22.旅をしませんか(終)


 それじゃあ、今までお世話になりました。とミヤマは言った。


 そのあまりにもハッキリとした物言いに一瞬拍手をしかけて、いやいや、と僕を含めたオフィスの人間が彼女の発言を否定した。言った本人の照れくさそうな表情を見る限り、かしこまった空気に耐えきれなかったらしい。


「今生の別れって訳じゃないし、また落ち着いたら戻ってくるんだから」

「まあ、それはそうですけど。一応区切りとしてですね」


 そう言って彼女は恥ずかしそうに笑い、自分の丸みを帯びた腹をそっと撫でた。


 緩やかでストレスのないマタニティウェアに身を包んだ彼女の姿は、何度見ても見慣れなかった。いつもぴっちりとした姿だったから、こうして子供を身に宿したまま仕事をしていたこの数ヶ月間のことを思うと、本当に、とても彼女は立派だったと思う。


 明日から産休に入る彼女に花束と、社員たちで見繕った祝いの品を手渡した。


 僕たちは照れ臭そうに笑う彼女に向けて惜しみない拍手を送った。正直なところ彼女が抜ける穴は非常に大きかった。ただそれは残った人間たちでうまくフォローするだけのことであって、彼女が負うべきものではない。まだまだ小さなこの会社を成長させながら、また彼女が復帰した時にこれまでと同じくらい縦横無尽に動き回れるように。僕たちが場を整えておかなくてはならない。


「ヨドノさんも、長い間ありがとうございました」


 挨拶を一通り終えたのを見計らって僕がミヤマのところに赴くと、彼女はそう言って深いお辞儀をした。身重で歩き回るのも大変だろうに、彼女は自らの足で社員たち一人ひとりに感謝を伝えたいと歩き回ろうとしていたので、見かねたトニムラが椅子に座らせ、僕たちが様子を見ながら声をかけていく方式になった。

 それでも彼女は人が来るたびにわざわざ立って話をしようとするので皆困ったように笑っていた。こういうところも彼女が愛されている理由なのだろう。


「休業するだけなんだから。また元気に戻ってくるのを楽しみにしてるよ。色々大変だろうけど、自分の身も大切にしてね」

「ありがとうございます。結婚式の時も色々してもらっちゃった上に、ベビー用品までたくさん……」

「それは気にしないで。ミヤマはそれだけのことをしてくれたんだから。それに諸々を買い込んだのは、僕というよりもジュンコの方だから」

「ジュンコさんにも、よろしくお伝えください」

「落ち着いたら二人で遊びにいくよ」


 そう言って彼女は椅子に座ったまま深いお辞儀をした。豪胆なのに、こういうところは丁寧でしっかりしたがるし、その強情さが彼女らしかった。


 ミヤマが結婚したのは、あの一件から二年ほどしてからだった。

 大学時代の同期と久しぶりに同窓会で会った時に、当時からミヤマを気にしていた男性からアプローチを受け、一年ほど付き合い、プロポーズをされ、彼女はそれを受け入れた。


 結婚式は都内のホテルで執り行った。

 トニムラが挨拶を担当し、僕は案内状と始めとした内装を少し手伝った。アオイとアカネという二人の名前から着想を得てその色合いでまとめ上げた花を見せた時、ミヤマが涙を流して喜んでくれたことが、今でも記憶に残っている。


 メーカーのマーケティング部に勤めているという彼、アオイさんとはそこで初めて会ったが、とても誠実そうで人当たりの良いミヤマにぴったりの男性だと思った。


「ヨドノさんは、これからもジュンコさんと一緒にいられそうですか?」

「今のところは、問題ないよ」

「同棲の予定はないんですか?」


 僕は頷いた。


 僕とジュンコが再び恋人になってから気がつけば二年経っていた。


 ヨリを戻した頃は「案外このまま結婚するかもしれないね」なんてことを互いに言い合っていたのだが、彼女が店長を任されることが決まり、それまでの管理される側から管理する側に回った途端に仕事は多忙を極め、ひどい時は月に一度デートができれば良いような状況になってしまった。


 勿論食事の後に互いの家に泊まることもあったが、シフト制の仕事と決まった時間を働く仕事とではあまりにも世界が違いすぎて、まるで互いが公転でもしているみたいだった。


 そんなことを言うとジュンコは笑いながら「でも結構ロマンチックかも」と言った。のんびり歩く僕と、懸命に走る彼女。二つの惑星が一瞬だけすれ違うその瞬間だけ愛を確かめ合って、それからまた互いの歩み方に戻って行く。


 案外人間なんて並走しなくたって幸せになれるものなのかもしれないね、大切なのはその一時にどれだけ互いの愛を確かめ合っておけるかなのかもしれない、と。彼女は笑って言った。


「まあ、そう言っても寂しいは寂しいけどね」


 そう言って彼女は話を締めると、僕にキスをした。


 そうやって、各々の周期で日々を過ごしながら気がつけば二年経った。その間も僕たちは別れることはなかったし、亀裂もなくただ互いに会える一瞬だけを大切に生きてこれた。


 案外この関係が、僕たちの最適解なのかもしれない。


「ねえ、ヨドノさん」

「何?」


 ミヤマの声に僕が顔を上げると、彼女は僕をじっと見つめていた。その目を僕はどこかで見たことがあった。どこだったろうか。僕が記憶を巡らせている間に、彼女が口を開いた。


「私は、私ができる限りのことしかできないんです。自分のことでいっぱいいっぱいですから」


 その言葉を聞いて、僕はようやく彼女のその目と出会った時のことを思い出す。



−−私は私ができる限りのことをやります、どうか皆さんにとってそれが利益に繋がりますように。



 入社して間もない時に彼女が言った言葉だった。



「ヨドノさんも、そしてきっとミシマさんも。二人とも良い人だから、仕事でも、私生活でも、そして恋人関係でも、良い人過ぎてすごく気を遣っちゃうんですよね。でもその結果、自分のことを蔑ろにしがちになっちゃう」


 ミヤマは僕の手に両手を添えた。


「ヨドノさんは、マサトさんの生きた道に触れた人です。誰かの為に生きようとした人の道を垣間見た人です。だから--」


 彼女の手を、僕は握り返した。


「そうだね、僕は僕のできる限りのことをやらないといけないね」


 そう言って微笑むと、ミヤマは安心したように笑った。


--そう、僕は僕の出来る限りのことしかできない。


 僕は胸の内でもう一度その言葉を反芻する。


「ありがとう、ミヤマ。君に会えて本当に良かった」

「なんですか、今生の別れってわけじゃないんですから」


 その言葉に僕が目を丸くすると、ミヤマはイタズラっぽく笑った。



   ○



 秋も終わり、すっかり冬の肌寒さを感じるようになった。


 僕はダッフルコートのポケットに手を突っ込んで改札前のベンチに座った。少し前まで仕事帰りの人たちで溢れかえっていた駅の改札も、今では落ち着きを取り戻していて、残業疲れを感じさせるビジネスマンや保育園か、幼稚園かの迎えの帰りの家族が僕の前を通るようになった。


 仕事終わりに僕はジュンコと駅で待ち合わせをしていた。

 今日は閑散としていたから時間通りに行けると言っていたが、駆け込みで接客が入ったらしい。ショッピングモールの閉店時間一杯まで粘った客を丁重に見送り、中途半端なままの閉店作業を終えた彼女が連絡をしてきたのは、約束の時間から一時間後だった。とはいえ今までも同じような遅刻はあったし、今更互いの共に過ごす時間の長さまで惜しむつもりはなかった。


「ごめんね、お待たせ」

「大変だったね、駆け込み需要ってやつ?」


 慌てて駆けてきた彼女はコートもただ羽織っただけで、服装もすっかり乱れていた。どうやら慌てて店を出てきたらしい。息を切らして隣に座った彼女のカバンを取り上げると、彼女はにっこりと笑い、空いた手で乱れた服装を直し始める。


「今日これから彼女の誕生日だから何かプレゼントを買いたいって言ってね、でも彼女の好みも全然分かってないから何案内しても全然決まらなくて本当に困ったの。丁度忘れ物取りに来た新人の子が恋人に似てたらしくて、彼女に試着してもらってようやく決まったんだけど」


 ようやく落ち着いた、と言わんばかりに大きなため息と吐くと、彼女は僕に寄りかかった。


「にしても当日の、それも会う寸前にプレゼント買う人がいるものかしらね」

「レアな出会いだね」

「ほんと、レアな出会いだった」

「今日はどうする? ジュンコの家で鍋にでもする?」


 僕の誘いに彼女は宙を見て、それから苦い顔を浮かべた。


「……冷蔵庫に使いきれてない野菜が沢山あるわ」

「知ってる。じゃあ決まりだ、闇鍋しよ」

「いいね、健康に良さそうな闇鍋。お酒とか買って帰ろう」

「賛成」


 ジュンコの言葉で僕は席を立つと、彼女に手を差し伸べる。彼女は僕の手を取って立ち上がり、腕に手を回すとぴったりと僕と距離を詰めた。

 すっかり寒くなった街の中で、彼女の柔らかくて肌触りの良いコートの感触と体温が僕の右腕を温めてくれる。


 すっかり暗くなった街の中で、等間隔に立つ街灯と駅前の飲食店の明かりが冬の寒さを和らげるように温かく灯っている。僕たちはその温かな喧騒を通り抜け、一際街灯が際立つ路地の方を歩いていった。


「あっという間に冬が来たね」

「うん、来た」

「このまま年も明けちゃうね」

「明けちゃうね、年末はどうしようね」

「どうしようかな、去年は何したっけ?」

「シュウくんの家で過ごして、近所の初詣行ったよ」

「そうだった」

「全然知らない神様にどうか今年もよろしくお願いします、とか言っちゃったけど。伝わってるかな、あれ」

「大丈夫だよ、来るもの拒まず」

「本当に?」

「知らない」

「ひどいな。まあ今年も平和に過ごせたから、リピートしてあげようかな」

「今年もウチでいい?」

「成り行きで」

「成り行きか」


 他愛もない会話ならいくらでも出来た。


 あの日、彼女の名前を呼んでから僕たちはもっと深い仲になったと思う。それまであった互いの中に引いてあった線もなくなって、肩肘張る必要もなく、心地の良い関係を築いてこれた。


 それはそれで、良いことなのだと思う。



--案外このままでも良いのかもしれない。 



 そう思った時、僕の脳裏にあのミヤマの目が浮かんだ。


 夜空を見上げると、丁度真上を飛行機が横切って行くのが見えた。


「そういえば、未だに旅行は行ったことないよね」


 ジュンコも空を見上げた。


「まあ、元々そんなに興味がある方でもないしね」

「確かにね。でもたまに懐かしくなるよね、あの時の街コン」


 ジュンコはあは、と声を出して笑う。


「旅行好きのやつね。リョウくんもなんであんなの選んだんだろうね。私もシュウくんもめちゃくちゃ頼まれて折れたけど、どっちかが何がなんでも行かないってなったらどうしたのかね」

「確かに。でもまあ、僕らは僕らで旅行そんなに好きじゃないって理由でマッチングしたし、結果オーライだったのかもね。ほら、同じ趣味のところに放り込んだら僕たちが出会えなくなるかもだし」

「そうしたらそうしたで、気の合う人を見つけてたんじゃないかな」


 そう言われて、僕は少し考えた後、ほんとだ、と思わず漏らしてしまった。そんな僕をジュンコは軽く小突いた。


「あの時は、イギリスとフランスだっけ。お互い適当なとこ挙げたよね。特に知ってるわけでもないのに」

「パッと思いついたのがイギリスだったんだよ。でも、まあ、こうして互いに忙しくしてるとたまにはパーっと休み作ってリフレッシュしたくもなるな」

「なあに、珍しい」

「ジュンコなんて特に目を回しそうなくらい忙しいだろ。たまにはゆっくり休みたいとか思わないの?」


 ジュンコはんー、と考えた後、まあ……と同意した。


「大手を振って休めたら良いんだけどね、その分シュウくんとも一緒にいられるし」

「いいね、僕もたまにはたっぷりジュンコと一緒にいたいな」


 僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに僕のことを見た。僕の右腕に回していた手を離し、僕の手を握る。指と指の間を隙間なく埋めるようにぴったりと握りしめ、肩を寄せる。


「そうしたら、たまには長期休暇でも取ろうかな」

「お、いいね、じゃあついでにイギリスとフランスでも行く?」

「行けるかな。というかそんなに休めるかな」


 きっと行けるよ、と僕は言って立ち止まると、隣に立つジュンコに向き直って言った。



「結婚しよう」



 僕の言葉に、ジュンコはとても驚いた顔をしていた。


 僕は続ける。



「新婚旅行でまとめて行くっていうのはどうだろう。それならきっと、二つとも行ける時間を取れると思うんだ」



 それで、どうだろう。


 僕の言葉に彼女は真顔のまま固まっていた。僕は彼女の返答が果たしてどうなるか不安で、思い切って踏み込んだその言葉に対する緊張が後からやってきて、胸が張り裂けそうなくらい痛くて、思わず顔を伏せてしまう。


 これが僕の出来る限りのことだ。後は、彼女次第だった。



 ジュンコは口を閉じたまましばらく僕を見つめ続け、それから呆れたように微笑んだ。



「あんまりスケジュール詰め込まないでね、私、旅行って苦手だから」



 彼女の言葉に僕は顔を上げた。


 顔を上げると同時にジュンコが飛び込んできて、僕にキスをした。僕は飛び込んできた彼女を受け止めて、そのまま強く抱きしめた。触れ合った頬に濡れたような感触がして僕は目を閉じた。


 僕たちは長いキスをした。これまでしたことがないくらい長いキスを。




 しばらくして、ああ、苦しいと笑いながら彼女は離れると、顔を真っ赤にして僕を見ていた。僕も身体の芯に火がついたようにどんどん顔が熱くなった。


「なんか暑くなってきちゃったね」


 そう言いながらコートの前を開いて手で仰ぐ彼女に僕も何か言おうとして、そこでようやく自分が今とても震えていて、喋るどころではないことに気がついた。彼女に何か言いたいのに、身体がついていかない。足が震えて歩くことすらできない。


 情けないくらい酷い緊張状態になった僕を見てジュンコは優しく微笑み、僕に歩み寄ると、頭をそっと撫でてくれた。彼女の手のひらの熱を感じて、緊張し切った身体が次第に落ち着くのを感じる。



「シュウくん、私ね、今幸せだよ」



 ジュンコはそう言って笑った。



「とっても幸せ」



 そう言って爪先立ちをして僕の頬に淡いキスをする。



 落ち着いてきたところで、僕はようやく彼女の首元に気がついた。


 ジュンコの首元には、金色のペンダントが揺れていた。ワンポイントの小さなダイヤモンドのはめ込まれた、細やかに綺麗に輝くあのペンダント。


 ダイヤモンドは彼女の首元で街灯の灯りを受けて美しく煌めいていた。


 街の光を受け入れ、取り込み、幾重にも反射を繰り返し、やがて何よりも煌びやかで美しい、ダイヤモンドを輝かせる至高の光となって、彼女の首元で輝いていた。



「やっと渡せた」



 僕がそう言うと、ジュンコは笑った。


「じゃあ、帰ろうか」

「うん、帰ろう」


 それから僕たちはもう一度肩を寄せ合い、手を繋いで歩き出した。冬の訪れを感じさせる冷たい風を受けても、少しも寒さを感じなかった。


 この身を満たす温かさを手放さないように、僕はきゅっと彼女の手をもう一度握りしめた。




   了

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レモンサワーの雨が降る 有海ゆう @almite

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