魚
白蛇五十五
魚
見たことのない魚だった。
祭りの日のことだ。
とはいえ、たこ焼きにかき氷にと多少の屋台は並ぶ。ショボい、とか文句を言いつつも子供ははしゃぐ。僕もそんな子供の一人だった。
小遣いを握りしめて友達と祭りの通りを歩き回り、チョコバナナなんかを食べながら、ふとある屋台の前で足を止めた。
――スーパーボールすくい。
この時の僕は……正確な歳は忘れたが、とっくに小学生ではあった。友達同士で祭りに行けるくらいだし、流石にスーパーボールなんて
しかし一体どういう流れだったのか。とにかく冗談半分で、僕はスーパーボールすくいに挑戦することになった。
やけにのっぺりした顔つきの、不愛想どころかまるで無表情な屋台の店主からポイを渡されて、ボールを
一つ、掬えた。
透明なボールだ。その内側に、奇妙に赤黒い模様が渦巻いている。
昔、何かの食べ物でアレルギー反応を起こし、病院で採血された時の注射器の中身を思い出して、僕は顔をしかめた。
すると、ポイを渡す時も代金を受け取る時も黙ったままだった店主が不意に口を開いた。
「そいつはね、大当たりだよ」
顔の印象どおりの平淡な声。しかし不思議と、くぐもって聞こえた。箱の中にでも入っているような。あるいは、水の底から呼びかけているような。
そのスーパーボールはちっとも大当たりに思えなかったが、とにかく僕はそれを獲得してしまった。
◇
たっぷりと祭りを楽しんで夕暮れ刻、友達と別れて、半ば
用水路を
ポケットに突っ込んでいたスーパーボールが、突然転がり出た。
ボールを貰ったことさえ忘れかけていた僕は驚いて足を止める。
――適当にポケットへしまったきりだったから、急ぎ足になった拍子に落ちたのかもしれない。
意味もなく動悸を速める自分の胸にそんなことを言い聞かせる。
しかしもう、僕の頭はその言葉が間違っていることを理解し始めていた。
コンクリート製の橋の上に落ちたスーパーボールは、一度大きく跳ねる。跳ね方はひどく不自然で、
べしゃっ。
水っぽい音とともに、ボールが割れた。いや、割れたというよりは
……魚だ。
最初の印象はそれだ。
見たことのない魚だった。
少し大きな――スーパーボールの中に納まりようもないくらいには大きな――金魚に似た、しかし絶対に金魚ではない魚。
透けたひれに、透けた
魚はびちびちとその場で跳ねた。口もぱくぱくと動いている。生きている。
生臭さと鉄錆のような臭いが辺りに漂っている。
僕は魚から目を離せないまま
狭い橋の上だ。用水路に渡されただけのそこにはろくに柵もない。
出っ張りに
あんなものが跳ねている橋を、渡れるはずもなかった。
結局、大きく回り道をして別の大通りから家を目指す羽目になった。
家に着いた時には門限を過ぎていて、親にはいくらか叱られたが、僕は自分の見たもの、自分のポケットに入っていたもののことで頭がいっぱいで、小言は耳から零れ落ちていった。
◇
翌朝、学校に行く時間が来た。
昨日の気持ち悪い出来事を忘れたわけじゃない。しかしこの時にはもう恐怖は薄れていて、一緒に祭りに行った友達にはこっそり、僕が見たものの話をしてみようか、という心持ちにもなっていた。
用水路の橋を渡ったら嫌な気分を思い出すかもしれないが、幸い通学路は別の道だ。
玄関のドアを開ける。
外へ踏み出した一歩目の靴裏が、ぐちゃりと音を立てた。
総毛立って飛びのく。ぬるついた靴裏が滑り、その場に尻餅をついた。
覚えのある異臭が間近で鼻に突き刺さる。
玄関前のタイルに、赤黒い液体が飛び散っていた。
その真ん中に、魚。……だったもの。
僕の靴裏の形にひしゃげた上半身。潰れた眼球。黒い骨が透明な鱗を突き破って飛び出している。
尾ひれだけが、まだ小刻みにうごめいている。
喉が裂けるんじゃないかと思うほどの悲鳴が、勝手に絞り出された。
閉まってきた玄関のドアに挟まれて肩と肘をぶつけ、痛かったはずだが何も感じない。
声を聞きつけた母親が飛んでくるまで、僕は叫び続けて――
ふと玄関先に目をやると、魚だったものは消え失せていた。
ただ、赤黒い液溜まりだけはその場に残った。タイルの溝を伝って、縮こまる僕の足先にまでじわりと迫っていた。
◇
そんな記憶が、今になって思い出された。
あれからもう十数年が経つ。
僕は大人になり、そしてあの時見たものが何だったのかは未だに分からない。
あるいは、単なる悪夢を現実と勘違いしているだけかもしれない。
そうだったら良いと心底思う。
しかし僕は母親が異臭に顔を歪めながらも玄関前に水を撒き、汚れたタイルを洗い流していた様を覚えている。
そのあと何日かは黒ずみや臭いが残っていて、仕事から帰ってきた父親が首を傾げていた事も覚えている。
それから家族の間で、あの日の話題が口にされる事はなかった。
僕があまりにも怯えるから、両親が気遣ってくれたのかもしれない。
とはいってもあれ以降、僕は別に恐怖で家から出られなくなったわけでも頭がおかしくなったわけでもない。
あの日は学校を休んで、病院だか警察だかに連れて行かれたような記憶があるが、間もなく日常は戻ってきた。
ごく当たり前に僕は成長し、過疎化の進む故郷を出て大都会で就職した。
何故、今になってあの時の記憶が呼び起されたのか。
……通りがかった街角で、夏祭りをしていたせいだ。
馴染みのある街じゃない。休日だというのに仕事の都合で取引先に出向いて、その帰り道に行き合った。
そこで、声を聞いた。
「そいつはね、大当たりだよ」
平淡で、奇妙にくぐもった声。水底から呼んでいるかのような。
ぎょっとして周囲を見回す。
屋台の立ち並ぶその通りは、故郷の祭りよりも随分と賑わって見えた。人波に視界が塞がれて、どんな店が出ているのか遠くまでは見通せない。
――じゃあ、それでいい。きっと空耳だろう。
僕はそう自分に言い聞かせて、再び前を向いて歩き出した。
真夏の熱を
大当たりを引いたら最後。決して逃げられない。
途方もなく理不尽な何かがこの世に存在するのかもしれない。
頭の隅を
魚 白蛇五十五 @shirohebi55
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