Happy Holidays
肺に通すには鋭すぎる冷気を、それでも胸いっぱいに取り込んだ。キンキンに冷えきっているものだから、そいつはあまりにも苛烈に肺胞の一つ一つに染み渡っていく。ただ空気を吸い込んだだけなのに、妙に痛い心地がして、それがなんだか憂鬱だった。
昨日の疲れはまるで抜けていない。世間はクリスマスだ聖なる夜だと浮かれているものの、独身で交際関係を持たず、友人もおらず、家族とも疎遠な己には何の関係もないイベントでしかなかった。「先輩、この日って空いてますよね?」と空いている前提で後輩にシフト変更を申し出られた時のことを思い返して、ぐんと身体が重くなる。嘘でも「空いてないよ」と返せていたら、少しは何かが違っていただろうか。でも本当に空いていたしな。嘘をつくのはいけないことだし、実際予定のある人にこういうことは譲ってあげるべきなんだろう。
コウノトリが子供を運んでくるのだと、誰かが言っていた。どうも九月が繁忙期らしい。後輩も『そういうこと』に励んでいたのだろうかと、一介のバイト仲間でしかないのに下世話な想像が脳裏を過ぎった。でもだってクリスマス妊娠、多いって言うしな。そのような取り留めのないしようもないことを思いつつ、未だ気だるさと肩を組みながら制服に袖を通している。
洗面台の前に立った自分の顔はながら死人のそれだった。まるで生気がない。ただぐったりとしているだけならまだしも、生命力がてんで感じられない。こんなことではいけないと無理矢理笑顔を作ってみる。トナカイにすら蹴られるような顔面が形成されただけだった。
寝る前に出しっぱなしになっていたピッチャーから、麦茶を水筒に注いでいる。外気が冷めているから、常温よりは多少冷たいはずだという謎の信頼を胸に抱いて。毎回飲み残すくせに、どうして水筒というやつは満タンにしないと気が済まないのだろうと、いつもいつも不思議に思ってやまなかった。それはまるで満たされない自身を投影しているようにも感じられた。もし本当にそうなら、虚しいったらない。水筒を液体で満たしたところで、なんにも変わりやしないのに。
寝癖がついたまま出勤したって、存外誰も気にとめたりなんかしないのだ。口にしすぎて簡略化された「いらっしゃいませ」だって、咎めてくる者は限られている。大抵そういう人はこちらが何をしようが激高しているので、運が悪かったと思って淡々と作業するしかない。
どこもクリスマス商戦最終日だ。ガラス張りの室内から見える景色は、すっかり夜に呑まれている。最近はあんまりにも夜が長くなったなあと独りごちる。
機械的にレジ打ちをしながら、八月の燃えるような夕焼けを懐かしんだ。線香花火の先端についた火花のように、その輪郭は揺らめいていた。掴めそうにもない、手に入りそうもないそれをどうしようもなく愛おしいものだと感じていた。ああそういえば、近頃は夕立だって降りやしないななんて、夏に対するノスタルジックな感情が込み上げてくる。それはそれとして、会計する手はまるで止まらなかった。
みんなこの日くらいはコンビニに来るんじゃなくてさ、スーパーの惣菜コーナーでチキンの一つでも買えばいいのにね、なんて独りごちる。でもそれもまあ、余計なお世話でしかない。曲がったネクタイをしている眼前の男性を見ていると、そのような考えも吹き飛んでしまった。紙タバコと一個数百円の揚げ鶏と、申し訳程度に健康を意識して購入された小さなサラダに、缶ビールが三つほど。彼も帰ったら「やっていられない」と息巻いて、酒に逃げたりなんかするのだろう。そう考えると、どうにも無性に悲しくなって仕方なかった。
サラダには値札シールが貼られていた。消費期限が近い。それは別にクリスマス商戦とは何の関係もない物品だったが、何故だか存在を哀れんだ。君も無駄に仕入られたケーキ達も、無闇矢鱈に揚げられた鶏達だって、明日には廃棄される未来が待ち受けている。それがどうにも、ああ、悲しくって仕方なかった。昔の人が見たら目を吊り上げて怒るに違いなかった。生活が豊かになる分、呼吸することのように僕らは毎日命を粗末にしている。そんな気になった。募金箱を設置しているような店なのに、食べ物を無駄にすることには頓着していないなんて、そんなのおかしい。
仕事を終えて店外に出る。もう二十三時を回っていた。街を出歩いているようなカップルも、周囲には見受けられない。カップルどころか人っ子一人歩いていやしない。辺りにはただ、暗闇が広がっているばかりである。少しばかり泣きたくなった。
ふう、と息を吐く。呼気は白色を纏っていた。努力したら氷のブレスでも吐けるようになりやしないだろうか、と一瞬考えたところで、己に芽吹いたまま離れない童心に嫌気がさした。大人になりきれない。いくつ歳を重ねたって、こういうことではしゃいでしまう幼さから決別できていなかった。
「あれれ?」
家に向かう最短ルートの中に、路地裏がある。その路地裏にいつものように向かうと、聞き慣れない声が響いた。静まり返った夜の闇に、少年のようなソプラノが透き通っている。こんな時間に子供? と訝しみながらも歩を進めると、そこには全長八十センチほどの生命体が、こちらに視線を投げていた。
咄嗟に足を止める。それはあまりにも見慣れない風貌だったから、というのもある。水色と灰色を一緒くたにしたような体毛と、人間のように生えた白い頭髪。ぬいぐるみのように衣服を着込んでいるけれど、纏っている外套は黒と臙脂色をしていて、配色が物騒だなと思った。黒い太眉の下から覗いている瞳は蛍光色の水色に輝いていて、それだけは暗がりの中でも一際目立っていた。
けれど、僕が足を止めたのはそれそのものに驚いたからではない。それが緩やかに握っているものと、足下に転がっているものが極めて異質だったからに他ならない。
先刻まで「氷のブレスでも吐けるようにならないだろうか」などと独りはしゃいでいた、あの平和な一時が既に恋しくなっていた。心なしか目頭が熱い気がしている。仕事を終えると家が恋しくなるものだが、今は殊更早く帰りたかった。
「ああ、なんだ。同業者に見られたかと思ったよぉ」
それはそのようなことを宣いながらふにゃふにゃ笑うと、こちらに向かって二度ばかり緩慢な動作で手招きしてみせる。
「ねえ、そこのお前。ちょっと悪いんだけどさ、手伝ってくれないかな」
まるで上司が仕事を投げてくる時みたいだな、と思いながら、半歩ほど後ずさる。目の前にいる異形の存在は、口を開く度に鋭い牙が見え隠れしていた。一見凶器に思えるのだけれど、僕はそうでないことを既に理解してしまっている。
「うっかり殺してしまってねぇ」
うっかり、とは、なんなのだろうか。
彼が握りこんでいる大柄な鉈を見つめながら、乾いた笑いが零れた。
「あぁ、殺すつもりはなかったんだよ? だっておれは本来、お前のような人の願いを叶えるために此処に降りたのだし」
でもこいつったらあんまり分別が付かなくってねぇ、と悪びれる様子もなく言ってのける異形を前にしている僕は、返事も出来ぬままただ愛想笑いを返していた。人を殺める人は大抵、そのような文句を言っている気がする。「つもり」が無かったら、それって許されるべきなんだろうか。許されないから捕まるのだろうけれど。
「まあとにかくさ、ちょっと手伝っておくれよ。悪いようにはしないから」
それは悪いようにする人が言う言葉なんじゃないですか、と思ったのだけれど、無闇に断るのも後が怖かった。はいともいいえとも言えぬまま、ただずんとのしかかる外気に鼻っ面と耳を赤くさせて、浅く息を吐いている。
異形の傍らで横たわっているのは、先刻接客したサラリーマンだった。付近には会計を済ませた物品が散乱している。その中には当然、値札シールの貼られたサラダも含まれていた。ドレッシングもかけられぬままに、やや湿気たコンクリートの上で散らばっている。あんまりな最期に、泣きたくなった。
サラリーマンはくたびれたネクタイはそのままに、頭をかち割られていた。豆腐をぐちゃぐちゃにしたようなものが、頭部から飛び散っている。ぼんやりとした中、ああこれが脳みそなのかあ、と思う自分がいた。
「ええっと、そうだそうだ。名乗りを上げなければねぇ。おれはトゥバンって言うんだ。りゅう座アルファ星って言ってね──まあお前は知らないだろうから、トゥバンと呼んでくれたらいいよ」
「トゥバン」は変わらず少年のように澄んだソプラノを響かせながら、僕に向かってうっそりと微笑んでいた。
トゥバンは既に息絶えているサラリーマンを俵抱きにすると、ぺたぺた歩きながら山を登っていた。俵抱きにすると言っても、彼はサラリーマンの半分も背丈がないものだから、下腿が地面に擦れてしまっていた。スーツの削れる音を耳にしつつ、目の前の異形の背中をただ追いかけている。
手伝え、とは言われたものの、運搬を共にするわけでもなく、ただ着いてくるように言われたのみだった。彼はどこかぼんやりした眼差しで曖昧な指示をしてくるのだけれど、死体を山に運んでいる時点で、何が目的かはもう分かりきったようなものだった。
聖なる夜に、死体を埋めるだなんて。到底罰当たりでは済まされない。きっと僕は、地獄に落ちる。僕が殺したわけでもないのに。
まあでも、断りきれなかった自分が悪いしなぁ、なんて諦観に似た感情が湧き始めた頃、トゥバンはふと足を止めた。
「此処にしよう」
どうやらここに、埋めるらしい。
「手伝うと言ってもね、そんなに難しいことではないんだよ」
トゥバンは言いながら、サラリーマンが動かないようしっかり持っていて欲しいと、この時点にしてようやく詳細を語り始めた。どうも一人で解体していると、血や臓物で滑ってしまって手間がかかるらしかった。直前になって説明するだなんて、上司としてはよろしくないな、などと考えながら、とりあえず言われたように死体の足首を両手で掴み、地面に押さえつけてみた。もう人の温もりなんてものはどこにもありやしなかった。手のひらに伝わってくるのは、外気に晒されて芯まで冷たくなっている、大きな肉塊の感触だ。
「弟がいたらもっと楽に片付いたのだけれどねぇ、あいつってばよく迷子になるものだから。困ってしまうよ」
そこが可愛いのだけれどね、と語る異形を前に、ああそうですかと義務的な返事を寄越す。こんなのが、少なくとも後一体は存在するのか。世も末だと思った。
手慣れていたのか、トゥバンの解体作業は極めてスムーズに行われた。手に持った鉈を関節に、二度三度叩き入れる。そうすると肉屋が屠殺した動物を部位毎に分けるかのように、人もまた同じように分解されていく。頭部、両肩、二の腕、両手、胴体、太もも、ふくらはぎ、足先……。スプラッタ映画でしか見た事のない光景が広がっているというのに、連日の疲れがたたっているからか、あるいはあまりにも現実離れしすぎていたからか、不快感すら抱くことが叶わなかった。
街灯の明かりすらない山中でも、トゥバンの瞳は煌々と輝いていた。まるで夜空に浮かぶ星のようだな、なんて、少しだけ感傷的になった。それと同時に、歴史の授業で習った星神を思い出した。内容ははっきり覚えていなかった。だってあまりにも、人にとって都合のいい存在に思えて仕方なかったような気が、していたから。
大体、相手になんの利点があってこちらの願いを叶えてくれると言うのだろう。昔から疑問だった。「ドラゴンのようにブレスを吐けるようになりたい」だなんて稚拙な妄想をするくせに、こういうところは目ざとく気にして仕方なかった。
だって、どの昔話も何かしらの代償を伴うじゃないか。美味い話に裏があるのは、昔も今も変わらない。
「おかげで助かったよ。お礼に一つ、お前の願いを叶えてあげる」
そのようなことを考えて現実逃避をしていたからか、彼が放った言葉に少しばかり面食らってしまった。
「うん? どうしたの、そんな顔をして」
いくつかの部位に分けられた死体を傍らに、異形はいたって朗らかに笑んでいた。彼にとっては、おかしいことなんて何一つないみたいで、それが異様で、どこか歪だった。彼はきっと、歪曲された常識を着こなしている。人を殺めるのも、その後死体を解体するのも、きっとこの後埋めて無かったことにしてしまうのも、彼にとっては当たり前のことなのかもしれない。その当たり前は、当たり前なんかじゃないはずなのに。
「遠慮しないでいいんだよ? お前、きっと死体を見るのも初めてでしょう? 無理しておれのために頑張ってくれたんだもの、星の端くれとしてそれくらいさせておくれ」
ああ、なんだ、そういう思いやりはあるのか。なんて、異形の中の温かみに触れて安堵する自分がいた。星というものはどうも、死体遺棄の片棒を担いだお礼に願いを一つ叶えてくれるものらしい。途方もなく現実味に欠ける。そうとしか言いようがなかった。
「……えっと、じゃあ」
うん、とトゥバンは頷く。
もう長い間、仕事以外で他人と言葉を交わしていなかったように思える。愛想のない声色はどこかかすれた状態で放たれるものだから、彼の透き通るようなソプラノとは雲泥の差があった。血に塗れて穢れているのは彼なのに、声だけを聞くとこちらが怪物であるように思えてしまって仕方がなくて、なんだかそれが無性に情けなくなった。
「だ、だ、……抱きしめてほしいです」
幾度かどもりながらも言い終えたのは、願いと呼ぶには矮小なねだりだった。抱きしめてほしい。あろうことか、人を殺したであろう異形にそう言ってのけてしまった。もっと大きな願いごとの一つでも出来たら、と思わないでもなかったけれど、やはりどうしても代償が気になって、勇気が出なかった。あまりにも大きな代償は、きっともうすでに支払っているだろうに。
「ええ? そんなことでいいの?」
トゥバンは僕の言葉を聞くと僅かに目を見開いて、こてんと小首を傾げる。彼は自らを「おれ」と言いつつも、所作はどこか可愛げやあざとさがあった。あどけないとまで思わせる仕草はそのままに、手には渇いた血が付着した刃物を握ったままでいる。
「抱きしめるくらいなら、おれはいくらだってしてあげられるよ」
異形が、濡れた地面を踏みしめる。霜のついた草が小さな音を立てていた。音に気を取られているうちに、彼はもう眼前にまで迫っていて、僕はそんな彼を見下ろしながら背の低さに愛玩動物めいた愛らしさを抱いていた。
発光している水色の眼が、とろとろと細められる。口角もとろとろと綻んでいる。トゥバンは錆びたような香りを漂わせながら、そうっと僕の背に手を回す。随分と柔らかい抱擁だった。焼きたてのふっくらとしたパンを潰してしまわないように、買ったばかりのぬいぐるみの形が崩れてしまわないように、あるいは生まれたばかりの赤子を腕(かいな)に抱くように、しっとりと抱きしめた。
僕は何故だか無性に息が詰まってしまって、抱きしめられながらぼろぼろと涙を流した。そのままくずおれるようにずるずると、異形に頬を寄せる。血で渇いた彼の毛は、少し硬くて、くすぐったかった。
抱きしめてほしいなんて、しようもない願いだと思っていた。けれど僕は、もうずっと前から、誰かにこうして欲しかったのかもしれない。
「何があったのかはわからないけれど、お前は十二分によくやっているよ」
子供のように泣きながら僕は、彼の言葉にただ頷いていた。
あれからもう、どれほど抱きしめられていただろうか。頬に陽光が差した頃、トゥバンはゆっくりと僕から離れてしまった。
彼の瞳はもう、鮮やかな水色には見えない。明るい肌色の光が混ざりあって、時折朝焼けのように輝いていた。
「これは願いを叶えたうちには入らないからさ、きっとまたおれ達逢うと思うよ」
バラバラにした死体に土を被せながら、彼は確かにそう言っていた。
「ねえお前、また逢おうね。必ずね」
その言葉を最後にトゥバンは、瞬きのうちに行方を眩ませてしまった。
僕は山中にただ独り取り残されたまま、冷たい早朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、ほうと息を吐いた。それからおずおずと、自らの両手で自分自身を抱きしめてみる。先程とは何もかも感触が異なっていて、ああ、寂しいなあとぼんやり思った。
足下には、抱擁の対価が一つばかり眠っている。恐らくは、誰にも知られず消えていくのだろう。まるでクリスマス商戦後に廃棄される商品のようだ。きっとみんなもう、次は正月用の商品のことで頭がいっぱいになっている。
そういえば、道端に散らかったままのサラダはどうなったんだろう。カラスにでもついばまれていたら、いくらかは救われるのかもしれない。少なくとも殺されただけの彼とは違って。
そう思いながら、僕は静かに山を降り始める。
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