27

 学校に行かなくなって一週間経った。昼の睡眠から覚め、窓の外は赤らみ始めている。今日の夜は何をしよう。なんだかもう、ミステリさえ読みたくなくなってしまった。音楽も、目標が高すぎてくじけてしまいそうだ。昇がいつか自分を褒めてくれたときの言葉を思い出し、ああ、僕はそんな人間じゃなかったんだな、と思った。

 そんなことを考えながらうとうとしていると、少し大きな足音がした。足音の感じで、数人のものだと分かる。扉の前で止まった。

「朗、起きてる? お友達、来てくれたわよ」

 疲れた、だけれど少し明るい母の声がした。そして立ち去っていく足音。しばらくして、声がした。

「よう」

 箭内だった。

「元気か、ってのもおかしいな、大丈夫か」

 僕はベッドに寝転び、バスタオルを頭から被った。勿論意味なんて無かった。

「大体のことは聞いた。俺が昇にお前の——朗のことを話さなければ、こうはならなかった。本当にごめん。俺は自惚れてた。自分がゲイであることを自覚して、人とはちょっと違ったものの見方ができる人間なんだって思ってた。そういうことに関してならそれなりに詳しいと思ってた。だから朗は本当はゲイなのに割り切れない人間なんだって思い込んでた。よくある悩みなんだ、本当に。昇はいいやつだし、昇と付き合えば本当の自分に気づくだろうって。だけど朗は違ったんだな、それをもっとはやく分かるべきだった。朗は何度もそう言ってたのに」

 箭内はその場に座り込んだようだった。

「朗みたいな人間がどれくらいいるのか、俺は聞いたことがないから分からない。それで、多分朗みたいな人間は、俺みたいな分かり易いゲイよりも、多分もっと辛いだろうって思う。またこうやって勝手に憶測するのは俺の悪い癖だな。でも、本当にそう思う。特に朗の性格だったら、余計辛いだろうな。朗は優しいから」

 僕は声を殺して泣いていた。なぜ泣いているのかは自分でも分からなかった。

「だけど、解決策はある。ゲイの人間でも、例えば既婚者で、性欲は性欲って割り切って、ハッテン場に行ったりセフレを持ったりする人間もいる。朗が悩んでいるなら、そうやって性欲を解消するのも一つの手かもしれない。間違ってもちんこ切ろうとしたりするなよ」

 僕は泣きながら、思わず吹き出してしまった。やっぱり箭内はなんでもお見通しなのだ。

「さっきから聞いてれば、変なアドバイスばっかすんじゃねえよ」

 呼吸が止まった。昇の声だった。

「朗、大丈夫か? 俺のことなら心配しなくていいぞ。まあ俺もさすがに三日引きこもったけど。お陰で紡がクラスで一人になっちゃって体育の時間に嫌がらせされたらしいぞ」

「バカ、そんなことは言わなくていいんだよ」

「良いだろ、その方が朗も学校来る気になるだろうし。あのさ! ほんと、気にしなくて良いから。だって最初から分かってたことだろ? そういう約束で付き合い始めたんだから、朗が自分を責めることは無いんだよ。無理やり付き合おうって言ったのは俺——と紡の方なんだから」

 僕はベッドから立ち上がって足音を立てないようにドアへ向かった。昇の声を近くで聞きたいと思った。

 足が止まった。僕は自分の中にいる化け物のことを思い出した。

「僕の中には化け物がいるんだ」

 僕は思わず言った。扉の向こうが静まり返った。

「化け物が、僕の中の性欲とか、愛情とか、そういうものをぐちゃぐちゃにして、それで、人のことを食おうとするんだ。僕はそれで昇を傷つけた。雪穂も傷つけた。僕はもうあんなことしたくないんだ」

「悪いのはその化け物で、朗じゃない」

 昇が言った。

「朗は悪くない」

 箭内の声だ。箭内は皮肉めいた口調で言った。

「俺らだって世間じゃ化け物扱いされるような人間だからな」

 昇が明るい声で言う。

「なあ、朗——俺たち、まだ別れ話、してないよな? だから、まだ別れてないよな?」

「無理だよ、もう」

 僕は喚く。

「また同じことになる。昇が傷つくだけだ。良いんだ、もう。分かった、どうすればいいのか」

 昇の話を聞いていると、昇が自分を愛してくれていると分かると、化け物が暴れだす。だったらその逆をすれば良い。

 誰のことも好きにならず、誰にも興奮せず、愛を求めないこと。

 そうすれば化け物は何もできない。

 そうやって生きていけばいい。

「昇、友達に」

「『実験』を続けよう」

 僕の言葉を遮って昇が言う。

「俺は諦めない。いつかお前が俺のことをちゃんと好きになってくれるって信じてる」

 また化け物が暴れだす。その言葉に心が揺らぐ。可能性のない未来を信じたくなる。振り払わなければ。

「僕はもう昇を傷つけたくない」

「何度でも傷つければ良い。俺は諦めない。俺はセックスしたとき、心が一つになったと思った。体だけじゃない、お前とちゃんと繋がれたと思った」

 僕の脳裏に蘇った。僕たちが繋がる時に、いや、厳密にはその直前に感じた、心が重なった瞬間のことが。昇が言っているのは、あの瞬間のことなのだろうか。もし、あの一瞬がずっと続けば——。

 僕は扉へ歩み寄り、ノブを掴んでドアを引いた。座り込んでいた箭内が僕を見上げ、昇が仁王立ちで僕をじっと見た。

「怪物くんがようやく目覚めたな」

 皮肉っぽく箭内が言う。

「昇——」

 昇がまた僕のところに来て、その大きな体で僕を抱きしめた。僕は、昇が愛想を尽かして僕から離れていく姿を見た。その未来がいつかやってくる。

「そんな風にはならない」

 昇が言った。その力強い言葉に、僕は初めて、そうかもしれない、と思った。化け物の気配がほんの少しだけ薄らいだ気がした。僕も化け物を追い払う言葉を言った。

「昇、僕をゲイにしてくれ」

 僕はそう言い、自ら手を昇の逞しい体に回した。自分から抱きつくのは初めてだった。僕が抱きしめるにはあまりに大きな体だった。この大きな体で、僕を救い出してくれるかもしれない。

「その言葉、後悔するなよ」

 昇はもっと強い力で抱き返してきた。

 僕は薄く目を開けた。昇の大きな体に覆われて、視界は真っ暗だった。


(完)

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