第2話

 それからも毎年、私達はあの森から覗く夏祭りの夕暮れを共にした。


 学年が変わり、同じクラスになった子に目を付けられたから一緒に遊ぶ友達なんていなかった。お父さんもお母さんも仕事で忙しい。けど、一人でお祭りに繰り出すのはちっとも寂しくなかった。誰よりも一緒に居たいひとと過ごせたから。


 やがて小学校を卒業し、中学校を終え、高校に入学してお兄さんの胸の辺りまで背が伸びても、私を取り巻く状況は大して変わらなかった。そして、お兄さんも。

 出会った時のままの、綺麗で優しいお兄さん。私の話を黙って聞いてくれて、時折楽しそうに笑い声をあげ、帰りは本殿まで必ず手を繋いで送ってくれる。


「また会えるよね?」

「……来年のお祭りに。もしも君が忘れてなかったら」


 別れ際の挨拶も変わらない。でももう、私はそれだけじゃ我慢できなくなっていた。繋いでいた手を解く優しい仕草にこらえ切れなくて、彼の胸に飛び込む。


「お兄さんは……きっと、人じゃないんでしょ?」

「…………」

「それでもいい。もっとあなたと一緒に居たいよ」

「……駄目だよ」

「どうして駄目なの? ねえ私、もうすぐ大人になるよ」

「……大人は、自分の事を大人なんて言わないんだよ」


 お兄さんの声は苦し気に掠れている。その手は私を抱きしめてはくれない。


「誤魔化さないで。それとも私の事が嫌い?」

「嫌いな訳がない。けど、僕の話を聞いて……」

「聞きたくない! 私、ずっとずっと、あなたのことが好……」

「駄目だよ。僕は、君と……君達と、違うんだから」


 年に一度の祭りをこの場から眺める以外、許されていない。僕はそういうモノだから……私の言葉を押しとどめ、お兄さんが俯く。

 ほら、その顔。

 きっと、ずっと独りぼっちのお兄さん。いつも私を見送る時の寂しそうな目に、自分で気付くことも出来ないなんて。

 私の目から涙が零れる。

 やがて、彼はいつまでも泣き止まない私に溜息を吐き、


「……分かった。いつか必ず迎えに行くよ」

「本当?」

「約束する」


 私は頷き、彼から身を離した。


「いつ来てくれるの? 私が本当に大人になったら?」


 まだ鼻をぐすぐすさせている私の頭を、温かな手が撫でる。


「君が世界に絶望した時に」


 そう言って浴衣の袂からあの時のハンカチを取り出し、


「どうしても我慢できない程、君の世界から優しさが消えてしまったら……これを握って、僕の名を呼んで」


 そうしたら何処までも迎えに行けるから、と、初めて会った時みたいに私の手にハンカチを乗せた。

 彼の言葉に少しだけ笑った。弾みで、まだ少し涙の残る目から涙が零れる……私達はこの期に及んでまだ、お互いの名前を知らなかったのだ。


「何て呼べばいいの?」

「●●●●●。でも、この林を出たら、僕を必要とする時まで君はこの名を忘れる。例えこの先この名を聞いても、君の耳では拾えない。この名を見ても、君には認識出来ない……だから、それまでさよなら。もうここに来ないと約束して」


 そのまま僕の事なんて忘れてしまっていい……切実な響きを帯びた言葉に気付かないふりをして、小さく頷く。きっと彼は約束を守ってくれる。だから会えない寂しさ位、我慢してみせる。




 ――あれから何年も経って。私は今、病床に伏している。


 ベッドに投げ出された手の下のあのハンカチは懐かしい香りを立ち上らせているのだろうけど、チューブに繋がれた鼻では嗅ぎ取れない。

 息が、苦しい。

 窓の外の夏祭りの喧騒が、病院の味気ない壁に、天井に、反射する。もうそんな時期なんだ。少し身じろぎをするのがやっとで、外を覗くことも出来ない。

 きっともうすぐ、私の生は尽きるのだろう。


 からり


 誰も居ない病室の窓を横目に捉える。そこには懐かしい浴衣姿が立っていた。

 薄闇を帯びた空の色を背景に綺麗な顔が微笑む。彼はゆっくりと音もなく、私の横たわるベッドの脇に来ると、


「……こんばんは」

(……こんばんは)


 胸の中だけで挨拶を返す。


(……やっぱり、来てくれたんだ)

「君は、何時になっても僕を呼ばないから」

(……もしかして、ずっと見ててくれた?)


 少しだけばつの悪そうな顔になった彼に、笑ってしまう……もう、表情には出なかっただろうけど。


「君の世界から優しさが消えてしまったらって、約束したから」

(…………)


 そんなに苦しそうな顔をしないで。


 父さんが死んで、母さんと二人暮らしになったこと?

 母さんの交際相手に酷いことをされたこと?

 ブラックな職場環境で、おまけにいじめにあってたこと?

 身に覚えの無い横領をなすり付けられたこと?

 事故に巻き込まれて歩けなくなったこと?

 検査入院中に、治療不能な病気が見つかったこと?


「……そうだよ。人が絶望するには十分じゃないか。なのに、まだ僕の名を思い出せないのは何故? どうして世界を憎まないの?」


 そんなの決まってる――あなたとの思い出があったからじゃない。


 記憶の中のあなたの微笑みが、繋いだ手の温かさが。ハンカチの匂いも交わした約束も。

 全てが綺麗で、優し過ぎて、あなたの名だけは思い出せなかったの。


 彼の顔が歪んだ。


「……ごめんね。君がこんな目に合ってるのは、僕のせいなのに」


 ●●神のくせに、君とえにしを結んでしまったから……君は罠にかかっちゃったんだよ、と苦し気に囁く。謝る必要なんてないのに。あなたが何者かなんて、とっくに知ってたもの。

 それにあなたは、あなたを呼べない私を待っててくれた。こうして迎えに来てくれた。


(……名前、もう一度教えて……やっぱり、思い、出せないの……)


 あなたの姿が霞んでく。天井が、今にも泣きだしそうな彼の顔が、段々と影に沈んでいく。彼の唇の震えを微かに感じ、


「……僕の……名は……」


 胸の奥で、こっそりと微笑む。


 ああ。これで、やっとこのひとが手に入る。寂しさしか知らない可哀想な神様は、名乗れば最後、私に捕まってしまうのだと気付きもせずに。


 罠に捉えられたのは、私じゃなくてあなたなのに。

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夏祭りをあなたと 遠部右喬 @SnowChildA

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