火の粉

 リゲルは星として生まれ変わるべきではなかった。誰かが、不意にそう言った。そしてその言葉を、どの星も否定出来なかった。


 額から伸びる一対の鋭い角、素体になったシオヤアブを彷彿とさせる昆虫の腹部に似た尾っぽ、アシンメトリーな模様、本紫と深碧に輝く瞳、そして何より本人を纏う──孔雀緑の光を放つ鬼火。星の中でも異質な外観をしたリゲルは、それだけで他の星の視線を集める。しかし態度自体は穏やかで気品があり、こちらへ向ける微笑も邪気があるようには到底思えない。

 奇形星として生まれてしまった自身の因果にも臆さず、縄張りである黒の森で佇んでいるこの星は一見どんな問題を抱えているのか、その本質にたどり着くことが叶わない。しかし意外にも、彼の星位置を確認すると簡単に答えが見えてくるのだ。

 眉毛の上からぐんと伸びている、あの長い角。その片割れがリゲルという星を突き動かす星位置に他ならない。

 星位置はどの星獣も必ず持っている部位で、星として活動するための核でもあった。これは人の願いを叶える毎にその輝きを増していく。星位置を見てしまえば、その星がいかに願い星として優秀であるかが計り知れるのである。

 そしてこの、リゲルの星位置はひどく濁りきっていた。墨汁をひっくり返したような、なんて表現は生ぬるい。角としての形を取っている星位置の、その一本一本の根にコールタールが染み付いて離れないような。あるいは黒いペンキで乱雑に塗りたくったような。じんわりと溢れ出した闇は、いつしか星位置全体を覆い隠す太い幕のみたいなものになってしまっていて──。

 星位置が濁ることを、星獣は望まない。身体の機能に支障をきたすことを本能的に理解しているからだ。けれどリゲルというこの星は、星位置がいくら黒く染まろうと、その在り方を変えようとはしない。ほんの少しだけある燻った星の輝きを右の角に宿しながら、今だって黒の森で夜空を見上げ、自身の狐火を指先で弄んでばかりいるのだ。

 彼は人が嫌いだった。生前のある出来事をきっかけに、夢だった弁護士としての道を断ち検察官としての生を全うした。他者を護ることではなく、他者の罪を糾弾する道を選び直した。そんな彼が星に転生したとして、はたして願いを叶えるため積極的に行動するだろうか?


「でも、リゲルさんの星位置は真っ黒に染まらないですよね」


 古書を読み終えた様子のベネトナシュが、おもむろに口を開く。

 彼は知己であるミアプラキドゥスの縄張り内に滞在していた。ミアプラキドゥスの縄張りは古き良きアンティーク調の部屋に酷似しており、書庫のように書物が豊富だったことからベネトナシュのお気に入りの場所だった。

 声をかけられた先にいるのは、縄張りの主であるミアプラキドゥス本人である。菜の花色の前髪を手櫛で整えていた彼はその言葉にふっと手を止めると、赤い虹彩に満ちた灰色の眼を傾ける。


「妙だと思うか?」


 問われたベネトナシュは、一瞬ばかり視線を床に落とした。彼が思考する際の、ほんの些細な癖。黒いまつ毛が水色の体毛に、藍色の影を作る。そんな姿を眺めながら、ミアプラキドゥスはどこか他人行儀に、言葉にし難い懐かしさを思い出している。


「そうですね、変だと思います。みんな気にも止めていませんが、願いを叶えないはずの彼の星位置が完全な黒でないというのは、いささかおかしい……おかしすぎるくらいです」


 その言葉にミアプラキドゥスは、愉しげに目を細めた。聡明でありながらも答えにたどり着くきっかけを知らない、眼前の若人が悩む様がこの星には愉快で仕方なかった。他者が謎を解こうと眉間にしわを寄せて唸る姿が、ミアプラキドゥスはたまらなく好きなのだ。


「答えは明白かつシンプルだぜ、棺台の娘達の長。ただ一つ確かなのは、リゲルはエゴイストという事実だ」


 言い終えた獣は、ブラックティーを口に運ぶ。そんなミアプラキドゥスの傍らで、ベネトナシュは首を傾ける。答えに結びつくものを脳内で反芻しながら。



 シンクには汚れがこびり付いたままの食器が溢れ返っている。大きく膨らんだゴミ袋の口は開いたままで、中からは生ゴミの腐敗臭が漂って止まない。ドラム式の洗濯機には衣服が詰め込まれていて、周辺には入らなかった下着類が散乱している。フローリングの床にはうっすら粉雪のように埃が振り積もっていて、歩く度に足裏に細かなゴミが付着した。

 リゲルは心中で深深とため息を吐いた。──ああ、来る場所を間違えた。

 目の前にはノートパソコンを前に泣き崩れる女が一人。この女はさっきから嗚咽混じりでまともに言葉も話せていない。リゲルはたまらず舌打ちすらしそうだ。俺は何も女の心のケアをしにこの場に降り立ったわけではないのに、と腹の底で悪態をつく。

 リゲルという星は、体裁上願いを叶えるふりをすることに長けている。あくどいことに、叶えたように見せかけてその後人が堕落して崩壊する道に誘導するのだ。そしてそんな契約者の落ちぶれた姿を見て、大層満足して夜空へ帰っていく。他の星にその蛮行を咎められても馬の耳に念仏で、彼は自らの行動を悔い改めようだなどと微塵も感じてはいない。むしろ生前の復讐を更に果たそうとしている気概すら滲ませている。

 そんなリゲルに助けを求めた女は、髪を振り乱して苦しげに泣いていた。並々ならぬ事情があることに、リゲルは気付いている。けれどそれは、自分には一切関係のないことだ。

 星に願ってしまうほどの悲劇があったのであれば、その内容も大方見当がついてしまう。手酷い裏切りを受けたか、愛する者に先立たれたか。生活が崩壊するほどショックな出来事といえば、大体がそんなものだろうと思い至っていた。

 だからこそリゲルは、ようやく落ち着きを取り戻した女が告げる言葉の一文字一文字を、冷めた気持ちで聞き流していた。聞けば彼女は、中学時代から付き合っていた男と真摯に向き合い続け、誰ぞに振り向くことも靡くこともなく籍を入れたのだという。男は生真面目で不器用で、けれどどこか抜けていて優しく、愚直に女を愛し、そんな男に女も精一杯の愛情を向けたらしい。

 そうして生まれたのが第一子である愛花だった。初めての子供。腹を痛め脂汗を吹きながらも産み、夫と共に悩み苦しみ足掻きながらも手塩にかけて育んだ自らの分身とも呼べる存在。もし生きていたなら、今年で八歳になるのだと言う。


「それはそれは、お可愛かったことでしょう」


 リゲルは適当に相槌を打った。最初から、女の語る半生に興味などないのだ。他人が幸福に生きようが、その反対に不幸に見舞われようが、この星にとってはその全てがすべからくどうでも良くなっている。

 女は語り続ける。どうやら愛花が四歳の頃、夫は飲酒運転で突っ込んできた老人により息を引き取ったらしい。近頃急増している悲劇のうちの一つだ。それからは女手一つで娘を育てることになり、伴侶との死別を惜しむ余裕もなかったのだと。

 当事者からしたら、そりゃあたまったもんじゃない。大切な家庭がある日突然なんの前触れもなく崩れ去った時の衝撃は、幾星霜を経ても乗り越えられるものではない。昨日はあんなに元気そうだったのに。また遊ぼうって約束したのに。さっきまで目の前で楽しそうに笑っていたのに。何故。どうして。なんで貴方が。他の誰かじゃなくてよりによって貴方がこんな目に遭わなければいけないのかと、この世の全てが憎く思う。

 でもそれは、この世界にはあまりにもありふれた悲劇だ。当事者だけが特別な事じゃない。今日だって誰かが何処かで理不尽に命を奪われている。だからリゲルは、冷えきった心で女の言葉を聞き流す。それはお前だけの悲しみじゃないのだと、腑に落ちない感情を抱きながら。


「娘が、六歳になったばかりの頃」


 女の声色が、はた、と変わった。凪いだ水面に石が一つばかり放り込まれて、波紋が広がるような感覚があった。リゲルは耳を傾ける。手持ち無沙汰にしていた両の手を緩く握って、僅かに纏う雰囲気を変えた女を視界に映し直した。


「ある男に殺されました。突発的な犯行で、すぐに行方は知れました。テレビで見たことがあるような事件の顛末が、私の中で起こったんです」


 女は唇をぶるぶると震わせていた。しんと静まり返った室内に、女の歯がカチカチと当たる音ばかりが響いている。薄暗いこの空間を照らすのは、リゲルが操る孔雀緑色の鬼火ばかりだ。その緑色の、蛍火のような光に反射する女の顔は、先程とは打って変わって怒りが滲んでいる。


「その男が許せないので?」


 リゲルは落ち着きながらも、やや口早にそう言った。女は首を振る。許せないわけではないが、しかし事の本質はそうではないのだと、そのように言いたげに振った。


「男は実名報道されて、逮捕ももちろんされました。今は実刑判決を受けて牢屋の中にいます」

「そうですか」


 はは、と笑いかけたリゲルは、それをすんでのところで飲み込んだ。まだ何か、もっと大切な、どす黒く緑色に輝く怒りの炎が女の腹の底で煉獄のように渦巻いている気がして。

 女は乱れきった髪を耳にかけ、顔を上げる。泣き腫らしたまぶたは随分と膨れている。目頭から目尻まで、その一点が赤い糸のように腫れてしまっているのだ。何度も歯を食いしばったのだろう、唇付近には歯型がついて血まで滲んでいた。


「これを、見てください」


 ここで女は、今まで付けっぱなしにしていたノートパソコンをリゲルに向けた。言われるがままにリゲルは顔を傾ける。スリープ状態になっていた画面に、白い光が灯った。画面上には匿名掲示板のスレッドが表示されている。

 女が次に何を言わずとも、リゲルにはその真意を読み取ることが出来た。

 愛花が喪われた事件は、きっと全国で大々的に放送されたのだろう。それは好奇の目に止まり、野次馬やタチの悪い輩の格好の餌場となった。中には死を悔やむ言葉や、犯人に対する怒りもあった。けれどそれ以上に、愛花に下品な言葉を叩きつけるものがあまりにも多かった。書き込まれたコメントを読む度に、愛花の身に何があったのかが想像出来てしまう。六歳という幼い身は、下賎な男の欲求のはけ口にされたのだ。発見された遺体の口には愛花自身が着用していたパンツが詰め込まれていたという。それと同等の行為をしたいだとか、もっと過激なことまで事細かに書き記しているものも──。

 匿名掲示板は攻撃性を高めることで知られる。しかしこれは、匿名を笠に着てマスターベーションをしている、もっとおぞましい何かだ。


「殺してください」


 母の、心からの怒り。低く唸るような声色。リゲルは画面から目を離し、女の顔を見つめる。


「復讐は貴方が思う以上に虚しく、成果のないものですよ。たとえそれを遂げたところで、数年後にはまた悲しみに襲われる。僕はお勧め出来ません」


 女は、眼前の星獣の言葉をきつく噛み締めた。随分と重みのある発言に感じられた。薄暗い室内でかがやく孔雀緑の鬼火に照らされた獣の表情は、どこか物憂げに見える。

 暗がりで光を放つ、色の異なる双眼と母の瞳がかち合う。獣が持つ本紫と深碧の瞳は、あまりにも綺麗で。


「構いません。それでも、……それでも許せない」


 ──お前らだって、加害者と一緒だ。

 母が見せた激しい怒りを前に、リゲルは破顔した。ああ、と声が漏れる。孔雀緑色の鬼火は火力を強め、轟々と唸った。獣は不気味に笑いながら顔を左手で覆い、興奮を隠しきれない様子で呻く。手のひらで覆いきれていないその瞳の虹彩が、ゆっくりと黒く染まっていく。


「承りましょう。俺は貴方の願い星だ」


 黒く染まった虹彩は、色の違う両眼の輝きを助長している。蠱惑的な紫と、嫉妬に狂った緑の在り方を肯定するかのように。


「貴方のその怒りを叶えるのは、アルゲバルの星たる俺、リゲルです。冬の夜空を見上げる度、俺の事を──その怒りと共に思い出して」




 あの男は自らが闇に飲まれながらも、安全圏で悪意なく他者を傷付ける者共が殊更許せないのだ。リゲルをリゲルたらしめるのは、その身を焼くほどの怒りと、それと同等の嫉妬心に他ならない。

 何故、どうして。そんな感情だけに突き動かされ、対象を問わず復讐心に取り憑かれている。当事者がそれを望まずとも、もはや呪いのように怒り、報復を繰り返す。


「あいつは願いを叶える気なんてさらさらない。だがもし、契約者の願いがあいつと同調していたら──話は変わってくる」


 ミアプラキドゥスは未だ考え続けるベネトナシュを尻目に、誰に聞かれるでもなく独りごちる。


「リゲルって星は、揃いも揃ってこんな奴らばかりだな」


 二杯目のブラックティーが、うっすら湯気を立てていた。

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ヨヲコム 糸式ナトリ @natori_itoshiki

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