第4話-3 カラマーゾフの兄弟 ドストエフスキー著 原卓也訳

10:少年群像  未来、そして次の「小説」への布石

 ドミートリイに対する尋問のシーンから一転、書き手は、突然、それまでの話と全く無関係な場面を描き始める。

 本流であるカラマーゾフ兄弟の話をヴォルガ川とするならば、その川に最後に交じる支流サマーラ川、その上流の景色。

 それは、とある官吏の未亡人のこぢんまりとした家から始まる。

 未亡人の息子コーリャ・クラソートキンは教師を相手に生意気な態度を隠さない少年である。そうした態度が同年代の子供達の尊敬を生む、こうした図式はどの時代にもあるものだ。

 母親の友人の召使いが妊娠し、友人と母親が二人揃って彼女を出産のための施設に連れて行くことになり、その友人の娘達の面倒をみさせられている少年は、家に苛立いらだたしげにたたずんでいる。どこにでもありそうな風景、しかし・・・いったいそれがなんだというのであろう?

 だが、彼こそは、あのへちま「スネギョリフ」の息子であるイリューシャ少年がももを突き刺した相手の少年なのだ。その彼の短い半生記を書き手はしたためる。

 若くしての父親の死、それに伴う母による溺愛できあい。母親に思いを寄せる教師への不遜な反抗。ガキ大将のような悪戯、とりわけて列車の通過する線路の上で寝そべるという暴挙。それに加えて、彼の飼っている犬の描写。一見、どうでも良い詳細の中から新たな物語は立ち上っていくが、その中でペレズヴォンという捨て犬の存在が何かを暗示しているのは明白である。

 家の女中が戻ってくるなり、彼は女中に雑言ぞうごんを浴びせ家を出る。行き先はかつて彼を崇拝し、その崇拝が却ってあだとなって彼を刺すことになったイリューシャの家。イリューシャは病に倒れている。そのイリューシャの家にイリューシャの学友を招いたのは、カラマーゾフ兄弟の末弟、アレクセイである。

 コーリャは招かれた友人の最後の一人となった。同じイリューシャの級友であるスムーロフと一緒にイリューシャの家に向かう途中の会話で、イリューシャが不治の病に罹っていること、アレクセイがアレンジしたにも関わらずスムーロフたちは、それが自主的な訪問であると考えていること、どうやらジューチカという犬を彼らが探していて、ペレズヴォンという捨て犬はその過程でコーリャに拾われたらしいことが少しずつ判明していく。

 今まで訪問をうべなわなかったコーリャも内心はアレクセイに惹かれ、会いたいと思っているようだが、それを素振りに見せようとせず、狐に襲われ膨らんだ鶏のように虚勢を張っている。

 そして、彼はイリューシャと会う前にアレクセイを外に呼び出し、彼とイリューシャの間にあった事件の打ち明け話をする。それが単なる打ち明け話なのか、或いはそこに何か別の意味が含まれているのか、再び書き手は読者に「挑戦」してくる。


 コーリャは、イリューシャがジューシカという犬を探している理由の背景を知っている。

 それは「例の」スメルジャコフによる「残酷な卑劣な悪戯の教唆きょうさ」で、イリューシャが面白半分に餌にピンを仕込んで犬に丸呑みさせた事が原因であった。

『ぼっちゃん、このパンにほら、こうやって針を刺して・・・なに、外からは見えやしません。まして犬畜生などにわかるはずがないでしょう。そして、あのきたないばちあたりの犬の前に転がすのです。あの犬は、ろくに餌など貰っていないですから、飛びつきますよ。キャンキャンと吠えるうるさい犬だ。お仕置きしても誰も文句は言いますまいよ・・・』

 そんな風に言って、にやりと笑ったスメルジャコフが見えるような気がする。(注:『』内は私自身の創作でドストエフスキーの文章ではない)


 結果として犬は「はしりながらきゃんきゃん悲鳴を上げ」その様子を見ていたイリューシャは自分の行った残酷な仕打ちに後悔におののき、コーリャに泣きついたのだ。

 だが、それをコーリャはイリューシャを「懲らしめるために」冷たく「絶交だと」あしらった。それが、悪戯の結果と共にイリューシャの病気を惹起じゃっきしたことは恐らく間違えなく、コーリャもそれに気づいている。

 少年がその告白をした理由は実に単純な「自らの正当化」に過ぎないのは明白である。そのため少年は恐らく自分を責めること無しに許してくれるに違いあるまいアレクセイをわざわざ呼び出し、「この事態を引き起こしたのは自分の責任だ」と項垂うなだれる代わりに病床の少年を訪れる免罪符を得ようとしているのだ。その上、彼は切り札を持っている。

 会話の中でイリューシャが父親に向かって「自分が病気になったのはジューチカを殺したから」だと言っていることが明示され、そして先ほども記したとおりその原因がスメルジャコフにあることが読者に知らされている。

 この場面においても、スメルジャコフの隠微で卑劣な悪戯をどう捉えるのか、と作者は迫ってくる。この「パンに仕掛けた針」はフョードルの死にドミートリイを絡ませたのと同じ行為では無いのか」と。


 既に二週間ほど前から病床に臥せったままのイリューシャの家ではさまざまな変化が起きていた。アレクセイの斡旋あっせんのおかげでイリューシャの病床にはスムーロフを始めとした子供たちが見舞いにくるようになり、最初のうちはそれが気に食わなかったイリューシャの母親も、スネギョリフも彼らを歓迎するようになっている。

 そしてスネギョリフは最初は拒絶したあの200ルーブルを受け取ったばかりか、カテリーナからの援助を何の抵抗もなく受け取るようになっていた。カテリーナは彼の家を訪れ、別の目的でモスクワから招いた医師にイリューシャの診察を依頼した。

 さらりと書かれたこうした変化ではあるが、あのスネギョリフが息子のために見せた意地は跡形あとかたも無く消失し、妻と共に子供の病におろおろとする「弱い存在」へと変化していることにも僕らは注目すべきだろう。あの意地は、いったい何の前に溶けていったのだろうか?現実、それもただでさえ不幸が山積みされた家庭に「息子の病」が加わった事が「駱駝らくだの背骨」を折ったのか、或いはアレクセイやカテリーナの善意が不幸な父親の心を溶かしたのか。いずれにしろ、スネギョリフが息子のために見せた意地は折れ、息子もそれを責めていない。それは辛い貧困の「現実」なのだ。

 そしてそんな家に颯爽さっそうと乗り込んでいったコーリャがイリューシャの贈ったのは「生きているばかりでなく芸を仕込まれたジューチカ」即ちペレズヴォンだったのだ。ここにおいて、この「劇的」な贈り物を「作り上げる」ためにコーリャはアレクセイの誘いに乗らずにずっとイリューシャを訪れなかったのだということが判明する。ペレズヴォンは・・・僅か1ヶ月前にコーリャが探し出し、「なぜか友達のだれにも見せずに家の中でこっそりと飼っている、疥癬かいせんだらけのむく犬」というだけではなかった。

 ではなぜ、そんなことをコーリャはしたのだろうか?イリューシャの病床をカテリーナが呼んだ医師が診察に訪れたとき、二人は家から外に出て話し続ける。その時、彼が見せた「取り乱し、もたつきながら」という態度。「あなたはひどく僕を軽蔑しているんでしょう?」とか「僕らのこの話合いは、なんだか恋の告白みたい」だと呟く様子。

 イリューシャの様子に心を痛めながらも、どちらかといえば実はコーリャはまるで少女のようにアレクセイを崇拝し、その歓心を惹くが為に行動をしている、と捉えるべきであろう。その行動はイリューシャに向けてではなくアレクセイに向かっていると捉えるのは曲解だと言い切れようか?そしてその思いこそはこの小説の後に書かれる筈であった小説へと繋がっていく、そういう設定だったのに違いない。ここは、その最初の「ホップ」であり、やがて小説のエピローグに書かれる二人の関係は「ステップ」だったのであろう。(しかし、残念ながらドストエフスキーの死によってジャンプには行き着かなかった)


11:更なる混沌、イワン

 さて、話はカラマーゾフの兄弟達に戻る。

 そもそもこのストーリーの最大の要素はフョードルとドミートリイという親子の間に存在した「金と女」の争いであり、その二人が死と逮捕で自由が利かなくなった途端、話は焦点を失い、急速に収束するべきなのかもしれない。

 だが、読者たちに平穏は訪れない。それどころか火の付いた導火線は様々な場所へと引火していく。

 その中心にいるのは次兄イワンであり、故にこの小説の11編は彼の名を冠している。


 では、彼はどんな役を演じるのであろうか?

(1)恋愛対象としての男

 ドミートリイの最初の相手であるカテリーナとイワンについては、ホフラコワ夫人は彼らが恋人同士であると以前から主張しており、イワンが秘密裏にカテリーナを訪れた情景も描かれている。

 そこに意外な人物が登場する。それが、足の悪い少女、アレクセイに恋心を抱いていたはずのリーズである。

 彼女は自宅でイワンと会い、そのことを指摘された暫く後にこんどは母親に「イワン・フョードロウィチなんか、あたし大きらいよ。あんな人、家に上げないで」と叫ぶ。それにも関わらず彼女は訪ねてきたアレクセイにイワン宛の手紙を託す。その直前にアレクセイに対して彼女は、誰とは明確に言わないが、「過越の祭に四歳の男の子の指を切り落とし、貼り付けにして殺したユダヤ人」の話を「するために」ある男を家に呼んだ、と告白するのである。それがイワンであることは明白であるが、さてこの行動が何を意味しているのか?

 そしてアレクセイが去った後のリーズの「恥知らず、恥知らず、恥知らず」という呟きはなぜ放たれたのか?実はこれこそは「答えのない」まま最後まで放置される謎でもあるのだ。イワンはアレクセイから渡された彼女の手紙を「あの小悪魔からだな」と読まずに破り、「もう媚びを売っていやがる」と吐き捨てるのだが・・・。

 一方で、アレクセイがイワンに放つ言葉は「カテリーナ・イワノーブナは兄さんを愛しているんですよ」と、グルーシェニカに対して言ったのと正反対の事を言う。そしてイワンは「かもしれんな」とそれを肯定する。

 アレクセイが「なぜときおり(カテリーナ)に気を持たせるような事を言うんですか」と尋ねると、それは彼女と手を切れば「彼女は腹癒はらいせに明日の法廷であの無頼漢(ドミートリイ)を破滅させるからだ」と、ドミートリイを守るための打算だと答えるのだ。だが後述するようにイワンはカテリーナに対して「狂おしい情熱」を抱くようになる。

 しかし・・・そもそも、書き手はイワンという人間は恋というような感情を持ちうる人間なのだろうか、と読者に思わせているところがある。その「狂おしい情熱」の背後には何が潜んでいるのか・・・。そしてリーズの行動は何かの前触れ、恐らくは書かれるべき小説でのイワンとアレクセイの間に影響する前触れに違いあるまい。


(2)無神論者の男

 既に父親のフョードルの前で「神はありませんよ」と言いきり、いっぽうで「大審問官」の話で宗教の本質を透徹した目で批判したイワンではあるが、牢にいるドミートリイを始めとした役者達は、彼らを通してドストエフスキーその人にとっての神の意味を万華鏡のように映し出す。。

 ドミートリイの主張する「自分を苦しめ存在」でありながらも「その必要性」があるという二律背反、ラキーチンのどこか薄っぺらな「神の不要論」、そして「思想があるから神を必要としない」イワン。

 その間を漂い、神の存在に苦しめられているのは実はドストエフスキーその人であり、ドミートリイの叫びはドストエフスキーの叫びでもある。頭ではその存在を否定する傾向を持ちながら、一方でラキーチンのような世俗的なアプローチは恐らく許せないものだったのだろう。どちらかといえばイワンのような無神論者でありながら、特に人生の後半においてドストエフスキーにはキリスト教の人道主義的な傾向が見られる。これは単なる「偽装」ではなく、彼自身が抱えていた分裂、ないしは二律背反であるような気がする。

 その半身はドミートリイの「童」であり、残りの半身がイワンの「大審問官」であるように僕は考えている。その点は後に宗教論のところで述べたい。


(3)兄の脱走を計画し、使嗾する男

 アレクセイがドミートリイに会いに監獄を訪れたとき、ドミートリイは最初は躊躇していたものの、イワンが彼に脱走を勧めたことを告白する。

 彼にとっては、実は「流刑に処されるか、脱走する」の選択肢は一義的な問題ではなく、むしろ脱走することによって失われる良心の方が心配なのだが、一方でもっと重要なのは「グルーシェニカと結婚できるか」ということである。

 だからこそ、イワンに対して「童」を救うための「地底の讃歌」の話をしてもイワンはドミートリイが「いうことをきくと決めてかかっている」のだ、とドミートリイは訴える。そしてドミートリイは「イワンのやつはな、脱走をすすめておきながら、内心では俺が殺したと信じているんだぜ」とアレクセイに訴える。しかし、これは恐らく「脱走を使嗾するということこそ」ドミートリイがフョードルを殺したと信じている根拠だと言い換えても成立するかも知れない。

 だから、ドミートリイはアレクセイには尋ねるのだ。「お前は俺が殺したと信じているのか?」と。


(4)分裂した男

 一方でアレクセイがドミートリイとの面会を終え、カテリーナの家でイワンと会い、二人で家を出て先ほどのカテリーナに関する打算的なイワンのコメントがあったその直後、二人の間で極めて奇怪な会話が交わされる。

 アレクセイは突然、「われを忘れ」たかのように「兄さんは自分を責めて・・・。犯人はあなたじゃない。いいですね。あなたじゃありません。僕は兄さんにこの事を言うために、神さまに遣わされてきたんです」と話しかける。

 それだけでも「奇怪」であり、この瞬間、読み手はアレクセイが「神懸かり」になったのではないか、と感じるはずだ。しかし、イワンの答えは更に奇怪なものである。

 「お前は俺のところに来ていたんだな!」と「歯がみするようなささやき声で、彼(イワン)は口走」る。「夜中に、あいつがきていたとき、お前もいたんだな・・・・白状しろ・・・・あいつを見たんだる、見たな?」

「誰のことを言ってるんです」という怪訝な表情を浮かべるのはアレクセイだけではなかろう。

 アレクセイの浮かべた表情に漸く余裕を取り戻したイワンはアレクセイに、神の使いなどは堪えられないと言った上で、告げる。

「今この瞬間から俺は君と絶交する。それも、おそらく永遠にな・・・」

 本心とかけ離れたこの言葉は、イワンがどうしても秘密にしたいものとのトレードオフとして発せられた。その秘密にしたいものはすぐに露呈し、その直後に「絶交」も破られる。

 だが・・・アレクセイの「奇怪」な言葉は回収されることはない。この書では、後半に入るほど、展開されたいくつかの場面が回収されることなく放置されるきらいがある。それらこそが本来書かれるべきであった第二の小説への序奏なのであろう。そう考えると、第二の小説に強く関わる予定であったのはアレクセイ、リーズ、イワン、コーリャ(そして恐らくはラキーチン)ということになると思われる。


(5)スメルジャコフを追い詰める男

 スメルジャコフに告げたようにイワンは父親が殺される前にモスクワに発ったのだが、その際スメルジャコフが予言した「何かあった場合、ここから電報を打って若旦那様にご足労願うかも知れませんが」という言葉通りの事態が起こった事で「多くの点が疑わし」いと考えているが、予審の際には話さず、スメルジャコフとの間で確認をしようと考えている。その前段階として、彼を疑っているからこそ、病院の医師にスメルジャコフの癲癇が本物であったのかを確認したのだ。医師は本物だと断言し、その後会ったスメルジャコフは医師や予備調査官に「全てを話した」と言うのである。

 イワンは更になぜ、スメルジャコフが自分をチェルマーシニャに行かせようとしたのかを問い質す。すると、スメルジャコフはイワンが「モスクワに行ってしまうのが心配だったから」と答え、更に「災難を避けるように言ったのは、(その災難を自分が引き起こすといったのではなく)災難の予感がしたので忠告したのだ」と言い逃れる。 

 最後には「あの方(ドミートリイ)が何かをしでかすことを、あなた(イワン)がご自分で察して、チェルマーシニャなどと言わず、すっかりお残りくださるだろうと思った」と言うのだ。

 これに対して(驚いたことに)イワンは「話は非常に筋が通っているな」と考える、と書き手は書いている。しかし、よく考えるとスメルジャコフの話は「逃げを打つ」という点で筋が通っているかも知れないが、実際の論理は破綻しているのだ。

 ではなぜ、イワンは「筋が通っている」と感じ、読み手はそれにつられるかと言えば、前段階でイワンが会った医師が「思考能力の混乱」を指摘しているのに対し、逃げを完全に打つと言う意味で「筋が通っている」という錯誤が生じているのだ。逆に言えば「思考能力の混乱が生じていないから」「癲癇は仮病であり」「スメルジャコフの言っていることは全て虚偽であり」彼が犯人である、という可能性は高まるのではないか?

 あまつさえスメルジャコフはイワンが(モスクワであれチェルマーシニャであれ)出立したことに対して「実の親を見棄て」たと非難したのだ。その上で、この男はイワンに「事前に話したことが」「自分が犯人ではないことの証左」つまり本当の犯人ならばそんなことを実の息子に話すはずがない、という論理を持ってイワンを論破しようとする(少なくてもその時は実際に論破した)のである。

 その結果、イワンは「犯人がスメルジャコフではなく、兄のミーチャであるという事態によって安心」した。

 ではなぜ「安心」なのか・・・。それはイワンが兄を「嫌悪」していたからではなく、兄が犯人であり、スメルジャコフが犯人でなければ、「父親を見棄てた」という、スメルジャコフの指摘と同時に自らが感じている呵責かしゃくから遁れ得るからであり、その時点では彼はスメルジャコフの「共犯者」になってしまうからだ。

 そして兄に対する嫌悪の源流であるかもしれない、「カテリーナに対するほのおのような狂おしい情熱」にのめりこんでいき、それで殺人の容疑を掛けられている兄のことさえ忘れようとしたのだ。

 だが、そうした逃避は長く続かない。そしてある日、通りで偶然会ったアレクセイに「ドミートリイがあばれこんできて、親父をたたきのめしたとき、・・・あのときお前は、俺が親父の死を望んでいると思ったかい、どうだ?」と尋ね、

「思いました」と答えを得、更に

「まさしくドミートリイが親父を、それもなるべく早く殺してくれることを、この俺が望んでいるとは思わなかったかい?」という問いに対してさえ、

「赦してください。僕はあのときそれも考えました」

 と聴いたとき、おそらくイワンはアレクセイがなぜ「犯人はあなたじゃない。いいですね。あなたじゃありません」と言ったのかを卒然と理解し、更に自分自身が「あの死がドミートリイの手によってなされたであろうが、スメルジャコフによってなされたであろうが、実は自分が関与していたのだ」と心底では思っていたことが身体に溢れ出てしまうのだ。

 そしてその思いを抱いたまま、再びイワンはスメルジャコフと相対する。そして彼もまた、イワンが父親の死を望んでいたと喝破していたのだ、と知る。しかし、スメルジャコフの指摘は恐らく他の誰とも違う。その根拠が純粋な打算、つまり父親がグルーシェニカと結婚すれば、彼らには入らない遺産(もちろん当時は遺留分などという考えはない)が、その前に死ねば、兄弟は4万ルーブルずつ、そしてもしドミートリイが犯人であれば彼には相続権は消滅するから6万ルーブルずつ手に入るからだ、という。

 遂に「経済的合理性」に基づいた殺人がここに現出するのだ。


(6)父親を「見殺し」にしたかもしれない男

 イワンはスメルジャコフが無実だと自分に言い聞かせつつもそれを信じることができぬまま、カテリーナのもとへと行き、彼との会話を彼女に全て話す。そして

「殺したのがドミートリイではなく、スメルジャコフだとすると、もちろんそのときは僕も共犯だ・・・」と言い出す。

 もちろん、それは正式な意味での共犯ではなく、精神的な意味での共犯であり、刑事罰を構成する「罪」ではない。だが、そうした「刑事的な罪」ではない「罪」こそはドストエフスキーが問題とする罪であり、宗教的な「罪」の概念を失いつつある現代に深く巣くう闇でもある。そしてイワンにとってはやはりそれは「罪」に違いない、それも計り知れないほど重大な罪なのだ。

 それに対してカテリーナが持ち出すのがドミートリイからの手紙・・・それはあたかも「犯行声明」とも言えるような手紙であり、「借りた3000ルーブルを返すために父親を殴り殺し、自身も自殺する」と書かれた手紙である。それを法廷に持ち出せば、ドミートリイの有罪が決定的に(動機、犯行態様などの周辺的な要素だが)なりかねない手紙。それがイワンと読者の前に突きつけられる。

「イワンがでかけさえしたら、親父のところへ押しかけて、頭をぶち割って、枕の下にある金をちょうだいする」

 手紙にはそうかかれている。そしてフョードルは確かに頭をぶち割られていた。だが・・・実際に金は・・・どこにあったのか?本当に「枕の下」にあったのか、それは定かではない。その手紙は飽くまで「思い」であり、「実際の犯行声明」ではないのである。


(7)愛憎の地獄へ落ち込む男。スメルジャコフ再訪。破綻

 では、その手紙によってイワンは安寧を得たのであろうか?

 否、である。そもそもイワンはもし、スメルジャコフが父親を殺したならば自分も共犯者、だとは考えたが、ドミートリイが犯人ならば・・・。彼は父親の遺産を割りまして得ることができ、その上カテリーナを自分のものにすることもでき、ハッピーな筈なのである。だが、そうはならない。

 カテリーナはイワンの愛を知り、彼が苦しんでいるのを知るとドミートリイからの手紙を見せ彼を免責したにも関わらず、ドミートリイを愛し続けている(と思い続けている)。それがイワンを苦しめる。

 そしてスメルジャコフが指摘した遺産の割り増し、その合理性も彼の心を傷つけている。それを解消するには、ドミートリイのために「金を使うこと」であり、イワンは予想する遺産の割り増しである20000ルーブルを超える30000ルーブルを兄の脱走のために使う事で心のバランスを保つことにする。

 だが・・・。それは何のためなのか、と自問したとき、イワンは気づかざるを得ない。それは犯人がスメルジャコフなのか、兄なのかの問題でさえなかったことを。例えそれが兄の犯行であろうと、父親の死を願ったと言う意味では何ら変わりがないという事実を。彼はカテリーナが兄を未だ愛しているから兄を憎んでいるわけではない、と悟りつつそれが「兄が父を殺したからだ」と言う。それは裏返せば、自分が手を汚さなかったから、汚す機会を兄が奪ったからだ、とも取れる。

 そして、カテリーナがイワンに「ミーチャが犯人だと言い張ったのはあなただけ」と言われたとき、それがカテリーナ自身が彼に提示した手紙が根拠だったにも関わらず、と呆然とし、その声明が「スメルジャコフのところに(カテリーナ自身が)行ったから」だと聞いて、再びスメルジャコフに会いに行く。

 そこでスメルジャコフは遂にイワンに「とどめを刺す」行為に出る。彼はフョードルを「その手」で直接殺したのは「あなたではない」(自分である)と言いつつ、実際に殺しを主導したのは「あなた」であって、主犯は「あなた、即ちイワン」だと言うのだ。そしてその証拠として靴の中から3000ルーブルを取り出すのである。そして彼がドミートリイを陥れるために凝らした悪巧みを滔々とうとうと話し続けるのだ。

「あの一キロ以上もありそうなやつ(鋳物の文鎮)をひっつかんで、うしろから、脳天めがけてうちおろしました」

 そしてスメルジャコフは金のありかについてこう言ったのだ。

「だってあの方(ドミートリイ)には金は決して見つからなかったはずですよ。金は布団の下にあるというのは、わたしが教えこんだだけの話ですからね。ただ、そんなのは嘘なんです。以前は手文庫の中にしまってありました」

 そう、彼の言う事は極めて合理的でもある

「金を布団の下に隠しておくなんて、まったくこっけいじゃないですか」

 ここで僕らはリゴーリイの妻マルファが「スメルジャコフの悲鳴」で目覚め、夫がベッドにいないことに気づいたという発言を思い出そう。かれの上げた悲鳴で、マルファが目覚め、そして一挙にドミートリイの逮捕という流れが形成されたのだ。また、そのお陰でグリゴーリイは助かったのかも知れない。グリゴーリイが死んでしまっていたら、ドミートリイの犯行を語るものが居なくなってしまう・・・、と考えることもできるではないか。

 それを避けるために悲鳴は必要だったのでは・・・、と。


 だが・・・一方でイワンが話していたのは・・・本当にスメルジャコフだったのだろうか?と言う疑問も読者には湧くのではなかろうか。

 僕らは既に作者に散々と振り回されているではないか。そう、そして「彼」が登場するのである。イワンがアレクセイに向かって、

「夜中に、あいつがきていたとき、お前もいたんだな・・・・白状しろ・・・・あいつを見たんだる、見たな?」

 その「あいつ」は彼がスメルジャコフと面会して帰宅したときに「坐って」いた。つまりイワンは既に分裂症的な兆候の中で幻影をみているのである。

 その相手は五十に手の届きかけた、ある種のロシア型ジェントルマン、農奴制時代に栄華を極めた地主階級に属する身なりの男。それを分裂したもう一人の自分(恐らくは将来の)だと自覚しつつ、彼は「あいつ」と話し続ける。それが自分の「もっぱら醜悪な考えをとりあげる」自己に存在する「悪魔」であると思いつつ。

 恐らくそんな悪魔と出会った時にすべきことは「沈黙」なのだろう。だが悪魔に取り憑かれた人間にその選択肢はないようだ。もっともいけない選択肢、悪魔との「真剣な会話」が続く。

 悪魔が、新聞の投稿欄に悪魔名で投書をしようとしたら"Le diablo n'existe point"(悪魔なんてもういない)と言われ、悪魔の1番美しい感情を悪魔という社会的地位のお陰で正式に禁じられた・・・などと話す悪魔。それはもしかしたらドストエフスキー自身が見たものだろうか?"Je pense donc je,suis"(コギトエルゴスム、我思う故に我あり)と自らの思惟がその存在を証明すると主張する悪魔。もしも、作者自身がそれを見たなら「お前なんぞ屑だよ、俺の幻想だ!」と吐き捨てたに違いあるまい。

 そう、僕らはこうした風景に一種の幻想を抱きつつ、芸術を感じ取るのだ。あの、ゴッホの「星月夜」や「寝室」の異常な視覚、或いはダリの溶ける物質の奇妙な既視感と「ずれ」。芸術には日常と非日常の結節点が必ず存在する。


 そしてアレクセイが「スメルジャコフの首つり」の報せを持ってイワンの家の窓枠をノックしたとき、悪魔は「開けたほうがいいよ。・・・まったく思いがけない、興味深い知らせを持ってきたんだ」と叫び、イワンは「≪知らせ≫を持ってきたにきまっているさ」と応じる。そしてアレクセイが死を告げたとき「あの男が首を吊ったことは、ちゃんと分かってたよ」と考え込むような口調でいう。

 既に「悪魔と会話している」情景を見ている読み手はもちろん、イワンのそれが妄想だと思うのだが・・・しかし、ここにも更なる罠が仕掛けられているのではないか?未来の自分と話したイワンがその前に話した相手は「本当のスメルジャコフ」であったのであろうか?

 もしや・・・スメルジャコフの死さえ「疑うべき対象」なのではないかと。イワンの精神錯乱の程度が「筆者の手」の内にある限り、僕らは書き手に鼻面を掴まれたまま、筆者の思いに引き摺られて話を構築して行かざるを得ない。だが、筆者が見せようとする景色の裏に、筆者の別の思いが潜んでいるとしたら・・・。

 ”C'est ne pas mettre un chien dehors"(こんな天候じゃ、犬だって外に放すわけにはいかないよ)というイワンと悪魔に共通する科白せりふが耳の奥に響き渡る。


 その悪魔は別の事を言い出しているのかもしれない。

「さっきリーザのことで俺に何て言ったんだい?」

 そのさっきは、確かにこの長い小説の中では、ほんの少し前にでてきた話だが、実際には一月以上の前、アレクセイとイワンが最後に会い、イワンがアレクセイに絶交を告げたときの話なのだ。

「リーザは好きだよ・・・」

 時間も感情も破綻した彼の言葉に僕らは何の真実を見るのであろうか?その呟きはやはり、どうにも「書かれる予定であった第二の小説への悪しき前兆」に聞えてくる。


 イワンは兄を、カテリーナを、リーザを、そしてスメルジャコフもアレクセイも自分の分身である悪魔も、その悪魔が「ほめてもらいに自白をしようとする」自分も全てを呪う。

 だが、アレクセイは信じている。「スメルジャコフが死んでしまった以上、もはやイワンの証言なぞ、誰も信じないだろう。でも兄はきっと行って、証言してくれる」

『神さまはきっと勝つ』

 彼は思う。そして悲痛に付け加える。

『真実の光の中に立ち上がるか、それとも、自分の信じていないものに仕えた恨みを自分やすべての人に晴らしながら、憎悪の中に滅びるかだ』

 それは・・・神を語っているのではなかろう。彼の目の前で眠る、そして彼が祈った相手。

 そのイワンの分裂こそは「カラマーゾフ的な因習」と「合理的近代人」が一つの人間の中で引き裂かれる断末魔の音なのではないだろうか?この小説の真髄はここにあるのではないか?


12.審判(ないしは「誤審」)

 イワンの苦悩が深まる一方で、現実は刻々と進み、ドミートリイへの裁判が始まる。そのタイトルを書き手は敢て「誤審」としている。それは何故か?解き明かす必要があるだろう。

 さて、この場面で再び書き手は、自らの存在を読者にアピールすることにも注目しよう。「私は」と書き手は久しぶりに一人称で登場する。「自分にできるかぎり、やってみよう、そうすれば読者もおのずから、わたしが力の及ぶ限りやったことを理解してくれるだろう」と。


 法廷に現われる人々、「ミーチャの無罪を信じながら、有罪でなければがっかりするに違いない傍聴席の婦人たち」「教養ある人道的であるが」、カラマーゾフ事件を「一般的な意味において」しかみていない裁判長(この表現はくせ者である)、あなじみの検事(イッポリート)有能な弁護士(フェチュコーウィチ)。

 そこでは淡々と審議が進んでいく。あの宿屋のシーンほどではないが、ここにもどこかオペラチックな要素がある事に読者は気づくのではないか。

 証人はグリゴーリイ、ラキーチン、スネギョリフ、トリフォン(宿屋の主人)、二人のポーランド人、その全てが弁護人に道化のように扱われる。それ自体がコメディのような三人の医師による精神鑑定・・・。


 そしてアレクセイの番が来る。彼は兄が3000ルーブルの半分を衣服の胸に縫い込んでいたという主張を裏付ける仕草を思い出し、法廷でそれを証言する。次いでカテリーナはかつて、ドミートリイが彼女の父親を救うために5000ルーブルという大金を「気持ちよく」貸し付けたことを証言し、その男が3000ルーブルの為に父親を殺すのは不合理だという印象を皆に与えることに成功する。その証言が終わった時、しかしなぜかドミートリイは

「カーチャ、なぜ僕を破滅させたんだ!」

 と叫ぶ。これの意味するところは・・・?そこに不気味な通奏低音が鳴り始めている。

 グルーシェニカはどちらかというと検察に味方する証言を試みたラキーチンが従姉妹である自分にたかるような人間だと暴露し、ラキーチンを否定する事によってでドミートリイに有利な証言をする。

 だが・・・。決定的な破局は「思いも寄らないような」形で起きる。それは最後に証言に立ったイワンが引き起こす。

「思いも寄らない」というのは爆弾の導火線が「兄を助けるため」なのか、はたまた「隠れていた悪魔が顔を出したため」なのか、イワンは突然スメルジャコフが隠し持っていた3000ルーブルを取り出し、スメルジャコフが犯人で、「自分が殺しをそそのかした」と発言するのだ。

 この発言自体が爆弾であるが、それは別の爆弾を誘爆する。カテリーナが今度はイワンを助けるために「あの手紙」・・・ドミートリイが書いた「犯行声明」のような手紙を法廷に提出するのだ。(もし日本でこれを現実的にやったとしたなら、彼女は犯人隠匿で捕まってしまうのではないか?)

 それは、確かにドミートリイを「破滅」させるものだった。彼女は直前までその高潔さを称えていたドミートリイを突然「無頼漢」と呼び、イワンがその「無頼漢」を助けるために「気が狂ってしまった」のだと言いだしたのだ。

 なぜ・・・と僕は思う。イワンは「スメルジャコフが自分が金を奪うためにフョードルを殺したのだ。そして、それを自分に白状して死を選ばなければならなくなったのだ」とだけ言わなかったのだろうか?彼がその罪を背負おうとしたばっかりに罰は彼の肩から転がり落ち、兄を押し潰すことになる、そしてそうなることを彼ほどの理性が気づかないなどと言う事はあるのだろうか?もし、それが彼の良心の発露はつろだとしてもそれはどのような良心なのだろうか?或いは別の犯罪をおおい隠すための巧みな方策だったのだろうか?

 いずれにしろこの発言と、カテリーナの手紙によって裁判所は大混乱に陥る。そして・・・検事、イッポリートは論告を始める。この事件の9ヶ月後にこの世を去る彼にとって「白鳥の歌」となる論告を。


 検事は論告の中で(本来なら許されるべきではない、被告及び被害者の家族への執拗と言えるほどの言及と、それを社会現象へと結びつける試みが成されている。

 それは以下のような言葉に表わされていく。

「好ましからぬ未来を予言する、時代の象徴とも言うべきこの種の事件」

「ロシアの、国民的な刑事事件の多くが、まさしく何か普遍的なものを、われわれが麻痺してしまった社会全体の不幸を証明している」

「一家の父・・・(フョードル)嘲笑好きの意地悪い冷笑家と、好色漢だけが残った。肉欲の喜び以外は何一つ人生に見ぬようになり、自分の子供たちもそのようにしつけた」

「現代の父親はあの老人(フョードロウィチ)ほど冷笑的に自分の考えを表明しないだけ、本質的にはあの老人と同じ哲学」

「イワン・・・何者も信ぜず、父親とそっくり同じように人生におけるあまりにも多くのものを否定・・・白痴のスメルジャコフが(イワンについて)(「あの方の説によりますと、この世ではどんなことでも許される、これからは何一つ禁じられるべきではない」 あの白痴は教え込まれたこのテーゼのおかげで発狂。スメルジャコフによれば『大旦那様に1番性格の似ている方がいるとしたらイワン』」

「アレクセイ・・・敬虔な謙虚な青年、≪民衆の原理≫に密着することを求めている。臆病な絶望・・・冷笑的態度と社会の堕落を恐れ、一切の悪がヨーロッパ文明に起因する  ≪生みの大地≫(ロシア)のやつれた母親のしなびた胸でせめてやすらかに眠りたい、と渇望している」

「激しやすい、意思の弱いドミートリイ(が半額の1500ルーブルを衣装に縫い込んだまま、それに手を付けずにいたとは信じがたい)」

 一方でスメルジャコフに関しては、ドミートリイが都合良く金も取らずに逃げ出すのを予見する論理性がないとか(そもそもドミートリイが伝えていた金の在処は虚偽であったなら、金を取れるはずがない)、万が一ドミートリイと共犯関係があってもそれは消極的な共犯関係か、ないしは脅迫の基づく従犯でしかない(主犯である事はありえないという想定から発した結論ありきの論理)、そしてもしもスメルジャコフが予審で金の入った封筒や女とフョードルが交わした合図のことを予審で話すはずがない(それはドミートリイを犯人に仕立てるために彼に吹き込んだ情報でその一部は虚偽なのかも知れない)、そしてもし真実の犯人ならば自殺をする際になぜそれを告白しなかったのか(その目的がドミートリイやイワンを苦しめることにあるならば当然自白などするわけがない)という、穴だらけの論理で無罪を主張することになる。引き裂いた「金の入った封筒」がスメルジャコフが告白したようにドミートリイに罪をなすりつけるためのものだったとしたら、検事は「まんまとそれに引っかかった」主張を繰り広げていることになる。

 彼はイワンがスメルジャコフから受け取った金もイワン自身が利付債権を処分して用意した金である(それが何の目的であるか、弁護士の報酬などの目的なのかを検討しないまま断言している)とまで言う。

 そして最後は「まぎれもない以前の男」即ち、ポーランド人と共に去ろうとしたグルーシェニカの記憶に残るためにベルホーチンから「ピストルを取り戻し」モークロエに赴き「金を浪費し」「自殺を企て」ようとしたのだと結論付けていく。

 もちろん、検事という職業上、被告人と決めた男でない人間の犯罪性は論外であって現在の司法制度に於いては被告でない人間の犯意に関して言及することなどはないが、逆に言うと、この論告は「ご都合主義的な主張」であることがうっすらと滲み出てくるのが興味深い。


 弁護人フェチュコーウィチは検事の論告に対して先ず主に、彼の描くドミートリイの犯行に関する「心理的一貫性」の欠如を指摘する。検事が行った「犯罪者の心理を推理したかのような論調」に対する皮肉である。

 引き裂かれた封筒という証拠物件を放置したドミートリイが、召使いのグリゴーリイを殴り倒し、5分もの間生死を確かめようとしたという矛盾する行動、殴り倒した召使いの頭の血をハンカチで拭い、あまつさえ、それを持ったままピストルを取り戻しに行ったという不可解な行動。もちろん裁判に於いてはそうした「心理的矛盾」はボクシングでいる「軽いジャブ」でしかない。あくまで陪審員の疑念を誘うような論旨似すぎない。殺人犯の置かれた非日常的な精神状態は「心理の一貫性」を吹き飛ばす格好の理由となるのは、推理ドラマでもお馴染みの話であり、さすがにこれでは論旨として弱い。その上、検察側には犯行を裏付ける凶器と、偶然とはいえ犯行を示唆する手紙が手に入ったのだ。

 よって彼は盗難が「行われなかった」可能性を指摘する。もし、被害者自身が封筒を破り捨てたまま、金を金庫にしまい、その後に死んだとしたなら、盗難自体がなかった可能性もある。そうした主張は「あり得る主張」で、実際に盗難に関しては被害者以外は実情をしらない以上、犯罪が行われたという確証はないのだ。ただ一方で、それは犯罪が行われなかったとういう証拠ではないし、「金の入っていたらしい封筒が傍に破り捨てられ、その近くで持ち主が殺されていた」場合には、強盗殺人と見なされるのは通常である。

 主張は未だ、あくまで「可能性」を示しているだけなのだ。

 だが「殺人」に関しては・・・。「それに殺人もなかった」という副題はついているが、そこには厳然として「殺された死体」があるわけで、殺人がなかったわけではない。つまりこれは「被告による殺人」はなかったという意味で、そうなるとドミートリイ以外にフョードルを殺しうる人間として「残るのはスメルジャコフだけ」となる。

 そして弁護人はその可能性を元にドミートリイが無実である、という主張を繰り広げる。「沸き起こった嵐のような傍聴席の感激はとどまることを知らなかった。これを制することなど、もはや考えられぬことだった」と傍聴席にいる書き手は綴っている。

 では、書き手も傍聴席の感動に同調していたのか、と言えば、当の弁護人が話す論旨を記した章には「思想の姦通者」というタイトルが付されているのだ。その言葉は訳者が注を付けているのだが、要は「目的のためには白を黒と言いくるめるようとし、詭弁を弄する無原則な弁護士」を意味する言葉である、とされている。

 この複雑な構成、常に物事を両面、或いはそれを越えた複眼で見つつ、整理をする事なくそのまま読み手にぶつけ、その解釈を強いる構成に読み手は疲れ果て、ドミートリイもまた疲れ果てたまま有罪を宣告される。そしてそれが「百姓の意地」だと書き手は傍聴人達の会話を書き記す。

「これで(ドミートリイは)二十年は鉱山の匂いを嗅ぐことになるな」

「少なくともね」

「そう、百姓どもが意地を張ったんだよ」

「そして、ドミートリイを滅ぼしたのさ!」


 「百姓の意地」はロシアに固有の「物事の見方」であり、西洋的、合理的なものと対峙し「思想の姦通者」という表現でそれを拒否する。それこそグリゴーリイの頑固さにも繋がる「ロシアの大地の思想」なのだ。

 おそらくそれはタイトルの通り「誤審」である。だが、別項に記す「カラマーゾフ的」なものを抽出する中で、この裁判で百姓、官吏、そして無口な商人などで構成される「陪審員」というロシアにとっての「良心の核」が「誤審」をすることにもそれなりの意味があるのではないか、と僕には思えている。(またそう言う目で見ると、現代のロシアの行動もどことなく「何かの意地」に見えてくるから不思議である)


 この結論にはロゴスとエトスの対立における双方の破綻があり(民族のロゴスとエトスの統合を強く主張したニーチェのそれとは対照的に)それを補うためのドストエフスキーのミュトス(神性)への渇望が存在する。

 エトスとしての長男、ロゴスとしての次男、ミュトスとしての三男という設定に於いて、長男と次男は三男によってしか救えない、この「カラマーゾフの兄弟」というタイトルにはそんな思いがあるような気がするのは僕だけだろうか。


13.エピローグ

 

 エピローグにおいては二つの場面だけを取り上げよう。

 その一つはドミートリイの面前における女達の最後の対決である。その場面は以下のように造作ぞうさされていく。

 イワンは譫妄症せんもうしょうになって意識不明の儘、カテリーナの家にかくまわれている。一方で発症した神経性の熱病のために、ドミートリイは監獄ではなく病院に入れられている。

 ドミートリイはカテリーナに会うことを望み、その希望を伝えに来たアレクセイに対して、結果的に自分の証言がドミートリイを有罪にしたカテリーナは会うことを拒否している。その一方で病気のイワンに代ってドミートリイを脱走させる計画を引継ぐことを決心しているとアレクセイに伝える。

 それに対しアレクセイは今こそ訪ねるべきだと、再び彼女に語りかける。

 度重なるアレクセイの説得に、「約束はできない」と言いつつも遂に折れたカテリーナは、先に帰ったアレクセイの後を追うようにしてドミートリイを見舞う。

 この一連の、少々強引な設定は、著者がどうしてもカテリーナとグルーシェニカを最後に「衝突」させる必要があったから生れたのであろう。もし、ドミートリイが病院でなく刑務所に入れられていたら、おそらくは面会はこれほど自由・容易ではなかっただろう。その上ドミートリイに「用事を一つ」頼まれたはずのグルーシェニカなのに・・・。

 この場面は、この二人が最初に出会った場面、即ちまだ犯罪が起きる以前にカテリーナの家へと赴いたアレクセイが、そこで二人の女が一緒にいるところに遭遇する、その場面との対応で描かれている。

 ドミートリイを裏切り、彼を流刑に追い込んだカテリーナ。その彼女を恨むことなく、許しを乞うドミートリイ。カテリーナは彼に愛を告げ、しかしその愛は終わった、終わらざるを得ない、それでも「一生、あなたはあたしの心に傷痕として残るでしょうし、あたしはあなたの胸に残る・・・。愛は終わったわ。でもあたしには、過ぎてしまったものが、痛いくらい大切なの」とカテリーナは告げる。

 彼女はドミートリイを愛し続けつつ、イワンも愛し、そして二人を同時に愛せないことを理解し、一つの愛を守るためにもう一つの愛の相手を破滅させる。だが、その相手もまた、彼女に対し、愛の負債を負っていることを強く認識している。

 そして、またこの「オペラ的な場面」に、グルーシェニカが登場する。

「あたくしを赦して!」

 ささやきに等しい小声、と書き手は評しているが、語尾に感嘆符が付く強い調子でソプラノの声に対して、グルーシェニカは「毒のある」アルトで答える。

「憎み合っている仲じゃないの!・・・あんたも、あたしも赦す余裕なんてあって?」

 「よく赦さずにいられたもんだな、あの人のほうから『赦して』と言ったのに」

 ドミートリイのテノールが非難を挙げる。それに被さるように

「兄さん、その人を責めちゃいけない。そんな権利はないはずです!」

 とアレクセイのカウンター・テノールが響く。

 カテリーナはイワンと共にロゴスの世界を象徴し、グルーシェニカはドミートリイと共にパトスの世界に留まり、どちらにも悲劇は被さっている。だが、ロゴスはパトスに謝罪し、そしてそれを助けるという役目を振られている。罪はロゴスへ、罰はパトスへ・・・、と。それを救えるのはミュトスとしての救済、それこそが「平凡な」アレクセイに託されたものなのだ。

 カテリーナは最後にグルーシェニカにささやく。「あたしを赦して」・・・。

 だが、彼女は罵声を浴びせられる。そして病室を抜け出た彼女がゆがんだ声で言った言葉・・・「あの女のああいうところが好きなの」激しい憎悪にきらりと光った目。

 矛盾するその言葉と表情が意味することは何なのであろうか。


 一方でエピローグにおいても作者は全く違う場面へと読者を誘う。裁判の判決が下った二日後、イリューシャはこの世を旅だった。その葬儀が行われたのが(おそらく)カテリーナとグルーシェニカが病院で出会った日で、そのためにアレクセイは葬式に遅刻したのであろう。葬儀にはコーリャを先頭に1ダースほどの少年が集まっている。イリューシャの最後の願いを聞いて集まったこの子たちは、もし「アレクセイが和解を調停しなかったら決して集まらなかった子供たち」なのだ。

 子供たちはもちろん、アレクセイの兄が裁判を受けたことを知っていて、コーリャはアレクセイにドミートリイが無実なのか、尋ねる。アレクセイは、兄は無実でスメルジャコフが犯人だと断言する。その時、コーリャは不思議な事を言う。

「それじゃ、お兄さんは真実のために無実の犠牲となって滅びるんですね!」

 見落としがちな、この言葉。一体彼のいう真実とは何なのだろう?真実は「ドミートリイが父親を殺していない」ことなのに・・・。もしかしたら彼のいう真実とは「あるべき姿」なのであろうか?例え、彼が直接手を下していなくても、女と金を父と争い、女たちを不幸にし、父の死を願い・・・最後は父と争った女と流刑地に行くことを夢見た男は、「刑を受けるべきであるがために、犯行を行っていないという点で無実であっても滅びるのは正しい」と言っているのであろうか。

 それがために少年は「僕はうらやみたい」というのであろうか?

 

 そして二つの印象的な挿話が語られる。一つは墓にまつわる話である。父親のスネギョリフは「石のそばに葬るんだ。わたしらのあの石のそばに。イリューシャがそう言ったんだ」

 その石とは遙かに場面を遡って、ドミートリイがスネギョリフを往来で殴った直後に 、スネギョリフとイリューシャが散歩に出る風景で描かれている。「うちの木戸口から、ほらあそこの生垣のわきの道ばたに一つだけごろんところがっている大きな石」とその時のスネギョリフは回想している。

 その石にスネギョリフが腰掛け、空に舞うたこをみながら黙ったままの息子に、「凧をあげようじゃないか」と誘うと、息子が涙を滂沱ぼうだと流し「あいつ(ドミートリイ)はパパにひどい恥をかかせたんだね」と父親に言った時、息子と父親の間には永遠に解き放つことのできない感情の絆が生れたのだろう。それは父親が息子に与える絆ではなく、息子が父親に差し出した絆だったのだ。だからこそ、スネギョリフは息子をそこに埋葬したいと思ったに違いない。

 そしてその、挿話はドミートリイが犯した「忘れてはいけないもう一つの罪」を描き出すのである。


 もう一つの挿話はイリューシャが望んだこと。

 それは墓の上にパンの耳の屑を蒔く、という願いである。「雀たちが飛んでくるように、・・・雀が飛んでくるのがきこえれば、お墓の中に一人で寝ているんじゃないことがわかって、僕、楽しいもの」という子供らしい願いである。その願いを聞き入れ、父親は動顛しつつも(自分でパンの耳をポケットに入れたことさえ覚えていない)墓に蒔く。「飛んできておくれ、雀たち」と気掛かりそうに呟くなり、踵を返し、その寸前に花を渡さないという意地悪をした妻に向かって今度は花を贈ろうと家に戻ろうとする。その時、一人の少年が(スムーロフという名である)「小道の雪の上に赤く映えていた煉瓦の破片を拾い上げて、すばやく飛びすぎた雀の群れめがけて投げつけ」るのだ。

 いったい、この行為は何を意味し、作者は何を示唆しようとしたのであろうか?ここに描かれたパンの屑、そして雀、その雀に投げられた石(投げられた石の風景は子供たちの最初の喧嘩の場面に通じているのではあるが)これらもまた回収されることなく書かれるべき小説の不在に埋もれてしまったのに違いあるまいと僕は思っている。


 最後に、アレクセイは少年たちに別れを告げる。その別れの言葉の中で、幾つかの特筆すべき考えが提示される。それはある意味哲学的で、ある意味宗教的で、またある意味感傷的・文学的である。

 彼は「善」が人間に留まらないということを前提に話している。ここにいる少年たちも含めてである、と彼は言う。そう、善人はいないかもしれない。だが、善行はある。

 石を投げつけ合った子供たちが、やがて互いを認め合い、愛し、そしてその死を悼んだのだ。見たまえ。君たちはその証左なのだ。

 例え人間は善人でなくとも、もしかして悪い道へ進んでも、その時の記憶は残る。それは標識として更なる悪への道へ進むことを阻んでくれるかも知れない。そうしたことこそが、生きている上で大切なのだ。それは「笑ってはいけないことなのだ」、と。そして先ほど疑問を呈したコーリャの

「それじゃ、お兄さんは真実のために無実の犠牲となって滅びるんですね!」

 と言う言葉はドミートリイの中で彼が「標識とした何か」を守るために刑を容認したのだということなのだと。

 それは、そうした人間としてベーシックな「善」を嘲笑する社会への変化への毅然とした拒否である。


5)カラマーゾフ的なものとは?


 結局、この小説は何を描きたかったのだろうか。この点については様々な意見があろう。

 これは家族の小説であり、社会の小説であり、恋愛小説であり、宗教的な側面ももっている。恨みや憎しみも描かれている。

 しかしその根幹にあるのは、西欧の文化とロシアの風土というものが引き起こす個人における内的な対立、そしてそれが齎す社会的な実情そのものを表わす意志である。それは、イワンとアレクセイがたびたび行う会話、或いはドミートリイの裁判における検事の論告の部分に色濃く表れており、まさしくその部分に「カラマーゾフ的」という言葉が登場するのは興味深い。

 例えば以下の通りである。


<イワンがアレクセイとの会話(大審問官の話の登場の前)で放った言葉>

「こういう人生の渇望を、往々にしてそこらの肺病やみで洟ったらしのモラリストたちは卑しいものと名づけている。・・・。こいつはある意味でカラマーゾフ的な一面なのだよ。それは確かだ。この人生への渇望ってやつはな」

「残酷な人間、熱情的で淫蕩なカラマーゾフ型の人間」


<検事(イッポリート)による論告>

「この(カラマーゾフ)家族の光景に、現代ロシアの知識階級に共通する幾つかの基本的な要素」

「最初の場合(窮地にあったカテリーナに金を融通した時のこと)に彼が心底から高潔であったのであり、第二の場合(二日間でグルーシェニカと三千ルーブル((あくまで検事の主張であるが))を使い果たした時のこと)は同じように心底から卑劣だった・・・これはなぜか?ほかでもありません。彼(ドミートリイ)が広大なカラマーゾフ的天性の持主だったからであり」


 カラマーゾフ的なもの・・・それはまさにロシアに生きる「人間」そのものである。理性的でもなければ道徳的でもない、粗野な、ロシアの大地が育んだ熱しやすい感情。卑しく、マニッシュで、女好きで物欲に塗れてはいるが、生命力に富んだ情熱。

 まさにフョードルが体現しているものが「カラマーゾフ的なもの」であり、それは時代と衝突し、三人の息子がその破片として産まれた、と言って良いのかも知れない。

 ロシアの感情というプラットフォームにヨーロッパ的な精神(自由、批判的、合理的)なOSを走らせたら機械は壊れる、とドストエフスキーは指摘している。一方でヨーロッパ的な精神を芯から否定しているわけでもなく、彼は死ぬまでその両立性について考えあぐねたのだ。

 おそらく、土地の精神を語る場合、イスラムの地でも、中華でも日本でも等しく起きる可能性のある対立項で僕らが日常、抱えている文化と思想を合一できない「消化不良者」を何世代にも亘り、何人も見ているのである。

 ニーチェは「ツァラトゥストラはかく語りき」で「国家について」論じるときに「あらゆる民衆は善と悪とについて自らの言葉を語る。隣の民衆は之を理解しない」と書いた。要は民族は独自の倫理と論理を有しており、それは民族間で共有できるものではないという考えであり、この時代の「民族主義」というものの強さを感じると共に今なおその残滓ざんしは存在していることを痛感する(ちなみに「カラマーゾフの兄弟」は1879-1880年、「ツァラトゥストラ」は1883-85年とほぼ同時期に書かれた)この時代こそ、そうした普遍性と民族の対立が強く意識された時代であり、逆に言えば「普遍的な思想」が勃興ぼっこうした時代なのである。ドストエフスキーやニーチェにおいては明確にその痕跡があるが、例えばロマン・ロランやプルースト、或いはトマス・マンにおいても同じような痕跡は残っているのである。


 「カラマーゾフの兄弟」から外れたスメルジャコフという人間は「命を賭して」カラマーゾフ的なものを表象する一家を崩壊させた、と僕は思う。そして自分の犯罪をイワンに告げることによって「犯罪を完遂させることができた」と同時に「カラマーゾフへの復讐をなし終えた」と考えたのではないか、というのが最も近い真実なのではないだろうか。だが、その彼も実は「実にカラマーゾフの殻を厚く被った人間」なのである。

 いずれにしろ、いかに、またどのような西洋文明が浸潤しようとも、そうした「カラマーゾフ的なもの」はロシアに存在し続け、のがれえないものであり、それは伝統であると同時に宿痾しゅくあであるかもしれないとドストエフスキーは考えているように思える。だからこそそれを「認識」した上で身を処さなければならない。逃れえない物から遁れようとしても仕方ない。「カラマーゾフ的なもの」に対する作者の二律背反的な感情こそがこの小説の真髄なのではないだろうか。


 ドミートリイは呟く。

「彼女(グルーシェニカ)を見てみろよ、あれがアメリカの女だろうか?彼女はロシアの女さ、骨の髄までロシアの女なんだ、彼女は母なる大地を慕って嘆くだろう。・・・たとえあっちの連中(アメリカの土百姓)が一人残らずすぐれた技師か何かだとしたって、・・・しょせん俺の仲間じゃないし、俺とは違う魂の持主なんだ。俺はロシアを愛している。・・・俺はロシアの神を愛しているんだ」

 そして最後に著者はコーリャという「少年」に「カラマーゾフ万歳」と叫ばせるのだ。


 カラマーゾフ的なものは近代社会の中で少しずつ自壊していっている。その自壊は、社会において表象するのみならず、個人のレベルでその人生に決定的な影響を与えつつ、多くの場合その個人をも滅ぼしていく。いやむしろ、「近代」と「カラマーゾフ的なもの」の間に引き裂かれていくのだ。社会という中で自壊していくカラマーゾフ的なものはフョードルとドミートリイの死と流刑が示している。

 そして個人として引き裂かれていく象徴としてはイワンやスメルジャコフがそこにいて、それぞれ狂気と自死へと誘われていく。

 そして恐らくは、やがてアレクセイも・・・。その末路をどのように描こうとしたのか、作者が死んでしまった以上、僕らには知るよしもない。また、その小説が完成したら、この「カラマーゾフの兄弟」という小説の意味も立ち位置も変わったのかも知れない。


6)もう一つの構造<宗教的小説の側面>

 2)でも言ったようにこの小説の中で「進行」と別に、ドストエフスキーによる宗教論議がかなり含まれていて、いままで僕はその部分を捨象してきた。僕を含めた多くの日本人はロシア正教とか、東方教会に関して、知識としては知っていても「ローマ教会」や「カルヴァン派」や「ルター派」などと比べても知識が欠けている。

 しかし、少なくとも当時のロシアの人々にとっては東方教会というのは極めて重要なものであった。

 そして、この小説の主題の一つでもあり、その「考え方」は昔のヨーロッパにおけるキリスト教、今のアメリカ社会における福音派エヴァンジェリスツ、イスラエルの過激なユダヤ教、逆にアラブの過激なイスラム教、韓国の焼き直されたキリスト教、或いは日本の神道などにも共通するものであり、もちろん、現代のロシアにおける東方教会にも当て嵌まる「社会と宗教の在り方」という普遍的な問題を提示しているのである。

 敢て「昔のヨーロッパ」と書いたのは、西欧におけるキリスト教は実は他の過激な宗教にも増してある意味、その毒素を含めて社会と鋭い対峙をし、結果として今、なお「燠火おきびは残っているものの」、「毒ではない(従って薬としての効き目もやや弱い)道徳」へと収斂しゅうれんしつつあるからであって、残りのものは多かれすくなかれ宗教の「道徳面」と「非社会的な要素」を併せ持った「薬でもあり毒でもある(多くの場合信者にとっては薬のように感じられ反対に社会にとっては毒であるケースが多い)」状況から脱していないからである。

 おおかた、宗教を語るとき、宗教に共通する普遍性からそれを見るような人間、それは僕を含めてであるけれど、そういう人間は宗教に帰依きえしていることは殆どない。つまり宗教は一見、寛容ではあるがそれは「その宗教の内部に入る可能性」のある対象にとってのみであり、明らかにそうでない者や、他宗教の信者に対しては「非寛容」であるからであり、もちろん宗教にある「普遍性」など認めることはない。「民主」とか「自由」という考えを除いた主義主張というのはだいたい偏狭な部分があり、それが内部結束を固めると同時に排他的になるという構造を持っていて、宗教とか軍国主義、共産主義などは互いに憎み合っているが同じ構造なのである。


 この宗教の普遍性を観る、ということは宗教に距離をおいた人の方ができやすく、嘗て「オウム真理教」が問題を起こした際に実はその問題を指摘するべき宗教学者がおおかた宗教に取り込まれて何の役にもたたないどころか、むしろ「邪魔な存在」であったことを考えると呑み込みやすい。

 だからこそ、十分とは言えないだろうが、この小説を理解するためには「宗教に興味をない人間が」宗教的な部分を再構成してみる必要がある、と僕は考えている。

 「カラマーゾフの兄弟」においては宗教に関しても二つの大きな軸が存在する。一つは「教会」の中での宗教、もう一つは「カラマーゾフの家」という庶民の目から見た「宗教」である。


 この二つの視点は宗教を語るとき、やはり重要な軸となろう。信仰を与える側と、信仰を支える側において宗教の意味は必ずしも同一ではないからだ。


 では最初に「教会における宗教」に関する記述を探っていこう。

 そのメインの場所はゾシマ長老のいる「修道院」である。

 東方正教会は修道院の制度があり、比較的新しい時代、この小説が書かれる一世紀前の18世紀に「長老制」を取り入れた。

 長老は地方の修道院における信者の「心の指導者」のような役目を持っており、アレクセイの師であるゾシマもその役職にある。職制としてはヒエラルキーを基に編成されたローマ教会とは違い、どちらかと言えばボトムアップ的な、信者からの要請で作られた職であるといえよう。従ってその権限の基盤は「庶民」であり、そのことから彼らは(少なくとも表面的には庶民的な暮らしをしていた点で、ローマの枢機卿すうきけいのようなものとは対極にある。しかしだからこそ長老は、ドストエフスキーが喝破したように「ある場合には、理解しえぬほどの無限の権力を与えられ」たともいえる。

 ドストエフスキーは小説の中で詳細にこの制度について触れており、「長老とはあなたがたの魂と意志を、自分の魂と意志の内に引き受けてくれる人に他ならない」と定義し、結果として長老に頼る人は「完全な自己放棄」をすることになる。この制度がロシアにおいて受け入れられたのはある意味、民衆が「自己放棄」を望んだからであって、それこそニーチェ的に言えば「愚衆」・・・つまり自己判断を放棄したものたちだったからであろう。逆にそれによって「救われてしまう」のが民衆の実情であることは古今東西、実はあまり変化はなく、だからこそどの地域、どの時代にあっても宗教は燠火おきびのように存続するのである。

 一方で東方教会においても長老制度に対する反発は存在していた。ドストエフスキーはこの主な主張は痛悔機密つうかいきみつ(良く知られている言葉で言えば「懺悔」)の意義であり、長老に成されるそれが正当なものなのか、に関する疑義が反発の主なものだとされている。いわゆる懺悔というのは、告解する側の精神の暴露であり逆に言えば信者を試す意義を持っているのであるから、キリスト教においてはかなり重要な意味を持っている。それをめぐっては深刻な対立があったのだろう。 

 少なくともゾシマ長老を描く場面では、信者達はゾシマ長老の「秘蹟」を信じ、その祝福を喜ぶように描かれている。

 この小説に於いてもゾシマ長老の徳を慕って、「わざわざロシア全土から」庶民達が集まってきている、とされる。そして狂信的ともいえる者は(ゾシマ長老の)「間近な死を予見して、長老の死後ただちに奇蹟が生じてごく近い将来にこの修道院に大きな名誉がもたらされることを期待して」いる。アレクセイもまた「長老の奇蹟力を絶対的に信じ」いずれ「あらゆる人が神の子となり、本当のキリストの王国が訪れること」を信じるナイーブな青年として登場する。


 まずゾシマ長老の宗教的人生について。彼の宗教的生活の原風景は死の直前、彼自身によって生い立ちから口述され、それを綴ったのはアレクセイである。その内容に触れる必要があると僕が考えるのは、そこにも別の意味でカラマーゾフ的なものとの対比が存在するからである。

 幼い頃、長老には兄がいたが、彼は当初無神論者であった。しかし、その兄が死に至る病、肺結核を得ると、兄は突然、宗教に目覚め帰依する。短い一生を過ごす兄の純粋で宗教的な生き方こそがゾシマ長老の宗教的生活の核になっている。

 ゾシマ長老が聖書について語るのは神の「理不尽」に対する信者の全人格的帰依である。神によってサタンに売られ家族と財産・健康を失ったヨブがなお神を讃え、兄弟に奴隷として売られた預言者ヨセフが兄弟を赦す。そうした「信じるものが理不尽を克服する世界」への渇望が彼をして宗教の世界へと導いていく原動なのだ。

 しかし士官学校に入学し俗世界に染まったことで彼の人格は著しく歪んだ。そんなある日、彼は女性をめぐって恋敵を公然と侮辱し、相手と決闘をすることになる。そして感情の昂ぶるまま従卒を、何らかの理由で殴りつけた。だがその愚かな行為が引鉄となって彼は本来の自分を取り戻し、自分の行為を深く恥じ、命を賭して決闘を放棄する。

 それを知ってとある紳士が彼を訪ね、友人関係を築くことになる。しかし実はその男はかつて女を殺したことがある人間であり、やがてそれをゾシマに告白した挙句、そのことを知ったゾシマを殺そうとまで思い極める。

 この二人はどちらも、一時的に「悪魔に魅入られた」のである。いや、恐らく彼の兄を含め、あらゆる人間は大凶時おおまがどきに悪に魅入られる、そういう経験があるのだ。だが、ゾシマもその紳士も己の力でそれを斥けた。それがドストエフスキーにとっての「宗教の絵」なのだと僕は考えている。

 彼もカラマーゾフと同じように地位、金、女そうした享楽的な生活を楽しんだ。しかし、彼はのりを超えることはなかったのだ。その矩にぶつかった途端、彼には昔、感じた髪の恩恵の全てを五感で感じる。彼は卒然と宗教世界へと戻ることとなる。ここに彼とフョードルやドミートリイとの資質の差が歴然と表現されることになる。

 そしてその経験こそが彼を修道僧にした。修道僧、そして長老への道とは「神の体現者」である民衆の中にある神性を導き出す役だからであろう。


 だがそうした制度に対する反対者もいる。この修道院ではフェラポント神父がその人である。高齢で、無言の行者である彼は一介の修道僧であるにも関わらず、他の僧から共鳴を受けている。それは恐らく徹底した斎戒さいかいをしているからである。宗教のような「心の世界」に生きる人は、宗教にもある「世俗的」な傾向を心の底では憎む。清廉を口にしながら享楽に走る高僧たちは実は軽蔑されるのだ。そう言う意味でフェラポント神父が修道院長のところで見たという悪魔は実にうまくできた話であり、また厳しい斎戒をするこの神父が精霊や生霊、或いはキリストその人を見るということも「信じたくなる」気持ちは分からないではない。彼を訪問したオブドールスクの修道僧はそうした修道僧の一人である。

 奇蹟の期待はゾシマ長老の死の前に既に始まっている。シベリアに行ったきり便りのない息子の法要を行って良いかという問いに、厳しく拒絶をし、その息子が生きておりすぐに連絡が来るだろうとしたゾシマ長老の予言が時を置かず的中したのを知った神父達は「同じこと、(すなわち奇蹟)がまた見られるのではないか」と呟く。その奇蹟の可能性に右往左往する修道僧たちの姿(とりわけオブドールスクの修道僧は滑稽ですらある)を見ると、ここには宗教という世界に生きるには余りに世俗的な人々がいる。


 アレクセイへの口述を終えるとゾシマ長老は「静かに嬉しげに」息を引き取る。そしてそのすぐ後、誠に都合の悪い事態が訪れることになる。それは本来、敬虔な人々の目にしてはいけない(実際は嗅いではいけない)もの、つまり死臭であった。

 徳の高い人間は死んでも俗人のような事は起きない、即ち一種の奇蹟を起こす力がある、いや「あるべきである」と人々は考える。キリストは五つのパンで五千人を養い、殺されて尚、復活し、モーセは海を割り、仏陀は産まれてすぐ「天上天下唯我独尊」とのたまう。

 ゾシマの前の長老達も死んで悪臭を放つことはなかった。

 つまり・・・と作者は意地悪く読者に選択を与える。ゾシマは聖人ではなかったのか、或いは奇蹟などと言うものは虚偽なのか?

 そして、追い打ちを掛けるようにフェラポント神父が式に現われる。そして悪臭は神の教示だと喚く。作者の描くその姿はむしろ悪魔に取り憑かれた人間のように見えるが、彼を慕う人間は彼の狂気に和する。


 この不思議な景色で作者は何を語りたかったのだろうか?徳性の高そうに見えるゾシマ長老は狂信者のようなフェラポント神父の言うように「菓子に目がくらんで・・・腹は甘いもので、頭は思い上がった考えで充たし、・・・死に恥を晒した」のだろうか?だが、作者は一方でそう非難する神父を狂信者のように描いている。その二人には「長老制度」をめぐっての見解の相違があるのだが、作者はどちらを支持しているのだろう?

 結論を言えば、恐らくドストエフスキーにとっては「どちらも違う」という事であったのだろう。長老制度そのもの、というより、長老制度で祭り上げられたとはいえ、(そして彼を世俗的なカラマーゾフと対極においたとはいえ、尚)その長老は奇蹟の人ではなく、死ねば腐臭を放つ存在であり、それを批判する依怙地いこじな神父もまた、厳しい斎戒を行う変人で狂信者に過ぎない。

 ドストエフスキーは生前キリスト教(東方教会)を支持していたにも関わらず、実は宗教について冷徹な目を向けており、それはカトリック教会に向けてだけではなかったと思うし、宗教に付き纏うどこか「偽善的なもの」に敏感だったのだ。それにも関わらず、彼はロシアの民衆の宗教を愛おしみ、またロゴスとパトスの架け橋にミュトスを選んだ。そうした「割り切れない」ものを抱えたまま彼は教会の姿を描いて見せたのであろう、と僕は考える。「割り切れないものを割り切れないまま書き通す」、というのは存外困難なものであるが、ドストエフスキーの背骨はそれを労苦にしない。


 もう一つは庶民の方から見た宗教であり、それは図らずも「世俗的」なカラマーゾフの家で論議される。教会における宗教の視点と家庭から見た宗教・教会への視点という複合的な構成は実に思慮深いもので宗教の議論に深みを持たせることに成功している。

 カラマーゾフの家では家族において宗教談義がしばしばなされる。こうした議論が家族の間で成されるというのは日本では(おそらくは新興宗教の家族を除いて)あまり見かけない風景だろうが、週に一度の安息日を教会で礼拝を行うキリスト教、或いはユダヤ教などでは特別なことではないのだろう。まして、一家の中に修道士がいれば、そういう会話がなされても一向に不思議はない。だがこの一家における宗教談義はどこか剣呑けんのんな臭いがする。

 それは先ず「バラムの驢馬ろば」と主人に揶揄やゆされたスメルジャコフの言葉から始まる。

 ドミートリイとの不毛な打ち合わせから帰った主人、フョードルは家にやってきたアレクセイに向かって「うちのバラムの驢馬が、口をききはじめたんだよ」と言う。

 <注:僕も初めて知ったのだが、バラムとは旧約聖書に登場する預言者であり、イスラエルの民と敵対する王から、イスラエルを呪え、ともちかけられたが、神からイスラエルは自分の祝福したものたちだからと、ならぬと止められる。

 王からの再三の招きに、神に自分の意志の通りに預言するならという条件付きでその王と会うことを認められたにも関わらず、曖昧にしたまま出立したため、神は怒り天使を遣わしてはそれを止めようとする。

 しかし、どういうわけだかバラムにはその天使が見えない(旧約聖書はしばしばご都合主義である)。一方驢馬の目には天使が見えたので恐れて先に進もうとしない。怒ったバラムは三度、驢馬を鞭打ち、ようやく驢馬は人間の声で抗議する。(旧約聖書はしばしばご都合主義である)「理由もなく、私は進むのを拒否したわけではない」、と。(正確に言えば、驢馬の言い方は「今まで長い間あなたに仕えてきたが、こんなことをしたことがありますか」である。この驢馬の言い回しが実にスメルジャコフ的である)>

 僕にはこの話は作者がスメルジャコフに何らかの役割を担わせようとしてフョードルをしてバラムの驢馬という名称を奉ったと思えてならない。

 そのスメルジャコフ(幼い頃グリゴーリイから宗教史を教えられたときに世界創世の教えを小馬鹿にして殴られた経緯がある)は、捕虜になったロシア兵が回教(イスラム教)に改宗する事を迫られたが拒否し、生きて皮をがれつつキリストを讃美して死んだという話をグリゴーリイがするのを聞いて、薄ら笑いを浮かべる。フョードルはその薄笑いに気づくと、彼が名づけた「バラムの驢馬」に喋らせる。すると驢馬はおもいがけない大声で

「不慮の災難にあって、キリストの御名と自分の洗礼を否定したとしても、何の罪もない」(すなわち殺されると分かっていたなら改宗しても問題はない)と言いだしたのである

 フョードルやグリゴーリイから「地獄に落ちて羊肉みたいに焼かれちまう、人でなし、田舎コック、呪われた破門者」などとさげすまされながらもスメルジャコフは論証を続ける。

 なぜなら「不慮の災難にであったとき、兵士がキリスト教を棄教したとする。すると、その途端、彼は異教徒と化する。化してしまえば、異教徒から質問を受けてもキリスト教徒ではないと言って嘘をついたことにはならない。一方、もし異教徒となったら、その瞬間、兵士はキリストの範疇から離脱し、キリスト教徒の資格を剥ぎ取られてしまう。異教のカテゴリーに属すことになるのだ。そうなればあの世に行ってキリスト教徒でもないのにキリストの神に罰せられる謂われもないし、キリストに関する全てから免責されるのだから・・・。

 信仰の隙間をついたような理屈は宗教の信者には考えられない論理建てである。即ちこの論理を言い出した時点でスメルジャコフはキリスト教徒でも異教徒でもないことが判明する。

 では、彼を嘲ったフョードルはどうであろうか?グリゴーリイとスメルジャコフを追いやった後、彼はイワンとアレクセイを前にして彼自身の宗教観を述べる。

「もし、神があるなら、神が存在するなら、もちろん俺は罪があるし、責任も取るけれど、もし神がまったく存在しないんだとしたら、お前(アレクセイ)のところの神父たちなんぞ、もっとひどい目に会わせてやらなけりゃ。なぜってやつらは進歩をはばんでいるんだからな」

 この言葉はある意味、含蓄が深い。単なる無神論ではなく、神の存在に対する懐疑論であり、そのフョードルがイワンとアレクセイに向かって、「神はあるのか?」と問いただし、二人が

「ありませんよ。神はありません」

という答えと

「神はあります」

という正反対の答えを受け取ったときの情景が実に面白いのだ。

 思わず

「ことによると、何かしらあるんじゃないかな?とにかく何もないっていうわけはあるまい!」

 と言い放った時のどこか曖昧な信仰への期待。そしてそれにも関わらず

「どうも、(神はないと答えた)イワンの方が正しそうだな。・・・どれほど多くの信仰を人間が捧げ、どれだけ多くの力をむなしくこんな空想に費やしてきたことだろう。しかもそれが何千年もの間だからな!」

 と嘆き(だからこそ「神父たちなんぞひどい目に会わせてやらなけりゃ」というロジックに繋がる」)西洋的合理性を発揮したかと思えば、またしても

「イワン、最後にぎりぎりの返事を聞かせてくれ、神はあるのか、ないのか」

 往生際悪く、二転三転しながら(おそらく神の不在は彼にとっての結論となり得ない)酔いを深めていくこの老人の妄言はまさにこの時代において、何らかの形で西洋文化に触れたロシアの半端なインテリゲンチャたちが抱いた宗教への一般的な考え方であったのだろう。

 そうした信仰と不信心の間に陥っていたからこそ、フョードルは二番目の妻の信仰心に対して侮辱的な行動を取り彼女に癲癇を起こさせた。そのことを、彼女の産んだ息子二人の前で自慢げに話した時に一人の息子(アレクセイ)は母親と同じ症状を見せフョードルを驚かせ、そしてもう一人の息子は自分もその女の息子だという事をフョードルに食ってかかる。その時、フョードルがイワンが彼女の息子だという事を失念していたのは、宗教に対する考え方の母子における親和性の強い存在と全くの欠如に動揺したのかもしらない。

 だが、ここで女を捜して怒鳴り込んできたドミートリイのせいで家族の宗教談義は一端、閉じられる。


 その続きは居酒屋の二階、神の存在と不在で対立したはずのイワンとアレクセイの間でなされ、それは既に言及した「大審問官」の話へと結びついていく。

 実はその前に「教会」と「家族」が入り交じった形でイワンの宗教論は実は修道院で一度提示されている。ゾシマ長老を始めとした修道院の神父たちの面前で彼が書いた論文の概要シノプシスという形で提示される。

 その要旨は教会と国家の在り方で、ここにおいて彼は教会は国家を構成する一組織ではなく、教会が国家の上位概念であり、教会こそが国家を内包すべきだと主張している。しかし、この主張はおそらく既に述べ、また後でも触れる「大審問官」の話にでてくる、ローマ教会の在り方への批判であり、その矛先は「あの最後の贈り物」(いわゆる「ピピンの寄進」754年に小ピピンがステファヌス2世と交わした王位承認と教皇領の寄進)を受け取ったローマ教会への批判にある。彼にとっては、それ以降ローマ教会は王制をベースとした権力機関の一つに「成り下がった」わけで、同じことが起こることを恐れているのだ(残念ながら、今ロシアではプーチンとキリル総主教の間で同じことが起こっている)

 このロジックはしかし、この時点では比較的狭いレンジでの実例をもって正当化されている。それは例えば犯罪で、犯罪という行為が国家(ないし法)との対立、宗教(ないし良心)との対立という二項の対立を持ったときに、教会が国家の一部であったとしたら、上位概念は法との対立であり、その結果として犯罪者の自己の精神の中では良心、或いは罪の意識と折り合いが付けられる余地が残っている。しかし、教会が国家を内包すれば(それは良心や罪の意識が法を超えることにもなるが)そうした余地はないのだ、という理屈に支えられる。

 しかし・・・よく考えてみるとイワンは「神はいない」と述べたはずではないか?「神はいないのに宗教はある」のか?そのロジックはいったいどうしてうまれたのだろう?

 そもそも神が存在しない宗教はなく、宗教が存在しなければ教会はない。逆に教会がなくても宗教は存在し、宗教がなくても神は存在しうる。教会に失望し、宗教に疑いを持ったとしても、神の存在を信じることは可能なのである。(その意義に関しては様々な議論はあろうが)

 しかし、神のない宗教、神のない教会はそれこそ「抜け殻の存在」である。ならば、それが国家の上位概念という趣旨はどういう基盤によって成立するのであろうか?敢て言うならば、国家や法の精神が即物的ではなく、より精神的な支柱によって支えられる可能性はあるのだろうけれど・・・。

 その意味ではイワンの宗教に対する考え方はどこかドストエフスキー自身に似て消化不良なのかも知れず、「太古の神は死んだ」と言い、「キリスト教の神は死ぬべきだ」という論調のニーチェに比べると生温い論旨展開ではある。

 だが、逆に言えばドストエフスキーもまた彼が化身している(かもしれない)イワンもニーチェほどに神や神を信じる人々を「諦めて」いないと言う風にも取れるのだ。

 宗教に対する懐疑はイワンの「大審問官」の話で吐露されるが、逆に宗教による救いへの渇望はドミートリイの「童」の話に昇華されていって、この二つの話はどこか対になっているのではないか。そこには神、宗教、教会といった複雑な構成に対して形而上的な議論ではなく、「救い」こそが本質なのだという通奏低音が響いているのではないかと思えてならないのである。


<結び>

 最後に僕自身の印象を残しておきたい。この小説で何が一番、記憶に残ったか?と問われれば様々な人物の錯綜、混乱、死など枚挙に暇がない。

 しかし明確な記憶といえばふしぎなことに、それはドミートリイがフョードルの家に押し入ったとき、ふと呟いた言葉、

「スイカズラの実、なんてきれいな赤だ」

 という言葉である。どこか、そこだけが、この小説を包む重苦しい描写の中でとりたてて鮮やかな色合いをもって記憶に突き刺さっているのだ。

 そしてもう一つ揚げるとするならば、予審の場で居眠りしたドミートリイの夢、その中にでてくる童たちの姿である。真っ白な雪の中に点々と立っている、汚れた茶や黒の衣装の童達、夏の赤いスイカズラの実と、真白い雪の中にいる子供たちの姿、それこそが「母なる大地」のロシアの姿そのものである。

 これほど複雑なかつ人間的な小説を読んで、その場面を?と思われる方もいるかもしれないが、言い訳をするつもりはない。「カラマーゾフの兄弟」は僕には赤と白、そして薄汚れた黒の小説である。

 その色が本来書かれるべきであった二部ではどのような色に変わったのか、それを知るには天国か、煉獄か、地獄に居るドストエフスキーに会いに行くしかあるまい。



「カラマーゾフの兄弟」 (上)      ISBN4-10-201010-6  2383

「カラマーゾフの兄弟」 (中)      ISBN4-10-201011-4  2384

「カラマーゾフの兄弟」 (下)      ISBN4-10-201012-2 2385

 ドストエフスキー著 原卓也訳 新潮文庫


(参考)

トルストイ民話集「イワンのばか」他8編 32-619-2

 中村白葉訳 岩波文庫 ISBN 978-4-00-326192-7


「ツァラトゥストラかく語りき」上巻   ISBN978-4-10-203501-6  464

  ニーチェ 竹山道雄訳 新潮文庫

「ツァラトゥストラかく語りき」下巻   ISBN978-4-10-203502-6  465

  ニーチェ 竹山道雄訳 新潮文庫

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My Bests(僕の好きな長編小説) 西尾 諒 @RNishio

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