第3話 当たり前というOSと、僕らのOSの話

 この社会は、ひとつのOSのシェアが圧倒的に高い状態だ。

 そのOSの名は『当たり前』。


 このOS『当たり前』の正体は、無数の個人が持つ、それぞれ少しずつ形の違う『当たり前』を、巨大なミキサーにかけて混ぜ合わせたような、曖昧な集合体という社会そのものだ。


 だからこそ、このOSが標準で使うのは、ごくありふれた、簡単な日常会話のような言語になる。少し言葉が足りなくても、文法が間違っていても、「たぶん、こういうことだろう」という、ふんわりとした共通認識の上で、なぜか不思議と相手に意図が伝わる。


 けれど、僕の脳にインストールされているOSは、それとは全く別のものだった。


 僕だけの、固有のOS。その名は『難波武尚』。


 僕の「生きづらさ」の正体は、このOS『難波武尚』と、社会を支配するOS『当たり前』との間に存在する、結構大きめな乖離かいりだった。

 そして、その溝を渡るために僕が常に起動させておく必要があった橋こそが、二つの異なる言語を翻訳し続ける、『翻訳機』なのだ。


 例えば、誰かと会話する時。


 OS『当たり前』の世界で交わされる日常会話のようなシンプルな言葉は、僕のOSにとっては、そのままでは曖昧すぎて解を持たない数式のようで、解けないのだ。


 なぜなら、僕のOSが“当たり前”に理解できるのは、まるで数学の公式のように、私の知識と経験が定義する特殊な言語だけだからだ。僕だけの辞書に載っていない曖昧な解釈は、システムエラーとして処理されてしまう。


 巨大なOSの共通言語は、平気で一つの言葉に複数の意味を持たせる。それは、この社会が持つ「曖昧さ」そのものを表現している。「適当によろしく」と言われた時、僕の『翻訳機』はオーバーヒート寸前になる。「適当」という言葉一つをとっても、場面によっては「完璧に」を意味することもあれば、「何もしなくていい」を意味することさえある。OS『当たり前』のユーザーは、その場の空気という名の膨大なデータベースから、文脈に合った意味を瞬時に引き出してくる。


 しかし、僕のOSは、まるで、数学の公式のように、一つの記号には一つの意味しか許さない。だから、僕の『翻訳機』は、無数にある意味の可能性の中から、たった一つの正解を導き出そうと必死に計算を始めるのだ。


「この言葉の裏にある、本当の意味はなんだ?」


「ここで求められている、最適な返答はどれだ?」


 この翻訳作業には、膨大なCPUパワーとメモリを消費する時間が必要になる。だから、僕の反応はいつもコンマ何秒か遅れるし、時々、致命的な誤訳(バグ)を吐き出してしまう。


 例えば、「失敗は許されない」という、あの独特な職場の空気を読み取った時だ。大多数のOSのユーザーは、それを「気を引き締めて、慎重にやれ」というニュアンスで理解する。しかし、僕のOSは、その言葉を数学の公式のように、文字通りに解釈してしまう。「失敗=悪」という絶対的な定義が生まれるのだ。その結果、僕のOSが導き出す最適解は、「失敗をしないこと」ではなく、「失敗が発覚しないこと」になる。だから、ミスを隠蔽してしまう。それでも結局、後になってから、もっと大きな問題として発覚する。なんていう致命的なバグが発生するんだ。


 逆もまた然りだ。

 僕が何かを伝えたい時も、OS『難波武尚』だけが持つ厳密な言語を、一度『当たり前』の世界でも通じる、シンプルな日常会話に再翻訳しなければならない。


 OS『当たり前』の言語を、まるで呼吸するように話せる人が、一日働いて使うメモリが全体の数パーセントだとすれば、僕はこの『翻訳機』をフル稼働させるせいで、常に90パーセント以上のメモリを使い続けているイメージ。燃費が悪すぎるのだ。


 だから、僕はすぐにメモリが不足し、頻繁にフリーズし、時には強制シャットダウンしてしまう。周りからは、それが「怠けている」とか「やる気がない」ように見えるらしい。


 そして、この話で最も厄介なのは、私自身、長い間自分がOS『難波武尚』を搭載していることに、全く気づいていなかったということだ。


 自分のOSなんて、呼吸する空気のようなもので、普段は意識しない。誰もが同じ『当たり前』というシステムで動いていると、信じて疑わなかった。周りの誰もが、当たり前にアプリケーションを使いこなしているように見えたから。フリーズするのは、いつも僕ら少数派だった。


 だから、僕がフリーズした時、頭に浮かんだのは「OSの非互換性が原因だな」ではなく、「自分は欠陥品なんだ」という自己否定だけだった。


 しかし、転機は訪れる。何度もフリーズし、自己否定を繰り返すうちに、ふと思ったのだ。「欠陥品」だと自分を責め続けても、何も変わらない、と。そこで私は、戦うのをやめた。OS『当たり前』に合わせ過ぎようとすることを諦めたのだ。そして初めて、自分そのものを、ただ静かに見つめてみた。これが、自己受容の始まりだった。


 自分のOSをありのままに受け入れて初めて、次の扉が開く。それが、自己理解という名の、新たな旅路だ。その旅路とは、僕だけの「辞書」を、一から作り上げていく作業に他ならなかった。OS『当たり前』が使う「適当」や「普通」といった曖昧な言葉たち。それらを一つひとつ拾い上げ、自分の弱みや痛い部分と向き合いながら、僕のOSがエラーを起こさない、厳密な意味を再定義していく。それは長く困難な道のりだった。


 しかし同時に、バラバラだった自分という存在の輪郭が、パズルのように見事にはまっていく感覚でもあった。言葉の意味が一つ定まるたびに、ピースがカチリと音を立ててはまっていく。そうして僕だけの辞書が充実していくことで、翻訳機の性能は格段に上がり、以前ほど当たり前との齟齬を感じなくなっていったのだ。


 そうして、私は声を大にして言えるようになった。


 私のOSは、決して「欠陥品」ではない、と。


 このOSには、『当たり前』にはない、ユニークな機能だってあるのだ。数学の証明のように、物事の本質をどこまでも深く探求したり、論理の矛盾を見つけ出したり。『当たり前』が見過ごしてしまうような、社会のシステムの小さなバグや、言葉の裏に隠された論理の矛盾を、私のOSは正確に検出する。それは時に、生きづらさの原因にもなるけれど、同時に、誰も気づかなかった新しい視点や、より良い解決策を見つけ出すための、強力なデバッグツールにもなるのだ。


 本当の「障害」は、私のOSにあるのではない。


 この世界が、日常会話以外の言語が存在することを、全く想定していないこと。


 あらゆるアプリケーションが、『当たり前』をベースに作られている、その「排他性」こそが、障害の正体なのだ。


 サービス管理責任者になった今、私は思う。

 私が夢見るのは、OS『難波武尚』をアンインストールして、『当たり前』をクリーンインストールすることじゃない。

 いつか、この世界に、様々な個人のOSが、無理な翻訳をしなくても、もっと楽に繋がれるような、優しいインターフェースが生まれること。

 そして、私のこの拙い『翻訳』が、そのためのささやかな一助になることを、心から願っている。


 さらには、これを読んでいるあなたのOSが、どんなユニークな機能を持っているのか、ぜひ、目を向けてみて欲しい。そのユニークな機能が、世界をより楽しい方へ導いてくれると信じている。

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