶ったりであろう。しかし、ここで二つ返事にOKをしてしまうのはよくない。前述の責任問題もあり、どんなことがあろうと譲ってはならないのだ。
するとお姉さんは少し考えてから、手をぽんと鳴らした。
「あ、じゃあさ、乗せるのはお互いちゃんとマシンの扱いに慣れたらにしよう。そんでその次は車とバイクでツーリングだ!そうしよう!これがいい!!」
「ち、近い…」
俺はこちらの言い分なんて無視するその勢いに気圧されたと同時に、軽く呆れてしまった。この人はそんなにバイクに乗りたいのか。なら何故大型二輪や普通二輪を取らなかったのか。でも、その提案には賛成だった。平等だし、お互いにメリットもある。ツーリングには憧れを持っていた。まさか車とバイクになるとは思わなかったが。
「分かりましたよ、じゃあ親に相談してきます」
「約束だかんなー?」
面倒な約束をしてしまったな、とその時は思った。だが、お姉さんの顔は晴れやかだったから、悪い気はしなかった。
大学入試に向けた受験勉強もしながら、大型二輪の免許の勉強もした。これがなかなか大変で、両立の難しさを知った。しかしお姉さんとの約束があるので、やらないわけにもいかず。第一志望には落ちてしまったが、何とか第二志望に受かり、大学に入学するまでの猶予期間たる春休みに免許講習に行って、一発合格をもぎ取ってきた。意外にも親が乗り気で、免許試験のお金は出してくれるようだった。
だが、免許を取るだけではバイクには乗れない。肝心のバイクがなければ、それはただの身分証明書だ。
さしあたって金がない。免許は「大学に行く時にバイクに乗っていく」という理由に追加して、身分証明という意味でも重要と判断され、親に金を払ってもらえた。だが、バイク本体は自分で買いなさいという取引の元で許されていたのだ。(ここを払わないから、乗り気だったのだろうか)。とにかく、働かねば。
大学に入学し、午後の受講が終わるとすぐにバイトへ走った。予備費含め、百万円を目標に、1年半、コツコツと働いた。
大学二年の夏、ようやく念願のバイクを購入した。選んだのは、エントリーモデルと名高い某有名企業のクルーザーバイク。値段に対して、過不足なく器用に走りこなしてくれる、初心者ながらにいいバイクと感じるものだ。俺はあまり身長が高くないから、低い車体も安定感が出てお気に入りなポイントだ。お姉さんを乗せる時、足がつかないかが不安だが、後部シートの高さはメインシートよりも高く、タンデムステップもしっかりとした高さにあることから、無理な姿勢にはならないだろう。
バイクを自宅に納車した時、斜向かいから声がした。
「お!バイク買ってんじゃん!!」
いつもに増してハイテンションだ。
「お姉さんは今日も元気そうでなによりです。お仕事はお休みですか?髪がボサボサですけど…」
そういうと、彼女はしかめつらをする。
「社会人の休みに、『仕事』なんて恐ろしいことを言わなぁーい!モテないぞ?」
よく見ると彼女の左手には結んだゴミ袋があった。休日のゴミ出しか。ドア口の階段をおりながら、彼女は履いていたジーンズのポケットから鍵束を取り出し、右手の指にひっかけくるくると回す。スタイルの良さと、寝起きなのかボサボサの髪と、その動作とのギャップに、なんだか目眩がしそうだ。
ゴミを収集所のネットに投げ入れ、彼女はこちらを向かずに言った。
「なぁ少年、ちょっと走りに行かないか」
断る理由は作らせてくれなかった。お姉さんはいつも言うことを聞かない。仕方なく、と言いつつ、なんだかんだ内心ワクワクしながら了承したら、お姉さんはあの赤の車の助手席を開けた。
「乗りな」
この先の人生で、これ程緊張することはないだろう。そう言い切れるほど、身体はぎくしゃくと動いた。
「し、失礼します…」
思えば、ずっと見ていた車だったが、乗るのは初めてだった。ここにボーイフレンドなんかを乗せていたのだろうか。そう考えてしまう自分を振り解き、平常心を意識した。
隣の扉が開いて、運転席にお姉さんが座る。様になるとはまさにこういうことなんだろう、エンジンをかけバックミラーを調節する姿は、妙な色気と輝きがあった。
「急に誘って悪いな。やっぱ、自分のバイク、乗りたかったか?」
「いや、そんなことは…でも、いつか乗せてくれるって言ってたんで、チャンスは逃すべきじゃないかなっ…て」
呆気にとられていたことに気づかれぬよう、必死で言葉を紡いだ。そんな俺を見て、お姉さんは笑う。
「なんか緊張してんな?顔真っ赤だよ」
「いや、夏だし…車内暑いからだよ」
ごめんごめん、と冷房をつける。
芯のあるエンジン音を響かせて、車は市街へと繰り出していく。信号や交差点の度、免許の勉強で得た知識が頭の中で見え隠れするのが面白くて、次第に俺の緊張も解けていった。
「そういえば、なんでいきなり誘ってくれたんですか?」
どうせ気分とか言うのだろう。そう思っていると、お姉さんは口を開いて言った。
「なんとなく、気分。でも、ノリとかそういうのじゃないなー。なんていうかー…ほら、寂しかったんだよ」
驚いた。お姉さんの辞書に、そんな単語が載っているとは。でも、ここで茶化すのは違うと思って、そのまま聞くことにした。
ハンドルを握ると、人は性格が変わると言う。真の性格が出るとも言われるが、真偽は定かではない。ただひとつ言えるのは、お姉さんはハンドルを握って、ずっと大人になっていた。
「アタシが車の免許とったのってさ、当時の彼氏の影響もあってさ。でも、あの日車を買った時、別れようって言われてて。車乗ったら、もう一回振り向いてくれるかなって思ったけど、ダメでさ。でももう買っちゃったもんはしょうがないから、家に置いとくことにしたんだ」
相槌の打ち方を忘れたかのように、俺は何も言えなかった。お姉さんは続ける。
「でもさ、あの時君と目が合って。ご近所さんに対して、辛気臭い感じって良くないじゃん?だからいつもの私でいようと思ってさ…君にバイクを勧めたのも、なんとなく、そこで逆張りしちゃったんだよね。私みたいになるな!みたいな?」
「…随分、自分勝手だったんですね」
違う、本当はそんなこと言いたいんじゃないのに、口をついて出てくるのはいつもの冗談だ。
「あはは…でもほら、あれからもう5年?君は約束通りバイクを引いて私の前に現れて、いつも通りの軽口をきくもんだから、何となく思い出しちゃってさ…覚えてる?あの時の約束」
覚えてるに決まっている。俺はその為だけにバイクの免許を取った。
「実は、免許取ったの、二年前なんです。大学入る時には持ってて。でも、肝心のバイクが買えなくて。やっと買えたんですよ、この前。自分の稼いだ金で、自分のためだけの買い物をしたのって、実は初めてで」
お姉さんは、流れるような動作で車を高速道路に乗せた。暫くは降りられない。いや、降りたくない、止まりたくないようだった。
「あなたのおかげなんです。こんなにワクワクして、何かのために頑張ろうって思えたの。だから、そんな悲しいこと言わないでください。これからあなたを僕の背に乗せるために、二人乗りの練習をするんですから」
口から出た言葉は、決して素直とは言えないものだった。でも、これが俺の本音だ。
お姉さんは何も言わない。ただほんのり笑って、車を西へ西へと走らせる。
「お姉さんは、なんて名前なんですか」
我ながら、今聞くことでは無かった。でも、今しか聞けないと思った。
苗字は知っている。早瀬だ。斜向かいの家の表札に、ゴシック体で書かれていた。
「…早瀬しずく、雨冠に下と書いて、雫。君はずっとお姉さんと呼ぶけれど、二十七歳のオバサンだよ」
心の筆が、じっくりとその文字を記憶に書きとめる。「雫」。綺麗だ。でも、名前を知ったのに、今のお姉さんはずっと遠くに見える。
「ほら、私は名前、教えたよ。君は?」
「俺は……」
悪戯心が、ふっと自分を掠めた。
「俺は、やっぱ今は教えないでおきます」
「えぇー!?ズルじゃん!ずるい!なんでよー!!」
ほら、やっぱりお姉さんは、子供みたいに笑ってる方が、魅力的だ。
「私年齢だって教えたのに…乙女の秘密情報なんだぞ?」
「お姉さんとバイクに乗ったら、教えますよ」
「だからもうオバサンだって……」
違うんです。お姉さんはお姉さんなんです。俺にとって、「姉」であり、「憧れ」であり、そんな人は、お姉さんだけなんです。
「だから、名前を教えるまでは、お姉さんと呼びます。これまで通り。お姉さんも、俺の事を「君」とか、「少年」って呼んでください。俺だってもうハタチです、少年じゃないですけど……その方が、きっといい」
お姉さんは不思議そうに首を傾げながら、「わかった」と言ってアクセルを踏み続ける。
お姉さんが連れ出してくれた道なんです。ここで終わらせるなんて、勿体ない。道は続くんですよ、ここからでも。
気がつけば海側の壁は下がり、朝日は既に南へと進路を向けていた。
「窓開けていいですか?」
「?いいよー」
助手席の窓は全開になる。潮風が悲しみを紛らわせ、新しい空気を流し込んでくる。
それでいい。道は続くし、新しい道だって、現れる。
本来高速道路は、閉鎖的だ。一度乗ったら、次のインターチェンジまで、一般道に降りることは出来ない。それに、一般的には騒音対策で壁が高く作られている。速度を出すために、道路をなるべく真っ直ぐ作ろうとするので、トンネルも多い。
寂しくなったら、愛車を高速で走らせる、という人もいるだろう。でもそんなことをしたら、きっと余計寂しくなる。孤独なんだ、高速道路って。
「帰ったら、バイクでこの道を走ってみようと思います。いつかの予行演習に」
風でお姉さんには聞こえないようだった。
言うことを聞かない 柴公 @sibakou_269
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